彼らをお赦しください(創世記59)

創世記19章1節〜29節 及川 信

二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。 ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、 どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早 く起きて出立なさってください。」・・・・・ 彼らがまだ床に就かないうちに、 ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わ めきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。 なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのとこ ろへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはし ないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さ んにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々 には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですか ら。」男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図 などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロ トに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。 二人の客はそのとき、手を 伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、老若 を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。 二人の客はロトに言っ た。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘な どを皆連れてここから逃げなさい。 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来た のです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわた したちを遣わされたのです。」・・・・御使いたちはロトをせきたてて言った。「さ あ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、こ の町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」ロトはためらっていた。 主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難する ようにされた。彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命 がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ 逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」 ロトは言った。「主よ、できま せん。・・・・・太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの 町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振 り向いたので、塩の柱になった。 アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、ソドムとゴ モラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上ってい た。こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを 御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。

 18章から始まる長い話の復習をする時間はありませんから、すぐに19章に入 ります。最初にロトという人物に関して簡単にみておきます。彼は「信仰の父」 アブラハムの甥です。幼い頃に父親を亡くしており、以後、彼の祖父や叔父であ るアブラハム夫妻の許で育てられ、彼らと行動を共にすることになります。しか し、彼自身が神様からの召しを受けたわけではありません。彼はただ、神様への 信仰に生きる、あるいは懸命に生きようとする叔父アブラハムを間近に見ていた 人間です。  しかし、彼らが約束の地カナンに入って以後、アブラハムと彼の飼っている羊 がそれぞれ多くなって共用の井戸では水がまかなえず、それぞれの羊飼い達が争 うという事態が起こってしまいました。その時、アブラハムは「私たちは親戚同 士なのだから、ここは争うことは止めて、お前が好きな土地にいけば、私はそれ 以外の土地にいくことにするから選びなさい」と提案をします。  ロトは、その提案を受けたとき、高台から見える最も豊かな土地に目が眩んだ のです。それがソドムとゴモラという低地の町でした。その地域は、標高マイナ ス数百メートルという世界でもそこだけの地域であり、塩の海(死海)沿岸の地 域です。その辺りは古代から鉱石の出る山があり、岩塩も取れ、建築の材料にな るアスファルトなども取れて天然資源の豊かな地だったのです。だからこそ、そ の町の権益を巡って戦争が起きたりもするのですけれど、ロトはなにかと苦労の 多い遊牧民生活を捨てて、都市生活者になることを選びました。そして、そのソ ドムで結婚をし、子供も何人かもうけてすっかり町の人間になっている。ロト自 身としては、そう思っている。  彼にとっては、アブラハムと暮らした遊牧民の生活、そこで間近に見た神への 信仰の姿、神を恐れる生活も、かなり記憶の彼方にいってしまっている。しかし、 若い頃に身についたものも多少は残っている。そんな感じが、この時のロトでし ょう。信仰を生きることは出来ず、この世の中にどっぷりと浸かって生活してい る。でも、心のどこかで、かつて間近に触れていた信仰生活を忘れないで生きて もいる。そういう中途半端さ、優柔不断さ、矛盾を内側に抱えている人物として、 ロトは、私などには良くも悪くも親近感を感じさせる人物ですし、一種のリアリ ティを感じる人間です。  そのロトは、神の使いが二人、町の門にやって来るのを見ると、それが神の使 いであるとは知る由もありませんが、「立ち上がって迎え、地にひれ伏して」こう 言いました。 「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明 日の朝早く起きて出立なさってください。」  この客人の迎え方は、まさにアブラハムの親戚、あるいは遊牧民の迎え方です。 18章の冒頭で、主が三人の旅人の姿でアブラハムの天幕の前に来た時に、アブラ ハムは「天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して」「お客様、よろしければ、 どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」と言って、もてなそうとします。ま さにそのことを、ここでロトはやっている。  しかし、彼の言葉の中にちょっと気になるところもないわけではありません。 何故彼は、彼らが誰であり、何をしにきたのかも聞いていないのに、「明日の朝早 く起きて出立なさってください」などと言うのだろうか?ひょっとしたら、この段 階で既に、彼は今晩起こるかもしれないことを予測し、恐れを抱いていたのでは ないだろうか、と思うのです。だから、「今晩は泊めてあげるけれど、悪いことが 起こる前に、早く出立なさった方があなたたちの身のためだ」と言っている様な気 がするのです。  その言葉に、御使いたちは「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過 ごします」と応えます。こういうことは、治安のよい町では通常の旅人の一夜の 過ごし方だったのでしょう。しかし、ロトの必死の誘いで、彼らはロトの家に泊 まることにしました。  すると「まだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこ ぞって押しかけ、家を取り囲み」「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。 ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と喚きたてたというのです。こ の「なぶりものにする」というのは、性的な暴行を加えるということです。つまり、 男たちが男に対して集団で性的な暴行を加えるということが、このソドムという 町の一つの慣わしだったのです。男色を表わす「ソドミー」という言葉が、ここ から出てくるのですけれど、アブラハムの甥であるロトは、今、こういう町に住 んでいる。そして、結婚もし、子供も何人もいて、既に結婚している娘達もいる のですから、すっかり馴染んでもいるのです。  しかし、町の人間からしてみれば、彼はまだよそ者です。古い町では、三代住 んで漸くその町の人として受け入れられるとよく言われます。転勤で10年、20 年住んだくらいでは、古くからの町の人にはなれないのは今の日本でも同じでし ょう。ロトは、嫁に行っていない娘を提供するから、法的保護を与えるべき客人 には手を出さないで欲しいと、娘の立場、あるいは女性の立場にしてみれば、と んでもない提案をします。しかし、それも町の人からは「そこをどけ。」「こいつ は、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭 わせてやる。」と言われてしまうようなものなのです。そして、彼らはますます 興奮して、どんどん暴徒化していきます。家の中の人々は恐怖のどん底に落ちた ことでしょう。  しかし、ここで一気に、文字通り「主客」が「転倒」してしまいます。無力な 客人だと思われた人たちが、「手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉 め、戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分から なく」するという神業をするのです。このことを通して、この人たちはただの人 ではなく、「主の使い」であることが示され、同時に彼ら自身もロトに向かってこ う言います。 「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを 皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。 大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを 遣わされたのです。」  「滅ぼす」という恐ろしい言葉が出てきます。しかし、ノアの洪水の時もそう でしたが、神様は必ずその滅び、滅亡の中から幾人かを救い出そうとしてくださ います。この時は、ロトとその家族を救い出そうとしてくださっている。しかし、 それまでのロトは「主」を信じ、主に従う生活などしていないのですから、子供 たちだって、その伴侶だって、いきなりロトが来て、「さあ早く、ここから逃げ るのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と言ったところで、「冗談だと思った」 のは無理からぬ話でしょう。日頃の生活をすべて見ている家族に信仰が伝わると すれば、それは奇跡的な恵みとしか言い様がないのは、私たちが日々痛感してい ることですけれど、日頃信仰を生きていない人間は、いきなり、「主がこの町を滅 ぼされるから逃げろ」と言っても、それはまさに「悪い冗談」に過ぎません。しか し、この場面は、その信仰の有無が、本人だけでなく、家族の生死にも関ること を示していると言ってよいでしょう。  その現実の中で、主の御使いは、ロトをせきたてます。 「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、 この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」  ロトは、どこまでも中途半端な人間です。町が好きで町に住んでいますが、体 質的には遊牧民時代のものが残っている。神への恐れも知らないわけではない。 しかしそれでは、アブラハムのように神様の召しに応えて決然と旅立つかと言え ば、ここでも「ためらう」のです。こんな人間を、神様は何故、救おうとされるの か?その理由の一つは、ここにありますように、「主の憐れみ」なのです。  私はこの箇所を読むと感動してしまうのですけれど、私のような性格の人間か ら見ると、ロトなんて大嫌いで、顔も見たくないと思う人間です。でも、そう思 う私の中に、ロトと非常に似た所があって、例によって自分の中の矛盾と乖離に 苦しみます。ここには、こういう優柔不断なロトを「主は憐れんで、二人の客に ロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。 主自らが客人の姿となって、ロトとその妻、まだ嫁いでいない二人の娘の手をと り、彼らを滅亡から救おうとしてくださっているのです。そういう主のお陰で、 今、私はこうして生かされている。その具体的な事実を思わないわけにいきませ ん。主が、私の手をとって、滅びや堕落から救い出してくださり、今もこうして 生かしてくださっている。共に生きて下さっている。教会の交わりの中に留めて 下さっている。これは私が主に従ったからではない。主が憐れんでくださって、 すべての点で優柔不断、中途半端な私の手をとって、教会へと導き返してくださ った。そういう主なる神様の具体的な御手の業を、今更ながら思い起こし、主に 感謝します。  その主が、こう言われます。 「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。 山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」  この「命がけで逃れよ」というのは一面から言うと名訳だと思いますけれども、 他面、ちょっと誤解を与える訳だとも思います。これは直訳すれば「あなたの命 のために逃げよ」という言葉です。 「あなたの命のために逃げよ。」  これは深い言葉です。  私は先ほどから「滅びる」という言葉を使っています。そして、「堕落する」と いう言葉も使いました。しかし、面白いことに、この二つの日本語は旧約聖書の 言語であるヘブライ語においては、「シャーハット」という同じ言葉なのです。  今日の箇所とノアの洪水の話は、実はよく似た所がいくつもありますけれども、 そこにはこうありました。 「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落 の道を歩んでいた。神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時が わたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地 もろとも彼らを滅ぼす。」  ここに何度も「堕落する」という言葉が出てきます。そして、神様はそういう 堕落した人間を「滅ぼす」と仰るのです。両方ともシャーハットという言葉です。  私たちキリスト者は「罪」という言葉をよく使います。その言葉の意味が分か らないと、それも頭で理解するだけでなく、実態的に分からないと、救いという ことも分かりません。罪が分からないというのは、主観的には罪を意識せずに済 むことですから楽かもしれません。でも救いも知らないわけで、それはちょっと 悲しい。  「罪とは何か」に関しては、これまでも色々な表現で語ってきましたが、今日 の箇所で言えば、ここには町の男たちがこぞって出てきて、旅人を性的に集団暴 行するという具体的な行為が記されています。これは罪の具体的な行為の一つで す。そして、この行為は、破壊的な行為である、あるいは破滅的な行為であるこ とは明らかです。こういう行為をする人間そのものが、最早内部が壊れているの です。そして、そういう人間が他人をさらに壊していく。性の交わりは、人間を 壊すために与えられたものではなく、愛し合う夫婦の間に与えて下さったもので す。その愛の交わりの中で新しい命が生まれるようにして下さっているのです。 愛なき性行為、さらにここにあるような暴力的な倒錯した性行為は、神様が与え て下さったよき賜物を破壊し、相手を破壊し、自らをさらに壊していく行為です。 そして、それが堕落なのです。そして、その堕落の中に罪の一つの姿がある。  神様は、そういう堕落をしていく私たち、ある意味で、自分で自分を滅ぼして いく私たち人間を滅ぼすのです。愛による怒りをもって滅ぼす。それがノアの洪 水の時に起こったことです。しかし、ここには隠された形で、「新しい救済」への 暗示があるように、私は思います。  人によって程度の差はありますけれど、私たち人間はいつでも矛盾なく生きて いるわけではないでしょう。心で思っていること逆のことを言ったりやったりし てしまう。そういうことは誰しもが経験していることです。そして、自分ではそ の矛盾をどうすることも出来ない。善を行おうとしているのに悪を行ってしまう。 悪だと分かりつつやってしまう。そういうこともある。そういう私たちにとって の救いは、そういう私たちを壊してくださること、破滅させてくださることです。 心の奥底では「誰かこの私を止めてくれ」と叫びつつ、悪に手を染めてしまう、 そこから足抜けすることが出来ない。そういう惨めな状態の中に生きている時、 救いは堕落している自分を滅ぼしてくださる神様がいるということです。今日の 箇所の場合で言えば、ためらっていようがなんだろうが、ロトの手を取って、強 引に別の場所に移してくださる神様がおられるのです。そういう神様のお陰で、 今の自分がいる。そのことが分かる時、それは私たちにとって救いの具体的な一 つの体験と言ってよいものです。  ロトは、ある意味ではそういう体験をここでするはずなのです。彼が自分の命 のために、まさに命がけで山に逃れればです。でも彼はここでも、たしかに逃れ るのですけれど、「山は嫌だ。せめてあの小さな町にしてくれ」と頼む人間です。 憐れみ深い神は、ここでも彼の言い分を受け入れてくださいました。しかし結局、 30節以下を見れば分かりますように、彼はソドムとゴモラの恐るべき破滅を見た 後、そそくさと山に逃げます。昔からこういう人間はいたのだなと、しみじみ思 います。  それはとにかくとして、主は、ロトがツォアルという小さな町に着いたのを見 届けると、「天から硫黄の火を降らせて」この一帯を焦土と化されました。自然現 象としては、海面よりも何百メートルも低い死海沿岸地域のアスファルトの上に 天然ガスが充満し、そこに落雷があり、ガスに引火して大爆発が起こったのでは ないかと推測されています。そして、そのような出来事があった背景に、ソドム の人々のどうしようもない悪行があったのだということが次第に明らかになって くる。あるいは、次第にそういう解釈が出来上がってきて、現在の物語になった のではないかと、私は思います。  その時、ソドム生まれのロトの妻は「後ろを振り返ってはいけない」という命 令に逆らって後ろを振り返り、その地方一帯にある柱上の岩塩になってしまった ということもまた、神様の愛の御心に背くことで、自分自身を壊してしまう罪人 の姿を象徴的に描いているのでしょう。  さて、ここで漸くアブラハムが登場します。彼はその前日、まさに「命がけで」、 ソドムの人々の「命のために」、主に執り成しの祈りを捧げた人間です。 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に 正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のため に、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい 者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございませ ん。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではあ りませんか。」 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部 を赦そう。」   これがアブラハムと主なる神様の祈りの対話であり、アブラハムはその後、十 人にまで値切っていきます。そして主は、「その十人のために滅ぼさない」と約 束されたのです。 そのアブラハムが、 「朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、ソドムとゴモラ、および低地 一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御 心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」  この時、はるか下方に見えるソドムとゴモラを見下ろしているアブラハムの 後姿、また立ち上る煙を黙って見つめるアブラハムの顔。肩を落とし、深く皺の 入った褐色の顔が、どれ程深い悲嘆に暮れていたのか?声なき声で泣いているア ブラハムの声が聞こえるようで、私はこの場面を読む度に、やはり心が締め付け られます。命をかけて執り成し祈る人間の報われることのない愛の姿がここにあ り、こういう愛を踏みにじりつつ自ら滅び、神様の裁きを招く私たち人間の悲し むべき姿が、ここにあるからです。 しかし、ここで私たちが忘れてはならないことは、「神はアブラハムを御心に留 め、ロトを破滅のただ中から救い出された」という言葉です。家族の中の一人の 信仰が、他の家族を目の前の具体的な滅亡から救い出すか否かに関わりがあると いうことは先ほど言いましたが、ここでまさにアブラハムの信仰とその信仰に基 づく祈りが、ロトやその娘の全く与り知らぬところで神様に聞かれ、ロトとその 娘達を町の破壊から救い出したのです。その事実を、ロト自身が受け止め、その 具体的な「破滅からの救い」を「罪の滅びからの救い」というところまでいく着くこ とが出来るか否かは、また別の問題に属します。 ソドムとゴモラは、時にアドマ、ツェボイムという町の名と並んで出てきます し、後者が前者と同じ意味で出てくる箇所もあります。その中で、私が今日ご一 緒に読んでおきたいと思う箇所はホセア書の言葉です。ホセアという預言者は「愛 の預言者」とも呼ばれます。彼は、堕落し続けるイスラエルをそれでも愛し続け る神様の愛の苦悩を、身をもって経験している預言者だからです。その彼が、神 の言として、こう語っているのです。 11章です。ここに出てくる「エフライム」とは「イスラエル」の別名です。 「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前 を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのよう にすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。 わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをも って臨みはしない。」  これはイスラエルを愛するが故に、イスラエルからの愛を求めているのに、イ スラエルに裏切られ続けて、心が引き裂かれている神様の言葉です。この直前に は、神様は「イスラエルを滅ぼす」と宣言しておられるのです。あのノアの洪水 の時のように。しかし、「滅ぼす」と言っている神様が、その直後に、「再び滅ぼ すことはしない」とも仰る。「どうして見捨てることが出来よう、滅びに引き渡 すことが出来よう」と、神様が苦しむ。そして、激しく心が動かされ、胸が焼か れる。「これが私、これがお前達の神なんだ。」神様は、そう叫んでいる。泣きな がら絶叫している。「どうして、この愛を分かってくれない。受け止めてくれない。 何故、わたしを愛してくれない。私の腕の中に帰ってきてくれない・・」と、泣 き喚きながら、愛の告白をしている。決して受け入れられない愛の告白を。ここ には哀切極まりない愛があります。  この愛の苦悶の中で、神様は、「わたしは激しく心を動かされる」と仰っていま す。この「心をを動かされる」とは、直訳すれば、「わたしの心がわたしの中でひ っくり返ってしまう」「転覆してしまう」ということです。どこか他のところへ動 くということではなく、上下がひっくり返る動きを現わします。「ハーパク」とい うヘブライ語ですが、この語は、旧約聖書の中では、ソドムとゴモラの「滅亡」 を表す言葉としてもしばしば使われます。今日の箇所で言えば、「神はアブラハム を御心に留め、ロトを破滅の中から救い出された」の「破滅」という言葉です。 つまり、神様は罪に罪を重ねる、堕落に堕落を重ねる、そして自らを破滅させ続 けていくイスラエル、本来ならソドムとゴモラのように滅亡させて当然、破滅さ せて当然のイスラエルを、それでも何とか赦し、かつての親の愛を求める子供、 夫の愛だけを受け入れる妻として迎え入れるために、ご自分の中に滅亡が起こっ てしまう。破滅してしまう。そういうことなのです。愛に生きるとは。罪人を愛 し続けて生きるとは、かくまで激しいこと。最早、もうそれまでの自分はいられ ない、自分が破滅してまでも愛す相手を救いたいと「憐れみに心が焼かれる」。そ れが愛。それが、今日、この礼拝堂の中で、私たちに語りかけてくださっている 神様の「愛」です。   ソドムを見下ろすアブラハムの姿、それは私にとってはオリーブ山からエルサ レムを見下ろすイエス様の姿に重なります。イエス様はそこでこう仰いました。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打 ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集 めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たち の家は見捨てられる。」  これはアブラハムの子孫として、世界の民の祝福の基礎になるべきユダヤ人の 都が、神様が遣わす預言者たちの言葉に耳を傾けず、預言者たちを殺し、罪に罪 を重ね、堕落(破壊)に堕落(破壊)を重ねている限り、ついには完全に見捨て られて、滅ぼされることを預言された言葉です。イエス様は愛するエルサレムの 滅びが来ることを願っているのではなく、何故、そうまでして神に逆らうのか・・・ と嘆き悲しんでおられるのです。  しかし、この福音書を読み進めていくと、イエス様はこの後、こう叫ばれた事 実を知らされます。これはエルサレムの城外、ゴルゴダの丘の上、十字架につけ られて息を引き取る直前の叫びです。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」  自分で何をしているのか知らない。「自分で自分の足を食べる蛸」という言葉が ありますけれど、私たち人間はまさにそういう存在です。良かれと思って悪をな したり、悪だと分かって悪をなしたりする。大きな地球環境で言えば温暖化が分 かっていても目先の利益を追い求める。戦争は悪だと分かっていても、憎しみか ら自由になれず、また目先の利益を求めて繰り返す。そうやって、地球を破壊し、 人間を破壊していく。まさに、「自分が何をしているのか知らない」惨めな存在で す。  そういう人間を、そういう堕落した人間を、そういう罪人を、神様は、それで も愛そうとして、救おうとして、七転八倒して下さっているのです。なんとか見 捨てないで、赦そうとして下さっているのです。  「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と警告された主イエスが、それから暫 くしたら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っておられるのです。そして、「見 捨てる」という言葉と「赦す」という言葉はギリシャ語ではアフィエーミという 言葉です。原意は、去らせるとか、離して置く、放っておくというニュアンスを 持っているようです。オリーブ山の上で、主イエスは「あなたたちが、このまま 悔い改めることなく罪に罪を重ねていけば、ついに神様に放っておかれてしまう。 もう目をかけてもらえなくなる。手をかけてもらえなくなる。」そういう意味で、 「見捨てられてしまう」と嘆かれたのです。しかし、それから暫くして、イエス 様の心がその内側でひっくり返った。破滅してしまったのです。気がつけば、イ エス様が十字架の上で神様に見捨てられている。見捨てられるべき罪人の身代わ りに、イエス様が見捨てられている。そして、見捨てられながら、「彼ら罪人は、 どうか見捨てないで下さい。赦してあげてください。私があなたの怒りの裁きを 受けて滅ぼされます。私が代わりに死にます。だから、彼らを赦してください。」 そう祈ってくださっている。もちろん、神様は、その祈りを、犠牲の死を、死ぬ ほどの悲しみを味わいつつ、けれどもその真実の愛による執り成しを、受け入れ てくださっている。そして、私たち罪人を赦してくださっています。愛してくだ さっています。  神は、アブラハムを御心に留め、ロトを破滅の中から救い出されました。今、 神様は、神の独り子イエス・キリストを御心に留め、私たちを破滅の中から救い 出してくださっているのです。  だから、私たちは今日、この礼拝堂に集められている。それぞれに神様の御使 いに手を引かれて、この礼拝堂にやって来た。連れて来ていただいた。そして、 今日も新たに主の愛と赦しの言葉を聴くことが出来た。「主よ、感謝します。そし て、あなたの御名を崇めます。御心のままに、私たちを用いてください」と、賛 美と祈りを捧げる以外にありません。
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