「主よ、どうか」

及川 信

創世記 24章 1節〜67節

 

 アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」アブラハムは答えた。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。
 僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」(一節〜一四節)


 創世記を原則的には月に一回読んできて、今日で七〇回目になるようです。一回目は二〇〇二年の九月ですから約五年の歳月が流れており、「アブラハム物語」を読み始めたのは二〇〇五年の九月ですから、二年間が過ぎようとしています。回数にすると二十五回目となります。そのアブラハム物語が、基本的には今日の箇所で終わります。二五章でアブラハムは死にます。しかし、二五章というのは来週語りますけれど独特な箇所で、一連の物語の文脈とはちょっと違う観点から書かれているのです。そして、今日の物語の最後には、イサクがアブラハムの僕の「主人」として出てくるので、恐らく、ここでアブラハムの死が暗示されているのかもしれません。彼は、本当に静かに消えていくのです。
 今日の箇所は、是非読んでくるようにと先週お願いをしておいたのですが、非常に長い箇所です。通常の私であるなら、何回にも区切って語るところですけれど、二四章は最初から最後までを読んで初めて分かるという箇所であり、部分部分に注目してそれを深めてしまうと、むしろ話のリズムや全体像を壊してしまうと思うのです。そこで、今日は思い切って物語の全体からメッセージを聞き取っていきたいと願っています。限られた時間の中で長い物語を扱いますから少し散漫な話になりますが、その中から、皆さんそれぞれが何かのメッセージを受け取ることが出来れば幸いだと思います。
 ここには、死を間近に控えたアブラハムがいます。神様の忍耐と憐れみの中に置かれて、ついに独り子をさえ惜しまずに捧げる信仰を与えられたアブラハムは、今や「何事においても祝福を与えられている」のです。つまり、財産と長寿を与えられ、幸福な晩年を生きている。
 しかし、その彼にとって唯一の心残りというか、最後に残った課題がある。このことが実現しなければ、死ぬに死ねない。そういう課題があった。それは、彼の息子イサクの結婚です。この時イサクは四十歳であったことが、二五章まで読むと分かります。アブラハムにしろ、イサクにしろ百七十歳以上生きたことになっていますから、四十歳と言っても大して心配することはないのかもしれませんが、彼にとっての問題は、「息子が結婚できるかどうか」ではなく、「神様の約束が今後実現していくのかどうか」なのです。
 主なる神は「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」という言葉に従って旅立ち、カナンの地にまでやって来たアブラハムに対してこうおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える。」

 以後の彼の人生は全て、この約束を巡ってのものとなりました。彼が、この約束を信じるか信じないか?神様は、果たしてこの約束を実現してくださるのか、下さらないのか?また、約束の実現はいつのことなのか、それはどのような形のものなのか?以後のアブラハム物語は、ずっとその問いの中で展開されてきたのです。そのピークが、漸くにして与えられた「独り子であるイサクを焼き尽くす献げ物として捧げよ」という、理解不能な命令であることは既に見てきたことです。
 そして、今、妻のサラは死に、自分の死も近いということをアブラハムは知っています。彼は、全財産を任せている年寄りの僕に向かってこう言います。

「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」

 人の手を自分の腿の間に入れさせて何かを命じるというのは、アブラハムの孫であるヤコブが息子ヨセフに、「自分が死んだ時は、遺体をエジプトの地に葬るのではなく、アブラハムが買ったあの墓に葬ってくれ」と頼む場面でも出てきます。つまり、今生の別れをする時に、これだけは絶対に守って欲しい、実行して欲しい、そういう遺言を告げる時に、やることなのです。
 そこでアブラハムが言っていること。それは、イサクの嫁はカナンの地の娘であってはならず、アブラハムの親族がいる故郷の娘を連れてこなければならないということです。でも、ここで問題とされているのは、実は民族とか血族というよりも、むしろ信仰の問題なのです。
 アブラハムの信仰は、アブラハムに始まった信仰ですから、故郷に住む彼の親族が彼と同じ信仰をもっているわけではありません。彼らは誰も、アブラハムが出会ったような形で主なる神に出会ったわけではありません。しかし、アブラハムの父テラがカルデアのウルを捨ててハランの地に旅立った背景に、宗教的動機があったのではないかと推測されています。そういう宗教的感覚を少しでも共有できる人間でなければ、アブラハムの信仰を受け継ぐイサクの嫁に相応しくないのは、やはり当然のことだろうと思います。イサクの嫁は、神の促しに従ってすべてを捨てて決然と見知らぬ地に旅立つ人間でなければならない。アブラハムはそう考えた。いや、アブラハムがそう考えたというより、神がそう願っているとアブラハムは考えた、確信した。そういうことだと思います。
 アブラハムは臨終に際して、自分に与えられた約束と、その約束を信じて生きる信仰と、それに伴う祝福を受け継ぐ子孫の誕生を切に願っているのです。イサクが生涯独身であっては、神様から与えられた「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束は実現しないわけですから、アブラハムは、人生の最後になってまたもや「約束の実現は一体どうなるのか?!」という難問の前に立たされているのです。
 アブラハムによって全権大使として立てられる僕は、何が最優先事項なのかを確認します。イサクがアブラハムの故郷の女と結婚することが最優先事項で、それさえ実現できるのなら、イサクを故郷のメソポタミア地方に連れて行ってもよいのか?と。
 しかし、アブラハムは断固としてこう言う。

「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」

 実は、この言葉が、聖書に出てくるアブラハムの最後の言葉です。ここで彼が言っていること。それは、神様は必ず約束を守ってくださるのだということです。神様が、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されたのだから、私の子がこの地を離れて住むなどということは考えられない。神様は必ずその約束を実現してくださるのだ。もし万が一、女がこちらに来たくないと言うなら、そこでお前の使命は終わる。その女は、イサクと結婚すべく立てられた女ではない。そういうことだと思います。
 彼は、「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を信じている。本当に故郷にイサクに相応しい女がいるのか、その女がかつての自分と同じように、「生まれ故郷」「父の家を離れて」この地にまで来てくれるのか、その一切は分かりません。でも、神様は必ずその約束を実現してくださるのだ。私はそのことを信じる。
 アブラハムの人生における最後の言葉は、こういうものです。そして、そこに彼の幸いがあります。死ぬ間際に、神様の約束を信じることが出来る。そして、その信仰を口にすることが出来る。なんて幸せな生涯なのだろうと思います。
 先週、ヘブライ人への手紙一一章を読みました。そこには、アブラハムたちイスラエルの先祖のことがこのように記されていました。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

 彼は臨終の時、約束されたものを手に入れたわけではありません。でも、はるかにそれを見て喜びの声をあげているのです。物語としては、「彼の忠実な僕が、イサクの嫁を連れ帰ってくるのを見て、喜びの声をあげてアブラハムは息を引き取った」というのが結末に相応しいとも思いますけれど、約束を信じて生きるアブラハムは、約束を信じる信仰告白をしてその生涯を終えるのです。恐らく、僕がリベカを連れて帰る前に死んでいる。往復で二ヶ月を要する旅ですから。彼はリベカを見ることなく、またリベカを愛して幸せに暮らすイサクを見ることなく、彼らの間に生まれる子孫を見ることなく、そして、その子孫にカナンの地が与えられるなどという、アブラハムの死後数百年を経てようやく実現することになる現実など少しも見ることなく死んでいったのです。それは、私たちの感覚で言えば、無念の中の死、惨めな死ということになるかもしれませんが、約束を信じて生きるアブラハムにとっては、その約束を信じて、その実現する様をはるかに望み見て、喜びの声をあげて死んだのだと思います。聖書は、そういうことを書いているのだ、と私は思います。そして、アブラハムはつくづく幸せだったと思います。
 ヘブライ人への手紙一一章は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」という言葉で始まります。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」。これは本当に深い言葉です。しかし、ここで間違えてはならないのは、この「望んでいる事柄」とは、自分が勝手に望んでいることではないということです。元々が「自分の望み」ではないのです。ここで「望む」とは、神様が与えて下さった約束の実現を「望む」ということです。そして、その約束が目の前に実現していなくとも、死ぬ時に実現していなくとも、それは神様の約束であるが故に、必ず実現するものと確信し、その信仰において実現したものとして確認する。そして喜び、主を讃美する。そういう信仰の世界、あるいは信仰の内実があるのです。その信仰に生きる時に、喜びの声を上げながら、天を目指し、天の故郷、天の都を目指して、地上を旅することが出来るのです。
 アブラハムはその信仰をもって僕を故郷に派遣します。そこで、彼は消えます。すべては僕と僕を導く神に委ねて、彼の使命を終えるのです。
 僕は何をすべきで何をすべきでないかを明確に確認したうえで、高価な贈り物を多く携えてらくだ十頭と共に出発します。つまり、人知を尽くして天命を待つのではなく、天命を受けて後、人知を尽くしているのです。
 その彼が、
「女たちが水くみに来る夕方、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。」
 これからは、人の知恵と神の知恵、また神のご計画が交錯しながら物語は進展していきます。この僕は、全財産を任されるほどにアブラハムに信頼されている人物であり、年寄りです。酸いも甘いも知り尽くしているのです。こういう時に何をしたらよいのか、どうすれば人と出会うことが出来、また人の心を動かすことが出来、自分が望む方向に進ませることが出来るのかを熟知している。それはこの後に出てくるラバン(リベカの兄)との交渉の仕方などを見てみればよく分かります。しかし、その彼が、アブラハムの故郷の町に着いた時に真っ先にやったことは祈りです。彼はただ神に祈るのです。自分の知恵にではなく、神の知恵に頼むのです。

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

 彼は、まさに主を呼んでいます。「主人アブラハムの神、主よ」と大声で呼んでいる。四五節を見ますと、彼はラバンへの説明の中で「心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せて来られたではありませんか」と言っているので、声に出して祈っていたわけではないのでしょう。しかし、声に出すか出さないかは別として、その心において大声で主を呼んでいることは確かだと思います。助けを求めて叫んでいるのです。ここに「ご覧のように」とあるのですが、ここは「ご覧下さい」「見て下さい」という訳のほうが、臨場感があると思います。「私はここにいます。目を向けてください。」そして、「水を下さいと頼んだら、ラクダにも飲ませましょうと答えてくれた娘を、あなたが決めたものとさせて下さい」と、私たちではちょっと言わないというか言いにくいことを言っています。でも、たしかにイエス様も「祈り求めるものはすべて既に与えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と仰っています。この僕の祈りは、そこに通じるのだろうと思います。
 すると、「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た」と、すべては神様のご計画であったかのように物語は進展します。それは出来過ぎの展開で、「彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘であった」。つまり、まさにアブラハムの親族の娘の一人なのです。しかし、これは読者である私たちだけがこの段階で知らされていることで、私たちのほうが先に、神様の導きを知るのです。さらに、彼女は「際立って美しく、男を知らない処女であった」。美しさは僕にも分かるでしょうけれど、処女であるということも、読者だけに知らされる情報です。
 とにかく、祈り終わらない内に早速現れた美しい娘を見て、僕は興奮冷めやらない思いで彼女に駆け寄り、「彼女に向かい合って語りかけ」ました。

「水がめの水を少し飲ませてください。」

 すると、彼女はまさに祈ったとおりに、「ラクダにも飲ませてあげましょう」と言ったのです。この井戸は、私たちが見慣れているようなロープに桶をつけてドボーンと投げ下ろし、ロープで引き上げるという井戸ではなくて広い範囲を深く掘った井戸で、水がめを背負って階段を下りていき、地下水をくんではその水がめを肩に背負って登ってこなければならない井戸です。「水をくみに井戸に走って行った」というのは、そういうことです。
 「こうして、彼女はすべてのらくだに水を汲んでやった」のです。何度往復したのかは分かりません。何分掛かったのかも分からない。大変な重労働です。でもその間、僕は「主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」この僕には従者が何人もついていたのですけれど、彼らに手伝わせることもなく、黙って彼女を見つめていた。それは、主の御業を見つめていたということでしょう。
 私だったら、リベカが「らくだにも水をくんできて、たっぷり飲ませてあげましょう」と言ったその途端に狂喜乱舞して、「あなたこそ、私の主人の息子の嫁になるべきお方だ。神様、有難う」なんて叫んでしまいそうなのですが、この僕は流石にそれほど愚かでも軽率でもない。黙って、主の業を見つめているのです。「主よ、どうかわたしを見て下さい」と頼んだ僕は、今、主が地上で為さる業を最後まで見届けるために黙っている。
 そして、確かに、主が旅の目的をかなえてくださるのだと確信できた時に、つまり、主が彼の主人アブラハムに「慈しみを示されたことを知った」時に、彼はおもむろに、そして決然として動き始めます。
 こういう物語は、実は細かい所作を読み取って行くと面白いのですが、もうそういうことをしている時間はありません。僕は旅の目的についてリベカには何も言わず、ただ高価な贈り物を渡しながら身元を尋ね、家に泊まるスペースがあるかどうかを尋ねます。彼はここで初めてこの娘が気立てがよいだけでなくアブラハムの親族であることを知り、主は彼の願いを越えてその御心を実現しようとしてくださっていることを知ったのです。そして、先ほどは立ったまま祈ったのですが、ここでは思わず「ひざまずいて主を伏し拝み」、こう祈りました。

「主人アブラハムの神、主は称えられますように。主の慈しみとまことは私の主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました。」

 祈りに始まった出来事は、感謝の祈りで一つの区切りがつきます。その後は、人と人との交渉事が始まります。リベカの兄ラバンは、リベカが身につけている高価な鼻輪と腕輪を「見て」、事情を「聴いた」瞬間に、これは大変な金儲けの話が転がり込むに違いないと思って、僕のところに「走って」来ます。そして、丁重に家に迎え入れる。そして、もてなしの食事を並べて、あとは食べるだけという時に、僕が口を開きます。このタイミングも憎いほどうまいと思います。
「用件をお話しするまでは食事をいただくわけにはまいりません。」
 そう言ってから、アブラハムとの間に交わした約束から始まって今に至るまでの道行きをつぶさに語るのです。その中で、見落としていけないことは、アブラハムが非常に裕福であり、さらにその全財産をひとり息子に既に譲り終わっているということを強調していることです。つまり、その息子と結婚する女もまた裕福な暮らしが出来るということです。そして、その上で、井戸での祈り、リベカ登場と諄々と語り続け、最後に、「主が、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりなら、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます」と言って、その話を締め括ります。
 ここまで黙って聴いてしまえば、もう結論は自ずと出たようなものです。ラバンやその父のベトエルらが、「娘を嫁に出すことは出来ない」と言えば、僕は目の前に用意されたご馳走には目もくれないで、「それでは、私は帰ります」と言って席を立つでしょう。それは、ラバンらにしてみれば、みすみす大金持ちとの縁談を断ることを意味し、さらに主の御心に背くことを意味することになるのです。莫大な額になりそうな結納金を貰うことが出来ない上に、神様のお叱りを受けるかもしれない。そういうことです。だから、答えは決まっているのです。彼らは、こう言います。

「このことは主のご意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息の妻になさって下さい。」

 大成功です。僕はまさに仕事をやり遂げたのです。極めて冷静に、そして情理を尽くして、事を動かし、人の心を動かした。これは彼の手柄です。でも、彼は知っているのです。すべては、主のご計画とお導きであったことを。
 だから、彼は「この言葉を聞くと、地に伏して主を拝した」。主を礼拝したのです。すべてのことを主に感謝し、一切の栄光を主に返して、主を讃美している僕がここにいます。彼はアブラハムの僕でありつつ、まさに主の僕なのです。
 その彼が、この礼拝の後にやることは儀礼を尽くした世事そのものです。金銀、装身具、衣装をリベカに送り、彼女の兄や母にも高価な贈り物を贈り、その上で彼は初めて酒食のもてなしを受けました。一切の借りを作らず、些かの弱みも見せず、ラバンたちに対して下手(したて)に出ながら、絶えず主導的立場を握っているのはこの僕です。彼は、平身低頭、頭を下げ、贈り物をたくさん差し出して嫁を貰う立場なのに、「あなたがたが主に従うか否か、それが問題なのだ」と彼らに迫っているのですから。そして、彼らが従うと告白したときに、初めて贈り物を与えるのです。普通は順序が逆です。
 さらに彼は、異例中の異例のことですけれど、翌朝には「もう帰る」というのです。用は済んだ、目的をかなえてくださったのは主だからもう帰る、と言う。普通だと、この後も数日間、接待をたくさん受けてゆっくりするのですが、そういうものは決然として断る。困ったラバンたちは、リベカに意向を尋ねようと言ってリベカを呼んで「お前はこの人と一緒に行くのか」と聞いたら、まさかの返事で「はい、参ります」と言う。彼女は、昨日の今日、会ったこともないイサクの妻となるために「父の家を離れ」「故郷を離れて」、はるか遠くの見知らぬ地に旅立って行きます。それは片道一ヶ月も掛かるもので、彼女一人で行ったり来たりできるものではなく、彼女はもう二度と故郷に帰ることはありませんでした。
 この決然たるリベカと心優しいイサクが、ネゲブ地方の野原で初めて出会うシーンは、本当に美しいものです。もう時間がないので、少しだけにしますが、夕闇が迫る野原を、イサクはまだ母親の死を悲しみながら、悶々とした思いを抱えてうろつきまわっている。すると、はるか遠くからラクダが歩いてくるかすかな振動が地面から伝わってきたのでしょう。目を上げて見ると、たしかにラクダ一〇頭とその上に誰かが乗っているのが見えたのです。彼は僕たちが帰って来たに違いないと思って、そちらに向かって歩き始めた。リベカも、はるか遠くからこちらに向かってくる男に気がついて、目を凝らしてその男を見た。その瞬間、彼女は彼こそ夫になるべき人ではないかと思い、すぐにラクダを下り、たしかにそうだと確認すると、ベールをとって顔を隠します。これから夫になる男性をらくだの上から見下ろすことがないように、そして、砂埃で汚れた顔を見せることが、最初の出会いとはならないように・・・。
 ここで僕は、「自分が成し遂げたことすべてイサクに報告した」とあります。でも、私は、これはおかしいと思います。ヘブライ語では、「言葉」と「出来事」は同じ言葉です。英語のヒストリーもストーリー、物語が背後にある言葉のようなのですが、ここでも「僕はすべての物語をイサクに語った」と訳している翻訳もあります。何が言いたいかと言うと、これまで読んできて明らかなように、僕はここで「自分が成し遂げたことをすべて」誇らしげに語っているはずがないのです。目に見える形ではすべて彼がやったことでしょう。彼なくしてリベカがカナンの地にまでやってくるなどということは起こり得なかったでしょう。でも、彼は誰よりも知っているのです。すべては、アブラハムに対する主の慈しみとまことの故に起こった出来事であり、この出来事を導いてくださったのは主であり、すべての物語、ストーリーの作者は、主であるということを。
 僕は、イサクに向かって、「あなたの嫁を私が探してきてやったぞ」と言っているのではなく、「あなたの嫁は、主が選び、主がここまで導き、そして、あなたと出合せて下さっているのです」と告げたのです。「あなたの伴侶は、主が与えて下さった伴侶です。主に感謝しましょう。」彼は、そう言ったに違いありません。すべてのことは、主から出て、主によって保たれ、主に向かっているのです。主の栄光こそが、ここで讃美されているのです。
 私は、それこそ主が備え、与えてくださったのだと確信して、青山学院の短大の講義や、先週は女子学院の修養会に出かけています。神様が今年になって、青年伝道、学生伝道をしろと命じておられると信じて、一生懸命にやっています。そこで私が繰り返し語り、また問いかけていることは、「あなたの人生は、あなたの人生なのか」「あなたは、今、どこにいて、どこに向かって生きていこうとしているのか」ということです。短大では、毎回授業感想レポートを書いてもらっていますが、七月に入ってから、学生たちは次第に自分の心の内面にある喜びや悲しみや苦しみを書いてくれるようになりました。また女子学院の修養会では、世間的には恵まれた環境の中で生まれ育ち、知的には優秀と評価されている高校生たちの不安と恐れと自負と希望と絶望の声を聞いてきました。
 私は、常に、「自分が生きていると思って生きていける間は、それで行くしかない。でも、実は、自分が生きているのではなく、自分が生かされているのだということに気がついて欲しい。自分の命、自分の人生は実は自分のものではないということに、いつか気がついて欲しい」と、問いかけ、訴えてきました。
 先日も読んだところですけれど、パウロはローマの信徒への手紙の中で、こう言っています。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。


 そうなのです。すべてのものは神から出でて神によって保たれ、神に向かっているのです。アブラハムは、生涯の晩年にそのことを固く信じ、神の真実の愛を喜んで死んでいきました。彼の僕もまたアブラハムの信仰を身に帯びて、すべては神の導きの中にあることを信じて祈り、礼拝しつつ歩み通し、イサクに全ての物語、ヒストリーを語り、すべては神の導き、ご計画の中にあったことを告げたのです。イサクは、そのご計画の中に妻を与えられ、その妻を生涯愛し、またアブラハムに与えられた約束を引き継ぎ、そして、約束を信じて生きる生涯を引き継いでいくことが出来たのです。
 私たちが今こうして主イエスの招きに与かって、礼拝を捧げているということは、これはまさに神の慈しみの故です。私たちは神の慈しみの故に、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の命に与かり、すでに国籍を天に移されており、はるかに天の国、天の都、天の故郷を目指して歩んでいます。そしていつの日か、新しい天と地が完成する救いを確信し、また信仰において確認して、既に喜びの声を上げつつ生きることが出来ます。その私たちの信仰の歩みと、このキリストの勝利を告げる礼拝が、この世に福音をもたらすものなのです。
 アブラハムのように堅く信じ、僕のように絶えず祈り、鳩のように素直に、蛇のように賢く生き、すべての栄光を主に返して歩んでいくことが出来ますように。

創世記説教目次へ
礼拝案内へ