これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
罪 呪い 関係崩壊
前回に引き続き創世記二二章の御言に聴いてまいります。
アブラハム物語は、創世記一二章から始まります。しかし、その直前の一一章の最後に、彼の妻サラ(当時はサライ)は不妊の女であったと記されている。つまり、彼ら夫婦には子どもが生まれない。そのことが前提となっているのです。そして、一二章の段階でアブラハムは既に七五歳でした。当時の世界において、子どもが生まれないということは、将来の希望がないということと同じことで「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の「祝福」とは正反対の現実、つまり「呪い」の現実なのです。神様の祝福から始まった世界の歴史は、人間の罪によって呪いに落ちてしまった。それがバベルの塔に至る原初物語の主題です。「食べてはならない」と神様に命じられていた木の実を、蛇に唆されて食べて以来、私たち人間は誰もが、「神のようになりたい」という欲望に支配されて、気がつけば自分中心に考え、神への愛と隣人への愛とは裏腹な生活をしている。そのことによって、私たち人間と神様との交わりは破壊され、また人間同士の交わりも分断されてしまったのです。今、『バベル』という映画が色々な意味で話題になっていますが、その映画の主題も、深みにおいてお互いの心と心が通じ合わなくなってしまった人間関係の回復はどこで起こるのか?それは可能なのか?という、私たち人間の誰もが抱えている普遍的な問題です。その映画の背景にある「バベルの塔の物語」の次に記されるのが「アブラハム物語」ですけれど、このアブラハム物語の主題は、バベル以来、分断してしまった神と人間の関係、人間と人間の関係は、いかにすれば回復し、呪いから祝福へ転換されるのか?!というものです。そして、先月から読み始め、来月にもう一度読むことになる創世記二二章は、その主題の究極なのです。
アブラハムの旅立ち 晩年
神様は世界を祝福するためにアブラハムを選び、神様の命令に一切をかけて従う信仰を彼に求められました。その信仰の一事において、神様は彼を祝福し、また彼を全世界の祝福の源とすると宣言されたのです。彼が神様を信じ、その命令に従うことがアブラハムの祝福に留まらず、全世界が再び祝福されることに繋がるのです。
アブラハムは、故郷を捨て、それまでの血縁関係から離れて、ただただ神様が示す地に旅立つようにと命令されました。つまり、頼るものは神のみという状況に追いやられた。その命令に従ってカナンの地にまで来た彼に、神様は、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束をされました。子どもなど生まれようがない老夫婦に子孫を与え、水と草を求めて放浪する半遊牧民に土地を与えるという約束をされた。その二つとも、常識では考えられないことであり、まさに信じ難い約束です。しかし、アブラハムはその約束を信じ、主のために祭壇を立て、主を礼拝しつつ生きる人間として歩み始めました。
それからの波乱万丈の歩みを振り返る時間はありませんが、二一章には、主の約束から二十五年も経った時、それはアブラハムが百歳になった時ですけれど、奇跡的に約束の子イサクが誕生した様子が描かれています。それから数年後には、ベエル・シェバという土地に自分の井戸を所有することも出来ました。つまり、子孫と土地という神様の約束が一人の子、一つの井戸という小さな規模ではありますが、実現したのです。そして、そのベエル・シェバで、彼は人生の中で最も平穏な、そして幸せな日々を過ごしたと言って良いだろうと思います。そのことをよく心に留めておいた上で、今日の箇所に入っていきます。
神の試み
「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。」
「これらのことの後で」とは、これまでの神様とアブラハムとの間に起こったすべてのことの後でということです。長年連れ添った夫婦の歩みを考えればよいかも知れません。そこには山あり谷あり、順境の時も逆境の時もあり、愛と信頼に満ちた喜びの時もあり、不信と裏切りに満ちた悲しみの時もあった。しかし、そのすべてを共にし、乗り越え、今は愛と赦しの時を生きている。アブラハムとサラもそういう夫婦ですけれど、神様とアブラハムとの関係もまた、そういうものです。もちろん、神様はいつでも彼を愛しているのです。しかし、その愛し方は、私たち人間が予想し、また期待するような愛し方ではない。だから、アブラハムは神様の愛を疑い、約束など実現しないのだと思い、自らの力で未来を切り開こうとしたこともありますし、腹の中で神様をせせら笑ったこともある。けれども、そういう彼のすべての不信や裏切りを赦して、ついに約束を実現された神様とアブラハムは、この時、本当に深い愛と信頼の交わりを生きているのです。アブラハムは、まさに祝福された晩年を送っている。
しかし、その時、「神はアブラハムを試された」のです。これはまさに彼の愛と信頼、神様への信仰を試す、それが本物であるかどうかを吟味する。そういうことを神様はなさる。これは恐ろしいことです。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
直訳すれば、「あなたの息子」「あなたのたった独りの子」「あなたが愛しているあのイサク」を、焼き尽くす献げ物としてささげなさい、と神様は仰っている。「焼き尽くす献げ物」とは、人間の罪を背負って、その犠牲となって祭壇の上で焼かれる羊のことです。神様は、イサクをその羊としなさい、と言っている。
その神様に、ヘブル語ではわざわざ冠詞がつけられ、「あの神様が、アブラハムを試された」と記されているのです。アブラハムをこれまで導き続け、愛し、赦し続けて、ついに約束どおり、彼に独り子をお与えになった「あの神様」が、そのイサク、アブラハムの息子、たった独りの息子、アブラハムが愛して止まないあのイサクを、よりによって焼き尽くす献げ物、罪の贖いの犠牲として捧げよ、殺せ、と仰っている。
アブラハムの応答
聖書では、人間の心の思いが描かれることは滅多にありませんし、ここでもアブラハムがどう思い、どう感じたかということに関しては何も書かれていません。アブラハムは、「次の朝早く、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行」きました。これはあの一二章の旅立ちの場面と同じです。神様のとてつもない命令、それまでの人生のすべてをひっくり返してしまうというか、全否定するような理不尽な命令に対して、何も言わずに黙々と従うアブラハムの姿がここにはあります。しかし、かつての命令には、神様の意図や目的が告げられていましたし、未来を開くための命令です。でも、今回の命令には、意図も目的も告げられていませんし、未来を完全に閉ざす命令です。それも、自分の手で自分の息子、たった独りの子、愛して止まない子を殺せという、あまりに理不尽な命令なのです。それなのに、アブラハムは、何の抵抗もしていません。即座に行動を起こしている。
何故か?それはよく分かりません。そんなことをまことしやかに説明できるはずがありません。これは「あの神様」と「あのアブラハム」との間に起こった出来事であって、他人が窺い知ることなど出来ようはずもないことです。彼は、自分を選び、これまでの歩みのすべてを共にして下さった神、そして、ついにその約束を実現してくださった神様の命令に、その意図も目的も意味も分からぬまま、その命令を与えているのが「あの神様」であるが故に従っているとしか言い様がないと思います。ここには深い愛と信頼で結ばれた者同士だけが分かる、とてつもない深い関係があるでしょう。そういう関係があるからこそ、神様はアブラハムを試す。試すことが出来る。もし、ここまでの深い関係がない段階では、試すことはなかったと思います。そして、この段階のアブラハムの目の前には選択肢はありませんでした。あれかこれかで迷うという選択肢はない。モリヤの地へ行く道しか、彼の目の前にはないのだと思います。
息子 若者
「モリヤの地」とは、後にエルサレム神殿が建築される丘のことです。その丘を目指して、アブラハムとイサク、そして二人の若者は歩き出しました。三日目になって「アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に」、こう言いました。
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
これは本当に不思議な言葉です。この場合、「礼拝をする」とは、具体的にはイサクを祭壇の上で焼き殺すことですから、二人でまた「戻ってくる」ということはあり得ないはずです。でも、彼は戻ってくると言う。形だけ礼拝して、イサクを捧げるつもりがないのかと言えば、そんなことはない。それは一〇節を見れば、分かります。
しかし、私が今日問題としたいのは、新共同訳聖書が「息子」と訳している言葉の意味です。ここで「息子」と訳された言葉は、「若者」という言葉です。先ほどの「神様」に冠詞がついていたように、この場合の「若者」にも冠詞、英語で言えばTheという冠詞がついているので、アブラハムはイサクを「この若者」と呼んでいることになります。それはいったいどういう思いがあってのことなのでしょうか。
この後、アブラハムとイサクは、二人きりになって、実に緊迫した、そして濃密な親子の時間を過ごします。彼らはお互いに「わたしのお父さん」(アビー)「わたしの子よ」(ブニー)と呼び合って、神様を礼拝することに関して、短い言葉のやり取りをします。その短いやり取りの中で、すべてを分かり合うという親子ならではの対話をします。でも、その前に、アブラハムはイサクを、敢えて「わたしの子」とは呼ばず、「この若者」という言葉を使う。
この後、アブラハムがいよいよ息子イサクを屠ろうとするその瞬間に、主の御使いが、アブラハムに呼びかけて「その子に手を下すな。何もしてはならない」という時の「その子」も原語では「その若者」です。「その若者」とは、アブラハムにとっては「独り子」イサクです。でも、神様は、そのイサクを「その若者」と呼ぶ。
私的関係だけで言えば、イサクはアブラハムの息子です。愛する独り子です。でも、そのイサクの命を与えたのは神です。イサクは、だから本来は神様のものです。子供というのは、そういうものなのです。親のものではない。アブラハムが、イサクが生まれて八日目に授けた割礼とは、「この子は神様のものです、神様がこの子を生かすも殺すも自由にすることが出来る。だから、この子もまた、早くその事実を知り、神様の命令に従って生きることが出来るように祈りつつ神様に捧げる」ということなのです。幼児洗礼も同じです。また、自分で信仰を告白して洗礼を受ける場合、それは「最早、私の命は私のものではなく、私の人生もまた私のものではありません。神様、あなたのものです。どうぞ、ご自由に、なんなりとお使いください」と献身するということです。実は、その時、つまり私たちが私たち自身を自らの手から手放して、神様の手に委ねてしまう時、私たちが私たちに成るというか、神の子として新しく生まれ変わるということが起こるのです。その時、最も強い関係は親子でも夫婦でもなく、神と神を信じる信仰者の関係になるのです。
洗礼 献身
週報にも掲載されていますように、今日の午後の長老会で受洗志願者の試問会をします。志願者は、この教会のCS生徒として六年間忠実に教会学校に通い続け、この二年間は朝、あるいは夕の礼拝に出席を続けてきた十五歳の娘さんです。牧師としては、よくまあ熱心に通ってきてくれるな・・と思う真に有り難い生徒です。毎週通うには、きっと深い事情があるに違いない。通常なら、そう思うほかにない娘さんです。その娘さんは、私的な関係で言えば、私と妻の間に生まれた次女です。やはり特殊な事情で教会学校や礼拝に通わざるを得ない環境にあったわけです。その娘が、この三月末に、高校生聖書伝道協会(hi.b.a=ハイスクール・ボーン・アゲイナーズ)が主催する二泊三日のキャンプに参加して帰ってきました。そのキャンプに行くことを勧める時も、娘としてと同時に中渋谷教会のCS生徒として、是非、参加してみて欲しいと、親としてだけでなく、牧師として願っていたのです。彼女は内心あまり気が進まなかったようですがとにかく参加した。そのキャンプから帰ってきた時、二階の礼拝堂前の階段を上がってくる娘を迎えて、「どうだったキャンプは?」と訊くと、「すっごいよかったよ。お父さん、わたし洗礼を受けようかと思って」という答えが返ってきました。私はその時、嬉しいと言うよりも、咄嗟にある種の寂しさや不安を感じました。そして、それは今もある意味で同じです。
キリスト者の親として、私は自分の子供たちが洗礼を受けることだけを望んでいます。どんな学校に行くとか、どんな仕事をするとか、そういうことに大して興味も関心もありませんし、そんなことが人間の「幸せ」に通じるとは子供の頃から思ったことはありません。でも親として、子供の「幸せ」は強く願っています。そして、私にとっての最大の幸せは、神様の愛を信じる信仰を与えられて、毎週、神様を礼拝する人生を生きることです。私にとっては、このことが最大の幸せだし、ここにこそ祝福があることを感じるし、信じています。ですから、愛する子供たちにもただそのことを望んでいます。牧師ですから、それは自分の子供たちにだけ望んでいるのではなく、すべての人が、この幸福、この祝福を与えられたらどんなに好いかと思い、そのために自分が出来ることは何かをいつも考えながら生活しています。でも実際に、自分の娘が、「洗礼を受けようかと思って」と言った時、それは土曜日の晩のことでもあり、まだ説教も出来ていなかったので、「そうか、それはよかった。また後で話を聴こう」と口では言いながら、何か深いところで、「神様、勘弁してくださいよ。まだ娘を取り上げるのは早いです」という思いが沸き起こっていました。洗礼など受けてしまえば、もう娘は娘でなくなる。少なくとも、その関係性だけではなくなる。彼女は、もう神様との関係性を最も強いものとして生き始める。彼女は、もう親からは独立して、一人の人として神様との関係の中を生き始める。そんな幸いなことはない、そんな喜ばしいことはない。でも、こんなに早く、自分の娘が、神様の者、キリストの者、キリスト者として生きる決断を与えられるとは思っていませんでしたから、私としてはやはり一つのショックでしたし、ある種の喪失感と、最も深い平安と不安の両方を与えられました。平安というのは、やはり最も頼りがいのある方に娘を託せるという平安です。不安というのは、今日の箇所にもあるように、何を命じられるか分からないお方に愛する娘を託すという不安です。「神様、どうかお手柔らかにお願いします。変な使命を与えず、平凡に幸せに生きる道を与えてください」とずっと願っている。でも、それは神様が決めてくださることですし、神様こそが、娘を最も強く愛し、最善の道を決めてくださるのですから、お任せすればよいのですが、とにかく、平凡に、あまり極端な道を歩ませないで下さいと心の中で願っている。それが今の正直な気持ちです。私が人に滅多に洗礼を受けることを勧めないというのも、洗礼なんて受けたら、あとは神様の命令どおり生きなければならないんだから、後戻りは出来ない。そういう恐ろしいことを、私は安易に勧めることは出来ません。でも、神様の召しを受けたのだったら、もう従う以外に道はないのです。それもよく分かっているつもりです。逃げても、結局は捕まるし、捕まる方がよい事も知っています。私の娘も、そのように捕まって、一人の若者になっていくのだということです。
神の備え 見ること 信じること
今日の箇所には、そのように召され、捕まってしまった父と子がいます。彼らは、二人して、自分たちの召し、用い尽くして下さる神様を礼拝する者として歩んでいる。
「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに『わたしのお父さん』(アビー)と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ(ブニー)』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』
アブラハムは答えた。
『わたしの子よ。焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」
「二人は一緒に歩いて行った」という文章が、六節後半と八節後半に枠のように置かれています。その文章に挟まれる形で、この親子の会話が置かれている。
イサクは父と二人でモリヤの山に黙って登りながら、思わず「お父さん」と呼んだ。それまで黙って前を見つめて歩いていたアブラハムは、その歩みを止めて、やはりイサクの目を見つめて、「息子よ」と呼んだ。イサクは、もう堰をきったように、思いのたけを吐き出した。「火と薪はあるのに、焼き尽くす小羊がいないのは、どうして?」アブラハムは静かにこう答えました。「息子よ。焼き尽くす献げ物の小羊はきっと、神が備えてくださる。」そして、二人はまた一緒に歩き始めた。
「神が備えてくださる」と訳された言葉は、「神が彼のために見てくださる」が直訳です。神様が先を見ている。神様が未来を見てくださっている。私たちには今は見えない。でも、神様には見えている。その神様を信じて、この二人は一緒に山に登っていくのです。
英語で「備える」はプロヴァイドゥですが、神様の摂理のことをプロヴィデンスと言います。元は同じ言葉です。神様が先を見ている。だから、そこには備えがある。そのことを信じるのが摂理信仰です。
アブラハムとイサク、彼らはこの会話以後、二人ともまっすぐに前を向いて歩いたでしょう。神様が見ている現実、備えている現実を信じて、それがたとえ独り子を屠ることであるとしても、あるいは自分の命を犠牲として捧げることであるとしても、それが神様の見ていることであり、備えていることであるなら、その道を歩む。それが信仰というものです。アブラハムは、この信仰を生きた最初の人として信仰の父なのだし、イサクはそのアブラハムの子、信仰に生きる子孫なのです。彼らは、二人して、自分の独り子を焼き尽くす献げ物として捧げる礼拝、また自分自身を捧げる礼拝をしに歩いている、生きているのです。
「焼き尽くす献げ物」、それは罪の贖いのために犠牲となる小羊であることは先ほど言ったとおりです。その犠牲の小羊を神様に捧げることで、人の罪は贖われる。犠牲を捧げる礼拝によって呪いは祝福に変わるのです。今日は読まなかった一五節以降に記されていることですが、アブラハムとイサクは、その礼拝を捧げることを通して祝福され、同時に「地上の諸国民」がすべて祝福される源となったのです。このようにして、一二章の段階で、神様がアブラハムに告げた言葉、「わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源になるように。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という言葉が実現していったのです。
献身の礼拝
先ほど、讃美歌二六七番を歌いました。これは宗教改革者ルターが作詩作曲した讃美歌ですけれども、四番の歌詞は元々は「わが命も、わが妻子も取らば取りね」というものでした。しかし、これは女性差別、子供差別と受け取られかねないということで、「わが宝も」と変えられたようです。しかし、ルターは、自分の妻や子を自分の命と並ぶ大事なものという意味で使っているわけで、ルターが女性であれば、「わが夫」「わが子」と歌ったでしょう。もし、そうであったなら「男性差別だ」と言って変更されることはないと思います。とにかく、最愛のものを神様に捧げる、最も大事なものを捧げる。それが礼拝なのです。「今日は時間があるから礼拝にでも行こうか」とか、「お金が多少余ったから献金しとこうか」というのは、私たちの礼拝の姿勢ではありません。余った時間、余ったお金を捧げる。それは礼拝ではありません。そういう態度で捧げる礼拝においては、神様が見ているもの、備えて下さっているものを見ることは出来ないのです。神様がこの日曜日、主イエスを十字架の死から復活させ、新しい安息日(礼拝の日)として定めたが故に、私たちは礼拝に結集する。それが私たち新しい神の民スラエルの姿です。この礼拝が疎かにされるなら、私たちの命は腐敗していくしかないのです。新たな水が沸いてこない、あるいは流れ込んでこない泉の水は次第に腐っていくのと同じように、礼拝を通していつも新たに神様の恵みを受け、その恵みを分かち合うために生きることをしなければ、私たちの信仰は腐り、信仰が腐れば命が腐っていくのは当然のことです。神中心の生活が自分中心の生活になれば、当然、祝福から呪いへと落ちていく。それが聖書が告げている真理です。
神様こそが献身している
ドイツ語で「礼拝」を表す一つの言葉は「ゴッテスディーンスト(Gottesdienst)」です。これもルターが使い始めた言葉のようなのですが、「神の奉仕」という意味です。私たちは「礼拝を捧げる」と言います。それは間違いではありません。私たちが神様に礼拝を捧げるのです。でも、その礼拝の中で知ることが何であるかと言えば、神様こそが、私たちに奉仕をして下さっている、独り子を捧げてくださっているという事実だし、独り子がご自身をあの十字架の上に捧げて下さったのだという事実ではないでしょうか。その独り子が、今日も、私たちの前に跪いて、私たちの罪で汚れた足に触れて、その汚れを洗い清めて下さっている。十字架の血で、私たちの罪を洗い清め、復活の霊によって祝福し、新たに造り替え、世に派遣をしようとして下さっている。これはすべて父なる神と子なる神イエス様の私たちへの献身の奉仕です。私たちが礼拝を捧げる中で知ることは、神様こそが、イエス様こそが、その身を捧げて下さったということ、焼き尽くす献げ物を本当の意味で捧げて、罪による呪いに落ちた私たち一人一人を祝福へと造り替えてくださっているということです。
イエス様は、ある時から、はっきりとエルサレムの丘の上、あの十字架を目指して歩み始められました。それは、神様の命令を受けたからです。ルカ福音書にはこうあります。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」
この決意の後、父と子は、ひたすらにモリヤの山、エルサレムの丘の上の十字架に向かっていかれるのです。十字架の直前、あのゲツセマネにおいて、「私の願いではなく、ただあなたの願いが実現しますように」と祈りきって、イエス様はご自分の身体を、あの十字架に磔にされるままに任されました。
私たちはこの方の献身、この方の犠牲によってすべての罪の赦しを受けているのです。そして、その十字架の死より甦られた主イエスの霊によって新たに生かされている。その恵みに与かるのが礼拝、その祝福に与かるのが礼拝です。この礼拝抜きに、私たちもキリスト者の命はないのです。私たちはこの礼拝で、自分自身を神様に捧げる。自分の命を捨てる。そして、そのことによって、新たな命を頂くのです。私たちはその恵みを受けるために選ばれ、その恵みを分かち合うために派遣されるのです。だから、私たちの礼拝、それは私たちのためだけのものではありません。アブラハムの礼拝が、地上の諸国民すべての民に祝福をもたらす礼拝であったように、地上のすべての人間の罪を贖う小羊であるイエス・キリストを礼拝することは、地上のすべての民に祝福をもたらすことです。私たちは、この礼拝に自分たちの子を招くのだし、すべての人々を招くのです。共に祝福に与かるために、共に恵みを分かち合うためにです。
これから献金を献げ、そして聖餐に与かります。いずれも主の献身にお応えし、私たち自身を献身するためのものです。神様に聖別して頂き、祝福の内に用いていただけますように、祈りましょう。
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