三人の人、主、不可能?

及川 信

「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り 口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムは すぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、 どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗っ て、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れ をいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですか ら。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕 に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子 をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそう な子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立て の子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、 そばに立って給仕をした。 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいま すか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わ たしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の 子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハム もサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなって いた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も 年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったの か。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことが あろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が 生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」 主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

(創世記18章1節〜15節)  創世記のアブラハム物語を読み始めたのが去年の九月でした。回数にして今日を含めて 13回となります。登場した時、75歳だったアブラハムは、今百歳になろうとしており、 妻のサラは九十歳になろうとしています。つまり、25年という歳月が流れている。25年 と言えば、それなりに長い期間です。その間に何があったかを振り返る時間的な余裕はあ りませんが、彼は年老い、妻も年老いたことは確かです。もう一つ確かなこと、それは彼 ら夫婦が神様の召しに応えて旅立つ時に与えられた約束、子孫に土地を与えるという約束 が実現していないということです。その現実に直面して、彼らはサラの女奴隷とアブラハ ムの間に子供を作ったのです。しかし、神様はあくまでもアブラハムとサラの間に子供を 与えると仰るのです。17章17節には、その言葉を聞いた時のアブラハムについてこう記 されています。  「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれる だろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」  これは無理もない話です。しかし、神様は、そういう不信仰に陥っているアブラハムを 説得するわけではなく、これまでよりもさらに踏み込んだ具体的な約束をお与えになりま す。 「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と 名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。(中略) わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」  彼ら夫婦の間に生まれる子の名前はイサクとしなさい、と神様は仰る。それはここにあ りますように「笑い」を意味します。「笑い」には色々な種類があることは言うまでもあり ませんが、とにかく、イサクは「来年の今ごろ」生まれると告げられるのです。そう告げ た後、神様はアブラハムを離れて行きます。  その後、アブラハムは契約の徴である割礼を自身に施し、また家に属する男子全員に施 します。それは、彼にとってはアブラムという名からアブラハムという名を与えられるこ とに象徴されますように、新しい人間に生まれ変わるという出来事でした。そして、割礼 とは激しい痛みを伴う儀式なのです。人が新しくされることの背後には激しい痛みが伴う ということを象徴しているのだと思います。  そして、サラもまた17章でサライからサラに名を変えられるのですが、そこにはアブ ラハム同様に、厳しい体験が必要だったのです。そのことが、今日の18章に記されている ことだと思います。  今日の説教準備をするために読んだ注解書のひとつに、こういう言葉が記されていまし た。 「福音という約束は、他の何ものにでもたやすく適合するような、ありふれた知恵の欠片 ではない。この根本的な福音を受け入れることは、徹底的な破壊と非連続を要求する。ア ブラハムもサラも、この時までに、不妊ということに慣れてしまっていた。彼らは、その 閉じられた世界に諦めをつけている。彼らは、その希望のなさを『あたりまえのこと』と して受け入れている。」  私は全くその通りだと思います。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人物ですが、彼 はその信仰に生きるために、父の家、生まれ故郷を捨てなければなりませんでした。それ まで自分が拠って立っていた人生の基盤を捨てなければならなかった。神様は、最初にそ ういうことを要求されたのです。次に要求されたことは、彼ら夫婦に子孫を与え、その子 孫にこの土地を与えるという神様の約束を信じて生きることです。その約束は、しかし、 25年の年月が経ってなお実現していないのです。だから、彼らはサラの女奴隷との間に子 供を作るということもしました。それは、子供がいない夫婦にとっては、当時はよく取ら れた手段だったのです。つまり、この時の彼らは、約束を信じて生きる信仰者ではなく、 この世の慣習に従って生きる世の人になっていた。そういうことは、私たちにおいてもし ばしば起こることです。信仰から始めたのに、最後までそれを徹底できない。そういう彼 らに、今、主が現われ、再び約束を信じて生きる信仰者として造り替えようとしておられ る。自分達夫婦には最早子供が生まれないことを前提として生きてしまっている彼らを、 圧倒的な仕方で徹底的に破壊し、そして新たに造り替えようとしておられる。それが、創 世記17章18章が、私たちに語りかけていることなのだと思います。私たちは、その語り かけを他人事のように聴くわけにはいかないだろうと思います。  17章の書き出しは、「主はアブラムに現れて言われた」であり、18章も「主はアブラハ ムに現れた」です。全く同じ言葉が使われています。でも、恐らく視覚的には全く違うこ とが起こっています。17章は、目に見える形でアブラハムの前に主が現われているのでは なく、彼の心の中に主の声が響いてきたのでしょう。そこで彼は思わずその場にひれ伏し た。主は、時に、そういう現われ方をなさる。それは事実だと思います。そして、そうい うことは私たちにもあることです。聖書を読んでいて、ある言葉に激しく心打たれること もあれば、一人で色々と思い巡らしている時に、主の御心が啓示されることもある。また、 主の御心に背いている時に、「あなたはどこにいるのか」「あなたはなんということをした のか」という言葉が突然思い起こされて苦しくなる。そういうこともある。神様は目に見 えないお方なのですから、そういうお方の存在を知るとは、こういう仕方でしかないとも 言えます。  しかしまた、たとえば今捧げている礼拝において、司式者が聖書を読むときに、また牧 師の口を通して説教が語られる時に、神の語りかけが心に響く場合もあるし、讃美歌の一 節に神の語りかけを聴きとって激しく心揺さぶられることもある。そういう場合は、目に 見える人物が語る耳に聞こえる言葉を通して神様の語りかけを聞いたり、歌うために読ん でいる文字の中に神様の声を聞き、ここに神がいますことを知るのです。また、礼拝の場 ではなくても、ある人と話している瞬間に、その人の何気ない言葉の中に、神様の御心が 示されていたりすることもある。それは神様がその人を通して私たちに現われてくださっ ている。そういうことなのだと思います。  つまり、主なる神様はまったく自由に働かれるわけで、聖霊を遣わして直接御心を示さ れることもあれば、人を遣わして示されることもある。その人は、今日の箇所の場合のよ うに、主の使いとしての自分を自覚しており、その語ることがすべて主のみ心である場合 もありますし、その人自身は全くそんなこととは無関係に語ったことが、主に用いられて、 その御心を示す場合もあるのです。18章の書き出しを読むと、そんなことを色々と考えさ せられます。  今日の箇所は、遊牧民社会の現実が目に見えるような形で生き生きと描かれています。 砂漠に容赦なく照りつける灼熱の太陽があり、オアシスの木陰があり、周囲に天幕がいく つも張ってあり、牛の群れがおり、牧者たちが休んでいる。そのオアシスに、突然、三人 の旅人がやって来る。こういう場合は、もてなすことがその社会の決まりです。アブラハ ムもひれ伏して迎えました。  「お客様」と訳されていますけれど、それは「ご主人様」とも訳せる言葉ですし、明確 に相手が神様である場合は「わが主よ」と訳すべき言葉です。そういう微妙な言い回しが ここにはあります。アブラハムは、彼らを引き止めるために必死のもてなしをします。旅 人が来てからの、彼の行動はこういうものです。  天幕の入り口に「すぐに」「走り出て迎え」「地にひれ伏して」「お客様(ご主人様)」を 引き止めてから、「急いで」天幕に戻り、サラに「早くパン菓子をこしらえてくれ」と頼み、 「牛の群れに走って」いって、「柔らかくておいしそうな子牛」を自ら選んで、召使に渡し、 「急いで料理をさせ」、それを自ら「運び」、「並べ」て、さらに「そばに立って給仕」をす る。百歳にもなっている老人が、息せき切って走り回り、必死になって接待している姿が 目に浮かびます。その食事の間に、彼らがどんな会話をしたのかは分かりません。しかし、 食事が終わった時、主である旅人が、食事への返礼として口を開き、いきなりこう言いま した。  「あなたの妻のサラはどこにいますか。」  アブラハムは、  「「はい、天幕の中におります」と答えた。  すると、彼らの一人がこう言ったのです。 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに 男の子が生まれているでしょう。」  サラは、実は、すぐ後ろの天幕の入り口で、その話を聞いていました。そして、ひそか に笑った。何故なら、「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかも サラは月のものがとうになくなっていた」からです。彼女は、「自分は年をとり、もはや 楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った。」のです。  「ひそかに」という言葉は、一七章でアブラハムが主の約束を聞いた時に「笑った」際 にも使われている翻訳ですが、原文ではアブラハムは笑った後、「心の中で言った」と記さ れています。しかし、サラは「腹の中で笑った」と記されています。大した違いはないか もしれません。でも最近は、脳科学が進んで、男と女では右脳と左脳の大きさが違うとか、 脳の使い方が違うとかよく言われます。それは私の現実経験としても日々感じることです。 男に分かることが女に分からない。女に分かることが男には分からない。そういうことが しょっちゅうある。主の約束を聞いて、それを荒唐無稽のこととして笑う場合も、男と女 では笑う場所が違うのだということを、聖書を書いた人は既に知っており、それをこのよ うに表現しているのでのではないかと思って、私にはとても興味深いことでした。  また、彼女が腹の中で、「自分は年をとった」という時、それは布が古くなってしまっ た状態を表わす言葉だそうですから、「自分は使い古しのボロ雑巾のようになってしまっ た」と自虐的に言っているのです。生理もとっくに終わっている老人として、もはや性の 交わりなどあり得ないし、まして出産などあるはずもない。「そういうことは、今、目の前 にいる百歳の老人であるアブラハムを見れば分かるだろうに、この人は一体何を言ってい るんだ?!チャンチャラおかしい」と腹立たしい思いを持ったのでしょう。これは全くも って無理のない話です。  しかし、天幕の外で食事をしているこの人は、目の前にはいないサラの、その心の奥底 の思いを見抜いてしまうのです。この人は主だからです。  主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生ま れるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはこ こに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」  目に見える形としては、主は、目の前にいるアブラハムに向かってこう言っているので す。しかし、実際には目には見えないサラに向かって言っている。その言葉を聞いたとき、 サラは恐ろしくなった。  「恐ろしくなった」とは、主を「畏れる」という場合にしばしば使われる言葉で、「今 ここにいますのはただの人ではない、主なのだ」と知った瞬間の畏れが彼女を襲ったので す。けれども、彼女は、「わたしはたしかに笑いました」と言わず、「わたしは笑いません でした」と否定した、嘘をついたのです。しかし、主は、こう言われました。  「いや、あなたは確かに笑った。」  この話はここで唐突に終わります。  先ほども言いましたように、ここに何度も出てくる「笑う」という言葉が「イサク」と いう名前の由来です。アブラハムも笑い、サラも笑った。それが、その子の名前になるの です。そして、その時の「笑い」は、この夫婦が、主の約束の言葉をあり得ないこととし て笑うという笑いであり、また自虐的な笑いです。その「笑い」が、主を賛美し、また自 分に与えられた祝福に感謝して笑う「笑い」に変えられていくまでに、なお一年の歳月が かかりますし、その間に色々なことが起こります。  それはこれから読み進めていくわけですが、今日は今日として、「主に不可能なことが あろうか」という言葉に絞っていきたいと思います。  「主に不可能なことがあろうか。」  昨日の午後、いつものようにいくつかの郵便物が届きました。その中の一つに、地方都 市で伝道しているある教会の『創立七十五年史』がありました。私の友人が牧師をしてい る教会でもあるので、パラパラとページをめくってみました。その冊子の後ろの方に資料 編があったので、七十五年間分の礼拝出席者の推移を見ました。すると、礼拝出席者三名 から始まって五十八年もかかって、ようやく四五名にまでなったことを知りました。私も 地方の教会にいたので、その歩みが目に浮かぶような思いがしました。しかし、その後の 約二十年間で、四五名が少しずつ減り続け、ここ数年は十八名にまで落ち込んでいるので す。その具体的原因について、私もある程度推測できますけれど、そういう衰退はその教 会に限ったことではありません。ここ三十年の間に、日本の多くの教会が、伝道の停滞か ら衰退に向かっているのです。日本は、少子高齢化傾向が世界一であることが最近分かっ たのだそうですけれど、実は日本の教会は、随分前からひたすらに少子高齢化が進んでい ます。牧師にその原因がある場合が多いことは同業者として、ただ申し訳ないと言わざる を得ないのですが、原因は牧師にだけあるわけではありません。  中渋谷教会も、一九九〇年からの一〇年間で礼拝出席者が二十名も減りました。地方の 教会のレベルで言えば、完全に一つの教会が消滅したことになります。実際、地方では教 会が消滅しています。中渋谷教会の礼拝においては、一貫して十字架と復活によってもた らされた福音が語られて来たし、教会は社会活動や平和運動に埋没することなく、礼拝を 捧げることに集中し、特別伝道礼拝を年に二回もやってきているのに、減り続けたのです。 原因は誰も分からない。都心人口の空洞化とか、社会の世俗化とか、高齢化とか、外的な 理由はいくつもあげることが出来ます。しかし、同じ地域で伝道が進展している教会はあ りますから、そんなことは言い訳にはなりません。そして、日本全国の多くの教会が、明 確な理由を見つけられないまま伝道が停滞し、さらに衰退している。残念ながら中渋谷教 会もその一つでしたし、今もその状態から完全に脱却できているわけではありません。  しかし何故、そうなってしまうのか。恥ずかしい話で申し訳ないのですが、二年前に「教 会の十年ヴィジョン」を掲げるまでは、私もよく分かりませんでした。でも、今は分かる ように思います。なによりも私自身の問題として言わざるを得ないのですが、私たちは心 の奥底で、あるいは腹の奥底で、実は福音を信じていないのです。そして、神様が今も生 きて働いていることを信じていない。また、神様の命令を真剣に聴いていないし、まして 従ってなどいないのです。そして、なまぬるい現状に満足してしまっているし、諦めてし まっているのです。実際は自分の思いに従って生きているだけなのに、表面的には神を礼 拝していますから、そのことに気づかない。表面的にはひれ伏しながら、「心の中で」また、 「腹の底で」はひそかに笑っている。「あなたの子孫は天の星のようになる」「あなたの子 孫が見渡す限りの土地に住むようになる」と言われても、それは何千年も前のアブラハム に神様が言われたことで、今の教会に向かって言われていることと受け止めてはいない。 そして、伝道など進展するわけがないと思っているし、そもそも自分自身で伝道などして いないのです。牧師も信徒も伝道を人任せにしている。それは結局、信仰によって生きて いないということなのです。冒頭に引用した注解書の言葉に従えば、「徹底的な破壊と非連 続」を拒否しているのです。自分が壊されることを拒否し、現状を維持することだけを求 めているのです。自分のあり方だけでなく、教会のあり方についても、自分にとって居心 地がよければ、それはよい教会なのです。神様からの語りかけを聴き、それに従って、絶 えず改革されること、新たにされることを拒んでいる。牧師も信徒も、そういう馴れ合い の中を生きている。そういう現実が多くの教会にあります。それは福音を信じて生きる信 仰共同体ではありません。そこには未来はありません。約束の実現を信じる信仰も希望が ないからです。前途に希望がない社会は、少子高齢化が進む以外にありません。神様ご自 身が切り開く未来に希望を持たず、神様に従うことに集中しない教会もまた、少子高齢化 が進むしかないのは当然のことだと、私は思います。  17章、18章のアブラハムとサラ、彼らは自分達の計画でイシュマエルという子供を作り、 もうそれで良いと思っています。神様の約束を信じるところから始まった彼らの新しい人 生、信仰による歩みは、今、自分の思いに従って歩む人生、この世の常識や価値観に従う 歩みへと逆戻りして、そこで停滞しています。もはや高齢の自分達には新しい未来などあ りはしないし、楽しみなどありはしないと、思い込んでいる。だから彼らの笑いは、神様 を冷笑する笑い、自虐的な笑いでしかありません。  日本の多くの教会も、五十年六十年と歴史を積み重ねる中で、開拓伝道の頃の燃え立つ ような喜びや希望は失せ果てて、成熟する前に衰弱しています。私が小さかった頃、開拓 伝道の教会の中には伝道の意欲が満ち溢れており、また笑いが満ちていました。でも、教 会の歴史が積み重なると重苦しい雰囲気が流れ始め、伝道の意欲よりも、伝統の継承にば かり気が行ってしまう。伝道より伝統が大事なのです。これは恐るべき誤解です。そうい う誤解の中で、本来の生命力を失っていく。そして、心からの笑い、腹の底からの笑いを 失っていく。原因は、私たちにあるのです。時代の風潮のせいではないし、まして神様の せいではありません。  「主に不可能なことがあろうか。」  この言葉を調べていくと、色々なことが分かりますが、私たちが真っ先に思い起こすの は、ルカによる福音書冒頭に記されていることではないでしょうか。そこにはザカリアと エリサベツという老夫婦に主の先駆者として生きるヨハネという名の子供が与えられると いう約束を、天使が告げた話があります。ザカリアは神様に仕える祭司です。しかし、彼 は主の使いが語る言葉、「時が来れば必ず実現する言葉」を信じることが出来ませんでした。 その結果、彼はヨハネが生まれるまで、口が利けなくなります。不信仰に対する裁きが与 えられる。しかし、主は憐れみ深く、そのザカリアの不信仰を上回る愛の力をもって老齢 の妻エリサベツにヨハネを宿し、主イエスの先駆者として生まれさせました。その時、ザ カリアの罪も赦され、彼は溢れんばかりの感謝と賛美の言葉を主なる神に捧げました。「イ スラエルの神である主を誉めたたえよ。主は、預言者たちの口を通して語られたとおり、 救い主を誕生させて下さる」と。主はお語りになったことを必ず実現させるのです。  その後、天使は、結婚していない若い乙女であるマリアに現われ、神の子がその体に宿 ると告げます。マリアはもちろん信じることが出来ませんでした。しかし、マリアは、「神 にできないことは何一つない」という天使の言葉を聞いて、ついに、信じました。それは 単に「心で信じた」ということではありません。信仰というのは、そういうものではいの です。彼女は、信じた時に自分の体を主に捧げた、明け渡したのです。その時、彼女はこ う言いました。  「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」  これが「信じる」ということです。そして、それまでのマリアが徹底的に破壊され、新 しいマリアが誕生したということです。この信仰の告白の後、マリアは既に身重になって いるエリサベツに会いに行きました。マリアを迎えたエリサベツは、その時、彼女に向か って何と言ったでしょうか。 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」  と言ったのです。  この幸いな女を通して、神の子イエス・キリストは、肉をとってこの地上に誕生された のです。そして、信仰によって与えられる幸いとはこういうことです。  このようにして誕生された主イエスは、ひたすらに神様の愛を、その愛における全能の 力を体現して生きられました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じ なさい」と語りかけ、その福音を聞いて、自分の罪を知らされ、その罪を悔い改めた者に 神の国に生きる資格を与え続けてくださったのです。つまり、罪の赦しを与え、神の愛を 信じて生きる新しい命、永遠の命を与えてくださった。けれども、その救いが貫徹される ためには、主イエスが私たち人間の罪のために死ぬ、神様のたった独りの子が、罪の犠牲 となって死ぬということに行かざるを得なかったのです。それが神様の御心だったのです。 私たちに永遠の命を与えるために、主イエスは「徹底的な破壊と非連続」を身に受けなけ ればならなかったのです。その極みが、あの十字架の上の「わが神、わが神、何故、わた しをお見捨てになったのですか」という叫びであり、その死です。  その十字架に行き着く直前、主イエスは、ゲツセマネの園という所で、夜を徹して、神 様に祈られました。その時、主イエスはこう仰ったことを、私たちは知っています。 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてくだ さい。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 「父よ、あなたには何でもおできになります。」 「あなたには不可能なことはありません。私の目の前にある杯を取り除けることも出来ま す。でも、神様、あなたが、私の十字架の死を通して、すべての罪人を赦し、永遠の命を 与えることをお望みなら、神様、私はあなたの御心に従います。御心が、私を通して現わ れますように。わたしはわたし自身を捧げます。」  主イエスは、こう祈ってくださった。そして、私たちのために神に見捨てられるという 悲惨極まりない裁きを受けてくださったのです。しかし、だからこそ神様は、主イエスを 三日目に、死人の中から甦らせ給うたのです。これが神様の御業です。全能の神様の御業 は、この主イエスの十字架の死と復活の中に現われているのです。この御業を通して、神 様は私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えるという約束を実現して下さったのです。 これが私たちに与えられている福音です。この福音を信じる。それは決定的に新しくなる ことです。そして、それは「徹底的な破壊と非連続」を身に受けるということなのです。 それまでの自分がキリストと共に死に、そしてキリスト共に復活することなのです。その ことがあって初めて、私たちは信仰に生きるという新しい命、永遠の命を生き始めること が出来るのです。こんな喜ばしいことはありません。  サラは、「年老いた私になお喜びがあるだろうか」と言いました。しかし、あるのです。 ここ数年、私たちの教会では、高齢の方たちが、一人また一人と洗礼を受けて、新たに生 まれ変わり、新しい命を生き始めています。これは本当に神様の御業です。人間八〇歳を 越えて新しくなることなど出来ない。これは常識です。でも、キリストがもたらして下さ った福音が告げられて、その福音を聴いて信じることが出来た人は、何歳になっても新た に生まれ変わることが出来るのです。この喜び、そこで思わず出てくる、心の底からの感 謝と賛美の笑い、それこそが教会に満ち溢れているはずのものではないでしょうか。そし て、その笑いが満ち溢れた教会が少子高齢化するなどということは、私には考えることも 出来ません。  先週の金曜日、小泉和子さんが入院をされました。先日、お見舞いをすると、小泉さん は、ご自分が洗礼を受けた時の事をお話くださいました。それは戦争の末期のことです。 空襲が激しくなり、いつ死んでもおかしくないと思われた母上が、娘達にどうしても洗礼 を受けて欲しいと願われたそうです。和子さんは、当時両親に言われるままに教会学校に 通っておられたそうですが、姉と一緒に訳も分からず洗礼を受けることになった。訳も分 からず受けたとしか言い様がない面があるけれど、物凄く嬉しかった。何であんなに嬉し かったか分からないけれど、次の日に学校に行って、友達たちに洗礼を受けたことを言い 回ったそうです。当時、キリスト教は敵性宗教で、教会に行っていることだって本当は隠 したいようなことのはずだったと思います。でも、洗礼を受けて、新しく神の子として生 まれた喜び、もういつ死んでもよいと思える喜びを、その時の和子さんは、隠して生きる ことは出来なかったのです。その後の和子さんの歩みにはもちろん紆余曲折があり、信仰 生活も山あり谷ありですが、今、高齢になって病の故に入退院を繰り返しつつ、洗礼を受 けて与えられた恵みを、本当に深くかみ締め、本当に嬉しそうに笑いながら、その喜びを 私に語ってくださいました。  神の子主イエス・キリストが、私たちのために死んで下さった。そして、神の子主イエ ス・キリストは復活し、今も、礼拝を通して語りかけ、また日常生活の様々な場面で、私 たちに現われ、「信じなさい」と語りかけてくださっているのです。「主よ、信じます。不 信仰な私をお赦しください」と応答しましょう。そして、主を信じて生きる喜びを一人で も多くの人に伝えるために献身しましょう。その時、私たちは本当に深い喜びに満たされ、 心から、腹の底から笑うことが出来るのです。神様は、そのために今日も礼拝を与えて下 さったのです。感謝します。
創世記説教目次へ
礼拝案内へ