「アブラハムという存在」

及川 信

創世記19章 29節〜38節

 

こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。あくる日、姉は妹に言った。「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。


  (1)

今日の箇所は、元々はイスラエルと国境を接して生きているモアブ人、アンモン人の誕生(起源)物語として出来上がったものだと思われます。つまり、元来はアブラハム物語とは無関係な小さな言い伝えだったのでしょう。しかし、現在はアブラハム物語、また創世記全体の中に置かれているのです。その結果、この箇所が、どういうメッセージを持つことになったのか?それが今日の問題です。

  (2)

 私たちが現在礼拝において使用している『新共同訳聖書』の一つの特色は、大きな段落ごとに「小見出し」がついているということです。このお陰で随分と読みやすくもなりましたが、このお陰で見落としてしまうものがあることも事実です。今日の箇所には「ロトの娘たち」という小見出しがついています。しかし、私は「アブラハムという存在」と題しました。何故かと言えば、直前の文章がこういうものだからです。

こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。

 この記述に続いて「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ」という記述があるのです。つまり、ロトはアブラハムの故に、神様がアブラハムを御心に留めたが故に、破滅のただ中から救い出されたのです。そのことが、今日の箇所の前提なのですから、それを無視することは出来ません。そして、アブラハムとは、神様が地上の諸国民を祝福するために、神様ご自身が選んだ人物ですし、この時点でのアブラハムはその使命を果たすべく、ソドムの人々の救いのために、神様に向かって必死になって執り成し祈ったアブラハムです。神様は、「そのアブラハム」を御心に留め、その結果、ロトと娘二人が滅びから救い出されたのです。この物語は、まずはその事実を伝えている。それは明らかなことです。
 それはつまり、信仰に生きる一人の人は、その人の信仰によってその人自身が救われるだけでなく、肉親をも救う存在になり得るということです。

  (3)

 しかし、これまでも時折言って来たことではありますけれど、アブラハムはアブラハム個人でありつつ、イスラエルの先祖であり、また代表者なのです。ですから、彼の子供や彼の親族もそういうものとして創世記の中に登場してきます。アブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、そして後に妻サラとの間に生まれたイサクは、所謂腹違いの兄弟ですけれど、これは現在のアラブ人とユダヤ人の祖先です。血縁的には近い関係なのに、その当初から今に至るまで、なんとなく上手く行かず、時には激しく敵対する関係になってしまう兄弟です。しかし、イシュマエルとイサクの両者が「アブラハムの子」であることに変わりはなく、彼の子孫はそれぞれの民族として世界中に増え広がっていることも事実です。そして、父親が同じだけれど仲の悪い兄弟の神は、唯一の神ですから同じなのです。だからこそ、仲違いの根っこは深いのですが、解決の糸口があるとすれば、それは同じ神を信じている所にしかないことも事実でしょう。

    (4)

イシュマエルとロトでは、もちろん立場が違います。イシュマエルはアブラハムの「子」ですが、ロトは「甥」です。子供と甥では違います。しかし、親族であることには変わりありません。
ロト自身は、アブラハムのように神様の召しに応えて故郷を旅立ったわけではありません。彼は、神様の召しに応えて決然と旅立ったアブラハムについていき、暫くの間行動を共にしただけです。しかし、ロトはどこまでも中途半端な人間でした。彼は町の豊かな生活にあこがれて、半遊牧民の生活を止めてソドムという町に移り住み、そこで結婚もして娘たちを儲うけました。でも、彼の心の奥底には、アブラハムと旅をしていた当時の記憶と習慣、また信仰が残っており、「これからソドムを滅ぼすから家族を連れて逃げなさい」という主の使いの言葉にしぶしぶ従って滅びを免れたのです。けれど、その時も、「山に逃げなさい」との命令には従わず、「せめて小さな町に逃げさせてください」と懇願しています。
その彼が、今は山の中の洞穴にいるのです。それはつまり、ソドムやゴモラの滅亡を間近に見て、恐怖のどん底に叩き落され、恐れをなしてノコノコと山に逃れたということでしょう。こういう親族もアブラハムの親族なのです。アブラハムはかつて、ソドムを巻き込む戦争で捕虜として連れ去られたロトを命がけで奪還しました。そして今は、神様がアブラハムの親族であるという理由で彼を滅亡から救い出してくださっている。そして、「そのロト」から、後のモアブ族、アンモン族というイスラエル王国の周辺諸民族の先祖が生まれたのだとこの物語は告げている。それは、モアブもアンモンも、イスラエルにしてみれば親戚、広い意味での家族だということです。そういうことも、この物語は伝えようとしている。

  (5)

 今日の箇所が物語として作られた時、モアブ人やアンモン人は非常にふしだらな行為によって誕生した人々なのだという蔑みの意味が込められていた可能性はあります。しかし、父と娘の「近親相姦」という言葉だけに捕らわれると、この物語の本質を見失うことになると思います。
 この箇所をお読みになってから礼拝に来られた方は、「今日、牧師はこの箇所からどんな説教をするのか」と興味津々の思いで来られたでしょうし、今初めてこの箇所を読んだ人は「聖書にはこんなことが書いてあるのか?!」とビックリされたのではないかと思います。私も、神様はここで一体何を語らんとしているのか興味津々の思いで一週間を過ごしてきました。多くの人が、この物語を読んで最初に抱く感情は、なんとふしだらな!という嫌悪感だと思います。確かに、娘が実の父親に酒を飲ませた上に子供を作る行為をするということは、あまりにもふしだらな行為に見えます。その行為の結果として生まれたモアブとアンモンもまた、そういうふしだらな行為によって生まれた人々だということになるかもしれません。この部分が書かれた時のイスラエルは、モアブとアンモンとは敵対関係にあったので、こういう物語が作られたという推測もあります。いつだって時代によって国際情勢は変化し、その変化に伴って隣国や近接する異民族への評価も変化するものです。私たちの国もその昔は、遣隋使や遣唐使を遣わして中国から政治や文化を学びましたし、また朝鮮からの使者は先進文化の伝達者として丁重にもてなした時代がありました。その時の中国人、朝鮮人のイメージと、明治以降のイメージ、また戦前戦中のイメージと戦後のイメージでは相当に違いますし、今もそのイメージは総理大臣や国家主席や大統領が変わるたびに、変化すると言っても良いでしょう。関係が悪い時代は、相手の国民、あるいは民族は卑しむべき人々に見え、元からそういう生まれなんだという話が作られることはよくあることです。しかし、今日の箇所もそれと同じで「モアブ人やアンモン人がふしだらな人間だと言いたいのだ」と断定することは出来ないと思います。私たちは、この箇所をもう少し丁寧に見なければいけませんし、同時に、アブラハム物語の文脈、さらに創世記全体の文脈を見てから、ここで何が語られているのかを考えなければなりません。

  (6)

 まず、この箇所を一つの物語として素直に読んでみて、誰かが非難されているのかと言うと、そんなことはないと思います。以前、自ら酒を飲んで裸で寝ているノアを見た息子のカナンと、父の裸を見ないようにした他の二人の息子の対応が比較され、ノアがカナンを呪うという物語がありました。そこにおいては、明かに、酒を飲んで裸で寝ていたノアの醜態と息子カナンの行為が非難されています。しかし、今日の箇所にも酒が出てきますけれど、その酒はロトが自ら飲んだのではなく、娘に飲まされたのです。それも「飲まされた」と言っても、無理矢理一気飲みさせられたというのではなく、酒を楽しみつつ食事をして、老年に差し掛かっているロトは好い気分で寝てしまったということでしょう。ですから、ロトが、娘たちに欲情を抱いたわけではないのです。酒とは、そういうことを証明する一つの小道具のようにも思えます。そのことは、「父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった」という言葉が、二度繰り返されていることからも明らかです。娘たちが、父親に欲情を抱いたということも、ここの記述からは考えられません。彼女らの関心は、子供を得るということだけです。ですから、ここに時事としてある「近親相姦」を、「ふしだらな欲情の物語」として理解することは出来ないのです。しかし、それでは何なのか?

  (7)

そのことを知るためには、少しずつ文脈を広げて読んでいかなければなりません。考えてみれば、ロトの娘たちの置かれた状況は絶望的なものです。彼女らが生まれた町は、この渋谷のように豊かで、性的には腐敗し、また危険な町でしたが、その町に生まれた彼女達にとっては、それが当たり前の文化だったでしょう。しかし、主の使いである旅人がロトの家に来た時、彼女らは、旅人の身代わりに町の人々から陵辱されるかもしれないという恐怖を、父親から味わわされました。その時は、町の男たちが女に興味を示さなかったので事なきを得ました。その時のことが、彼女達にどういう影響を与えたのかは分かりません。しかし、今、その彼女達が人知れず、父親と山の中の洞穴で暮らしているのです。町の男が自分達の所に来るわけもありません。このままで行けば、彼女らは婚期を逃し、子供も生めず、たとえいつか洞穴から出ることが出来たとしても、女の人権だかと、女の仕事、職場などがあるわけではない当時としては、彼女達は物乞いをするとか、そういう極めて惨めな生活をせざるを得ないのです。そう思うと、彼女達の心は絶望で押し潰されていったとしてもおかしくはありません。彼女達に明るい未来は全くないのです。
そういう絶望的な状況の中で、彼女達は自分達の未来を切り開くために非常手段を取らざるを得なかった。そして、彼女達はものの見事にそのことに成功した。いや、それは彼女達の成功ではなく、むしろ神様の祝福があったのだ。神様がアブラハムを御心に留めたが故に、滅亡から救い出されたロトから、二人の息子、つまりアブラハムの親族にもなる二つの民族が生まれたという事実。その神様の祝福の事実をこそ、この物語は告げている。人間の罪に対する激烈な神の裁きを経ての神様の祝福。この物語が現在の文脈の中に置かれた時、この物語は、そういうメッセージを持つようになってきたのではないか?私は、そのようにも考えます。

 (8)

何故、そう考えるかと言うと、祝福がアブラハム物語の一つの大きな主題だからです。 アブラハム物語を貫く一つの筋は、皆さんよくご存知のように、彼とその妻サラの間に子供が生まれないという不妊の現実です。神様に、「あなたの子孫にこの土地を与える」とアブラハムが七十五歳の時に約束されてから、何年経っても一人の子供も生まれない。アブラハムは、その現実を耐え忍び、あくまでも神様の約束を信じて生きることが求められる。それが、アブラハム物語を貫く一つの筋です。不妊という現実と信仰という試練がこの物語の独特の緊張感を高めているのです。
しかし、そこには挫折もありました。子供が生まれないことにしびれを切らしたサラが、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに差し出し、彼との間にイシュマエルが生まれます。しかし、イシュマエルは約束の子ではありませんでした。ですから、約束から二十五年を経て漸く約束どおりイサクが生まれると、ハガルとイシュマエルは、アブラハムの家から悲劇的に追い出されていくのです。しかし、神様はアブラハムの子であるイシュマエルを祝福し、彼の子孫が繁栄することを約束されました。そして、イシュマエルは後に十二人の子供を与えられることになります。彼らは明かに祝福されたアブラハムの孫であり、その十二人から続々と生まれる子供たちもすべてアブラハムの子孫ということになります。 つまり、アブラハム物語の一つの筋は不妊であり、神様の約束を信じて生きることの試練ですけれど、その一方で、全く矛盾するようですけれど、不妊とは逆の祝福による多産という筋があるのです。創世記一章にある「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の祝福がアブラハムに与えられ、その子孫に与えられていく。そして、祝福されたアブラハムの子孫が世界に広がっていく。そういう筋がある。それは明らかです。
何故、そういうことを言うかと言いますと、特に女性の方たちは、アブラハムに対して失望したり、がっかりしたりするかもしれませんが、現在の創世記の文脈上では、妻サラが死んだ後に、アブラハムはケトラという女性と再婚し、彼女との間に六人の子供が生まれたことになっています。それは創世記二五章に記されていることです。ケトラは再婚した「妻」ではなく「側女」であったという修正もそこでなされていますけれど、とにかく、サラの死後にアブラハムが再婚して六人の子供が生まれるなどということは、これまでの話を台無しにすることです。なぜなら、一七章の段階で、アブラハムに対して「男の子を与えよう」と言われる神様に対して、アブラハムがひれ伏しながらも、心の中で「百歳の男に子供が生まれるだろうか」と神様の約束を笑うということがありました。つまり、アブラハムはもう男性としての生殖能力がないのだということです。そのことを確認した上で、そういう高齢の夫婦の間に、神様は子供を与えるということに、アブラハム物語の大事なメッセージがあるのです。しかし、二五章では、サラの死後にアブラハムが六人の子を儲けたかのようなことを書く。何故なのか?これは矛盾を承知の上で書いている(あるいは編集されている)のですから、その理由や意味が分からないと、どうしようもありません。

 (9)

今も言いましたように、アブラハム物語というのは、信仰の物語であり、同時に祝福の物語です。それはアブラハム物語冒頭に既にはっきり現われていたことです。アブラハムは「主の言葉に従って(見知らぬ地へと)旅立った」。これは、彼が主を信じて、一切を主に委ねて旅に出たということです。信仰による旅立ちがここにあります。しかし、その主の言葉の中に何度も出てきた言葉は「祝福」です。

「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し、 あなたを呪う人をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

「祝福」の反対は「呪い」です。そして、祝福は命をもたらし、呪いは死をもたらします。アブラハム物語、それは「バベルの塔建設」によって世界が呪われた後に始まる物語です。バベルの塔建設とは、人間の人間による人間のための世界建設の企てです。それは結局、強大な権力者が「神」となって世界を統治するという形になります。神様は、人間の言葉を乱すことで、結果として、その企てを破壊されました。神を礼拝せず、自己を神格化する人間達は、結局、互いに分裂し敵対する以外にないのです。罪の支配の中にいる限り、私たち人間同士の愛の交わりは消え失せ、緩やかに滅びへ向かって生きていく他にない。その呪われた世界の象徴がサラの不妊、もはや命を生み出すことが出来ないという状況なのです。バベルの塔の物語の後には系図が続きますが、系図は子供が生まれて初めて続くのです。しかし、サラからは子供が生まれない。つまり、系図はここで終わる。歴史が終わるということです。今の日本のように、生まれる子が少ないどころではなく、子供が生まれないのです。それは未来がないということであり、滅亡を意味します。人間の飽くなき罪に対する神様の裁きは、呪いをもたらし、ついに滅亡をもたらす。そういうことを、天地創造からバベルの塔の物語に至る原初の物語は告げているのです。その象徴が不妊です。

(10)

しかし、ノアの洪水の時もそうでしたが、滅亡の中で、ごく僅かな生き残りを与えてくださるのが神様なのです。裁きの中に救済がある。呪いの中に祝福がある。その象徴が、アブラハムとサラという夫婦です。彼らは、一方では呪いの行き着く先である不妊の夫婦であり、他方で祝福の担い手、新しい命の源ともなるのです。そして、その決定的な分かれ目に何があるかと言えば、信仰がある。彼が信仰に生きるか生きないかが、世界に祝福をもたらすか呪いをもたらすか、命をもたらすか死をもたらすかの決定的な分かれ目になるのです。
アブラハムが旅立った時のアブラハムとサラという夫婦は、ある意味では、ロトとその娘たちが住んでいた洞穴の状況と同じ。つまり、お先真っ暗です。洞穴は奥に入れば入るほど暗闇が深まり、そして最後は行き止まりです。絶望と死だけが待っているのです。 その絶望的な状況を打ち破ることが出来るのは、神様の愛であり、全能のお力です。そして、同時に、神様の愛と全能の力を信じる信仰なのです。アブラハムは、その信仰を生きる者として鍛えられている最中です。そして、創世記一九章段階のアブラハムは、その前日に、自分の命を投げ捨てるようにして、神様の前に立ち、「十人の正しい者がいたならば、神様どうぞ、ソドムの人々を赦してあげて下さい」と祈ったアブラハムです。ただ、このアブラハムの故に、このアブラハムを神様が御心に留めたが故に、ロトとその娘は救われたのです。そして、神様は絶望的な状況に置かれた娘たちがとった非常手段に対して祝福を与えて下さった。彼女達に未来を与えて下さり、アブラハムの親族をまた増やして下さった。ここに、彼女達の信仰があるわけではありません。ましてロトの信仰があるわけでもない。ただ、アブラハムの信仰があるのです。そして、「地上の氏族すべて」がアブラハムによって「祝福に入る」と言われる、そのアブラハムの信仰の故に、神様の祝福がロトとその娘たちに及んでいる。そう読むことが出来るのではないか、と私は思います。

(11)

新約聖書に行く前に、先ほどちょっと触れた二五章を見ておきたいと思います。そこにはアブラハムとケトラとの間に生まれた六人の子供たちのことが書かれています。彼らの居住地は現在のパレスチナからメソポタミア全域に広がります。またそこにはイシュマエルの十二人の子供たちも出てきますが、彼らはエジプトからメソポタミア地方にまで広がって、「互いに敵対して暮らしていた」と記されています。またケトラの子供たちと、イサクが近くに暮らさないように、アブラハムが手配をしたということも記されています。皆、アブラハムの子なのです。当時の人々が「世界」と考えていた地域に暮らしている民族はすべてアブラハムの子なのだ、ということ。そういうことを、ここでは言わんとしている。つまり、本来、神様の祝福を受け継いでいる子だし、互いに仲良く暮らすべき家族であり親族なのだ、と言っている。でも、現状では、近くに暮らせば争いが起こるし、離れていても「互いに敵対しつつ生活」している。それが世界の現状だ。聖書は、そういうことを告げている。つまり、これは二十一世紀の私たちの世界の現状です。人類皆兄弟と言いながら、兄弟仲が良かったためしはないのです。近づくと争いになり、離れていても敵対している。聖書の現実認識はリアルです。「バベルの塔以来の世界は相変わらずだ」と言うのです。

 (12)

しかし、そういう創世記二五章の中で、私たちが注目しなければならないもう一つのメッセージがあります。それは、ほんの一行の記述なのですが、アブラハムが死んだ時に、イサクとイシュマエルが「共にアブラハムを葬った」ということです。この時ばかりは、この兄弟、現代で言えば、ユダヤ人とアラブ人、ユダヤ教徒とイスラム教徒が、共にその父アブラハムを洞穴に葬った。葬式は一緒にやったということです。書かれてはいませんが、葬式には食事がつき物ですから、一緒に食事をしたかもしれません。争い、敵対、疎遠、心が通じない。愛し合えない。そういう人間世界の生の現実の中で、アブラハムの死が、ほんの一瞬かもしれませんが、二人の兄弟を一つにした。そこにかすかな、しかし、確かな希望がある。そういうことを聖書は語っているのかもしれません。それから一四七〇頁位頑張って読むと、漸くイエス・キリストの福音を読むことが出来るのです。そのことに象徴されるように、気が遠くなるような年月、私たちは終末における神の国の完成を望み続け、信じ続けて生きなければならないのかもしれません。神様が私たちに与える信仰の訓練は、生易しいものではありません。

 (13)

先日、子供の精神病を専門とする友人が久しぶりに訪ねてくれて、暫くの間、色々と話す機会がありました。そして、増え続ける幼児虐待と家庭崩壊の現実を知らされ、それに伴って増え続ける子供たちの精神障害の現実も知らされ、その現実に少しも対応できない政治や社会の現実も思わされました。つまり、私たち一人一人が、もう何だか疲れきってしまい、無力感の中に押し潰され、無関心を装い、危害が自分に加えられないように願って生きるしかない。私たちの心はそういう殺伐とした心になっているし、私たちの社会はそういう荒廃した社会になっているし、今後もなっていくだけだと思いました。お別れの時に、私は祈るのですけれど、本当に何と祈ったらよいのか分からないという思いと、祈りの中で出てくる呻きの言葉以外に発すべき言葉がないという思いの両方を抱きました。 愛に飢え乾き、それが与えられないが故に悶え苦しみ、その苦しみを自分を傷つけたり、他人を傷つけたりすることによってしか表現できない。そういう人々がどんどん増えている。そして、私たちは互いに距離を保ち、そして、時には互いに敵対しながら暮らしています。一つの家庭の中でもそういう現実があり、社会の中の個人と個人の関係がそうなっており、さらに国と国、民族と民族、人種と人種、宗教と宗教の関係がそうなっています。つまり、静かに洞穴の奥へと進んでいる。暗い闇が支配し、行き止まりの洞穴の奥深くに向かって進んでいるとしか思えません。罪の結果としての呪いが、どんどん深まっていくとしか思えない。

 (14)

しかし、その私が今、こうして神様を礼拝しています。皆さんも今、こうして神様を礼拝している。この時、私たちは、絶望に向かって生きているのかと言えば、そんなことはないのです。呪い中に置かれているのかと言えば、そんなことありません。そんなことないどころか、私たちは絶望すべき現実を知っていますけれど、希望をもっているのです。そして、祝福の中に置かれているのです。だから礼拝をしている。
何故、そういうことが可能なのか?それは、私たちの主イエス・キリストは、洞穴の墓の中から甦ったお方だからです。この方が今も生きておられ、目に見える現実がどうであれ、天地を貫く神の国の王として生きて下さっていることを信じているからです。そして、この方が、今も、私のため、私たちのために神様に執り成しの祈りを捧げてくださっているから、私たちは今もこうして祝福の中に礼拝を捧げることが出来るのだし、希望をもつことが出来るのです。
ロトは、アブラハムが祈っていてくれたなんて、その時は知らなかったでしょう。この後、知ったかどうか、それも分かりません。ロトは、これ以後、一切登場しませんから。でも、ロトが破滅から救い出されたのはアブラハムという存在のお陰です。アブラハムがロトの知らないところで、ロトのために祈ってくれたのです。だから、ロトは救い出されたのです。そして、彼を通して新しくアブラハムの親族が生まれてきたのです。

 (15)

私のために、皆さんのために、祈ってくれる人がいたし、今もいるでしょう。だから、私たちは今、こうしてキリストを信じ、霊と真理の中で父なる神様を礼拝できるという幸いを与えられているのです。しかし、究極的な祈りは、イエス様の祈りです。ご自身の体が裂かれ、その血を流しながら「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださったイエス様の祈りが、神様に聞き入れられているが故に、神様がイエス様をその御心に留めておられるが故に、私たちは今、こうして礼拝を捧げることが出来るのです。そして、礼拝の中で命の御言を頂き、命の御霊を頂き、さらには命のパンと命のぶどう酒を頂き、キリスト者として、神の子として、神の国が完成する日をはるかに望み見て、力強く生きることが出来るのです。 パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう言っていたでしょう。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」
コリントの信徒に向けてはこう言っていました。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。・・・だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

主イエスの祈りによって、今も神に愛され続け、今も罪赦され、今も日々新たにされながら、永遠に存続する希望を与えられて生きることが出来る私たちは、なんと幸いなことかと思います。ただただ主の御名を褒め称える以外にありません。
洞穴の墓から甦られた主イエスは、今日も、私たちに、ご自身の体と血とを、命の糧として分け与えてくださいます。天上にも備えられているこの救いの食卓に、今は互いに敵対し、分裂しているすべてのアブラハムの子が招かれて、互いに和解し、主の恵みを分かち合う日をはるかに望み見つつ、今日も私たちはこの食卓に与らせていただきたいと願います。
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