やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。
ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。
神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。
「笑い」は長くは続かない
二ヶ月が空いてしまいましたが、今日は創世記のアブラハム物語を読みます。前回、十二月の第一週の説教題は、「約束されたとおり」でした。主なる神様が、アブラハムとサラに約束されて二十五間という年月を経て、漸く百歳のアブラハムと九十歳のサラの老夫婦の間に男の子が生まれたのでした。神様の約束は、人間がすべての望みを失ったその時に、全く思いもかけない形で実現するということを、私たちはそこで示されました。そして、実は、その主題は、前回とは全く対照的な今日の箇所においても同じなのです。
前回のイサク誕生の場面に満ち溢れていたのは「笑い」です。イサクという名前そのものが「彼は笑う」という意味ですが、待望の子どもが誕生した時の喜びの笑いがそこにはありました。そして、八節に記されているイサクの乳離れを祝う盛大な祝宴においても、その笑いは満ち溢れていたはずです。
しかし、次の瞬間、場面は一転します。
サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
今日の箇所には、見る、聞く、言う(語る)という私たち人間の日常生活における何気ない動作を表す言葉が何度も出てきます。しかし、肉眼で見ている現実の中に、何を読み取るか、またその現実にどう反応するかは人によってそれぞれです。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムにその二人を追い出すように訴え(原文では「言った」)ました。サラの言葉の中には、自分の子どもイサク以外の固有名詞はありません。「あの女」「あの子」「あの女の息子」と彼女は呼びます。これは「あの女中」「女中の子」とも訳される言葉です。そして、彼女の目には、その女中の子が、自分の息子イサクをからかっているように見えたのです。でも、この「からかう」と訳された言葉、これにはイサク(ヘブライ語ではイッツァーク)との語呂合わせがあってメッツァークという言葉です。そして、この言葉は、後に、イサクがその妻リベカと「戯れる」という箇所で使われています。つまり、愛し合っている者同士がじゃれあう、そういう感じの言葉です。そこには、共にいることが嬉しくて仕方ない者同士の笑いがあるのです。それと同じ笑いが、エジプトの女ハガルアブラハムの間に生まれた子と、サラの独り息子イサクとの間にあったのです。そして、ハガルの息子、今日の箇所ではその名前が隠れた形でしか出てこないイシュマエル(「神が聞いてくださる」という意味)の方が、イサクよりも年長ですから、じゃれあうように笑いながら遊んでいたとしても、イサクよりも優位に立っているわけで、その様を見たサラは、そこに「からかい」あるいは「嘲り」を感じたのでしょう。全くの他人が見たら、仲の良い兄弟同士の戯れに見える微笑ましい光景が、サラの目には、恐るべき光景、二度と見たくない光景に見えたのです。
そもそもの事の始まりは?
ハガルは、そもそもサラの女奴隷、女中でした。しかし、神様の約束にもかかわらず、一向に子どもが生まれないサラは、当時の一つの習わしとして、自分の女奴隷を夫に与え、そこに生まれた子を養子とするという手段を講じたのです。今で言う「代理母」のような制度です。ちょうど今、ある大臣が女性のことを「子どもを生む機械」に例えてしまって大問題になっていますが、「機械」というのは幾らなんでも酷すぎますけれど、「女は子どもを生んで一人前」という言葉は、子どもを産んだことのある女性の多くも思っていることであり、またしばしば口にすることでもあります。現代の、特にいわゆる先進国ではそういう意識は希薄になってきていますけれど、アブラハムの時代は、夫婦の間に子供が生まれるか否かは、その家の存亡が掛かった大事な問題でした。
ハガルは、アブラハムの子をその身に宿した時に、かつて自分の女主人であったサラを見下し始めたのです。子どもを産めない、役立たずの女として見下した。その眼差しは、サラにとっては耐え難い屈辱であり、悲しみであったことは、言うまでもありません。
彼女は凄まじい仕打ちを始めます。ハガルはその仕打ちに耐えかねて逃亡するのです。しかし、身重の女が行き先もない逃亡をしたところで生きる術があるはずもないのです。そういう絶望的状況の中にいるハガルと神様は出会って、サラとアブラハムの許に帰るように促すと同時に、生まれる子は、神様が(その嘆きを)聞くという意味のイシュマエルとするように言われたのです。この神様との出会いを通して、ハガルは再びアブラハムとサラの許に帰りました。そして、その後、神様の約束どおり男の子が生まれ、アブラハムはその子にイシュマエルと名づけたのです。それは、法的にはアブラハムとサラの子であり、この家の跡継ぎとなるべき子でした。そして、イシュマエルが乳飲み子の間はハガルの乳を飲ませていたでしょうが、サラが自分の子として育ててきたのです。だからこそ、一七章で、神様がアブラハムに向かって、お前の妻、サラに男の子を与えようと仰った時に、彼は「いえいえ、もう結構です。どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように」と願ったのです。アブラハムとサラは、もう既に、彼を自分たちの跡継ぎにすることを決めていたのです。けれども神様は、あくまでも、アブラハムとサラの間に男の子を与える約束をし、その名をイサク(笑い)と名付けるように命じます。そして、イシュマエルに関しては、彼を祝福し、十二人の首長の父とならせ、大いなる国民とするという約束をしてくださるのです。
人間の不真実 神の真実
こういう背景を考えてみると、今日の箇所の状況説明もサラ自身の言葉も非常にぎこちないというか、物凄く冷たいものだということが分かるのではないでしょうか。彼らはもう何年も、まさに家族として暮らしてきたのに、「エジプトの女ハガル」とよそよそしく紹介され、「イシュマエル」という名前はどこにも出てこない。サラは、「あの女」「あの女中」「あの女の息子」と言い、自分の息子だけは、「わたしの子イサク」と名前で呼ぶ。この事実の背後に、サラの中にある凄まじい冷淡さ、疑念、妬み、恨み、怒りがあることは、言うまでもありません。
サラは、神様がイサクだけがアブラハムの跡継ぎだと約束してくださっているのに、そんなことは全くお構いなしに、とにかく少しでも疑わしきもの、イサクにとって脅威となるもの、邪魔者は抹殺するという思いで凝り固まっています。子を思う親の愛とはこういうものだと言ってしまえば、それまでですが、神の愛をどう考えているのかと思わないわけにはいきません。
そして、この問題でアブラハムはまたもや非常に苦しみます。かつては、自分の側室であったハガルを再びサラの女奴隷に逆戻りさせることで、結果としてハガルに逃亡を余儀なくさせるという、まことに優柔不断な態度を取りました。しかし、今のサラの怒りの原因は、サラを蔑視するハガルではなく、イサクと無邪気に遊ぶイシュマエルです。彼にとっては自分自身の子です。その点で、サラとは全く違います。サラにとってイシュマエルは血が繋がっていない継子です。先日、七十歳以上の方が会員になれる桜会の方から、「及川先生は桜会を継子扱いして、大事にしてくれない」と言われてしまい、その日は礼拝後二時間に亘って、ヨハネ黙示録に関するお話を熱心にして、私の桜会にたいする真実な愛を必死になって示して、最後は「言葉を撤回します」と言って頂いてホッとしたのですけれど、サラは、イサクが生まれた途端、それまでは可愛がっていたイシュマエルに対して、それまでとは掌を返したような冷淡な態度を示してきたのだと思います。
そして、イサクが乳離れしたある日、つまり、イサクがよちよち歩きをし始め、イシュマエルとも遊べるようになったある日、これまで跡取りとして育ててきたイシュマエルこそ、実は息子イサクにとっての最大のライバルであると実感したのです。それは無理からぬことではあります。でも、だからと言って、「あの女とあの子を追い出してください」はないだろう?!と、私は思います。でも、これが人間の現実です。アブラハムも、「なに無茶なことを言ってるんだ。そんなことしたら、ハガルとイシュマエルは荒野で飢えと渇きで死んでしまうじゃないか。そんなこと出来るわけないだろう!?」と言うかと思えば、そうではない。彼はまたもやひたすらに苦しむだけです。ここの直訳は、「このことは彼の目には非常に悪い」となります。彼の見たところ、これは非常に悪いことが起こっている。最悪のことが彼の目の前に起きているのです。その現実の前に、彼は茫然自失というか、絶望して、為す術を知りません。
神様は、そのアブラハムに語りかけます。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
ここで、神様は、人間の現実、その惨めな現実、ありのままの現実を受け止めてくださっているのだと思います。しかし、その現実の中でも、ご自身の約束、ご自身が立てた計画は進展していくのだと、アブラハムに告げているのではないか?私は、そう思います。ここで「聞き従え」とは、「彼女の声に聞け」が直訳です。そして、この「聞く」という言葉が、イシュマエルという名前の元になっていることは、先ほど言ったとおりです。そして、今日の箇所には「イシュマエル」という名前が一度も出てきませんけれど、実は、今日の箇所でこそ、イシュマエルが何故イシュマエルという名前なのかが明らかになってくるのです。
絶望の中で
アブラハムは、絶望の只中で神様の言葉、その声を聞きました。そして、彼はその言葉に従うのです。深い意味で、彼はサラの声に従ったのではなく、サラの声に従えという神様の声に従ったのです。
彼は次の朝早く起き、パンと水の皮袋を取ってそれを背負わせ、ハガルとその子を連れ去らせました。この「連れ去る」という言葉は、ヘブライ語ではシャーラーという言葉です。「送る」とか「伸ばす」という意味があります。この言葉は、アブラハムが独り息子イサクを神に捧げよと神様に命ぜられる二二章では、アブラハムが手を伸ばして(シャーラー)刃物を取り、独り息子イサクを屠ろうとするその瞬間に、神の使いが「その子に手を下すな」と叫ぶ、そこで使われる言葉です。つまり、イサクを殺す動作に使われる言葉です。アブラハムが、ここでハガルと彼の息子でもあるイシュマエルを、パンと皮袋を背負わせて、朝早く、家から連れ出す、送り出すということは、実際そういうことなのだと思います。彼はここでイシュマエルを死なせることに手を貸します。そして、二二章では、イサクを死なせるために手を下すように命ぜられるのです。そのいずれも、ギリギリのところで神様が介入して、イシュマエルもイサクも、死なずに済むし、アブラハムが殺す役割を果たさなくても済むのですが、二一章から二二章で起こっていることは、本当に読むだけでぐったりと疲れる、生きるか死ぬかの物語です。
この早朝、朝靄が掛かっている時のアブラハム、そして、ハガルとイシュマエルの別れの光景は、本当に沈痛なものです。ハガルは正妻ではありませんでしたが、一時は法的に認められた第二夫人でした。そして、イシュマエルはアブラハムの子です。神様の約束の子ではなくても、アブラハムにしてみれば実子であり、イシュマエルにしてみればアブラハムは実父です。イサクが生まれるまで、そしてその後の数年間も、この家族はなんとか上手くやってきたし、イシュマエルとイサクは仲の良い兄弟であったのです。なのに、突然、別れなければならない。それは慰謝料、養育費を貰って別れる協議離婚でも何でもない。一方的な追放です。ハガルやイシュマエルが何か悪いことをしたわけではないのです。元々はサラとアブラハムが神様の約束を信じきることが出来ずに、人為的に子供を作ろうとしたことに端を発しているのです。それなのに、ハガルとイシュマエルが追放される。
アブラハムは、ここで一体何を言えたでしょうか?ハガルは、押し黙ったままパンと水を持たせるアブラハムを、どんな思いで、またどんな表情で見つめていたのでしょうか。そして、幼いイシュマエル。跡取り息子としてかつてはひたむきな愛情を注いでくれた父親であるアブラハムの、その不思議な行動を、彼はどんな思いで、そしてどんな表情で見つめていたのでしょうか?「お父さん、どうしたの?何しているの?何故、僕たちは、こんな朝早く、黙って、誰とも挨拶もしないで出て行かなくちゃいけないの?イサクには、もう会えないの?どこに行ったらいいの?お母さんは泣いているじゃない。一体何があったの?どうしたの?」そう口にしたかどうか分かりません。でも、そういう思いだったでしょう。アブラハムだって、どれだけ辛かったか、情けなかったか、分かりません。その場の光景は想像することすら辛いことです。
ハガルが聞いたこと・見たもの
「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。」
行く先のあてはないのですから、当然です。そうなると、どうなるか?「皮袋の水がなくなり」ます。そうなると、どうなるか?彼らに待っているのは死だということになります。「彼女は子供を一本の潅木の下に寝かせ」ます。干からびて死んでいくにしても、せめて日陰に子供を寝かせたい。彼女は、そう思ったのです。でも、その時の彼女には、優しく寝かせるような体力はなかった。この「寝かせる」と訳された言葉は、後にヨセフを他の兄弟たちが穴に「投げ捨てる」という時に使われる言葉ですし、辞書によれば「死体を捨てる」という時にも使われるのです。この時のイシュマエルは、カサカサの唇をしてもう歩くことも出来ないイシュマエルで、ハガルはもう彼を抱くことも背負うことも出来ず、ドサッと潅木の陰にイシュマエルを落とすほかなかったのではないでしょうか。
彼女は言います。
「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない。」
子供の死を見させないでくれ、見たくない。そう言いながら、彼女は、矢が届くほど離れた所に行って、それでも、子供のほうを向いて座り込みます。そして、「声をあげて泣き」ました。我が子が目の前で死んでいく姿なんて見たくない、見ることが出来ない。けれど、誰にも見られずに我が子が死んでいくなんて耐えられない。せめて私だけは見ていてあげなければ・・・でも、見てはいられない。彼女は、嗚咽し、胸を掻き毟られながら泣き続けました。そして、その時、イシュマエルもまた最後の力を振り絞って泣き始めた。母の泣き声が聞こえてきて、彼もまた泣き始めたのかもしれません。その時です。事態が決定的に転換し始めます。
「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。」
人間の罪の行き着く先は、絶望的な死です。その現実を、私たち人間はどうすることも出来ません。しかし、その罪による絶望の現実を見つめてくださる神がおられる。そして、絶望の中から発せられる嘆き悲しみの声を聞いて下さる神様がおられる。その神様が、動いてくださる時、事態は決定的に変えられていきます。皆さんも、そういう経験をされたことがあると思いますが、私も何度かそういうことがあります。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかりと抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
「ハガルよ。神様が子供の泣き声を聞いた。だから、もう何も心配しないでよい。アブラハムに約束した通り、あなたの子は、大きな国民になる。さあ、立ちなさい。そして、あの子を抱き上げなさい、そして、お前のその腕で、しっかりと抱き締めてあげなさい。」御使いは、こう語りかけます。神様が子供の泣き声を聞く。それがイシュマエルなのです。この時、イシュマエルはイシュマエルになる。二〇節にあるように、「神がその子と共に」いて下さる子として生き始めるのです。
神様は、その時ハガルの耳だけではなく、目も開いて下さいました。そして、その目で、彼女は水のある井戸を見つけることが出来ました。ハガルは、すぐさま井戸に駆け寄り、皮袋に水を満たして、今にも渇きによって死にそうなイシュマエルに駆け寄り、水を飲ませたのです。そして、その水によって生気を取り戻したイシュマエルを抱き上げ、その腕でしっかりと抱き締めたことでしょう。
「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野にすんで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトから迎えた。」
人間ドラマの中の神の約束の貫徹
サラが、イシュマエルとイサクが遊んでいるのを見た、ということから始まるこの小さな物語、ページにすれば僅か一ページ足らずなのですが、私は一行ずつ読み進めながら、冷や汗をかいたり、胸の動悸が激しくなったり、涙が溢れてきたり、最後のハッピーエンドでホッとしましたけれど、一人一人の気持ちになり、その場面場面を想像しながら読み終わった時には疲れてしまって、暫く椅子に座ったまま眠ってしまうほどでした。
この物語、あるいは出来事を貫いていることは、神様の約束の実現です。このあまりに泥臭い、人間臭いドラマの中にある一筋の道は、約束の成就なのです。イサクがアブラハムの跡取りとして祝福と使命を受け継ぐということ、そして、イシュマエルもまたアブラハムの子孫として大いなる国民となっていく。その約束が、この生々しい人間のドラマの中で貫徹されていく。そのことが、ここで語られている大事なポイントだと、私は思います。
父と子
私は、先週の木曜日の昼に「死ぬのを見るのは忍びない」というハガルの言葉を説教題として週報の予告欄に掲載して頂きました。でも、その時は、先週のヨハネ福音書の説教準備で頭が一杯なのです。目の前の説教がまだ出来ていないのに、その次の週の説教題なんてつけられるわけないだろ!!といつも内心腹を立てつつ、自棄になって題をつけています。でも、先週は、この題をつけた後でヨハネ福音書の五章を読んでいると、そこに「父と子」という言葉が繰り返し出てきて、何だか胸が熱くなってきました。イエス様は、そこで「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである」と仰っている。その言葉を読んだ時、突然、イエス様の十字架の場面が心に思い浮かびました。
イエス様はそこで茨の冠を被せられた頭からも、ぶっとい釘を打たれた掌や足の甲からも、また鞭打たれた背中からも血を流し、激しい喉の渇きに苦しみながら、大声を上げられたのです。それはご自分を愛してくださっているはずの父にも見捨てられた悲しみの中で叫ぶ哀れな子の姿だと思いました。イエス様は、アブラハムに捨てられたイシュマエルの経験をされた。でも、イエス様の父は、人間ではなく、神です。イシュマエルはアブラハムには見捨てられたけれど、神には見捨てられませんでした。でも、イエス様はあの十字架の上で、こう叫んだのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ・・・」
「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか・・」
この子なるイエス様の十字架上の苦しみの姿を、父なる神様は天から見ていたでしょう。そして、その叫び声を聞いていたでしょう。けれど、何もなさらなかった。イシュマエルのように、天から御使いを送って助けることをされませんでした。何故でしょうか?
先日、ある研究会で、ユダヤ教の専門家の講演を聞きました。その方によると、「キリスト教徒が書き残した新約聖書には、イエスを殺したのはユダヤ人だと書いている。牧師たちも、そういう説教をする。それが原因になって二千年間もキリスト教徒はユダヤ人を迫害し続けた。その行き着く先がナチスのホロコーストなのだ。一体どうしてくれる・・」ということなのですが、私は、帰り際に、その方にこう言ったのです。
「私は教会の牧師です。私にとっては、聖書に出てくるユダヤ人は私のことです。またユダヤ人の先祖であるアブラハムも私です。愛と信仰に生きるために神様に選ばれ、生かされているのに、アブラハムもその子孫であるユダヤ人も、愛と信仰に生きることが出来ないのですから。それは信仰的な意味でアブラハムの子孫である私も同じです。私にとって、イエス・キリストは時に邪魔者です。抹殺したい人間なのです。だって、私だって愛せない人はいるし、赦せない人はいます。でも、イエスは『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言い、『敵をも愛しなさい』と語りかけてきます。私はその声を無視し、そんなことを語りかけてくるイエスを、心の中で抹殺しているのです。だから、新約聖書に出てくるユダヤ人、イエスを十字架につけて殺しているユダヤ人は、まさに私のことだと思って読んでいます。」
その方は、私が何を言っているか、分からなかったと思います。それはとにかくとして、イエス様が、十字架の上で叫んでいる。それはまさに父親に見捨てられた子が、泣き叫んでいると言って良いことです。そして、子を愛している父親は、全能の父なのに、その叫びを聞きながら、その悲惨な姿を見つめながら、動かない。
加害者と被害者
先日、保育園児四人を、脇見運転で轢き殺した事件の裁判がありました。被害者の園児の父親たちは、「加害者に対して厳罰が与えられることを望んでいる」と、インタヴューに答えていました。自分の子供を殺した人間を、人は赦すことは出来ません。当然です。赦しなさいと言える人はいないし、そんなことを言う人は、そんな目に遭ってから言え、ということでしょう。
神様は自分の子供を殺された父です。そして、イエス様は殺された被害者です。私は、イエス様を殺し、神様の子を殺している加害者です。イエス様は、この世で最も小さな者、弱い者を虐げる者は、即ち私を虐げたのと同じだと仰いました。誰かを憎み、心の中で抹殺すれば、それはイエス様を憎み、イエス様を抹殺することと同じだと仰いました。であるなら、私たちは誰もが「ユダヤ人」であり、イエス様を殺す者であり、神様にとって敵です。そして、敵は殺さなければならない、少なくとも排除しなければならないものです。
それなのに、神様はその敵を愛し、赦し、そして、抱き上げ、抱き締め、命の水を下さる。命のパンを分け与えてくださるのです。
何故?
死ぬのを見るのが忍びない
私たちが罪の中に死ぬのを見るのが忍びない、見たくないのです。だから、神様はイエス様の叫びを聞きながら、あの姿を見ながら、何もなさらず、私たち罪人の罪の贖いをさせるために死に渡し、葬らせ、陰府にまで下し、そこから復活させ給うたのです。そして、その復活のイエス様が、今日も私たちの罪を赦し、新しい命を与えるために食卓(聖餐)を用意してくださっているのです。このイエス・キリストの罪の贖いの死と復活を信じ、洗礼を受けた者は、今日も、この食卓を通して、新しくされ、祝福され、御国を目指して歩み始めることが出来ます。
イエス様は、ご自分の子を抹殺する私たちが罪の中に死ぬのを見るのが忍びない父なる神様の全権大使です。罪人への裁きをご自身が全面的に受けつつ、今日も、私たちにご自身の体と血潮という生命のパンと生命の水を与えてくださるからです。そして、繰り返し彷徨ってしまう罪の荒れ野の中で死に瀕している私たちを新たに立ち上がらせ、抱き上げ、その御腕でしっかりと抱き締めて下さるのです。私たちは、御言と御霊、そして聖餐の糧を通して、霊肉共に主イエスに養われ、今日も新たに生まれ変わり、新たに歩み出すことが出来ます。
まだ洗礼を受けておられない方は、一日でも早く、主イエスの愛を受け入れ、神の敵である自分に気づき、罪を悔い改め、神と会衆の前で信仰を告白し、洗礼を受けて、この食卓に与ることが出来ますように私たちは願っています。いや、神様が、そのことを願っているのです。どんな深い罪を犯した者でも、主イエス・キリストの御前に悔い改める者は、主イエスによって抱き上げられ、その腕によってしっかりと抱き締められ、「この子はいなくなっていたのに見つかった、死んでいたのに生き返った」と祝福されて、救いの食卓を囲むべく、神の家である教会に招き入れられるのです。この愛を信じ、主イエスの招きに応えて下さい。
|