アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
これらのことの後で、アブラハムに知らせが届いた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルとの間に子供を産みました。長男はウツ、その弟はブズ、次はアラムの父ケムエル、それからケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエルです。」ベトエルはリベカの父となった。ミルカは、アブラハムの兄弟ナホルとの間にこれら八人の子供を産んだ。ナホルの側女で、レウマという女性もまた、テバ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。
御言の世界に入るとは?
「アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。」
今日は、この言葉が何を語っているのかを探ることから御言の世界に入って行きたいと思っています。
以前も言ったことですが、聖書を読んでいくときに、私はしばしば富士山の裾野に広がる青木が原の樹海に入っていくような気分になります。一生掛かっても歩きつくすことが出来ない広大な森林の中に入っていく気分です。あの樹海は手付かずの自然の森であると同時に自殺の名所でもあるようですけれど、道がない鬱蒼とした森林の中に入っていくことは、一種の自殺行為のような気もします。意気揚々と入ったはよいけれど、道のない森の中を歩き回っている内に、自分がどこにいるのか分からなくなり、帰ることも、樹海から出ることも出来ず、ついにはその場にしゃがみ込んで力尽きるという感じになるからです。しかし、ある面から言うと、この樹海の中にこそ生きる道があり、命の水や命の糧があるのですから、この森の中に入っていかない方がむしろ自殺行為なのです。だから、毎週毎週、恐る恐る、ドキドキしながら、慎重に足を踏み入れていきます。下手なところで道に迷わないように、一歩一歩確かめながら森の中に入っていく。
鳥が上から見るような視点を持てれば道に迷うことはないかもしれませんが、鳥とは反対の虫の目をもっていないと、様々な木の木肌の感覚や、葉っぱの色合いは分かりません。そして、そういったものを味わうことは大事ですし、森の中に実際に入る意味はそこにあります。そうは言っても、迷ってしまってはいけないので、上から広範囲を見渡す視点も大事です。今日も、そういう二つの視点を持ちつつ、ご一緒に御言の世界に入っていきたいと願っています。
少し上空から見ると
冒頭に読んだ二二章一九節、これは通常は、ただの物語の締め括りの言葉として、注目されるような箇所ではありません。でも、虫のように木肌の手触りを感じながら読むとき、以前、似たような木を見て、触った時とちょっと違う感じがするのです。
創世記二二章は、アブラハム物語においては最高峰に位置します。これまでのすべてのことはここに向かっていると言ってよいでしょう。この二二章において、アブラハムはアブラハムになった。一二章の旅立ちの時に、神様に言われていたように、「全世界の祝福の源」になったのです。それは、彼が神様に選ばれて、はるか遠くチグリス・ユーフラテス川上流の町からカナンの地に向けて旅立ち、そのカナンの地に来たときに、神様から「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を与えられてから実に三十年とか四十年という長い年月を経てのことです。その年月を経て、神様によって与えられた土地と子孫の約束は実現しました。そのことが直前の二一章に記されていたのです。
アブラハムが百歳の時、つまり神様の約束から二十五年を経た時に、アブラハムと妻サラとの間にイサクが生まれ、イサクがアブラハムの後継者になることが確定しました。さらに、その土地の王であるアビメレクとの間に正式な契約を交わして、一つの井戸を手に入れることが出来たのです。この時に、一二章の段階で与えられていた「子孫と土地の約束」が、一人の子、一つの井戸が与えられることで実現した、果たされました。
その二一章の最後が、冒頭に読んだ言葉を理解する上で必要不可欠なものです。三一節から読みますけれど、その前にベエル・シェバとは七匹(シェバ)の小羊をアブラハムがアビメレクに送ることで手に入れた井戸(ベエル)であるという語呂合わせ的な説明があります。
「それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。二人がそこで誓いを交わしたからである。二人はベエル・シェバで契約を結び、アビメレクと、その軍隊の長ピコルはペリシテの国に帰って行った。アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」
永遠の神
今問題にしたいのは「寄留した」という言葉なのですけれど、「永遠の神」という言葉も後ほど大きな意味を持ってくるので、少し触れておきます。
アブラハムは、ついに井戸を手に入れたことを記念して、一本のぎょりゅうの木を植えて、「永遠の神」「主の御名を呼んだ」とあります。「主の名を呼ぶ」とは、主を礼拝するということです。その主の前に、「永遠の神」とここにはあります。こういう呼び方は、聖書の中でここにしかありません。ただ、「永遠」「永久」という言葉(オーラーム)は、アブラハム物語の中で一三章に一回と一七章に四回に出てきます。いずれも、神様がカナンの地をアブラハムの子孫に永久の所有地として与える「永遠の契約」という形で出てきます(割礼も「永遠の契約」ですが土地所有の文脈の中に出てきます)。少なくとも、アブラハム物語の中で、永遠(永久)は、土地所有と結びついた言葉だと言ってよいと思います。その永遠の土地所有を約束してくださり、そして数十年という年月、その約束を忘れることなくついに実現してくださった神のことを、ここで「永遠の神」と呼んでいるのかと思います。
主の名を呼ぶ
また、アブラハムが、「主の名を呼んで」礼拝を捧げたという表現についても触れておかねばなりません。この言葉は、アブラハムが神様から約束を与えられた直後に「祭壇を築いて主の名を呼んだ」という形で最初に出てきます。その直後に、彼らは飢饉によってエジプトにくだり、あやうく妻をエジプトの王に召抱えられそうになったところを主によって救われ、再びカナンの地に帰ってくるのですが、そこに出てきます。そして、次はこの二一章です。つまり、アブラハム物語の始まりと終わりの方に出てくるのですが、その「主を礼拝する」とは一体どういうことであるか、祭壇を築いて主を礼拝するとはどういうことであるか、そのことが明らかになるのが二二章なのです。
そこで明らかになったことは、独り子であるイサクを焼き尽くす献げ物として捧げることが礼拝なのだということです。自分にとって最大のもの、掛け替えのないもの、ある意味では自分自身の命を捧げる。それが罪の償いなのです。その罪が償われ、命によって贖われて初めて、罪人は神の祝福の中を生きることが出来る。そういうことが起こるのが礼拝なのです。アブラハムは罪によって呪いに覆われた世界を祝福に変えるべく選ばれ、旅立たせられたのですけれど、その旅の終着がここにあったのです。つまり、自分の罪を自覚し、その罪の贖いのために、独り子をさえ惜しまずに神に捧げるという信仰を生きること、それがアブラハムの選び、その旅の終着なのです。その終着に至った時、彼はモリヤの山の上(エルサレム神殿が建つ場所)に、イサクの身代わりに捧げるべき羊が神様によって備えられていることを知る。その贖いの羊の中に主の姿を見る。そういう礼拝がそこに生じたのでした。
礼拝の後で住んでいる家に帰る
この礼拝を通して、主なる神はアブラハムの信仰を知り、またアブラハムは主の愛を知ったのです。そして、新たに造り替えられました。それ故に、主は、これまでの約束と祝福のすべてを纏めて彼にこう告げました。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
これが自らを捧げた礼拝者に与えられる祝福なのです。そして、アブラハムへの祝福は世界の祝福であり、呪いによって閉ざされていた未来を切り開いていく祝福なのです。その祝福を受けたアブラハムが、ベエル・シェバに帰る。それが一九節に記されていることです。
ベエル・シェバ、それは彼の所有地であり、そこから彼はモリヤの地(エルサレム)での礼拝に旅立ちました。しかし、二一章の最後には、「アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した」と記されていました。「寄留する」という言葉は、その期間がどれほど長くても、一時滞在を意味します。この後の二三章の冒頭を見れば分かりますように、彼の妻サラは、ヘブロンという所で死にましたから、彼は生涯この地上においては寄留者なのです。いつまでもベエル・シェバに住んだわけではない。しかし、聖書は、そのことを強調しつつも、二二章一九節では敢えて、「アブラハムはベエル・シェバに住んだ」と記している。「住む」と訳されたヤーシャブという言葉は、単に「その場に留まる」とか「座る」という意味もある言葉ですが、「寄留する」(グール)とは使い分けていると思います。もちろん、「資料が違うのだから、言葉遣いが違うのは当然だ」という聖書学的な説明で済ませることもできますけれど、私はもう少し神学的、あるいは信仰的に解釈すべきだと思います。
真実な礼拝を捧げる者を、神様は長年かけて造り上げてきた、あるいは育ててきたのです。アブラハムを、自分の独り子をさえ惜しまずに捧げる信仰者に育ててきた。そして、そういう信仰をもった彼は、神様の祝福の対象ですし、同時に彼が地上を生きていること、罪による呪いに覆われた世界に生きていること、そのことが、世界を祝福へと造り替えていく神様の壮大な御業の第一歩なのです。世界の救済は一人から始まり、それがいつか天の星、海辺の砂のようになっていくのです。そういう世界の再創造、造り替えの最初に、アブラハムの再創造、造り替えを為さったのです。そのことを表すために「寄留した」が「住んだ」に言い換えられたのだと、私は思います。
たとえば、皆さんが、朝家を出て仕事をして夜には家に帰る。あるいは買い物とか、何か娯楽をするために出かけ、楽しんだ後、家に帰る。そういうことが、私たちの日常生活です。でも、住んでいる家を出て仕事をしたり遊んだりして家に帰った時、疲れているとか、気分が変わっているとか、そういう変化はあるでしょうけれど、呪われていた者が祝福された者になっているという変化はありません。ただ出かけて、帰ってきたというだけのことです。
でも、アブラハムが、ベエル・シェバから出かけてモリヤの山でイサクを捧げる礼拝を捧げ、羊の中に主の贖いを見て、羊を捧げて、そして再びベエル・シェバに帰るというのは、仕事から帰るとか、遊びから帰るということとは、本質が違います。この礼拝と前と後は、彼個人にとってもそうですが、人類全体にとっても、決定的な転換なのです。神が一人の人間の信仰を見てその罪を赦し(義とし)、一人の人間が、犠牲の羊の姿の中に主を見るということがそこで起こったのです。この日の礼拝こそが、私たち罪人の罪の贖いのために神の独り子イエス・キリストが贖いの小羊として十字架で死んでくださり三日目に復活をされたことを信じて礼拝する、私たちキリスト者の礼拝の源です。そういう礼拝を経験した後、彼がベエル・シェバに帰るというのは、仕事や遊びから帰ることと決定的に違う。そういうことを、聖書は、「寄留した」から「住んだ」に変えることで表現したかったのではないか。私は、そう思う。
呪いから祝福へ
そして、今よりももっと高い上空からこの物語の全体を見渡してみると、また新たな発見があります。
アブラハム物語は実質上一二章に始まり、今日の箇所二二章一九節で終わると言ってよいと思います。二三章はサラの死と埋葬の物語で、二四章はイサクの結婚の物語です。そして、このアブラハム物語を挟むようにして置かれているのは彼の親族の系図です。一一章二七節以下にはアブラハムの父テラに始まる系図が記されています。
「テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。」
テラには三人の子がいて、その内の一人がアブラ(ハ)ムです。次にナホル、その次がハランですけれど、ハランは早くに死んでしまいました。そのハランの息子がロトで、アブラハムはこのロトを連れて旅立つことになるわけです。この系図を虫のように詳しく見る必要は、今はありませんけれど、この系図において強調されていることは、「死んだ」という言葉であり、「サライは不妊の女であり、子供ができなかった」という言葉です。アブラハムの兄弟であるハランは死に、アブラハムの父テラも死に、そして、アブラハムには子どもが生まれる可能性がない。そのアブラハムは、この後「生まれ故郷、父の家を離れて」神が示す地に旅立っていくのです。ですから、彼の未来は全く見えてこないのです。命を引き継いでいくものが見えてこない。ここで神様が祝福をして下さっても、その祝福を受け継ぐ者が実際にはいないのです。親は死に、兄弟の一人は死んで、故郷を遠く離れた自分たちには命を受け継ぐ者はいない。自分たちが死んだら終わり。お家断絶。そういうことです。そして、アブラハムという人物は、ただの個人ではなく、ある意味で人類を代表している人物なのです。
アブラハム物語の直前に置かれた系図、それは創世記一章から一一章までの物語の帰結を現しつつ、同時に一二章以下に橋渡しをしているのですけれど、それはどういうことかと言えば、神様による祝福で始まった世界の歴史は、人間の罪によって呪われたものとなった。その呪いの帰結は死であり、不妊である。今生きている者の人生は死で終わり、新しく生まれる命はない。それが一一章までの物語の帰結です。少子高齢化社会とはそういうものでしょう。金や権力を求めて生きてきて、そういうものは持っているけれど、神を愛することもないし、互いに信頼することもないし、望みもない。産む気も増える気もないし、実際に産めないし増えない。そういう社会、そういう教会があります。
しかし、そういう世界の歴史の中に呪いの象徴と言ってもよい死と不妊という現実を抱えたアブラハム夫妻が旅立たされる。彼また彼女が、本当に神を信じるということ、一切をかけて神を信じ、またすべてを捧げる信仰を持つことが出来るのか否か。世界とその歴史が呪いから再び祝福へと造り替えられるか否かの鍵を握っているのは、アブラハムの信仰なのです。先ほど復習したように、この二二章において、やっとアブラハムの信仰は真実なものとなり、彼は神様がどういう神様であるかを知ることができました。その時に、彼は豊かな祝福を受け、「地上の諸国民がすべて彼の子孫によって祝福を得る」ということになったのです。
その直後に、一一章と同じく、それまでの物語の帰結と次に始まる物語の橋渡しのような形で系図が置かれている。この系図は、アブラハムの故郷に残っていた生き残りの兄弟ナホルとその妻ミルカの間に八人もの子どもが生まれたという知らせがアブラハムに届いたという形でまず記されています。八人の最後に記されているベトエルは、「リベカの父となった」と言われる。このリベカこそ、後にアブラハムの後継者イサクの妻になる人物ですし、アブラハムの孫を二人産む女であり、その内の一人ヤコブから十二人の男の子が生まれ、それがイスラエル十二部族となっていくのです。そういう未来が開けていく。アブラハムの命、その祝福が継承されていく。そういうことを、この系図は暗示しているのだと思います。つまり、この系図は、一一章にあるような死の呪いの象徴ではなく、命の祝福、継承と拡大を表す系図なのです。
神の祝福と計画に対する讃美・礼拝
この知らせを聞いた時、アブラハムは数十年前に、ただ主の言葉に従って旅立った時には、決して知り得なかった神様の深い深い憐れみに満ちたご計画を思い、神様の祝福を感謝し、永遠の神様の御前にひれ伏し、「主よ、あなたはなんというお方でしょうか?なんという素晴らしいお方、時を支配し、歴史を導くお方です。讃美を受けるべきはただあなたお一人です」と讃美せざるを得なかったのではないかと思います。
時を支配しているのは神様です。聖書においてご自身を啓示しておられる神様は、世界の主であり、歴史の主です。しかし、その支配は、どのような支配なのか?それが分からなければ、ただ「支配」と言った所で意味はありません。そして、そのことを考えるには、先程よりもさらに、新約聖書が見渡せる上空まで高度を上げなければなりません。
もう時間がありませんから、細かい説明は一切省きますけれど、コリントの信徒への手紙Tの一五章二〇節以下で、パウロはこう言っています。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」
パウロは、この先で、「死のとげは罪である」と言っています。罪によって突き刺された人間は、裁きによって死ぬ以外にありません。創世記に出てきた言葉を使えば、それが「呪い」です。その罪による死を打ち破り、復活されたのが神の独り子イエス・キリストです。この神の独り子が、あの十字架の上に磔にされてすべての人間の罪を贖う小羊として死んでくださったことを通して、私たちの罪は赦され、この方が死を打ち破って復活してくださったことを通して、すべての人間を支配していた罪と死の力、呪いの力は打ち破られたのです。私たちがその喜ばしい知らせ、福音を信じ、その信仰を告白し、洗礼を受ける時、私たちは罪と死、呪いの支配から、命と祝福に満ちたキリストの支配の中に移されるのです。
私たちキリスト者は、幸いにも、神の愛、キリストの恵みによって信仰を与えられ、洗礼を受けて聖霊の交わりの中に入れられて生かされています。ヨハネ福音書におけるイエス様の言葉によれば、「永遠の命」に生かされているのです。キリスト・イエスを通して、神様は、天国を所有として与るという「永遠の契約」を結んでくださったのです。既にキリストに結ばれて永遠の命を生きている私たちは、終わりの日に、御国において朽ちない体に甦らされる。それが神様が与えて下さった永遠の契約です。だから、今この肉体を抱え、絡みつく罪と戦いながら生きていることは空しくないのです。最後はキリストの勝利に与かることが約束されているからです。そして、私たちが今日、ここで礼拝をしてそれぞれの家に帰るとは、そのキリストの勝利、キリストの祝福を持ち帰ることであり、世界に祝福をもたらすためなのです。私たちは礼拝の度ごとに、そういう栄えある使命を与えられて、それぞれが住む場所へ派遣されているのです。
しかし、皆さんの中には、二〇世紀後半から絶えず紛争を引き起こしているパレスチナ問題のことを思い浮かべる人もいるでしょうし、アブラハムの肉の子孫であるユダヤ人問題を思い浮かべる人もいると思います。少なくとも私はその問題を考えざるを得ません。
アブラハムの祝福を受け継ぐべきユダヤ人が、何故今、アブラハムの子としてお生まれになった御子イエス・キリストを信じる信仰に生きることがないのか?あの約束の地は、何故、絶えず紛争の地であり、「神の平和」を意味するエルサレムが、その紛争の中心地になっているのか?そういうことを思わざるを得ません。
しかし、「神にあっては、千年は一日、一日は千年」という言葉が聖書にはあります。神は私たちが持っている時の感覚などはるかに越える「永遠の神」として、今も世界を支配し、歴史を支配し、救いへと導き続けて下さっているのです。
パウロは、その点についてローマの信徒への手紙一一章の最後でこう言っています。
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
アブラハムを選んだその選びは今も取り消されていません。いつの日か、アブラハムの肉の末であるイスラエル人(ユダヤ人)も、信仰の末である私たち異邦人キリスト者も、主イエス・キリストを通しての憐れみを受け、罪赦され、約束の御国を受け継ぐ日が来るのです。今の現実が、どのようなものであれ、この二千年間は神にあっては二日でもあるのですから、今も、その日に向かって私たちの歴史は導かれ、私たちの人生も導かれているのです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。・・・すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」
これが今日の私たちの礼拝です。そして、この礼拝を終えて、私たちは家路に着きます。神の祝福を与えられ、神の祝福をもたらすために住む所に帰ります。私たちが、どんなに高い所から見渡しても、そんなもの所詮、鳥が飛べる高さに過ぎず、神様の為さっていること、また為さろうとしていること、そのご計画の全貌など見渡すことが出来るはずもありません。ただ、私たちは神様がその独り子をあの十字架につけて私たちの罪を贖ってくださり、そして甦らせたその一点において、神の愛と勝利を信じることが出来ます。その信仰を与えられた私たちが、これから住んでいる家に帰ります。そのこと自体の中に、私たちが決して極め尽くすことが出来ない神のご計画、救いのご計画があるのです。ただ、讃美し、感謝する以外にないのではないでしょうか。
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