「出産・神のなさること」

及川 信

創世記25章19節〜26節

 

アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。



 創世記 ルカ ヨハネの関係

イエス・キリストがこの世にお生まれになってから二〇〇八年目を迎えました。教会の暦では降誕節第二主日ですから、今もイエス・キリストの御降誕を記念する季節ということになります。十二月は、ルカ福音書の降誕記事を集中的に読みました。しかし、今日から、昨年の七月末以来およそ五ヶ月間休んでいた創世記の説教を月一回のペースで再開しようと思います。来週からは、ヨハネ福音書の連続講解説教も再開します。こうやって、旧約、新約の色々な箇所をそれなりの連続性をもって読んでいくと、一見するだけでは、それぞれに何の関係もないバラバラの物語のように思えるものが、実は、それぞれに深い関係があるということが分かってきます。

 誕生 選び 約束

 ルカ福音書の降誕物語は、言うまでもなく、一つの命が「誕生」する物語です。そして、そこには神の「選び」があります。神は田舎娘のマリアを選び、また大工のヨセフを選び、またキリストの誕生を最初に告げ報せる相手として貧しい羊飼いを選ばれました。さらに言えば、神はその独り子を、世の救い主として選ばれたと言ってもよいのです。
その救い主の誕生の仕方は、あり得ないものでした。処女が処女のままで妊娠し出産するという、あり得ないことがそこにあったのです。
 アブラハムとサラの間に生まれたイサクは、イエス様とは逆の意味であり得ない形の誕生でした。彼は、百歳と九十歳の老夫婦から生まれたのです。つまり、不妊の妻ともう性的な能力がないと思われる夫の間に生まれた。それが、神様の約束だったからです。神様の約束、その言葉は実現する。それが、イサク誕生の核になるメッセージでありイエス・キリスト誕生の核になるメッセージでもあります。そしてそれは、命を創造するのは神であって、それ以外の何者でもないというメッセージを含みます。
 今日の箇所は、そのイサクと妻リベカの間に、子どもが誕生する、それも双子が誕生するという話ですけれども、そこにも実は不妊のテーマがあります。アブラハム物語と違って、ここでは僅か半ページしか割かれていないのですが、この夫婦に子供が生まれるまでには実に二十年の年月が掛かっているのです。その間、イサクは主に祈り続ける以外になす術がありませんでした。
 そして、この誕生記事がイサクの誕生と全く違うのは、生まれる子供が双子であったこと、つまり兄弟であるということです。イサクはアブラハムとサラの間に生まれた独り子ですから、後継者争いということは基本的には起こり得ませんでした。約束の子イサクがアブラハムを継ぐのです。しかし、このエサウとヤコブ誕生物語の直前には、アブラハムとサラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルとその子孫の話(系図)があり、その前には、アブラハムとケトラという側女の間に生まれた六人の息子の誕生記事が記されています。彼らはアブラハムの子ではあっても、アブラハムとサラに生まれるとされた約束の子ではありませんから、基本的にアブラハムの後継者ではあり得ません。しかし、そうではあっても、彼らもイサクの異母兄弟ですから、兄弟同士の間で土地や財産を巡る争いが起こる可能性があります。だから、アブラハムはイシュマエルを追放していましたし、ケトラとの間に生まれた息子たちも贈り物を与えた上でイサクから遠く離したのです。そして、イシュマエルの息子たちは広大な地域に分かれて暮しているにもかかわらず、「互いに敵対しつつ生活していた」と記されています。兄弟というのは、そういうものでもあるのです。
 そういう兄弟に関する話の後で、今日の双子誕生の記事があるのです。今ご一緒に読んでお分かりのように、ここには、命が誕生する喜びよりもむしろ将来起こってくるであろう兄弟同士の争いに対する不安や恐れの方が支配的だと言ってもよい。こういう不安や恐れは、イサク誕生の記事にはありませんでした。

 誕生 不安と恐れ

しかし、イサクはイサクで、少年になった時に、神様に犠牲として捧げられるという恐るべき経験をしました。そのこと抜きに、罪によって呪われた世界に祝福をもたらすという神の約束は実現しないからです。そしてそれは、神の独り子イエス・キリストの十字架を遥かに指し示す出来事だったのです。そして、イエス・キリストの誕生は喜びの賛美に包まれてはいましたが、同時に、イエス様の到来は「多くの人の心にある思い」「あらわにする」が故に、イエス様は人々から「反対を受けるしるしとして定められて」おり、イエスの母マリアは「剣で心を刺し貫かれる」ことになると、シメオンから預言されることになります。つまり、イエス様は人々によって殺される。しかし、そのことによってイエス様は世界に罪の赦しという祝福をもたらすことになる。イエス様は罪の償いとしての犠牲になるのです。これがイエス様誕生の喜びと讃美から八日目の預言です。つまり、イエス様は、この世の中に、そしてこの世のためにお生まれになりましたが、この世からは受け容れられない存在であるのです。そういう定め、そういう選びがそこにある。
来週の説教題は、「私たちは何に属しているのか」ですけれど、それはヨハネ福音書八章で、イエス様が、ご自身に敵対する者たちにこうおっしゃっている言葉に由来します。

「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 私たちは、このイエス様を、「わたしはある」という方、つまり神であると信じるキリスト者です。その信仰は自ら求め、獲得したものではなく、やはりその深いところで、神様が私たち一人一人を求め、その信仰を与えてくださったのだと言う他にありません。何故、今、私がその信仰を与えられているのか、何故あの人ではなく私なのか?この疑問を解決することは出来ません。そこには、神様の選び、私たちにとっては全く不可思議な選びがあるとしか言い様がないのです。私たちはその選びによって洗礼を授けられ、まさに水と霊とによって新たに生まれた。キリストに属する者として誕生したのです。そこには大きな喜びがあります。罪による死から救い出された喜びがある。神様との間に愛の交わりを持つことが出来る大きな喜びがある。しかし、そこには同時に大きな恐れや不安もあるのです。何故なら、ヨハネ福音書十五章では、イエス様は弟子たちにこうお語りになるからです。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

 新しくキリスト者として誕生した喜びは、同時に、世にあっては憎しみを受けつつ生きることを意味する。選ばれた者として、イエス・キリストに属して生きるとは、そういうことを意味する。神による喜ばしい誕生は、同時に不安や恐れを引き起こすのです。
 ざっと概観しただけですけれど、ルカ福音書、創世記、ヨハネ福音書が、非常に深い関連があることがお分かり頂けると思います。そして、そこにある内容はあまりに深くて大きいことも。今日、そのすべてに触れることは、当然のことながら出来ませんし、その必要もないでしょう。今後、創世記、ヨハネ福音書をじっくりと読み進め、その中で神の言を聴き続け、そして従おうと全力を尽くすならば、聖書が何を語っているかを知るでしょうし、神に選ばれて、キリスト者として新たに誕生したことの苦難と喜びをその身をもって知ることになるはずですから。

 ヤコブ物語

 私が、半年近くも創世記の説教から離れた理由の一つは、偉大なアブラハムが死んでしまって、なんだか気が抜けたというか、暫くは喪に服そうと思ったということがあります。アブラハムが死んだ、即、次の世代の物語に前進しようという気にはなれなかったのです。それともう一つは、アブラハム物語にも深刻な家庭問題があり、人間社会の問題がありましたが、これから始まるイサク物語と、それを包み込むヤコブ物語は、アブラハム物語とは比較にならないほど泥臭い物語なのです。そして、主人公のヤコブというのは、実に嫌らしく、また複雑な人間です。私はある面で大好きですけれど、ある面で大嫌いです。そこが彼の魅力と言えばまさにそうなのですけれど、彼との関りを持つためには、相当な決意が必要です。世の中には、遠くで見ていればそれなりに尊敬できるけれど、よく知っていくと、幻滅してしまう、しかし、その部分をも含めてその人は偉大なのだという人がいます。ヤコブは、そういう人物の一人だと、私は思います。
 ある聖書学者は、このヤコブ物語について、こう記していました。

「ヤコブについての物語は、創世記において、最も俗悪で、最も嫌悪感をもよおすような現れ方をするイスラエルを描写するものである。この物語は、通俗的な宗教的、道徳的感覚に対して何らの益ももたらさない。実際、もし人が通俗的な宗教的、道徳的感覚をもってこの物語に接するとすれば、この物語は不快なものでしかない。けれどもまさにその理由の故に、ヤコブ物語は最も活き活きとしたものである。それはヤコブを、色々な動機の入り混じった粗野な者として描いている。この約束の孫は、その信仰深い祖父アブラハム、その成功した父親イサクと比べると、ならず者である。この物語における信仰の表明は、特に押しの強いものである。神のもろもろの意図が、私利私欲と利己主義というたくらみの網の中でもつれ合っていることを、語り手は知っている。」

 この学者の言葉は、ヤコブ物語の本質を言い当てていると私は思っています。この物語は極めて世俗的です。しかし、それだけに現実的、具体的です。主人公たちも極めて世俗的。つまり私たちにとって身近な存在です。通俗的な宗教的道徳的感覚をもって礼拝に来て、この世離れした「信仰的な説教」を聞いて清められた気分を味わいたいという方にとっては、「なんで礼拝の中でこんな話を聴かなければならないんだ。こんなことは新聞やテレビで嫌というほど見聞きしているじゃないか?!」と言いたくなる様な話です。しかし、私たちは実際にそういう人間社会の中に生きているのだし、誰しもが、どろどろの罪の中であがきながら生きている人間だと思います。ヤコブは、まさにそういう人間なのです。そして、その人間を神は選び、ご自身のご計画、世界に祝福をもたらすというご計画を進めていかれる。それはつまり、私たちのような人間をキリスト者として選び、救い出し、さらに世に救いをもたらすために今も働いてくださっていることを教えてくれるということでもあります。

 神のなさること 双子(兄弟)の誕生と選び

 今日、私は「出産・神のなさること」という題をつけました。私がこの題で表現したかったことは、エサウとヤコブの誕生の中にある神の業、神のなさることは何であるかを考えたいという思いです。この双子は、まだ母の胎内にいる時から激しく争っています。それは、母であるリベカ自身が、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」という不安と恐れに駆られる程でした。その恐れと不安は、自分の体がどうなってしまうのだろうか?という不安とか、この兄弟が無事生まれるのかという不安というよりも、神様の御心が何であるかが分からない、というものなのだと思います。
 リベカは、主のご意志を知りたいと願い、「主の御心を尋ねる為に出かけた」とあります。しかし、そこで彼女が主から言われたことは、ある意味では、聞かない方がよかったという類のものです。主は、こう言われたからです。

「二つの国民があなたの胎内に宿っており
二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。
一つの民が他の民より強くなり
兄が弟に仕えるようになる。」


 アブラハム物語で既にお分かりの通り、アブラハムにしろイサクにしろ、彼らから生まれる子は、個人であると同時にひとつの民族の祖となりますし、後にヤコブから生まれる十二人の子供はそれぞれにイスラエル十二部族の長です。しかし、ここではそういう民族的な側面ではなく、一つの家庭の中に起こっている話として見た方がよいと思います。独りっ子は親の期待が一身にかかって大変な面がありますが、家督を継ぐということにおいて、何の問題もないわけです。しかし、兄弟がいるとなると、その内の誰が継ぐのかという問題が起こります。戦国武将のように、兄弟の中で最も強い者に継がせるという実力主義だと、骨肉の争いが生じることになります。その結果として、家が弱体化することもある。そのことを防ぐためには、能力はどうであれ長男に継がせる。そう決めてしまう。そういう社会があります。世界の中では末っ子に継がせる社会もありますが、一般的には長男に継がせる。そう決まっていれば、争いは起きないからです。次回読むところですけれど、イスラエルにおいても「長子の権利」というものが決まっていたのですが、それは家庭内の争いを引き起こさないための人間の知恵なのです。
 しかし、神様はこの物語では、敢えて争いが起こるようなことをされます。家庭の秩序、社会の安定を破壊するようなことをなさる。今日登場する兄弟は、兄弟と言っても双子です。双子は同じ日に生まれる兄弟ですし、ヤコブ(「かかと」「蹴落とす」という意味)と名付けられる弟は、先に生まれる兄のかかとを掴んで出てきたのですから、半端ではありません。同時に生まれたと言ってもよい双子です。お腹にいた時から自分の居場所を確保するために押し合いへし合いをしていた双子です。そして、結婚後二十年を経て、イサクの祈りを聞いて、この双子をリベカに宿らせたのは神様であり、その神様が弟の方が強くなり、「兄が弟に仕えるようになる」と言われる。つまり、人間が考え出した平和の秩序に対して、神は剣を投げ込んでこられる。神は、ご自身のご計画の担い手をご自身の判断で選ばれるのです。
 しかし、それに加えて、次回読むところですが、人間の「選び」、あるいは「好み」がこの物語をさらに複雑なものにしていきます。イサクは、狩りの獲物が好物であったので、狩人となったエサウを愛し、リベカはその理由は明記されていませんが、穏やかな人で天幕の周りで働くヤコブを愛した。この後に出てくるヤコブは、決していわゆる「穏やかな人」ではなく、激しい人物であり、また狡知に長けた人物であり、エサウの弱みにつけこんで長子の権利を奪い取り、さらにリベカと共謀してイサクからの祝福を騙し取っていくのです。何故、こんな男が、こんな方法で、神の祝福を獲得していくのか?読めば読むほど理解に苦しむ面が出てきます。しかし、にもかかわらず、神は生まれる前から彼を選び、そして、その選びは変わることなく、神様は今後も彼を苦しめ続け、しかし、育て上げて行きます。
 ヤコブは長子の権利を得、祝福を獲得したのですけれど、実際にはその彼が、裸一貫で故郷から逃亡しなければならないのです。エサウやイサクを騙した彼は、今度は親族であるラバンに騙されてひどい目に遭います。しかし、二十年後には、エサウを出し抜く形で大きな財産をもって故郷に帰ってきます。しかし、今度は息子たちに騙されたり、最後には結局故郷を離れてエジプトに惨めな難民として下り、その地で死ぬことになるのです。そして、そのエジプトで、彼は「自分は不幸だ」と言いながら、エジプトの王を祝福するのです。そういう逆転に継ぐ逆転、また矛盾と分裂に満ちた物語がこれから始まります。その物語で一貫していること、それはヤコブが神の祝福だけを求めたということです。彼にとってその祝福とは、神が自分と共にいてくださるということです。彼は私利私欲を多く持っている人物です。利益を得るために知恵を働かせます。しかし、彼は裸一貫になるとしても、難民になるとしても、神が共に生きてくださるのなら、それでよいと確信していた人物であることは間違いありません。彼は、神の祝福を求めて、一晩中でも神の使いと格闘し、ついには足に障害を負わされて、それ以後、一生、足を引きずりながら歩くしかなくなっても、神の使いから手を離さなかった人物なのです。ただそのことの故に、神は、この狡知に長けた、嫌悪すべき部分をたくさん持っている人間を、愛し続けてくださった。彼を祝福し、彼と共に生きて下さった。そして、彼を通して、世界に祝福をもたらす業をなさったのです。それが、神のなさることです。そして、彼が、神に選ばれた人間であるとは、そういう意味です。

 選びの系譜

 この世界に祝福をもたらすために、選ばれた人の系譜を辿っていくと、イエス・キリストに行き着きます。皆さんは、新約聖書の冒頭に記されている系図をご存知だと思います。あの系図の書き出しは、こういうものです。

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」

そして、その系図は、こう続きます。

「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレズとゼラを・・・」

 こうして合計三十二代の系図の最後に「メシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されるのです。そして、その方は、「ご自分の民を罪から救う」方であり、インマヌエル、我らと共にいます神なのです。
 しかし、そのイエス様は、愛する十二人の弟子たち、そうヤコブの十二人の子供、イスラエル十二部族を新たに代表すべき十二弟子に向かって、こうおっしゃいました。

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


 いつ読んでも、恐るべき言葉です。私たちは、この言葉を聴くときに、まさに剣でその心を刺し貫かれます。だから、聴きたくないのです。家族の愛を失ってまで、イエス様を信じて従って行くことは出来ないし、自分の命を失ってまで信仰に生きることは出来ないからです。それが、私たちです。その私たちが、この言葉を聴くということは、まさに剣の前に立つことに他なりません。
十二弟子の筆頭であるペトロは、その後、人々の前でイエス様のことを「知らない」と言いました。自分の命を得ようとしたからです。そして、そのことによって、彼はキリストの弟子としての命を失ってしまった。天の父の前で生きる命を失ったのです。それが、事実です。それが罪人の現実なのです。そして、私たちは誰一人例外なく、その罪人です。それは、事実です。私たちはその本質において、私利私欲にまみれた人間なのです。信仰に生きることなど出来ないのです。でも、だからこそ、私たちは信仰を求める他にない。イエス様に縋りつく他にない。これも事実なのです。信仰がないからこそ信仰を求めるしかない。ヤコブが一晩中、神の使いから手を離さなかったように、イエス様の衣の裾にでも縋りつくしかないのです。

変わることのない選び

イエス様は、そういう私たちのことを憐れんでくださいます。私は、マタイによる福音書を読むたびに、身の竦むような思いをし、身の置き所がない思いにさせられますけれども、最後まで読んでいくと、何と言ったらよいのか分からない感情に襲われます。
イエス様は、愛する弟子たちに裏切られ、群衆にも見捨てられて十字架につけられました。その時、イエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
神に見捨てられて死ぬ。それは罪人の最後の姿です。しかし、ここでは罪なき神の子が、その死を味わっておられる。その時、ペトロを初めとする十二弟子は、その場にはいませんでした。皆、逃げ去っていたのです。いたのはガリラヤからイエス様に従ってきた女の弟子たちだけです。その女たちの二人が、イエス様が葬られた墓を確かめ、安息日が終わった日曜日の朝、墓を見に行きました。すると、大きな地震があり、墓の入り口に置かれていた大きな石が主の天使によって転がされました。恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった婦人たちに、御使いはこう告げました。

「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

 女たちは、恐れと喜びに満たされて、殺されることを恐れて、隠れている弟子たちの許に走り始めた。すると、イエス様が、彼女らの前に立ち、「喜びなさい」(新共同訳は「おはよう」と訳していますが)と呼びかけた。女たちは、イエス様の足を抱き締めて、御前にひれ伏した。イエス様は、さらにこうおっしゃいました。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 イエスの兄弟としての私たち

 なんということかと思うのです。イエス様はあの弟子たちのことを、「命を捨ててでもあなたを愛します。あなたを知らないなどとは申しません」と断言しつつ、あっさりと逃げ去っていったあの弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼ぶのです。「もう二度と顔を見たくない」、「今度会うときは殺してやる」と言ったっておかしくない者たちを、主イエスは「わたしの兄弟たち」と呼んでくださる。裏切り、逃げ去った者をです。
 私たちも日常生活の中で、何度もイエス様を知らないと言っている。その言葉や行動を通して、イエス様とは無関係な人間として生きていることがあまりにしばしばです。イエス様への愛と信仰に生きるために、この世における対立をも恐れずに生きているとか、自分の不利益になることも厭わずに生きているとか、そんなことは滅多にありません。ほとんどの場合は、自分の利益を求め、その時その場の自分に都合のよい「平和」を求めて生きているだけです。
 にも拘らず、イエス様はその私たちのために神に見捨てられ、命を捨て、そのことの故に復活させられ、私たちを「わたしの兄弟たち」と呼びかけ、神顕現の場である山の上に、つまりご自分の民を罪から救うメシア・キリストを礼拝する場へと招いてくださるのです。
 弟子たちは、その招き応えてガリラヤへ行き、山に登りました。そして、イエス様に会って、ひれ伏した。しかし、そこには「疑う者もいた。」けれども、イエス様は、彼らに近寄ってきて、こう言われました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエス様は、ご自身が選んだ弟子たちを、決してお見捨てにならない。世の終わりまで共にいてくださる。そして、私たちを「兄弟」と呼んでくださる。私たちが今ここにいることが、おらせていただいているという事実そのものが、それが事実であることの証明です。私たちは、この事実にすがり付いて生きるしかない罪人のヤコブです。イエス様は、そういう者といつも共にいてくださり、そして、そういう者の罪を赦して共に生きてくださるという祝福を、そういう者を通して全世界に広めておられるのです。それが神のなさることであり、今日の、この礼拝もその神の御業以外の何物でもないのです。
 これからの一年もまた、インマヌエルなるイエス・キリストの招きの中で、礼拝から礼拝への歩みを継続していきたいと願います。
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