アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。
アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」
アビメレクは更に、アブラハムに言った。「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」
アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。
事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」
アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」
また、サラに言った。「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」
アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。 主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。
一筋縄では行かないアブラハム(物語)
アブラハム物語、この物語は長さとしては、一つの短編小説位かもしれませんけれど、これは幾つかの筋が絡まりあっていますし、数百年にわたって書かれ続け、編集されて出来上がった物語ですから、それこそ一筋縄では行かないのです。
その筋を少し羅列すると、何よりもまず、アブラハムは神様に選ばれた人物です。神様に選ばれ、その召しに応えて旅立った人物です。その「選び」と「召し」、これがこの物語を貫く一つの主題であることは間違いありません。また、この物語には、「約束」とその「実現」という主題がある。神様は、旅人として生きるアブラハムの子孫にカナンの土地を与えると約束されました。これは、アブラハムに子孫が与えられるという約束でもあります。しかし、アブラハムの妻サラは不妊の女であることは、既に明記されています。そして、この夫婦は旅立ちの時、既にアブラハムは75歳でサラは65歳の老人です。この老夫婦に与えられた子孫の約束は果たして実現するのか?それはまた、アブラハムとサラは、この約束を信じて生きることが出来るか否か?ということでもあります。さらに、祝福のテーマがあります。罪によって呪われた世界に祝福をもたらす人物としてのアブラハム。祝福とは命の誕生と繁栄と不可分の関係にありますけれど、その祝福を全世界にもたらすべきアブラハムに子どもがなかなか与えられないという不条理が、この物語の緊張を高めています。また、アブラハム物語とは旅人の物語です。当時の旅人というのは気楽なものではなく、何の保護も権利もないという意味で、実に不安定なものであり、絶えず危険にさらされているのです。そういう危険をどのように切り抜けていくのか、また神様はどのように彼を守っていくのか?そういう物語でもあります。
矛盾・乖離・二面性
今日は20章です。18章後半から19章は、ソドムとゴモラの話でした。そこでアブラハムは、神様に向かって「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。・・正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです」と祈りの中で叫びました。ここでのアブラハムは、その信仰の故に世界に祝福をもたらすアブラハムでした。私たちの信仰の父として、私たちも胸を張って誇れる先祖です。彼のこの必死の祈りによって、ロトとその娘たちが助かり、さらにちょっと信じがたい方法ではありますが、ロトとその娘たちの間に、彼らの子孫、つまりアブラハムの親族ともなる民族が生まれたのでした。
しかし、そのソドムの話の直前には、アブラハムとサラは、神様から、「一年後には男の子が生まれると告げられた」のですが、アブラハムもサラも、その預言を聞いてひそかに笑ってしまったということが記されています。つまり、不信仰なアブラハムとサラが、そこにはいます。
些か短絡的に言うならば、神様の約束を聞いて心の底で笑ってしまうアブラハムの後に、ソドムのために必死に執り成し祈るアブラハム、神様の正義の遂行を祈り願うアブラハムが登場し、その次に、妻を妹と偽ってその地方の王に差し出してしまう、嘘つきのアブラハムが出てくるという順序です。アブラハムという人物は、知れば知るほど不思議な人だと言わざるを得ません。しかし、人間は誰だって、こういう二面性、矛盾や乖離を抱え持っているものだと、私は思います。
物語の文脈から言えば、来年の今ごろ男の子が誕生すると神様が仰ったのに、一向に誕生の場面が出てこない。あの約束はどうなっているのだろうという緊張感が高まっています。しかし、他方、アブラハム夫婦はもう100歳と90歳のはずなのに、サラはその美貌の故に王様に召抱えられるとは一体どういうことか?という問題もあります。90歳だって女性は美しいというか、美しい女性はいることは私も知っていますが、それは王がそのハーレムに召し入れる美しさとは違うわけで、どうなっているの?と思わないわけではありません。けれども、この物語の編集者は、そういう無理は承知の上で、この話をこの箇所に持ってきたのであって、それなりの意図があるはずです。そのことは、ご一緒に読み進めていくことで、次第に明かになってくると思います。
旅人の危険?
20章の書き出しは、アブラハムが今もって旅人であることを明らかにしています。彼はこの地上に市民権をもたない旅人、現代風に言えば、「外国人労働者」です。その身分は不安定であり、土地の人と諍いを起こしたり、権力者に反抗したりすれば、いつでも強制的に国外退去を命ぜられてしまう立場の人間です。
他方、今日登場するアビメレクは、その土地においては絶対的な権力者です。領地内に住む女性を、恐らく幾許かの礼金を払ってのことだと思いますが、召抱えることも出来る王なのです。しかし、そういう王でも、夫から妻を奪ってよいということではありませんでした。それは、夫にとっての最大の財産を奪うという許されないことであると同時に、やはり倫理的にも赦されないことであったのです。しかし、そういう場合に、王は何らかの方法で夫を殺した上で、自分の妻にしてしまうことが出来たし、実際、あの名君の誉れ高いダビデ王はそういうことをしました。ですから、王に目をつけられた妻を持つ夫というのは、危険な立場でもあるのです。実際、アブラハムは、その危険を感じたとアビメレクに言っています。
思い出してみれば、アブラハムは神様の召しに応えて旅立って程ない頃、エジプトに難民として下るという経験しましたが、その時もサラを妹だと偽ってエジプトの王に差し出したことがあります。あれから20数年を経たこの時、同じことをやっているのです。しかし、同じことを繰り返すだけでも恥ずべきことですが、この期に及んで同じことをするとは、さらに恥ずべきことではないでしょうか。たとえば、中学生が万引きをしてしまったとして、その中学生がいい歳の大人になってまた万引きをしたのでは、やはり恥の大きさは違うと思います。
また、来年の今ごろ男の子が生まれると、神様から言われているのに、このように簡単に妻を差し出すというのは、全くもって如何なものか?と思わざるを得ません。いくら殺される可能性があるとはいえ、長年連れ添った妻、もうじき神様の力で妊娠するはずの妻を、こんなに簡単に手放すとは?!と思うのです。アブラハムにしてみれば、「お前たちはこんな経験をしたことがないから好き勝手なことを言えるんだ」と言いたい所でしょうけれど、同じ状況になれば皆が皆同じことをするわけではなく、こういう癖あるいは弱さは、アブラハムが言い訳できない形で持っているものだと言わざるを得ないと、私は思います。
イスラエルの神、全世界の神
そして、ここからが面白いのですが、アビメレクがサラを召し入れた夜、夢の中に神様が現われるのです。この神様は、アブラハムの神様と同じ神様です。これが大事なところです。
全世界には様々な宗教があります。4大宗教と呼ばれるようなものは別ですけれど、無数に存在する宗教の多くは民族的な神、あるいはその地域限定の神様を祭る宗教です。聖書の宗教も、一面では民族宗教と言われる側面を持っています。アブラハム、イサク、ヤコブの神、主を、アブラハムの子孫であるイスラエル(後にユダヤ人と呼ばれる)は信じ、祭りをし、またその神様の言葉に導かれて生きているからです。しかし、イスラエルにご自身を啓示された主なる神様は、実は天地の造り主であり、すべての人間の創造主です。日本の八百万の神々とか天照大神とか現人神とか言われるものは、日本の神、日本人の神であって、外国人には何の関係もありませんし、外国人に語りかけたりはしません。けれども、イスラエルの神であると同時に天地の造り主にして主なる神様は、ここで外国人であるアビメレクの夜の夢に現われるのです。この辺は、宗教学的には非常に面白い所ですし、こういう神だからこそ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの巨大な一神教が生まれるというか、生まれてしまうのだと思いますけれど、先に進みます。
どっちが被告?
神様は、いきなりとんでもないことをアビメレクにお語りになります。
「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
20章の文体は、基本的に裁判で使われる文体ですが、ここで神様はいきなりアビメレクに対して有罪宣告をし、さらに死刑判決まで下しておられるのです。しかし、アビメレクにしてみれば、全く身に覚えのないことなので、必死の弁明をすることになります。
アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
その通りです。「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。」これは、どこかで聞いた言葉です。そう、ソドムとゴモラの物語の中で、アブラハムが主に向かって叫んだ、あの言葉です。その言葉を、今、夢に出てくるまで主を知らなかったはずの異邦人が語っている。これもまた不思議なことです。
ここに「やましい考えも不正な手段でもなく」と記されています。この「やましくない」とは、信仰を生きる人間にとって極めて大事なことであるのは言うまでもありません。旧約聖書の中に『ヨブ記』という、これまたとてつもなく深くて面白い話がありますけれど、その物語の書き出しはこういうものです。
「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」
この「無垢」という言葉が、「やましくない」ですし、「不正な手段でなく」の方は、「潔白」と訳されたりする言葉です。これは、旧約聖書における信仰の義人について使われる言葉なのです。そして、今日の箇所にも「神への畏れ」が大事な言葉として出てきますが、ヨブも神を畏れる義人でした。そういう大事な言葉が、異邦人の王に対して使われている。
異邦人を愛する神様
神様はその異邦人であるアビメレクに即座に「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている」と仰いました。そして、続けて、「だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ」と、仰った。意図しないことであっても、人妻と関係を持つことは、姦淫の罪となり、それは何よりも神様に対する罪だからです。イスラエルの王であるダビデは、バテシバが人妻であることを知りながら、そして、それが神様に対する罪であることを知りながら、その罪を犯しました。そして、その罪が、その後の彼の人生に深く、大きな傷となって付きまとっていくことになります。けれども、彼は王であり続けましたし、王として用いられ続けたのです。それと似たようなことがアブラハムにも起こります。
ここで神様は、異邦人の王であるアビメレクを愛して、彼にその恐るべき罪を犯させないようにしたと記されているのです。直訳すると、「だから、わたしもお前がわたしに対して罪を犯すことを惜しんだ」となるからです。神様の愛は、イスラエルにだけ向けられているのではないし、キリスト教徒にだけ向けられているのでもないし、日本人だけ、アメリカ人にだけ向けられているのではないのです。すべての被造物に向けられている。この物語は、ユダヤ人の偏狭な民族意識、選民思想に対して痛烈な批判をしている物語でもあるのです。
預言者アブラハム?
そのことをよく踏まえた上で、さらに先に進んでいくと、この物語はユダヤ人の民族意識に対する単なる批判ではなく、その批判を越えて、アブラハム(それはそのままその子孫イスラエル、またユダヤ人に関り、さらにアブラハムの信仰の子孫である私たちキリスト者)のあり方に関する深い洞察に導いてくれるものであることが、分かります。
「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
ここでの「預言者」とは、イザヤとかエレミヤのような預言者のことではなく、神様に選び立てられた人という意味です。
しかし、皆さんは、どう思われるでしょうか?ここに出てくるアブラハム、それはひ弱な嘘つき男です。でも、そのアブラハムのことを神様は、「預言者だ」と言う。そして、「あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう」と。私も時々、きつい皮肉を言ったり言われたりします。「随分立派な牧師さんだこと」なんて言われると、「あなたも随分立派な信者だこと」と言い返したくなったり、「代わりに牧師をやって頂けると嬉しいのだけれど」と言いたくなったり、言ったりするのですが、神様は、ここでそういうつまらない皮肉を仰っているのか?多分、そうではありません。
次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。
ここでアビメレクの家来が、「非常に恐れた」という場合の「恐れる」は恐怖の「恐」の字が使われています。でも、ヘブライ語では「神を畏れる」と同じ言葉です。ですから、アビメレクもその家来も、得体の知れない恐怖に陥ったのではなく、神様の裁きを畏れた、神を畏れたのです。
そして、このように神を畏れるアビメレクが、今度は裁判官として、神様の代弁者であるかのようにアブラハムを呼び出すのです。つまり、本来は異邦人に対して神様の代弁者であるべきアブラハムが被告人として呼び出されているのです。
「あなたは我々に何ということをしたのか。」
「あなたは、なんということをしたのか。」この言葉は痛切な響きを持った言葉です。私にとっては、最も深く心を抉る言葉の一つです。これは禁断の木の実を食べたエバに向かって、また弟アベルを殺したカインに向かって、神様が言った言葉です。神様ご自身が、その心を引き裂かれるような思いで、腹の底から絞り出すようにして呻いた言葉、それが、「あなたは、なんということをしたのか」なのです。そして、今、その言葉を、イスラエルの先祖、信仰の父と言われるアブラハムが、異邦人の王から言われている。何たる皮肉。そして、何たる真実かと思います。こういう文書を残すイスラエル、いや残させる神様の真実の愛を思わざるを得ません。
「わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」
全世界の民を祝福する基となるべきアブラハムが、異邦人に罪を犯させる原因を作っている。それはまさに「してはならぬこと」です。しかし、そういう「してはならないこと」を、私たちキリスト者もしてしまいながら生きているのではないでしょうか。
何とか危機を乗り切ったとホッとしていたであろうアブラハムは、このアビメレクからの詰問を受けてうな垂れたまま沈黙したのでしょう。アビメレクは畳み掛けるように、こう尋ねます。
「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」
原文を見てみると、「一体何を見て、こんなことをしたのか」という感じです。アブラハムは答えます。
「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」
彼の目には、「この土地には神を畏れることが全くない」と見えたのです。しかし、実際は、そんなことはなかった。アビメレクは神を畏れたし、その部下達も皆、神を畏れたのです。そして、実はアブラハムこそが、この土地の人間を恐れていたのです。彼は、自分が殺されることを恐れています。自分の旅は神様に召し出された旅だと言うなら、どんな時も神様が守ってくださると確信して歩めばよいのです。なのに、彼はびくびく恐れている。そして、コソコソと生き延びようとしているのです。神を畏れることが全くないのは、実は信仰の人、諸国民の祝福の源であるべきアブラハムなのです。そして、異邦人の王とその部下たちこそ神を畏れる人々であるという皮肉な現実が、ここには余す所なく描き切られています。
それでもやっぱりアブラハムはアブラハム
しかし、その後の展開がこれまた不思議なのです。アビメレクは悪いことなどしていないのに、エジプトの王と同じように、アブラハムに多大な賠償を与えて、さらに居住権まで与えますし、銀一千シェケルを与えて、そのことでサラの名誉を回復すると言います。これは破格の待遇です。
そして、さらに不思議なのは、最後の文章です。
「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。 主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。」
ここまで読んで、皆さんも心のどこかで「あれ?」とお思いになるかと思います。20章の出来事は足掛け2日の出来事のはずです。前の日にアビメレクがサラを召し入れ、その晩に夢の中で、神様に語りかけられ、その翌日にはアブラハムを呼び出して詰問したのですから。それなのに、ここにはアビメレクの妻とか侍女たちが、サラの出来事のゆえに、ずっと妊娠できないままだったということが前提とされています。何故こうなるかについての伝承史的な説明は省きます。要するに、この話は、歴史的な事実を記すことに関心があるのではなく、アブラハムとはどういう人間、どういう存在であるかを説明することに関心があるのです。
今日の箇所に登場するアブラハム、それは見るも無残なアブラハム、出来れば見たくなかったアブラハムです。実は、聖書に登場する大人物には必ずそういう面があります。先ほどのダビデはその代表ですが、その子ソロモンもそうです。モーセだってエリヤだって、ペトロだって、皆、顔を上げ得ないような失敗や挫折や、恥辱がある。出来れば隠しておきたい部分があります。けれどそれは神様の前では露なことです。しかし、そこで露にされるのは、人間の失敗、挫折、恥辱だけでなく、ご自身に対する人間の罪を目の当たりにし、心張り裂ける思いのなかで、「なんということをしたのか」と呻きながら、尚も、その人間を赦し、新たに用いようとしてくださる神様の愛、その真実な愛です。その変わることのない選びと召しの確かさです。罪の増し加わるところに、恵みも増し加わるという事実、その恵みの事実も露になってくるのではないでしょうか。
アブラハムは、異邦人の王を通して、自分の弱さ、その欺瞞を露にされ、心底恥じたでしょう。彼は、本来なら即刻のこの地から追放されて然るべきです。そうでなくたって、彼自身が、もう逃げ出したいほど恥ずかしい思いをしているはずです。けれど、彼は逃げることは許されません。彼は、ここでしなければならないことがあるのです。神に選ばれた者、預言者としてしなければならないことがあるのです。それは、アビメレクのため、また彼の宮廷に住む人々のために祝福を祈るということです。そのようにして、アビメレクの命を救わなければならないのです。ここで被告人、罪人なのはアブラハムなのに、それなのに、そのアブラハムは今も預言者であり、彼よりもはるかに立派なアビメレクのために祈り、その祈りによって彼の宮廷に新たな命が生まれる祝福をもたらす。これがアブラハムなのです。不思議なアブラハムなのです。
敬虔なクリスチャン、敬愛すべき牧師?
よく世間では「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、私が牧師として着任させていただいてから、祈りの中で言わないようにして頂いていますが、「敬愛する牧師先生」という言葉も、教会の中ではよく使われています。この両方の言葉の中に、ある種の真実がある場合もあるとは思います。しかし、安易に使われると危険な言葉ですし、ある種の皮肉が混じっている場合もあります。そして、そういう言葉を言ったり、聞いたりすることで偽善や欺瞞が深まる場合もあります。私は、キリスト者の誰もが敬虔な信仰を持っているわけではないことを知っていますし、牧師の誰もが敬愛すべき人格者でないことを知っています。皆さんだってよく知っているはずです。キリスト者の多くは叩けば埃が沢山出てきますし、牧師という職務についているキリスト者だってそれは同じことです。もちろん、敬虔な信仰をもって生きていたほうが良いに決まっているし、牧師は敬愛される人格者であったほうが良い場合もありますけれど、先週の説教の中で使った言葉で言えば、もし敬虔な信仰者でもないし、敬愛すべき牧師でなかったとしても、「それがどうした」と思うのです。敬虔な信仰者でなくたって、キリストが私のために死んで下さったこと、甦ってくださったことを信じているのなら、人格的に色々と問題があったとしても、その人はキリスト者なのです。キリストが、「あなたは私の者だ」と言ってくださるのです。私たちは人格によって救われるのではなく、神の恵みによって、そして信仰によって救われるのです。また、敬愛すべき牧師でなくても、キリストの福音を正しく語っているのなら、それは説教ですから、神からの言葉として聞くことが必要です。人格的に尊敬できないという理由だけで、「牧師ではない」とは言えません。私たちキリスト者にとっての問題は、人格とか性格とか能力ではありません。問題は、神の愛と赦しを信じて祈ることが出来る人間かどうかなのです。
祈るキリスト者
アブラハムは、神の代弁者としてのアビメレクの詰問と、その後の破格の処遇を通して、神様の厳しい裁きと赦しを新たに与えられました。そして、深い悔い改めと感謝をもってソドムのために祈ったように、今再び、アビメレクとその地の人々のために祈る者とされました。私たちもまた、今日の礼拝を通して、この一週間の罪を悔い改め、新たに祈る者とされたいと思います。
前の任地で、教会員のお孫さんが、生まれながらに非常に重い心臓病に罹っていました。その子のご両親、特にお父さんの方は、信仰の世界には全く無縁の方でした。でも、ある晩、ひょっとしたらもうその子の命はもたないのかもしれないという時に、私もお見舞いに行かせて頂いたのですが、そのお父さんが、切実な顔で「先生、私はどう祈ったらよいか分からないので、祈ってください」と仰いました。私だって、どう祈ったらよいかなんて分かりません。けれど、そういう時、私たちクリスチャンは、祈るためにそこにいるのです。人格が優れているから、特別な力を持っていてそこで何かを出来るから、そこにいるのではありません。こういう所でも、神様はおられる。何かをしておられる、愛して下さっている。そのことを信じて、癒しを求めて祈る、慰めを祈る、ただそのことのためにいるのです。皆さんも、「あなたクリスチャンでしょ。祈ってよ」と言われることがあると思います。その時、私なんてとてもそんな資格はないとか、あなたの方が立派な方なのに・・と妙な遠慮をすることは罪を深めるだけです。
私たちは誰だって脛に傷持っているし、叩けば埃も出る。でも、そういう私たちを、神様は今日も赦し、愛し、新たにして、この世へと派遣してくださるのです。神様の祝福があるように祈り求めるためです。
今日は、この礼拝の後、幼児祝福式を行います。私は皆さんを代表して、幼子達に神様の祝福を祈ります。人生の先輩として、敬愛すべき教師として祈るのではありません。一人の牧師として祝福を祈るのです。ただそのことのために召された者として、祈るのです。皆さんの祈りを受け止めつつ祈るのです。
来週は、朝は徳善先生、夕は李先生をお迎えしての特別伝道礼拝です。伝道は、伝道者とか伝道委員会がやるものではありません。何よりも神様ご自身が伝道されます。そして、私たちを用いてくださいます。私たちは、アブラハム同様に、この世を恐れながら生きてしまうことしばしばの弱い人間ですけれど、こんな私たちの祈りをも神様は必ず聞いてくださいます。心に掛かる人を礼拝にお誘いし、また礼拝に来られた方を心から歓迎し、神様の伝道の御業に与る者となりましょう。祈ります。
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