「人間の選び・神の選び」

及川 信

創世記25章27節〜34節

 

二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。


前提

 前回の一九節からヤコブ物語が始まります。その物語は最初から不穏な書き出しでした。相思相愛で結ばれたイサクとリベカの間に二十年間も子どもが生まれないという不妊の現実から物語は始まっています。これはアブラハムに与えられた神様の約束と祝福を受け継ぐべき人間が生まれないということですから、この夫婦にとって一大事であるだけでなく、罪による呪いに落ちた世界にとって一大事なのです。その現実を前にして、イサクは神様に祈りました。「その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカはみごもった。」しかし、リベカが身ごもったのは双子でした。そして、その子らが胎内で互いに押し合っている。つまり、争っている。それがあまりにひどい争いだったので、リベカは堪らず、神様に御心を尋ねるために出かけていきました。しかし、そこで彼女が聞いた神様の言葉はこういうものでした。

「二つの国民があなたの胎内に宿っており
二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。
一つの民が他の民より強くなり
兄が弟に仕えるようになる。」


 アブラハム・イサク・ヤコブの物語は、一般に「族長物語」と言われます。それは、彼らは個人であるだけでなく民族を代表しているからです。そして、それはそれぞれの文化や信仰を代表していると言ってもよいのです。そういう個人性と民族性が混ざり合いつつこの物語が展開していくことを、私たちはいつも覚えておいたほうがよいと思います。そして、リベカに対する神の言葉は、まさに互いに近くに住んでいるが故に争いが絶えない「民」の問題と、兄と弟という兄弟の話が混ざり合っています。近接する民であれ、兄弟であれ、争っている者同士のどちらかが強くなるだけでなく、兄が弟に仕えるようになるというのは、穏やかな話ではありません。それは、人間が長年の経験から産み出した一つの秩序を破壊することだからです。この神様の言葉を聞いた時のリベカの心情は記されていませんが、彼女にとってこの言葉はさらに大きな不安を与えたことは間違いありません。しかし、たとえそうであっても、彼女にとって、この神様の言葉は決定的なものであったことは、この先を読んで行けば明らかです。
 最初に生まれたのは「赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウ」と名付けられます。この「赤い」という言葉が、今日出てくるレンズ豆の煮物の赤い色(アドム)と言葉遊びのように使われ、エサウは後のエドム(アドムと子音は同じ)の先祖になったと説明されているわけです。そして、ヤコブは、兄の踵(アケブ・子音はヤコブと同じ)を掴んで出てきた弟ですから、一筋縄では行かない人間だということは、その最初から暗示されています。

個人と民族 偏愛

 しかし、一筋縄では行かないのはヤコブだけでなく、この物語そのものもそうなのです。それは何故かと言うと、この物語では神の選びに加えて人間の選び(それは好みと言っても良いかもしれませんが)が絡まり合っていくからです。

二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。

 この叙述の背景には、狩猟民族と牧畜民族の対立があります。狩猟民族というのは、言うまでもなく野の獣を追いまわし首尾よく捕えることが出来ればその日はたらふく食べることが出来るのですが、獣がいないとか、逃げらてしまえば、何も食べることが出来ない。そういう民族です。文化的なレベルとか生活の安定性という意味では、牧畜民や農民に比べればはるかに低く、不安定であり、しばしば飢えを経験する人々ということになります。冷蔵庫は勿論、冷凍庫などない時代ですから。
 ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とありますが、ある翻訳では、「穏やかな」は「几帳面な人」となっています。要するに、後先のことを冷静に考えて、堅実に生きる人という意味だと思います。実に対照的な民族であり、兄弟であるということになります。
 父のイサクは狩りの獲物が好きだったので、エサウを愛した。しかし、リベカは、ヤコブを愛したのです。何故か、その理由は明示されていません。父が兄を愛したので弟が可愛そうだと思ったのかもしれませんけれど、彼女は「兄が弟に仕える」という神様の言葉を聞いた当人ですから、ヤコブを愛することは当然かもしれません。とにかく、ここには親の偏愛という現実があります。そして、これは現代でも多くの家庭に見られることです。

物語の顛末

 二九節から物語は始まります。ある日のこと、一日中、狩りをしたにもかかわらず、エサウは獲物が獲れず、空腹の上に疲れきって帰ってきました。こういうことはよくあることなのです。ヤコブはそのことをよく知っています。彼は、レンズ豆の煮物を作って待ち構えていました。エサウは言います。

「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」

 しかし、ヤコブは全く唐突にこう言うのです。
「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
 エサウは答えます。
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
 そして、エサウは飲み食いしたあげく立ち去っていきました。
こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。

問題は何か?神か人か?

 これが、この物語の顛末です。問題は何か?エサウは肉的なものを選び、ヤコブは霊的なものを選んだのか?そして、肉的なものを選んだエサウは愚かで、霊的なものを選んだヤコブは賢いのか?だから、神様はヤコブを祝福の担い手として選んだのか?しばしば、そう説明されますけれど、そういうことではないだろうと、思います。ヤコブが求めた長子の権利というものは、親が死んだ時に他の子どもたちの倍に当たる遺産を受け継ぐ権利だったのではないかと言われています。そうなりますと、ヤコブが選んだものも肉的なもの、つまり物質的なものです。ですから、選び取ったものの質の違いはありません。ただ、一回の食事と遺産では桁が違うということだけです。そのことも賢いか愚かかの目安にはなりますが、本質的な問題ではないでしょう。
だとすると、何が問題なのか?考えられる一つのことは、エサウは今手にすることが出来るものを求めたのに対して、ヤコブはずっと先に手にすることが出来るものを求めたということです。将来の望みに生きた。そう言ってもよいでしょう。その将来の望みに生きるという姿勢は、ヤコブに一貫して見られるものです。そして、エサウは今後も目先のことしか考えない。そのこともある意味、一貫している。
そういう点から考えて、神様がアブラハムに与え、イサクに受け継がせた約束と祝福の担い手としてヤコブを選んだ理由が分かる。そう言ってもよいかもしれませんし、事実、そう解釈する人も多いのです。私も、そう思わないわけでもありません。
しかし、果たしてそうなんだろうか?あるいは、それがすべてなんだろうか?それがすべてあれば、この世の富や名誉には目もくれず、将来与えられる救いを目指して歩みなさいというメッセージだけがここにある、ということになります。私は、そういうこともここで言われている一つのことだとは思います。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と、ヘブライ人への手紙には記されており、その「昔の人たち」の中に、アブラハム、イサク、ヤコブの名が記されているのですから、そのことは決して間違いではありません。

「選び」とは?

しかし、私は今日、そういう解釈とはちょっと違った側面から考えていきたいと思っています。それは、人間の資質やあり方に焦点を当てるのではなく、神様の性質やあり方に焦点を当てるという側面です。前回の説教で、かなり強調したことなのですが、神様は人間がその知恵によって作り出した制度とか秩序をその根本から覆すことをなさるのです。また、人間の常識や良識を打ち破るようなことをされる。長子の権利というのは、家庭や社会の中に争いが起こらず、一家が存続し、社会が安定するために作り出された一つの制度です。また、父親が長男を愛し、大事にすることも、父系(男系)社会の中にあっては当然のことです。誰もが受け入れていた制度であり秩序です。しかし、神様は、この双子の兄弟がまだ生まれる前から、その秩序をひっくり返すようなことを決めておられるのです。「兄が弟に仕える」と。その理由は記されていません。兄が軽率で、弟が慎重な人間だからとか、おっしゃっているわけではない。また、この兄弟の人柄について、どちらかに高い評価が与えられているわけでもないと思います。軽率は素直さでもあり、慎重さはずるさでもあります。そういう人間的側面に注目して物語を読み、また解釈すると、なんだか平板な道徳物語になってしまうと思うのです。
問題は、人ではなく神であり、人が何を選ぼうが、その前に神の選びがあるという事実なのではないか、と思います。しかし、この「選び」に関して考えることは、これまた神ではなく神の被造物に過ぎない私たち人間の知恵をはるかに越えているし、そもそも私たち人間が何か言えるものなのかどうか疑問でもあります。しかし、神の被造物、それも神に似せて造られた被造物であるが故に、神の御心を尋ね求めるのだし、尋ね求めよ!と促されてもいるのです。

洗礼

今日の長老会では受洗志願者の試問会があります。先日、私がその方と話している時に、「あなたは神様の何を信じているのか」とお尋ねすると、その方は「神様は世界中の一人一人の人間を愛してくださり、そして、その中に私のような全く世の中で評価されない、かつ、罪深い人間もイエス・キリストを通して愛してくださった、ということがわかりました。そして、神様は私のような者を、招いてくださっているという事実です」とおっしゃいました。「世の中で、全く評価されない自分のような者を、神は愛し、招いてくださった。そして、その神様は、実はずっと前から、自分が生まれる前からおられる方であり、その方が、実はずっと前から変わることなく自分を招き続けてくださっていたことを今になってようやく知りました。そして、今、その招きに応えたいと願います。」そういうことをおっしゃった。
その「招き」の背後にあるもの、あるいは前提は、神の選びです。洗礼式の時に、牧師が読む『式文』に出ている祈りの中にこういう言葉があります。

「恵み深い父
聖霊によってこの兄弟(姉妹)を新しく生まれさせ、これを神の子とし、キリストの教会の生きた枝として下さったことを感謝いたします。あなたはこの兄弟(姉妹)を世の造られる前から選び分かち、世の誘惑から救い出し、信仰の道に進ませ、今ここに主イエス・キリストの死に与かるバプテスマを受けさせてくださいました。」

 「世の造られる前から選び分かち」とある。この言葉は、私たちが洗礼を受けて神の子とされるという事実は神の恵み以外の何物でもない、私たちの功績などそこには少しもない、私たちの人格の高潔だとか、努力だとか、そんなものはない。ただ恵みとして選ばれ、招かれている事実を受け取るだけだ、そこに救いがあるのだということを意味します。
 そのことが本当に分かる時、私たちが感じることは、何故こんな自分が選ばれ、招かれているのか?!という驚きであり、困惑であり、感謝であり、讃美です。この点について、合理的な説明は不可能だと思います。私たちは何時までも、何故なのか分からぬ驚きを抱えたまま、困惑し、感謝し、讃美するしかないと思うのです。

神の選びと人間の誤解

 しかし、現実の私たちは、しばしば、その驚き、困惑、感謝、讃美を忘れていく。自分が神の子とされたことを当たり前のように思っていく、さらにそこには自分の功績があるかのように錯覚していく。そして、キリスト者でない人を見下したり、妙に憐れんだりするようにもなる。そういう現実がしばしばあります。

パウロにとっての選び

 そういう神の選びと人間の誤解の現実を突き詰めて考えているのは、パウロだと思います。彼は、弟子のテモテに向かってこう書き記しています。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 キリスト教徒を迫害することが神様への信仰の証と考え、キリスト教会から最も恐れられていたパウロ、ユダヤ教徒のエリートとして迫害に息弾ませていたパウロに、復活のイエス・キリストは「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけ、その場で、「罪人を救う」福音の宣教者として任命されたのです。そして、彼は洗礼を受けました。その出来事はパウロにとって、目が見えなくなり三日も何も食べることが出来ないほどの驚天動地の出来事でしたが、キリスト教会側にとっても受け入れ難い現実でした。パウロに洗礼を授けるように命じられたアナニヤという人物も、その他のキリスト者たちも、神様がなさることは受け入れ難いことだったのです。しかし、神様は、迫害者パウロを伝道者パウロにするために選ばれた。その事実は動かし難く、変わることがなかったのです。そして、罪人の中の最たる者を罪の赦しの福音を宣べ伝える伝道者としてお立てになるという不思議な神の選びを、日々新たに感じる彼は、いつも新たに驚き、困惑し、感謝しつつ、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と神様を讃美しているのです。

神の自由意志

 そのパウロが書いたローマの信徒への手紙は、彼の信仰と神学が最も網羅的に記されている書簡ですけれど、その九章から一一章の終わりまでを使って、彼はイスラエルの選びついて延々と論じています。彼によれば、当時「ユダヤ人」と呼ばれていた人々こそ、神の民イスラエルであり、「神の子の身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖も彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」と、言うべき人々でした。しかし、そのイスラエルの民、ユダヤ人が罪によってつまずいてしまっている。神が罪人の救いのために送ったイエス・キリストを信じることをせず、むしろ敵対している。自分たちは契約の民、律法の民であると自負し、自分たちには罪がないという錯覚に陥る罪を犯している。その現実は、まさにかつてのパウロの現実なのですけれど、彼は、そのユダヤ人の現実についてこう言っています。少し飛ばしながら読みます。
「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。」
「すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」
「リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちが生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。
では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、
『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」


要するに、選びは神の自由意志であって、人間の側の条件によらないということです。そして、その一見不公平、不平等に見える現実もまた、主の御名を「全世界に告げ知らせる」というご計画に基づいているのだ。彼はそう言っているのだと思います。つまり、神に選ばれた個人の救済にとどまらず、全世界の救済のためにこそ個人の選びがあるのだということです。

イスラエルと異邦人

この言葉の背景にあるのは、エサウの弟ヤコブの子孫であるユダヤ人たちが、いつのまにか自分たちが神の長子であり、その特権を受け継いで当然であるかのように信じているという現実です。また、彼らが律法の行いを通して神様の祝福(ローマ書の中では「義」と言われていますが)を獲得しようとする誤解、あるいは傲慢に陥っているという現実があります。つまり、選びと救いを個人化してしまい、救いに至る秩序を自分たちで作り上げてしまっているのです。その結果、アブラハムの子孫である自分たち、その中でも律法の字句を忠実に守っている者だけが救われ、それ以外の人々は神に捨てられた者としてしまっている。そのようなユダヤ人の誤解、奢りに対して、パウロは、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」という預言者ホセアを通して語られた神の言葉を引用しつつ、神の選びは、今や異邦人に向かっていることを告げるのです。そして、神は血筋や行いではなく、イエス・キリストを信じる者を救うこととされたと告げる。
しかし、それではヤコブの子孫であるユダヤ人は捨てられてしまったのかと言えば、そんなことはあり得ない、と彼は言います。神様の賜物と招きは取り消されることがないからです。だから、信仰によってキリスト者になった異邦人たちも決して高ぶることは出来ない。ユダヤ人がキリストへの信仰に至るならば、彼らは再び神の子として迎え入れられるのだし、異邦人キリスト者が高慢に陥って日々新たに信仰を生きないのであれば、神の子としての身分を失ってしまうことになるからです。
そういうことを述べた上で、彼は異邦人キリスト者であるローマの信徒たちに向かって、つまり、日本人のキリスト者である私たちに向かってもこう語りかけます。一一章二八節からお読みします。

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。


神の選び、そのご計画を思う時、彼の口から出るのは驚き、困惑、感謝、そして讃美しかありません。

神のご計画

神は、「すべての人を憐れむ」というご自身の救いのご計画を進展させるために一つの民族や一人の個人選ばれるのです。いつ何時、誰を選ばれるのか、それは私たち人間には分かりません。エサウとヤコブに関して言えば、この時、神様は世の常識に反して、弟のヤコブを選ばれました。そのようにして、人間が作り出した秩序や制度を打ち破られたのです。人間が作り出したものの中には救いはないからです。しかし、それから千数百年を経た時、弟ヤコブの子孫は自らを長子の位置につけており、他の民族は神に捨てられていると確信していたのです。そして、同じ民族の中でも、律法の字句を忠実に守る者のみが神の子としての遺産を相続できるのだという秩序を作り出していたのです。つまり、自分たちに分かりやすい、納得できる救いの秩序を作り出していた。
しかし、神様は、この時も、人の世の常識を打ち破る御業を為さいました。
イエス様は、聖書の専門家であり、そのことの故に救われていると勝手に思い込んでいる祭司長やファリサイ派の人々に向かって、こうおっしゃいました。

「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」


 人々が無価値、あるいは害があるものとして捨てた石を、神は中心に据える。土台として据える。ここで石に譬えられているのは主イエスご自身のことです。神の民イスラエルによって、神の子が捨てられる。それが人間の選択、選びなのです。
 そして、イエス様はその十字架の上で、まさに神に見捨てられていきます。しかし、その十字架の死を通して、神の憐れみ、その招きがすべての人に及んでいく。罪人の中で最たる者が選ばれていく。これはまさに「わたしたちには不思議に見える」神の御業です。
 エサウとヤコブは、この後も激しく争います。そして、ヤコブは長子の特権の他にイサクから祝福を受け継ぎます。しかし、その結果、裸一貫で約束の地から逃亡せざるを得ないのはヤコブです。そして、二十年を経てその地に帰ってきた時に、エサウとヤコブは和解をしました。しかし、その後、約束の地からエジプトに難民として下らねばならなかったのはヤコブです。彼は、その地で死ぬことになります。約束の実現を見ることはありませんでした。あれほど必死に願い求め、手に入れた長子の特権も祝福も、何の意味もないような人生だったのです。けれども、神様が彼を選んだ事実は変わることなく、彼は死後、アブラハム、イサクが埋葬された墓に葬られることになります。

聖餐

 神様のご計画、それは遠大過ぎて、私たちには理解はもちろん想像すら出来ないものです。けれども、私たちが今こうして礼拝に招かれているという事実、そして、洗礼を授けられているという事実、また洗礼を受けようとする者が一人また一人と立てられていく事実、それはまさに自分など無価値な存在であり、生きていること自体が無益であると思わざるを得ない人間が、神様によって探し出され、招かれている事実そのものを現しているのです。そして、私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださったイエス様の死に与かり、復活の命に与かる洗礼を受けた者は、これから聖餐の食卓に招かれます。洗礼を授けられたという一つの事実の故に、世が造られる前から選ばれていたという神秘的な事実の故に、私たちはこの主の食卓、罪の赦しと新しい命に満ちた神の国の食卓に招かれています。ここに神の賜物と招きとは決して取り消されないという事実があるのです。
 今尚、罪を犯し続けてしまう私たちが、それでも選ばれているという変わることのない恵みの事実があるのです。私たちはその現実を知って、ただ驚き、困惑し、感謝し、讃美しつつ、聖餐に与かる以外にないのではないでしょうか。
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