「アブラハムの死」

及川 信

創世記 25章 1節〜18節

 

 アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ。ヨクシャンにはシェバとデダンが生まれた。デダンの子孫は、アシュル人、レトシム人、レウミム人であった。ミディアンの子孫は、エファ、エフェル、ハノク、アビダ、エルダアであった。これらは皆、ケトラの子孫であった。アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。
 アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。
 アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。
 サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。


 今日の箇所でアブラハムの死が確認されます。聖書の読み方には色々あって、所々拾い読みする読み方もありますし、それはそれで結構なことです。礼拝においても、多くの教会は教会暦に従って選ばれた箇所を読み、説教するという仕方を取っています。カトリック教会や聖公会、またルーテル教会などはそういう形式で旧約聖書、詩編、福音書、使徒言行録、書簡などをバランスよく読み、その中で指定された箇所を説教するという方式です。それ以外の諸教会では、牧師が教会の状況や自分の好みや力量に応じて自由に選んで、毎回、主題を決めて説教をするということもなされています。しかし、その一方で、中渋谷教会のように、ある書物の最初から最後までを連続して読み続け、説教をすることを基本とする教会もあります。それぞれに一長一短があります。クリスマス、イースター、ペンテコステ、三位一体などの教会暦に従うことで聖書全体に触れることが出来るし、教会生活の季節感というか、リズムを感じることが出来ます。しかし、その一方で、続けて読んでいるからこそ分かるという感覚を共有することは出来ません。連続講解説教は、続けて読むからこそ分かる聖書のメッセージを重んじるのですが、それは一方では始めてきた人には非常に分かりにくい説教ということになります。そして、今日の箇所などは、教会暦に従う場合や牧師が個人的に選ぶという場合にも絶対に選ばれない箇所の一つでしょう。それには色々な理由があるわけですけれど、先日、ある人が私に向かって「あなたが、なにをどう言おうと、司式者が『アブラハムは再び妻をめとった』と読んだ途端に女性たちの大半は『なーんだ。そうなのか・・』と興醒めして、アブラハムのことなんか聴く耳を持たなくなるのよ。それに比べれば、二四章に出てくる僕はいい。あの人は、あそこだけにしか出てこないから、ボロが出ない。人間長く生きるとボロが出るからいけない」と言うものですから、アブラハムほど長く生きていなくても、ボロが出まくってボロボロのような私にとっては、尚更、語りにくい所です。しかし、そういう個人的な事情は別としてこの箇所から福音のメッセージを聴き取ることは、誰にとってもそう容易いことではないと思います。
 創世記から申命記までをしばしば『モーセ五書』あるいはただ『五書』と言って一つの纏まった塊と見ることがあります。しかし、その『五書』がどのようにして現在の形になったのかについては今も様々な見解が出されています。でも、モーセ一人が書いたわけではないし、モーセ以外の誰かが一人で書いたわけでもないということは、明らかです。おそらく何十年とか何百年に亘って語り伝えられ、書かれた様々な物語が、次第次第に集められ、編集されて今の形になったと思われるのですが、その壮大な物語の一部であるアブラハム物語も、その前後の物語と緊密な結びつきを持ちつつ、様々な伝承が結び合わされて現在の形になったのだと思います。
 そのようにして成立してきたアブラハム物語を読んできて私たちの心に残っているストーリーは、アブラハムと妻サラは高齢で子どもを作ったり産んだり出来るはずがないのに、アブラハムが百歳の時に、神様の約束の実現として独り子が与えられた、というストーリーです。そのストーリーが、これまでのアブラハム物語を一貫していたと言っても過言ではない。そして、先週ご一緒に読みましたように、その独り子であるイサクが、アブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐべくリベカと出会い、結婚したのです。その物語の中に、既にアブラハムの死が暗示されていることは先週語った通りです。
 一方で、そういう物語がある。しかし、他方で七節以下にあるようなアブラハムの死と埋葬を客観的に報告する記事がありますし、アブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルの系図やその死を報告する記事がある。そして、問題のアブラハムがケトラという妻をめとり、彼女との間に六人の子供が生まれたという記事がある。
 この記事は、ある意味で、これまでの話をすべてぶち壊すものです。アブラハムが再び罪を娶り、六人もの子供が生まれるという出来事が、物語の文脈のままサラの死とイサクの結婚の後のこととするなら、彼はもう百数十歳ということになります。その歳でもいくらでも子供はつくれるということになると、一七章の段階で、神様がアブラハムに対してサラから男の子が生まれると告げられた時に、アブラハムがひれ伏しながら心の中で笑い、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と言ったことはまるで茶番だと言うことになるし、一八章でもサラも笑って、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った」という記述も、それこそチャンチャラ可笑しい話になってしまうのです。
 あるいはまた、ケトラは一節では「妻」と出てきますが、六節では「側女」として出てきます。かつてサラの女奴隷だったハガルとの間に子供を産ませ、それを自分たち夫婦の間の跡取り息子としようとアブラハムとサラ夫妻が企てたことがありますが、その時「アブラハムの妻サライは、エジプトの女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラハムの側女とした」と記されています。しかし、原文では「妻として与えた」と記されている。そのあたりの翻訳の事情はよく分かりませんが、いわゆる正妻ではなく、子供を生むための側女は第二夫人という扱いを受けて、その第二夫人から生まれた子を、正妻の子としてその家の跡取りにすることが出来たのだと思います。そういう意味で、その女性は側女でもあり妻でもある。そういうことであるように思います。このこと自体は当時の法慣習なのであり、日本で言うところのいわゆる「妾」とか、不倫相手とか、そういったものとは全く無縁のことです。子孫を増やし、家を存続させるための制度であって、よこしまな人間の欲望とは関係のない話であることをまずは覚えておかなければなりません。病院もなく、福祉施設もない時代、子供が無事に育つ確率は格段に低く、年老いた親の面倒見るのは子供以外にはいないのですから、こういう制度は世界の至るところに存在していたし、今でも存在するところはあるのではないでしょうか。
 しかし、そのことはよく理解した上でも、このケトラとの結婚がサラの死とイサクの結婚後であるということも、アブラハムはずっと前からケトラという妻あるいは側室をサラ以外に持っており、彼女やその子供たちと共に過ごしていたということも、非常に考えにくいことに変わりはありません。
 だとすると、これまでの話を台無しにするような記事があること、そして、その記事がここに置かれているとは、何を意味するのかを考えなければならないということになります。
 私が今回この記事を読んでいて気がついたというか、思いついたのは、創世記一〇章です。そこはしばしば「民族分布表」と呼ばれますけれど、洪水後にノアの三人の息子から生まれた子孫が世界中に広がった状況が描かれているのです。そして、それは洪水という徹底的な裁きを経た後に、神様が新たに「ノアと彼の息子たちを祝福して『産めよ、増えよ、地に満ちよ』」と語りかけたことに始まります。そして、その祝福の後に「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」という永遠の契約を神様がお与えになります。
 その上で、「箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がった」とあります。その後に、ノアが酒を飲んで裸で寝て云々という物語が入り、そこで息子の一人「セムの神、主をたたえよ」とか「神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ」とノアが言って、「セム」が特別な位置に立つことになります。一〇章にノアの三人の息子が世界各地で「言語、氏族、民族に従って住む」ようになった次第が記されています。そして、それと同時に、「セム」の子孫の中からアブラハムに至る血統が断りもなく(つまり、こういう理由で選ばれたのだという説明もなく)選ばれてもいます。それはこの箇所を読んだだけでは分からないことですが。
 そして一〇章の最後は、「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水後、彼らから別れでた」という言葉で締め括られています。
 この九章から一〇章が、原初物語における大きな転換点であることは言うまでもありません。罪による呪いに落ちた世界を再出発させるために、神は天地を新たに創造されました。滅ぼした上で新たに祝福して再出発させたのです。そして、その恐るべき裁きの後、箱舟から降りたノアが真っ先にやったことは、神に罪の赦しを乞う礼拝でした。そういう礼拝を捧げるノアと三人の息子たちに、神は祝福を与え、その息子たちから全世界に人間が広がったということ、そして、その中で、アブラハムに至る一筋の選びが始まっている。そういうことを、九章と一〇章は告げているのだと思います。
 しかし、一一章では、人間はバベルの塔を築いて、あのアダムとエバのように、神の座に自分をつけようとする過ちを犯しました。そういう人間の企てを、神様は言葉を乱すことで妨害し、世界中の人間は互いに言葉が通じない、心が通じない者として全世界に散らされてしまった。それが、一章の天地創造物語から始まる原初の物語の結末です。そこには、旧約聖書の書き手、あるいは編纂者の世界観が現れています。世界は、人間の力、権力、知恵によっては一つになれない。世界は分裂しており、創造の時に与えられていた神の祝福、さらにノアの洪水後に与えられた神の祝福を失ってしまった。罪によって呪いに落ちてしまった。その行き着く先が、以前も語りましたように、サラの不妊でありアブラハムの父テラの死なのです。アブラハム物語が始まる直前のアブラハムの父親であるテラの系図は、そのことを示しています。アブラハムの後には系図が続かないからです。
 そういう世界の現実に対して、神様が新たに始めた業が、アブラハムの選びであり、派遣なのです。神様は、老齢のアブラハムを選び、この地上における一切の拠り所を彼から奪い、ただ神の約束を信じて、神に従って生きる道をお示しになりました。アブラハムが、神への信仰と服従を生きる時、彼は豊かに祝福され、その祝福が世界に及ぶのです。そして、約束を信じる彼の子孫は、天の星のように、海辺の砂のようになると何度も言われます。
 その決定的な場面は、言うまでもなく、二二章のイサク奉献の場面です。あそこでアブラハムは、神様の命令に従い百歳にして与えられた独り子イサクを己が罪の赦しのために、また全世界の罪の赦しのために犠牲とする礼拝を捧げようとしました。そのアブラハムの信仰を見た時に、神様はこうおっしゃいました。

「あなたがこの事を行い、自分の独り子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。・・地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 このアブラハムに対する神様の祝福は、世界への祝福に繋がります。ノアの信仰と礼拝を受けて、彼を祝福し新たに全世界を祝福された神様が、今、アブラハムの信仰と礼拝を受けて、新たに世界を祝福している。そう言って良いと思うのです。そして、その後、サラの死とイサクの結婚の話が続き、信仰と祝福の担い手が次の世代に引き継がれていくわけですけれど、ノアの時も彼の子孫が世界中に広まっていく様と同時にセムの家系のアブラハムに至る線が選ばれて行ったように、今日の箇所でもアブラハムの子孫が世界中に広まっていく事実とその中で約束の子イサクが選ばれている事実が語られている。
 アブラハムの死が報告される場面を理解するためには、このようにアブラハムが生まれる前からの流れを理解せねばなりません。そして、このように振り返って見た時に推測されることは、この箇所がノアの洪水とその後の世界の描写とパラレルになっているのではないか、ということです。神様は、アブラハムを「独り子をも惜しまぬ」信仰者として育て上げることを通して、あのバベルの塔以来、再び罪による呪いに落ち、分裂と死に覆われた世界を一致と命に覆われた世界に造り替えようとしておられる。二五章の記事はこの場所に置かれることによって、こういうメッセージを私たちに語りかけているのではないか。そう思います。
 しかし、聖書は、理想主義的にして楽観的なものであるように思われるかもしれませんが、実際は相当に現実主義的であり、かつある意味悲観的でもあると思います。これもまた、創世記から黙示録まで読んでいかないと何も言うことは出来ない大きな事柄なのですけれど、少なくとも、二五章の段階で、「世界が一致し、命に覆われた」などと呑気なことが書かれているわけではないことは明らかです。
 ここに至って漸く、今日の箇所そのものに入っていきますが、ケトラという名前は「薫香」を意味するようですが、その産地はアラビア地方です。そして、彼女から生まれた息子たちの住んでいる地域はアラビア半島の全域に亘ります。つまり、現在のアラブ人の先祖がここに登場するわけです。そして、創世記が語っていることは、彼らもアブラハムの子孫なのだということです。現在のようにイスラエルとアラブ諸国の決定的な対立を背景に読むとある種の感慨を抱かざるを得ませんし、ユダヤ教とイスラム教を生み出した人々の父は一人、アブラハムだということもまた考え込まざるを得ないわけですが、アブラハム・イサク・ヤコブとその十二人の息子たちから次第に民族となっていた神の選びの民ユダヤ人の東側に住む人々は、ユダヤ人といつでも友好関係をもっていたわけではないし、ある民族は強大になりイスラエル王国やユダ王国を滅亡に追いやることもあったわけです。しかし、彼らもまたアブラハムの子孫なのである。聖書は、そう告げているのです。
 彼らはたしかにアブラハムの子孫である。しかし、アブラハムは全財産をイサクに譲り、側女の子供たちには贈り物を与えて、イサクからは遠ざけたとあります。それは、近くにいると喧嘩になるからでしょう。近くにいる仲の悪い兄弟よりも、遠くにいて喧嘩をしないですむ兄弟のほうがよいことは、この後に続くエサウとヤコブの生々しい争いを見れば明らかなことです。兄弟だけれども、親の遺産を受け継ぐのは一人であり、神の祝福を受け継ぐのもイサク一人であり、神の約束を信じて生きることが使命として課せられているのもイサク一人なのです。しかし、そういう特定の選びと普遍の関係をどう考えるか、そして兄弟の和解の可能性をどこに見るか。それは今日の一回では到底扱いきれない大問題ですが、もう少し先まで読んでいきたいと思います。
 ケトラの息子たちの話の後に、アブラハムの死が報告をされます。そして、そこに登場するのが、イサクにとってはもう一人の異母兄弟イシュマエルです。

「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。」

 ここに、妻サラと側女ハガルとの壮絶な敵対の結果、アブラハムの家から追放され、命を落とす寸前に神様の御使いが介入して救われたイシュマエルが登場します。そして、イサクもまたアブラハムの手によって犠牲とされる寸前に主の御使いの介入によって救われた人物です。彼らは父親が同じで母親が違い、幼い頃は一緒に暮らしており、それが原因で、イシュマエルとハガルが追放されるという悲劇を経験したわけですが、アブラハムの死に際して、もう二度と会うはずのない兄弟が仲良くアブラハムを葬るのです。あのアブラハムがサラのために買い取った墓にです。ここには、決して和解出来そうになかった兄弟がアブラハムの死を通して和解させられたという事実が記されています。
 しかし、それに続くイシュマエルの子孫の系図の最後は、こういうものです。

「イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」

 エジプトからアシュル方面と言えば、北アフリカからメソポタミアまでというイスラエルを南北に挟む広大な地域です。つまり、この二五章に記されているアブラハムの子孫が住む地域は、イサクが住むカナンの地を囲む全世界なのです。その全世界にアブラハムの子孫が散らばっているということ。あの洪水の後にノアの子孫が全世界に広がったように、イサク奉献の後に、アブラハムの子孫が全世界に広がっているということが、ここで言われていることです。そして、その子孫は現実には離れて暮らしている。近くにいると様々な争いが起こるから離れて暮らしている。また、離れていても「互いに敵対しつつ暮らしている。」それが、この当時の世界の現実だったのです。そして、残念ながら、今の世界の現実でもあります。
 こういう問題をどう考えるのか?これが聖書の大問題であることは言うまでもありません。世界は神が造った。でも、その世界に生きる人間は神に背く罪人となった。その結果、世界は呪いと分裂に陥り、その先行きは結局、死の滅びでしかない。しかし、神はその世界にアブラハムを旅立たせ、そのアブラハムの信仰を育て、ついには独り子をさえ惜しまぬ信仰を持つまでに育て、その信仰において、神はアブラハムを祝福し、そして世界を祝福してくださるのです。しかし、現実のアブラハムの子孫たちがすべて信仰を持っているわけでないし、また信仰を同じくしているわけでもなく、互いの利害は対立し、一つになれるわけではないのです。そういう世界の歴史の中に、アブラハムに約束された子イサクとそのイサクの子へと信仰と祝福は継承されていく。そこに神様の自由な選びという不思議な御心が働いている。そういう現実を、私たちは今、どこにどのように見ることが出来るのか?それが、今日、私たちに与えられている最終的な課題だと思います。
 契約の民、あるいは約束の民、それはアブラハム・イサク・ヤコブと継承されていった「イスラエルの民」です。後に「ユダヤ人」と呼ばれるようになりますが、彼らこそ「アブラハムの子孫」であると言って良いのです。しかし、その彼らの周辺世界には、彼らの異母兄弟の子孫、やはりアブラハムの子孫である諸民族が住んでいる。その異母兄弟たち自身も必ずしも仲良く暮らしているわけではないし、ユダヤ民族とは尚更上手く行っているわけではない。それが旧約聖書が書かれた時代の現実であり、イエス・キリストが誕生した時の現実でもある。ユダヤ人は異邦人を神に見捨てられた民として嫌い、軽蔑していたのです。全世界に祝福をもたらすべきアブラハムの子孫であるユダヤ人は、むしろ異邦人を呪い、律法をもっている自分たちだけに祝福が与えられると誤解し、錯覚した。彼らユダヤ人はアブラハムの子孫でありつつ、アブラハムのような信仰を生きることに失敗して行ったのです。その経緯を長く話す時間はもうありませんが、その点について、パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こう言っています。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

 これは、「ユダヤ人」という言葉の解釈の劇的な転換を意味します。その点を彼はさらに突き詰めて、アブラハムの子孫に関してこう言うのです。

 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。(中略)従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。

 つまり、「アブラハムの子孫」とは、神の約束を信じるすべての者たちのことなのです。そして、イエス・キリストを通して新たに神によって与えられた約束とは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」という約束です。
 そして、神様はこの約束に基づいて、一人でも多くの者たちが、この救いに与かることが出来るようにと、今も世界中の人々に働きかけておられる。パウロは言います。

 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 こうして全イスラエルが救われるということです。

 神様にあっては「千年は一日」なのですから、神様は私たち人間の愚かしさを嘆きつつも、今尚、すべての人間を救いに至らせるための秘められたご計画を遂行中なのです。そして、私たちはただただ恵みよってなのですけれど、この歴史の中で、そして人生の途上で、イエス・キリストとの出会いを与えられ、約束を信じる信仰を与えられ、イエス・キリストに結ばれて生きることが許されています。
 その現実をパウロはガラテヤの信徒への手紙の中ではこう言っているのです。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 この「あなたがた」は、言うまでもなく二千年前の小アジアにあるガラテヤ地方に生きていた異邦人キリスト者のことに限りません。今、この礼拝堂に集められている私たちキリスト者のことです。私たちこそ、全世界に散らばっている数え切れないほど多くなったアブラハムの子孫なのです。しかし、その子孫は、かつてもそうだったように、必ずしもいつでも一つである訳ではありません。絶えず分裂の危機を抱え互いに仲たがいを繰り返してしまうことも多いのです。キリスト者の兄弟姉妹でさえそうなのですから、イスラム教とかユダヤ教の異母兄弟とは尚更仲良く出来ていないという悲しむべき現実があります。そういう分裂から崩壊へと向かうほかにないと思われる世界の歴史において唯一希望があるとすれば、真の祝福の担い手として、つまり真の意味での「アブラハムの子」としてマリアから生まれたイエス・キリストの十字架の前に、すべての人間がひれ伏す礼拝にしかないと思います。私たちキリスト者を含めて、自分で何をしているか分からぬままに罪を犯し、神と敵対し、人間同士も互いに敵対してしまう憐れな罪人のために死んでくださったのは、この方しかいないからです。ただ、この方の前に罪人が罪を悔い改めて集うとき、この方の死は私たちの罪のためだったと信じて集うとき、そして、この方は私たちを新たに生かすために神によって死者の中から復活させられたと信じ、告白する礼拝を捧げるとき、その場に祝福と命に覆われた世界が造り出されるのです。この世界には、人種、民族、階級、身分、性別の違いなど何も関係ありません。かつて何を信じていたかも問われない。今、キリストを信じて礼拝する者であるかどうか。ただそれだけが問われるのです。
 私たちは恵みによってキリストと出会い、信仰を与えられ、今日もこうして礼拝を捧げることで一つにされています。ひとつの命、キリストの命に生かされています。そして、この礼拝の後、分裂し崩壊に向かっているとしか見えない世界に派遣されていきます。その世界の中で、私たちは神の子として、アブラハムの子孫として、祝福をもたらす者として歩むことが出来ますように。祈ります。

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