「約束されたとおり」

及川 信

創世記21章1節〜8節

 

主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、8日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。



 生命は外からやって来る?

 先日の新聞に「地球生命の源 隕石から?」という小さな記事が出ていました。地球上に命がどのようにして誕生したかについては仮説がいくつかありますけれど、どの仮設も証明されているわけではありません。また、地球以外にも生命体が存在するのかも分からないわけですが、その記事によりますと、6年前の2000年にカナダ北西部の氷原に落ちた隕石に、現在の地球上には存在しない有機物が含まれていたそうです。そして、その有機物は、46億年前に生まれつつあった太陽系の最も外側、零下260℃前後の環境の中で形成されたものであると結論付けられた。この事実が、地球上に生命が誕生した際の材料となった有機物は隕石がもたらしたという仮説を裏付けているのかもしれないと、その記事には書かれていました。
 私は、今週はずっと百歳のアブラハムと九十歳のサラという老夫婦に子どもが生まれた、つまりサラの体に新しい命が宿ったことを告げる聖書の記事を読みながら思いあぐねていましたから、この新聞記事はとても興味深く読みました。
命の素(もと)が地球の外からやって来たとするなら、それまでの地球には生命がなかったということであり、生命を生み出す力が自らの内にはないということでもある。生命の輝きがない。ただ死の闇だけが覆っている。そういう地球に命の素(もと)がやって来る。そして、長い時間をかけて生命体が誕生して、様々な生物となっていく。それが、科学的な事実だとすると、聖書が象徴的言語で語る天地創造物語にしろ、「初めに言があった、言は命、光であった」というヨハネ福音書の冒頭の言葉にしろ、また今日のイサク誕生物語や、洗礼者ヨハネやイエス・キリストの誕生物語などは、科学的な「事実」とかなり共通する「真実」があるなと思いました。

命の光 祝福

「創世記」の語り出しは、こういうものです。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。

 そして、生命の創造に関しては、こういう言葉が記されています。

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。

聖書によれば、すべては神様の言葉、語りかけによって創造されたのです。もちろん、神様は地球の外の存在です。天地をお造りになった方ですから当然です。その神様が地球(もちろん、この時代に地「球」という概念はありませんが)を造り、そこに「命の光」を造り(いわゆる「太陽の光」の創造は14節以降ですから)、そして、地球に語りかけて植物を生やさせ、さらに空、海、地に生きる生物を造り出し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福をされたのです。最後に、ご自身の像に象って人間を創造し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福と共に「地を従わせ」「生物を支配せよ」と、ご自身が造られた地球の管理を任せられたのです。これはすべて、地球の中に命の素があったわけではなく、命は地球の外から、神からやってきたという信仰に基づいた言葉です。そして、実は、この「信仰」自体も、人間に元から内在しているのではなく、神から啓示されたものです。私たち人間が考えに考えて作り出したものではなく、外からやって来た「神の言」と同じく、神の言を信じる「信仰」もまた神の賜物として、私たちに与えられたものなのです。命も神のものだし、その命を正しく生きるための信仰もまた神様のものです。私たちは信仰を与えられて初めて、神に象られた人として、その命を輝かせて生きることが出来るのです。

罪 呪い 不妊

けれども、創世記が告げていることは、人間は、神の言、その語りかけに従わないで、自らの内なる声に従うことを通して、自らの命の光を失い、死の闇の中に沈み、祝福ではなく呪いを身に帯びた存在になってしまったということです。楽園追放物語、弟を殺したカインとその末裔の物語、ノアの洪水物語、バベルの塔物語には、神様の度重なる愛と赦しにもかかわらず、その都度、罪を犯し、呪いの中に落ちていく人間の姿が描かれています。その行き着く先、それが「不妊」です。現代の日本では、大企業の収益という意味では好景気だそうですけれど、一般庶民の生活の方は厳しくなる一方で、少子高齢化に伴って人口減少が進んでいると言われています。こうなりますと未来の社会はさらに厳しいものになるほかありませんけれど、アブラハムとサラの間には子どもがいないのです。そして、彼らはアダムとエバに継ぐ人類の代表ですけれど、彼らには未来が厳しいどころか、未来がないのです。11章30節に、こう記されています。

「サライは不妊の女で、子供ができなかった。」

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福から始まった物語、あるいは人間の歴史は、罪によって死と呪いの物語あるいは歴史となり、ここで終わろうとしている。「子供ができない」ということは、この家系はここで断絶して終わることを意味します。このアブラハムの妻サラの「不妊」という事実が、罪に堕ちた人類の歴史の終焉もしくわ破滅の象徴となっているのです。今日の箇所、創世記21章の事実上の出発点がこの11章30節であることは、明らかなことです。

神の言 信仰 出発

それからの物語を、今振り返る時間はありません。大事なことは、新しい出発、未来に向かっての第一歩は、天地創造の時と同じく神様の言葉、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、・・あなたを祝福する人をわたしは祝福し、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」というアブラハムへの語りかけから始まったということです。神様がアブラハムに語りかけた。そして、「アブラ(ハ)ムは、主の言葉に従って旅立った。」ここに、新しい歴史の出発があるのです。祝福された未来が切り開かれていく出発がある。神様は、ご自身の言葉に従ってカナンの地にまでやってきたアブラハムに向かって、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束をされました。つまり、子孫を与える約束と、その子孫にこの土地を支配させる約束をお与えになったのです。これ以後のアブラハムの人生は、この約束を信じるか否かが基軸となって織り成されていくことになります。
 その彼の人生は、まさに危機の連続です。旱魃による飢饉があり、惨めな難民経験があり、身内の紛争があり、戦争があり、一介の無力な旅人として地上を生きる人間の悲哀に満ちているのです。神様に選ばれた信仰者であっても、この世の様々な苦難は経験するわけで、信仰者は病気も貧乏も経験しないなんてことは、聖書の中ではあり得ないことです。けれども、彼ら夫妻が味わわねばならなかった最も深刻な経験は、神様の約束にもかかわらず子供が生まれないという現実です。神様の約束が実現しないという現実です。この現実を前にして、アブラハムとサラの基軸となるべき信仰は激しく揺らぎます。つまり、彼に与えられている祝福の基礎となるべき信仰が揺らぐのです。

アブラハムとサラの笑い

 彼らは、ある時、サラの女奴隷との間に子供を作るという手段に訴えました。つまり、神様の約束を信じ、神様からの賜物としての命を受け取るのではなく、あのアダムとエバがそうであったように、命を自分で作るという生き方に戻ってしまったこともあるのです。神様は彼らのその背信行為を嘆きをもって見つめつつ、彼らを旅立たせてから25年が経った時、アブラハムに現われてこう語りかけられました。

「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」

アブラハムはひれ伏した。

しかし、その続きはこういうものです。

しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

 つまり、アブラハムは神様を嘲笑ったのです。男性としての生殖能力という意味では完全に枯渇している自分と妻で、女性としての妊娠能力などとっくになくなっているサラの体に新しい命が宿り、子供が生まれるなどと仰る神様を腹の中で笑ったのです。それは当然です。その「笑い」を受けて、神様は、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と命じられました。この約束と命令の言葉が、今日の箇所の背景の一つであることは言うまでもありません。
 もう一つの背景は18章です。そこでは神様の使いがアブラハムの天幕を訪ねてきて、彼に向かって「来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と語りかけました。しかし、その言葉を天幕の陰で聞いていたサラが、「ひそかに笑った」のです。「サラは月のものがとうになくなっていた」し、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのにと思った」からです。つまり、もう性的な夫婦関係を持ち得ないし、持ち得たとして生理もとっくのとうに終わっているのだから、妊娠などし得ないことを知っていたので、神の使いの言葉を聞いて、陰でひそかに笑ったのです。しかし、主は、誰にも見られず聞かれるはずのないサラの笑いと、彼女の心の中にある思いを見抜き、「なぜ、サラは笑ったのか。・・主に不可能なことがあろうか」と詰問をされました。 このアブラハムの笑いとサラの笑いが、今日の箇所の背景にあることは明らかなことです。彼らの「笑い」、それは明らかに神様を嘲笑う笑いだし、子供がいない自分たちの境遇を自嘲気味に笑うというニュアンスもこもっていただろうと思います。いずれにしろ、神様はその約束を果たすことがお出来にならないのだという判断があり、神様を蔑むような気持ちがあったことは間違いありません。そして、自分たちの将来に関しては、自分たちで作った子供であるイシュマエルが跡を継ぐのだから、もうお構いなく・・という気持ちがある。つまり、命の源は自分たちの肉体の中にあり、それがなくなった今、新しい命の誕生などはあり得ないと確信している。自然の力が絶対であると信じているのです。「アブラ(ハ)ムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれたアブラハムの、またサラのなれの果ての姿がここにあります。彼らは、再び、罪による呪いの行き着く先、つまり不妊の象徴となっています。肉体は生きているけれども、神様が与えて下さる命の光りを失っているのです。それが、信仰の人、アブラハムとその妻サラのこの時の現実なのです。
 しかし、真に有難いことだと言う他にないのですが、ご自身にとって不可能なことがない主は、全能の主なる神であると同時に愛なる神様で、この不信仰に堕ちている老夫婦をお見捨てにならないのです。これは、私自身も身に沁みて感じていることです。幾度も幾度も不信仰に堕ちてしまい、御心に背いてしまうこの私を、主は今尚お見捨てにならない。それはまさにえこ贔屓だし、不公平な愛だと思うけれど、でもそのお陰で、アブラハムもサラも、私も、そして皆さんも、今日もこうして神様を礼拝することが許されているのです。これは本当に有難いことです。
 
 主の約束 信仰の喜び 笑い

ここで漸く、今日の箇所に入ることが出来ます。

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」

 ここには「約束されたとおり」「語られたとおり」「約束されていた時期」と繰り返されています。このことで、何が言われているかと言えば、それは「神様がお語りになったことは、必ず実現する」ということです。
 私のような者が言うのは多少気が引けるのですが、人生において最も楽しい時、嬉しい時、それは信仰を生きている時だと思います。心の底から信じる対象があり、その対象を心の底から信じることが出来るということこそ、人間にとって喜ばしいこと、楽しいことはないと思うのです。
 先日、一人の女性がインタヴューを受けているテレビ番組を途中まで観ました。その方は、競馬の騎手と結婚して二〇年間生活を共にした上で離婚をされました。しかし、お互いに相手の人格が嫌いになったわけではないので、離婚してから、むしろ人間的には深い愛情をもって付き合いが続いていたそうです。でも、その元夫は九月に、癌で亡くなってしまった。その男性のことを話す時、彼女は目に涙を浮かべていましたが、彼女は、こんな風に言っていました。
「あの人は、たとえば、私が地震か何かで家の下敷きになってしまったとしても、絶対に見つけ出すまで探してくれる。私を見捨てるはずがない。そう信じることが出来る人だった。だから、夫として一緒に生活していると不平不満だらけになってしまうけれど、そういう人が生きていてくれさえすればよかった。その人が生きているというだけで安心できた。」
こういう人を愛しており、このように人を信じることが出来る。彼女は、結婚し、離婚したこの男性をこのように信じることが出来たことによって幸せに生きて来られたのです。これは本当に素晴らしいことだと思いました。
 そして、私はその番組を一緒に暮らしている人と一緒に見ていたのですが、「自分はこの人からこんな風には信じられ手はいないだろうな」と感じましたし、「でもまだ離婚はされていないし・・」とか、色々と考えましたけれど、そんなことよりも、神様を信じることが出来る時の喜びを感じたのです。神様は、こんな私を見捨てない。神様は試練に押し潰され、誘惑に負け、谷底まで転げ落ちてしまう私を追い求め、見つけ出し、救いに至る道に歩むように何度も何度も罪を赦して、導いてくださる。そして、最初の約束、「あなたは私のものだ。私はあなたを愛している」と言って下さった約束を守ってくださる。私自身も、「わたしはあなたの者です。あなた従います」と約束したのに、何度もその約束に反することをしてきている。それなのに、神様は、今も、今日も私を顧み、その言葉を与えてくださっている。神様は、真実なお方で、その救いの約束を必ず果たしてくださるということを、私は私として、その破綻の多い人生経験の中で痛感しますし、この神様を信じることが出来る時に溢れてくる喜びは、他の何ものとも比較にならないものです。このこともまた、皆様においても同じことだと思います。
そして、この神様を信じることが出来る時、私たちの心に溢れる喜びは、笑いとなって現われてくるのではないでしょうか。サラの「神はわたしに笑いをお与えになった」とは、その笑いだと思います。

神の訪れ

「主は、約束されたとおりサラを顧み」とあります。これはまさに「顧みる」、「注意を向ける」という意味ですが、(ヘブライ語ではパーカド)しばしば「訪れる」とも訳される言葉なのです。神様が、遠くからやってきて、サラのお腹に命を宿すために訪れてくださった。命の素を含んだ隕石が想像を絶するような遠い所から地球にやってくるように、神様が、命の素をもって、サラの所を訪れてくださった。そして、もう九十歳で、生理もなくなっているその体の中に、ご自身が約束された子供の命を宿らせてくださった。そして、そのことを通して、サラとアブラハムの枯れ果てた信仰を再び生き返らせてくださった。神様の言葉は必ず実現することを信じるという最大の喜びを回復して下さったのです。彼らの命は、このようにして再創造されている。ここに記されている出来事はそういうことではないか、と思います。
ここには、不信仰に堕ちていたアブラハムとサラに対する裁きがあります。彼らはサラの妊娠を知った時に、まさに自分たちの不信仰を恥じたでしょう。恥じるべきです。しかし、その裁きは赦しの中で与えられています。神様は、神様を嘲笑うアブラハムとサラに対して、もちろん深い怒りを感じられたでしょうし、嘆きをもたれたでしょう。けれども、もっと深く憐れまれたし、また期待もされたのです。そして、彼らが約束を守らず、約束を信じていないのに、神様のほうは、「約束されたとおり」「語られたとおり」「約束されていた時期」にサラのために行われ、サラは「年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」のです。そして、そのことを通して、アブラハムもサラも、新しい命に造り替えられていったのです。命の光を宿す者とされていった。祝福の源とされていったのです。

待降節 主の到来(訪れ)

私たちは、今日からアドヴェント、待降節を生きます。主イエスのご降誕を待ち望む季節を過ごすのです。そのクリスマスに洗礼を受け、新しく生まれ変わることを志願し、ずっと準備してこられた方の試問会が午後にあります。大人も子供も一緒に捧げるキャンドルライト・サービスの備えもずっと継続しており、来週の礼拝後は、参加される皆様と共に賛美練習を致します。
このアドヴェントの季節は、日一日と陽が沈むのが早くなり、夜の暗闇が長くなっていく季節です。だからこそ、光の到来、光の訪れを待ち望む季節なのです。
世の闇は深まっています。不正は至る所でまかり通り、政治の世界においては打算と妥協が繰り返され、議論が国民に浸透しないままにいわゆる重要法案が可決されています。社会全体が国家主義的な色合いを強めており、弱肉強食は当然という雰囲気で覆われています。その社会の中で未来への希望を失い、自ら死の闇の中に落ちていく子供や大人が後を絶ちません。そして、新しく子供を産もうとする夫婦は少なく、産んでも愛情をもって育てられない夫婦が増えており、児童相談所も定員をオーバーし、刑務所もまた定員をオーバーしている。そういう現実の中で、私たちは望みを失い、そして、喜びを失い、顔からは笑いがなくなっています。家庭の中にも、一家団欒がなくなっています。笑いのある家庭が少なくなっているのです。

神の家族の祝い

  しかし、そういう世にあって、私たちは神の家族として生きています。その私たちにとって、クリスマス、イースター、そしてペンテコステは祝祭の日です。この祝祭はすべて新しい命の誕生の祝いです。歴史的には一番古くから祝われたイースターは、イエス様が死人の中から新しい命に甦られたことを賛美し、祝うお祭りです。神様はイエス様の十字架の死と復活を通して、死の闇で覆われ、すべてが混沌として、夢も希望もないこの世界の中に、決して消えることのない命の光を灯して下さいました。私たちが、このイエス・キリストの十字架の死と復活を、自分の罪の赦しと新しい命の創造のためであることを信じることが出来る時、私たちの中に、新しい命が宿る、その光が宿るのです。ペンテコステは、聖霊によって弟子たちが真の信仰を与えられ、新しい命に造り替えられ、イエス・キリストを神として礼拝し、宣べ伝える教会が生まれた誕生日です。そして、クリスマスは、世の初めより既に神と共にあった命の光であるキリストが、私たちの罪を取り除き、永遠の命に生かすために、肉体をもってお生まれになった誕生の祝いです。新しい命が生まれるということは、その家にとって最大の喜びです。神様の家である教会にとって、クリスマス、イースター、ペンテコステは、この世がある限り、繰り返し祝われる誕生の祝いです。その時、私たちは喜びに満たされ、顔は喜びの笑顔にされるのです。そして、その祝いにおいては、必ず聖餐の食卓を囲み、イースターとクリスマスには礼拝後に感謝の会食を致します。闇の中に輝く光としての命を分かち合うのです。それが神様の家族の営みだからです。

クリスマスの「訪れ」

今日の箇所を読んでいて、ルカによる福音書におけるクリスマス物語を思い出した人もおられると思います。ルカ福音書の冒頭に、ザカリアとエリサベツという老夫婦が登場しますが、ある時、神に仕える祭司であるザカリアに神の使いが訪れて「あなたの妻、エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子は、あなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」と告げます。このヨハネは、救い主の先駆者として「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる」使命をもって生まれるのです。しかし、ザカリアは「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言って、御使いの言うことを信じない。アブラハムと同じです。その時、はるばるザカリアの所を訪れてきた御使いは、こう言うのです。

「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった。」
これが神に仕える祭司の一つの現実です。この時、彼の心の中には信仰がなく、そしてそれ故に「喜び」もないのです。アブラハムもそうでした。
 けれども、神様はアブラハム同様このザカリアを見捨てず、彼の妻エリサベトは身ごもりました。そして、10ヶ月を経てその子が生まれた時、それまで口を利くことが出来なかったザカリアが、御使いに言われたとおり、「この子の名はヨハネ」と板に書き記した途端、彼の口が開き、彼の舌がほどけて、神を賛美し始めたのです。もちろん、顔は喜びに満たされ、その顔は笑っていたでしょう。
 ルカによる福音書1章67節以下を、少し飛ばしながら読みます。ここに、神がサラを「顧みた」、「訪れた」と同じ言葉が使われていますし、主が「語られたとおり」という言葉も出てきます。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。・・・
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。・・・
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」


 神様が、その民を訪れてくださる。神様の憐れみによって、私たちの罪を赦すという救いの光が、私たちを訪れてくださる。それはアブラハムに立てられた約束、「あなたの子孫にこの土地を与える」という誓いの実現なのです。キリストは、全世界の王として、全世界の民に罪の赦しという福音、祝福をもたらすために人間の肉体を通して生まれてくださったのです。ここに神様の顧み、神様の訪れがある。神様が預言者を通してお語りになった約束の実現があるのです。私たちは、この約束を信じることが出来るから、最高に嬉しいのです。

神様の約束は必ず実現する

  神様の約束は、どんなことがあっても必ず実現する。必ず世界は救いにおいて完成する。46億年かかったとしても、明日としても、神様は必ず御子を王とする神の国を天地に完成させる。私たちは、そのことを信じるから罪の赦しに与り、義とされ、その救いの完成に向かって歩むことが出来ます。こんなに喜ばしいことはありません。
この世は、暗黒と死の陰に覆われています。そして、ザカリアが言う如く、「暗黒と死の陰に座している者たち」が沢山います。私たちも、その一人でした。だけれども、神のもとから訪ねて下さった命の光である主イエスを信じ、受け入れた時、私たちはいかなる暗黒にも飲み込まれず、死の力をも打ち破って、永遠の命に生かされていく者とされたのです。
この喜びを一人でも多くの人に伝える。これが私たちの使命です。こんな人間に、このような素晴らしい使命を与えて下さること自体、なんと言って感謝したらよいか分からないのではないでしょうか。「伝道」と言っても、特別なことをする必要はありませんし、時には特別なことなどしないほうがよいのです。神様を信じて生活する。神様の約束、その救いの約束はどんなことがあっても実現すると心から信じて生活をする。そうすれば、それは自ずと喜びをもった生活になります。深い意味で笑いながら生きることが出来ます。そのためには、礼拝において御霊の注ぎを受けつつ御言を聞き、また聖餐の食卓を囲み、神様が、そして御子イエス・キリストが私たちの救いのために何をして下さったかを、いつも新たに確信することが必要です。そして、礼拝において新たに与えられた信仰は神様に祝福され、私たちは新たな力を与えられてこの闇の世へと派遣されるのです。その時、私たちは世の光だし、地の塩です。あとは神様がやって下さいます。私たちが誰かと会っている時、私たちが信仰をもって生きていれば、「神様、イエス様」と言わなくたって、神様の愛がそこには働いてくださるのです。神様が私たちを「使い」として、その人を訪ねて下さるのです。私たちを通して神様が、その人に語りかけて下さるのです。私たちの多くも、神様に派遣されたキリスト者に出会って、その人を見ているうちに、その人に慰められたり、励まされたりしているうちに、またその人の苦難や悲しみを知り、それでも希望をもって生きている姿に触れるうちに、自分もキリスト者になりたくなって、礼拝に来たということもあるのではないでしょうか。 私たちは今日も、御子が私たちの救いのために生まれてくださった、十字架にかかって死んで下さった、復活して下さったという、よいニュース、グッドニュースを聞いて、心が喜びで満たされています。悪いニュース、心が塞がれるような悪いニュースが満ち満ちている世の中に、このよいニュース、福音を聞いた者として派遣されたいと願います。そのために、神様に祝福を祈り求めましょう。
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