「神は命じられた」

及川 信

創世記 22章 1節〜19節

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

四月一日の主日

 今日の礼拝は様々なことが重なった主日礼拝です。言うまでもなく、主イエスの御受難を覚える受難週の最初の日、棕櫚の主日礼拝です。また月の第一主日ですから聖餐式があります。そして、二〇〇七年度の最初の日でもあります。そして、今日はAさんの信仰告白式をこの礼拝の中で執行いたしました。(来週のイースター礼拝ではTさんの洗礼式と聖餐式を執行いたします。)
 そういういくつもの記念が重なったこの日、アブラハム物語の中で最も高い頂きと言ってよい二二章の御言を聴くことになったことに、不思議な導きを感じています。
 この箇所は、読めば読むほど深くて広い御言の宝庫であることが分かりますけれど、今日は、一つのことに集中して、次回以降に文脈や物語の筋を追いながら丁寧に読んでいきたいと願っています。

アブラハムへの命令 その意味

 今日の説教題は「神は命じられた」としておきました。いつもの如く、新共同訳聖書を読んだ第一印象として、これでよいかな?と思って便宜的につけましたが、今日は、神の命令ということに集中しつつ御言の語りかけを聴いていきます。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 これが、アブラハムを選び、これまで導いてこられた神様の命令です。恐らく、ここにいる誰も、このような命令を神様から与えられたことはないと思いますし、その命令に従ったという経験をお持ちの方もいないはずです。私も幸いにして、こんな命令を受けたことはありません。しかし、こういう命令を受け、そして従った人が、私たちの信仰の父アブラハムなのです。「信仰」とは、端的に言って、神の命令に従うことです。命令によって従うか否かをその都度考えるとするなら、それは信仰でも何でもありません。信仰とは、それが神の命令である限り、その命令には従って生きるということです。
 しかし、ここで神様がアブラハムに命じている事柄、それは神の命令として受け止めることが出来るものなのか?!神は、果たしてこんな残酷な命令を人に与えるものなのか?!そのことを思わざるを得ません。神様は、何故、アブラハムの独り子、アブラハムが愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じるのか?また何故、こんなことを命じるのか?このイサクは、神様が与えた子であり、アブラハムの祝福を全世界にもたらすべき唯一人の跡継ぎではないか?!イサクが父アブラハムの信仰を受け継いで生きることを通して、神様は罪に落ち、呪われた全世界を祝福へと造り替える御業を継続されるはずではないか?!それなのに、そのイサクを犠牲として捧げよとは、一体どういうことなのか?
 今、イサクが父アブラハムの「信仰を受け継ぐ」ことで世界が祝福されていくと言いました。その信仰とは、神の命令であるならば、その命令の意図や目的が分からなくても従う、従うことでしか神様の意図や目的が分からないことを信じて従う。そういうものなのです。だから、アブラハムが「その信仰」に生きることによって、「その信仰」を受け継ぐべきイサクが死んでしまうという矛盾が、ここに生じます。アブラハムは信仰を生きるために選ばれたし、もし彼がその信仰を生きないとすれば、世界は祝福されず、彼自身は生ける屍となりますが、彼が「その信仰」を生きれば「その信仰」を受け継ぐべきイサクは文字通り屍になってしまい、世界を祝福するという神の御業は実現しない。今日の箇所は、冒頭から、これまでのアブラハム物語のすべてを台無しにしてしまうような恐るべき命令から始まるのです。

洗礼 割礼 献身

 今日は、幼少時に洗礼を授けられていた綾部さんが、信仰告白をされました。幼児洗礼あるいは小児洗礼は、基本的に親の信仰に基づく聖礼典です。自分の子供に洗礼を授けるということは、自分に与えられた子は神の子であることを承認し、そうであるが故に、神に捧げるということです。神のものとして捧げるのです。『日本基督教団口語式文』では、その時、親に向かってこう問いかけることになっています。

「あなたがたは御言に従ってこの幼子を神に捧げ、やがて成人した時、みずから信仰を告白するようになるために常に祈り、またあなたがたの信仰と行いとをもってその模範となることを心がけますか。」

この問いに対して、「心がけます」と親が応答する。その応答があって初めて、教会はその幼子に洗礼を授けます。ここに「幼子を神に捧げる」という言葉があります。幼児洗礼とは、そういうものなのです。成人になって洗礼を受けるということも、自分自身を神に捧げるということです。受洗後は、神の命令に従う、その言葉に従って生きることを約束することです。幼児洗礼は、親が自分の子供を神に捧げるのです。そして、いつの日か、その子供が信仰を告白できるようにと常に祈り、そして生活を通して信仰を証しする務めがあります。その親と教会の証しを通して小児洗礼を授けられていた人が、自らの口で信仰を告白する時に、その人に何が求められるかと言うと、先ほど読んだように、こういうことです。

「いま、あなたが自ら進んで信仰を告白し、責任ある成人信徒として教会の交わりに加わろうとするにあたり、主の恵みを感謝すると共に、これまでの罪を悔い改め、赦しを求め、献身の志を新たにしてください。」

 ここにも「献身の志」という言葉があります。親の信仰によって幼い頃に洗礼を授けられた方は「未陪餐会員」として教会の枝として導かれてきたのですが、信仰告白をする際には成人になって洗礼を受ける人と同じく、それまでの罪を悔い改め、罪の赦しを求め、そして自分自身を捧げる、献身することが求められるのです。つまり、自分の体、自分の人生、命を神に捧げることが求められる。命令されるのです。
 このように改めて振り返ってみれば、私たちキリスト者というものは、随分恐ろしいことをしていると思わざるを得ません。普段、そのことを意識していなくても、その献身の約束を神様に対して成したという事実を軽減したり、無視したりすることは出来ません。事実は消えませんし、約束の相手である神様の方はその約束を一時も忘れることはありませんし、そして、洗礼を受けた者を救いに導き、全世界に神の国をもたらすというご自身の約束を片時も忘れることなく、世の終わりまで、果たし続けてくださっているからです。
 アブラハムは一七章の段階で、私たちの「洗礼」の起源とも言うべき「割礼」を受けています。彼とその家の者たちは、神のものとされる(神のものとして生きる)契約を結び、その契約のしるしとして割礼を受けました。そして、二一章で、神様の約束されたとおり、神様が語られたとおり、神様が約束されていた時期にと、何度も神様が約束を守ったことが強調される中で、約束の子イサクが誕生したことが記されています。そして、その約束の実現を目の当たりにして、「アブラハムは、・・・神様が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」のです。それは幼児洗礼と同じく、神を信じ、その命令に従って生きるアブラハムの信仰によって授けたものです。アブラハムはこの時、独り息子イサクを神に捧げる約束をしました。そして、信仰を持った親として、神を信じて生きるとはどういうことであるかを子に示しつつ生きることを約束し、また子供に信仰が継承されるために祈り続けることを約束したのです。イサクは、そういう意味でも、まさに約束の子です。

この時期だからこそ神は「試す」

 そういう神様の約束の実現と、その神様に対する信仰による応答、あるいは服従という具体的な出来事の積み重ねの果てに、今日の出来事があるのです。この時に、アブラハムを選び、これまで何十年にも亘って忍耐と寛容をもって導き、幾度もその罪を赦しつつ育ててこられた神様は、アブラハムを「試す」。この神の試みの中に何があるのか?私たち人間に、神の御心のすべては分かりません。でも、私は、この試みの中に、神様のアブラハムに対する深い愛と信頼があると思うのです。
「アブラハム」、これは彼が割礼を受ける時に与えられた新しい名前です。それまでの彼は「アブラム」という名前でした。しかし、神様と契約を結び割礼を受ける時に、アブラハム、「多くの国民の父」という意味の名前が神様から与えられたのです。その時、神様はこう仰っています。

「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」

これは、アブラハムが、血族として多くの民族の父祖になるという意味であると同時に、ユダヤ教徒であれ、キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、アブラハムに自らを啓示し、彼に語りかけ、導き育てる神が自分の神でもあると信じるすべての者にとって、「信仰の父」となるという意味です。一人の信仰者であったアブラムという人間を、数え切れない人々の信仰の父アブラハムとするために、神様は、今この時に、決定的な試練を与えられたのだと思います。
ここでアブラハムに与えられている命令は、神に見捨てられたとしか思えない命令です。けれども、実は、この命令の中にこそ、神様の心の奥底から溢れ出てくる愛があるし、これまでご自身が導き育ててきたアブラハムに対する絶対的な信頼があると思うのです。神様が、彼を選んで与えた使命を達成させようとする愛があるし、その使命を「今の彼」ならきっと果たせると信じる信頼がここにあると思います。
聖書の信仰によれば、私たちは誰でも、「何かになるため」に生まれてきている、命を与えられているのです。その何かが何であるかが分からないまま人生の多くの時間を過ごしてしまうことが多いのですが、それが分かる時というのは、神様と出会う時なのです。命の創造者であり、与え手であり、導き手である神様と出会った時、私たちは初めて、自分は何者であり、何をするために生まれ、そして生きているのか、生きてきたのかを知らされ始めるのです。そして、その時、その人がその人になっていく。その時、それまでの命は死んで、新しく生まれ変わっていくのです。アブラハムは、神様に選ばれて旅立った時に、一回目の回心というか新しい出発が与えられました。その後、一七章で契約を結び割礼を受けた時に新しい名が与えられる新生を経験し、今、その名に相応しい者となるための最大の試練を経験していると言ってもよいかも知れません。この試練を通して、アブラハムはまさにアブラハムになっていく。神様は、この壮絶な試練を通して、全世界の祝福の基礎となるべきアブラハムを造り出そうとしている。そう言ってよいと思います。

命令と応答

話を最初に戻します。私はこれまで「命令」という言葉を使ってきました。それは二節に新共同訳聖書では「神は命じられた」とあるからですし、すべてはこの命令から始まっているなと、十日程前に思ったからです。でも、その後に原語を調べてみますと、「神は命じられた」と訳された言葉は、ごく普通に「言った」という言葉、ワイヨーメルと何度でも出てくる言い方でした。なんだか肩透かしを食った感じがしたのですけれど、でもさらによく調べていくと、段々、この二二章の深みに入っていく感じがしました。
と言うのは、この二二章は構造が全く同じ二つの文章で成り立っていることが分かったからです。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

そして、一一節。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った(命じられた)。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 細かいことは省きますけれど、神がアブラハムに呼びかけると、アブラハムが「はい」と答える。その「はい」と答えるアブラハムに対して、神様が命令する。この構造も、そこで使われている言葉も、二つの文章において全く同じであり、この二つの文章が二二章の全体を支える柱になっています。そして、その命令の最初のものはイサクを「捧げなさい」で、次がイサクに「手を下すな」です。 「イサクを犠牲として捧げなさい」という命令は、イサクの父であるアブラハムにとっては、自分の命を捧げるよりも辛いことです。つまり、自己献身よりもさらに辛い命令です。でも、その絶対的な献身こそが、彼に求められていることです。そして、生まれて八日目に割礼を受けて、無自覚の内に献身させられているイサク、今は恐らく十代の若者になっているイサクにとっては、自覚的な献身を求められていることです。そして、その献身とは、文字通りの献身、罪の犠牲として自分の体を捧げるという献身なのです。彼は、この後、全く抵抗することなく、父に身を任せ、縛られ、自分を焼くための薪が積み上げられている祭壇の上に横たわりました。これは壮絶な経験です。
 アブラハムの「はい」という返事は、ヘブライ語ではヒンネニーというのですけれど、それは直訳すると「私をご覧下さい」という意味です。つまり、「私は今あなたの目の前にいます。なんなりと仰ってください。」そういう感じです。アブラハムは、神様に対して、絶対的な愛と信頼を抱いているのです。
「あなたの仰せになることに従って生きることが、私が私であることであり、私の最大の歓びなのです。」
そういう深い愛と信頼が、「この時のアブラハム」にはある。
 この時のアブラハムに「アブラハムよ」と呼びかける神様と、その神様に「はい」と答えるアブラハムの間には、物凄く深い愛と信頼の関係がある。つまり、ここには冷酷にして理不尽な神と、神の言うことなら、心で何を思っていようが従わねばならないという教条的な教えがあるのではない。何としてでもアブラハムを祝福し、彼を世界の祝福の基礎としようとする神様の深い愛と信頼があり、これまで彼を愛し導き育ててきてくださった神様に対するアブラハムの深い愛と信頼がある。そういう深い愛と信頼の物語なのだと思う。私たちは、生涯をかけて、この神とアブラハムのような深い愛と信頼の交わりを求めて生きていくのです。

神を畏れる者

 私は、この物語を読み続けながら、二月の最初から備え続けてきた今日の信仰告白式や来週の洗礼式のことを心に思い浮かべていました。その二つの式は共に、神様と誓約をする人間との間に深い愛と信頼の関係がなければ執行できない式だからです。Aさんも、Tさんも、この日を迎えるまでにはそれぞれに苦しい日々がありましたし、試練があり、挫折がありました。アブラハムも同様です。しかし、そういう苦しい試練や挫折を通してこそ知る、いや知らされる、神様の愛と赦しがあるのです。一方的な恵み、恩恵がある。それを知って愕然とする。圧倒される。そして、このままその恵みを無視しては生きていけない。今こそ、神様への愛と信頼を告白しないと生きてはいけない。そういう思いにさせられた人間だけが、「献身の志を新たにしてください」という命令に、「はい」と応えることができるのです。
 この時のアブラハムは、まさにそういうアブラハムです。そして、彼は「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と確信し、その小羊が自分の息子であるとしても、自分もこの息子も献身した者なのだから、命を捧げて神を礼拝しようと決心をして、山を登っていったのです。それは「神が備えて下さる」というアブラハムの言葉を聞いた後のイサクもまた、同様だったのだと思います。
 そういうアブラハムが、ついに「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」その瞬間に、主の御使いが、今度は二度、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。彼はまた「はい」、「主よ、僕はここにいます。ご覧下さい。何でも仰ってください」と答えた。
 御使いは言いました。命令したのです。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。」

 何故?

「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

  神を畏れる者。それは神を信じ、神を礼拝し、そして神様の仰ることであるなら、すべてを捧げて従う者ということです。その時にこそ、つまり、自分を無にして一切を神に捧げて生きる時、神様のために命を棄てる時にこそ、実は自分が自分になる。神様に与えられた命を本当の意味で生きることが出来ることを知っている人間のことです。アブラハムは、この時、独り子である息子すら、神様に捧げることを惜しまない人間となりました。そしてその時に、アブラハムがアブラハムになったのです。神様が彼を選んだ目的に到達したのです。

神の備え

そのアブラハムが目を凝らしてあたりを見回すと、そこに一匹の雄羊が角をとられていました。彼はその羊を捕まえて「息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげ」、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。その後の人々は、「主の山に備えあり(イエラエ)」と言うようになったと、そこには記されています。
「備える」と訳されている言葉は、「見る」という言葉です。主は「先を見ている」ということが「備えてくださる」ということであり、さらに「備えあり」という言葉は、「見られる」が直訳です。つまり、そこに主の姿が見える形で現れている。主が見られるということです。
 アブラハムは、イサクから、「小羊はどこにいるのですか」と問われたとき、「神が備えて下さる」と答えました。その時、彼はまさか山の上に雄羊が角をとられているなどと予想もしていません。彼は、イサクを捧げよと命令されているだけですから。しかし、彼の行き着く先に、神様が備えてくださっているものがある、神様が見ておられることがある、それが何なのか分からないけれど、私たちはそこに向かって歩むしかないんだ。それが神を信じ、従うということだ。息子に対して、そのような信仰の姿を見せたアブラハムが、主を礼拝する山の上で見たもの、主が備えてくださっていたもの、それは雄羊です。アブラハムが、自分の独り子を捧げる礼拝をしにやってきた山の上で見たものは、神の備えた雄の小羊だったのです。ここに神の姿が見える、神様はこのような形で、ご自身の姿を現しておられる。それが、この箇所のメッセージです。

私たちの礼拝

 私が、洗礼を受けたいと願う人、信仰告白をしたいと願う人に、必ず言うことがあります。それは、「あなたのために主イエスが十字架に掛かって死んでくださった、あなたの罪を赦すために死んでくださった、そしてあなたを新しく生かすために復活してくださった、その十字架と復活の主イエスを信じますか?」ということです。その問いに、「はい、信じます」と答えることが出来るなら、それは神様が与えてくださった信仰ですから、洗礼を授けることが出来ます。
 私は、申し訳ありませんが、雨風に濡れず、日照りにも照らされずに、三階から降りるだけでこの丘の上の礼拝堂に入ることが出来ますけれど、皆さんの多くは、雨風に曝され、夏は厳しい日照りにさらされながら、電車やバスを乗り継ぎ、さらにあの歩道橋を越え、きつい坂道を登って、やっとの思いでこの礼拝堂に来られます。一人一人、その名を呼ばれて、「この桜ヶ丘の上に建つ礼拝堂で、私を礼拝しなさい」と神様に命令されて来るのです。主の命令は招きだし、その招きがなければ、そして、そのお招きに応えしなければ、皆さんは信仰的には生ける屍になってしまいます。だから、皆さんは、「今日もお招きに与った、そして、その招きに応えることができて嬉しい」という喜びをもって礼拝に集ってこられます。私は、そういう皆さんに生ける神の御言を取り次ぐように命ぜられています。その命令に応えることが、私の喜びです。この喜びを奪われたら、私は生ける屍になってしまいます。そして、この礼拝堂で捧げられる礼拝において、私たちは毎週御言によって何を示されているのかと言うと、まさに主の山に備えあり、ということでしょう。ここに来て見えること、ここに来て分かること、それは主なる父なる神様が、ご自身の独り子をさえ惜しまないで、私たち罪人のためにあの十字架にお付けになったということです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この十字架の愛を、私たちは命令によって集ってきた礼拝において、毎週見ることが出来るのです。そして、そのことによって私たちは生きることが出来る。

主の命令

そして、この後の聖餐の食卓において、主イエスは、私たち洗礼を受けてキリスト者になった者たちにこう命令をされます。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」


  Aさんは、今日初めて、この命令、この招きに「はい」と応えて、パンとぶどう酒を頂くことが出来ます。私たち既にキリスト者になった者たちも、今日、新たに「はい」と応えて、パンとぶどう酒をいただきます。その「はい」という応答は「はい、主よ。わたしをご覧下さい。わたしはあなたの僕。あなたの仰ることは何でも致します。そのために献身します。あなたがあの十字架の上にご自身の体を捧げてくださったように、わたしもあなたがた与えてくださる十字架を負って、あなたに従います。わたしはそのためにこそ、ここに招かれ、ここにいるのです。主よ、どうぞわたしを新たに祝福し、あなたの御用を生きる者として清めて派遣してください。」そういう信仰の応答なのです。
 ゴルゴダの丘の上に、イエス様の身代わりになる羊はいませんでした。イエス様は、あの丘の上に傷だらけの体で登っていき、そして、血みどろになって十字架に磔にされ、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と絶叫しながら、また、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈りつつ死なれたのです。
 ここに神様の命令に完全に従った唯一のお方がいます。この方こそが、アブラハムの祝福を新たに受け継ぎ、罪の赦しと新しい命、永遠の命を全世界の罪人にもたらしたお方です。神様は、この方の中に見えるのです。この方を通して語りかけてくださるのです。私たちは毎週、この丘の上に登ってきて、この方を見つめて、礼拝をしているのです。十字架にご自身を捧げてくださった方を礼拝して、私たち自身を捧げる志を新たにしているのです。神様は、そういう私たちを今日も豊かに祝福してくださいます。今日、新たにその祝福に与る姉妹が誕生したことを感謝し、讃美しつつ、共に主の食卓に与りたいと思います。
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