「あなたは何ということをしたのか」

及川 信

創世記 26章 1節〜33節

 

アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。そのとき、主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」そこで、イサクはゲラルに住んだ。
その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた。アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」
イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。

    族長たちの経験 飢饉 妻を差し出す


今日の箇所は、イサクの生涯がまとめられているような箇所です。前回の二五章にもイサクは登場しますし二七章にも登場しますが、それはヤコブとエサウの父親という役回りで登場するのであって、大きな分類においてはヤコブ物語の中に入ると言ってよいと思います。しかし、この二六章だけはイサク物語です。そして、この二六章には二つの物語がありますけれど二つで一つと言ってもよい所です。全部を読んでいただくと長くなりすぎるので、司式者には一四節までを読んで頂きましたが、今日は二六章全体を読みます。
アブラハム同様に温厚なイサクもまた様々な試練を受けます。飢饉というのは、現代の日本人の多くの人々にとっては、あまり切実な問題ではありません。しかし、現代の世界でも日照りが続いただけで数万人単位の人々が飢えや渇きに苦しみ、水や食料を求めて難民となり、その中には飢え死にしてしまう人々がいるという現実はアフリカ諸国を初めとする国々ではしばしば見られるものです。そういう現実を、アブラハムもイサクも後にはヤコブも経験します。神を信じて生きる者はこの世の苦難を受けることがないということは、少なくとも聖書の中では考えられていません。イサクは、この時、当時の多くの人々がそうであったように、地中海沿いの道を通ってナイル川のお陰で、比較的飢饉が少ないエジプトに向かおうとしました。
しかし、その時、主がイサクに現れてこう言われました。

「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」

 これ以後の、妻を妹と偽って土地の支配者に差し出すという話は既に二度、アブラハム物語の中に出てきています。一回目は、エジプトで、二回目は今日と同じくアビメレクの領地で、アブラハムは妻サラを妹と偽って差し出しました。その両方の事例において共通していること、それはアブラハムが、異邦人の王から、「あなたは何ということをしたのか」と言われてしまうということです。  

  「何ということをしたのか。」

「何ということをしたのか。」
   この言葉は、人間に対する根源的な言葉です。誰でも、自分自身に対してこの言葉を発したことがないという人はいないと思います。「なんてことをしてしまったのか?!」と後悔する。自責の念に駆られる。自分の行為を見て、またその行為の結果を知らされて、激しく後悔する。そういう経験は、誰だって持っているはずです。先週のヨハネ福音書におけるイエス様の言葉で言えば、禁断の木の実を食べてしまって以後の私たちは悪魔の子であり、その本性からして悪に染まってしまっている。そして、父である悪魔の欲望を果たそうとしてしまう。そういう現実があります。先週、その主イエスの言葉の背景にあるのは、創世記のエデンの園の物語と失楽園後のカインのアベル殺しの物語であることを語りましたが、この「何ということをしたのか」という言葉は、まさにそこに出てくる言葉です。エバが、食べてはならない木の実を食べてしまったことに対して、神様は「なんということをしたのか」と言われました。そして、そのエバの息子カインが弟アベルを殺してしまった時に、神様はカインに向かって、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった」とおっしゃったのです。
 この「何ということをしたのか」は、人間が、その恐るべき罪に落ちた時、祝福から呪いに転げ落ちたまさにその時に、神様から言われてしまう言葉、裁きの言葉であり、嘆きの言葉なのです。そういう言葉をアブラハムやイサクが異邦人に言われてしまう。つまり、罪によって呪われた世界を信仰によって祝福された世界に造り直すべく主なる神様に選ばれたアブラハムやイサクが、主なる神様を信じているわけではない、異教徒であり異邦人であるエジプトの王(ファラオ)やペリシテの王アビメレクに言われてしまうのです。
 先ほど私は、信仰を生きる人間がこの世の苦難を免れるわけではないということを言いました。しかし、ここに至って、神に選ばれ、信仰を生きるべく召し出され、祝福を担う人間もまた、罪を免れるわけではないと言わざるを得ないのです。聖書は、はっきりとその事実を書いているのだし、私たちの現実もまた、その事実を証明するものでしかないことは、認めざるを得ないのではないでしょうか。私たちは、恵みによって選び出され、祝福され、そしてこの世に派遣されます。しかし、この世における試練は生きている限りありますし、誘惑もまた生きている限り襲ってきます。そういう試練と誘惑の中で、私たちは様々な恐れを抱き、神様の約束を忘れ、与えられた使命を忘れ、あるいは覚えていても背いてしまう。そういうことが実際にあります。そして、人々を罪から救うための器であるはずなのに、むしろ一〇節にあるように異邦の民を「罪に陥れる」ようなことをしてしまう。つまり、呪いをもたらしてしまう。そういうことをしてしまうことがある。それが現実です。
 飢饉という危機と法的保護をもたない遊牧民が異国の地を通るときの危機がイサクに襲い掛かった時、イサクはものの見事にその試練に敗れました。その原因は、七節にありますうように、彼の「恐れ」です。妻が奪われ、自分は殺されるのではないか、という恐れです。

  「恐れ」に先立つ神の約束

 神様は、イサクに、エジプトに下るなと命じられた後、こうおっしゃいました。

「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」

 この約束は、イサクの父アブラハムに対する約束と内容は同じです。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 「大いなる国民とする」
とは「子孫を天の星のようにする」ということであり、「この土地をすべてあなたの子孫に与える」ということでもあります。そして、アブラハムとその子孫を通して、神様は全世界を祝福する。そういう約束をアブラハムとイサクは受けるのです。そして、ヤコブもまた受けることになります。しかし、アブラハムは、恐れに捕らわれてその約束を疑い、背くこともありました。イサクもまたそうであったことは、既に見てきました。アブラハムにしろイサクにしろ、神様の祝福ではなく人々に罪を犯させ呪いをもたらすようなことをしてしまったことがある。にもかかわらず、神様はイサクに対して「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」とおっしゃっている。そこに、今日の箇所の一つの重要な問題があるのだと私は思います。つまり、人間の行為、過ちをすべて塗りつぶしてしまう神様の行為、赦しと祝福の行為、それこそ、「あなたはなんということをしてくださったのか」と感嘆し、讃美せざるを得ない行為があるのです。

  アビメレクの経験

 イサクの偽りがアビメレクに露見した時、アビメレクはイサクを詰問しましたが、同時に、普通だったら考えられないことをします。彼の支配下の民に向かって、「この人、またその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる」と命令を下すのです。アビメレクは一国の王です。イサクは通りすがりの遊牧民、それも飢餓難民です。王様が一人の飢餓難民の権利を守る。もし難民に危害を与える者があれば、自分の民を死刑に処するなどということは、常軌を逸したことです。何故、彼がこんな異常な命令を下したか。その背景にあるのは、先ほど言った、イサクの父アブラハムとの間にあった同じ出来事です。アブラハムが妻サラを妹と偽ってアビメレクに差し出した時、神様が夢に現れて、「あなたは、召し入れた女の故に死ぬ。その女は夫のある身だ」と告げ、さらにこうおっしゃいました。「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」そして、結局、悪いのはアブラハムなのに、アビメレクはアブラハムに神に祈ってもらって、彼の宮廷では再び女たちが妊娠と出産をするようになった・・。そういう出来事がありました。つまり、目に見える形では加害者の方が被害者のために祈るという妙な出来事があった。それから後、アブラハムとアビメレクの部下との間に、今日の話とも深く関連する話ですが、井戸を巡る争いが生じた時、アビメレクがアブラハムに向かって言った第一声は、「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」という言葉でした。アビメレクは、本当に気の毒で憎めない人物ですけれど、彼にはアブラハムとの間に既にこういう経験があり、その息子イサクがまたもや同じことをしでかしたのですから、イサクをただの飢餓難民として扱うことは到底出来なかったのです。アブラハムが何をしても、神が共にいることを痛烈に知らされたアビメレクは、その息子イサクに対して自国民が何らかの危害を加えるならば、とんでもない災厄が襲ってくるのではないかと恐れた。その結果が、一一節の命令の背後にあることでしょう。

  神が共にいるという事実

 物語は、ここから第二部に入ります。アブラハムのエジプトでの出来事も結末は彼が大金持ちになるということでしたが、イサクの場合は、神様の命令を守って、その地に定住するために種を蒔くと、「その年のうちに百倍もの収穫があった。」つまり、飢饉とは正反対の結果が起こるのです。神を恐れるよりも人を恐れて、異邦の民を「罪に陥れるような」ことをしてしまったイサクなのですけれど、神様は彼を富み栄えさせ「多くの羊や牛の群れ、それに多くの召使をもつように」されました。そうしたら、今度は飢饉の時には起こり得なかったような危機が彼を襲うのです。土地の人々の嫉妬、妬み、怒りを買うようになったのです。
 その土地の人々は、王によって不当な保護を受けた難民が、あれよあれよと言う間に大金持ちになったのを見て、面白くない。これは当然でしょう。土地の人々は、王の命令を無視して、かつてアブラハムが掘った井戸をことごとく塞いでしまいました。アビメレクも、イサクの状況のあまりの変化を目の当たりにして、このまま放っておけば住民たちととんでもないことが起こることを危惧して「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」と促します。彼としては、この不気味な親子との関りを持ちたくないのです。
 イサクは、争いを好まず、そこを去ってゲラルの谷に天幕を張りました。そこにもアブラハムがかつて掘った井戸が、しかし、アブラハムの死後ペリシテ人が埋めてしまった井戸があった。その井戸を掘り当てると、その地の羊飼いが「この水は我々のものだ」と言って、イサクの羊飼いと争いが起こり、イサクがさらに別の井戸を掘り当てると、そこでも敵意が生じる。そういうことが二度あって、争いを好まないイサクはさらに撤退をして、またもや井戸を掘り当てたのです。これは大変なことです。どこでも掘れば水が出てくる土地ではないのですから。すると、そこでは争いは起こらなかったので、「イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、『今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった』と言った」のです。

  礼拝に向かうイサク

 イサクは、こういう現実の中に、罪を犯したにもかかわらず、尚も彼を見捨てずに、祝福してくださる神様の臨在を感じたのでしょう。その後、アブラハムとアビメレクが井戸を巡って交渉をした結果、アブラハムがついに約束の地カナンで一つの井戸を所有したベエル・シェバに向かいました。そこは、アブラハムが約束の地で初めて土地を所有した記念すべき地ですし、その記念に一本のぎょうりゅうの木を植えて「永遠の神、主の名を呼んで」礼拝をしたという意味でも極めて大事な場所です。イサクにとっては、あの恐るべき体験(イサク奉献)前の幸せな幼少時代を過ごした信仰の故郷と言ってもよい所です。彼はそのベエル・シェバに「上って」いきました。この「上る」という言葉は、谷から平地に「上る」の意味もありますけれど、聖所に礼拝をするために上る、巡礼の旅を現す時にもしばしば使われる言葉です。皆さんもまさに桜丘の上に立つ礼拝堂に、今日も上って来られたわけですが、そういう時に使うのです。
 そのイサクに、ある夜、主が現れてこう言われました。

「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。
恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。
わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす
わが僕アブラハムのゆえに。」


 神様は自己紹介の直後に、まず「恐れてはならない」と語りかけます。イサクの問題は、何よりも「恐れ」だったからです。当時は、美しい女が人妻である場合、夫が殺された上で、その土地の王に差し出されることがあったのではないかと学者たちは言いますが、とにかくイサクは人を恐れました。その結果、人を罪に陥れるようなことをしてしまったのです。そのイサクに「恐れるな」と主は言われる。これは、ただ「気持ちを強く持て!」とか「男らしくしろ」と言っているのではありません。そうではなくて、「わたしを信じなさい」とおっしゃっているのです。「わたしはあなたと共にいる。その事実を信じなさい。ただそれだけが、あなたから恐れを取り除くのだ。わたしはあなたに約束したとおり、あなたを祝福し、子孫を増やす。アブラハムへの約束は取り消されることはない。そして、わたしはあなたの過ちを赦す。だから、何も恐れるな。」主は、こう言っておられる、と思います。真摯に礼拝に向かう者には、主は必ず、何事かを語りかけて下さると私は信じていますが、ここでイサクは、その主の言葉を聴くことが出来ました。
 彼は、このように自分に語りかけて下さった主のために「祭壇を築き(つまり、犠牲を捧げて)、主の御名を呼んで礼拝を」捧げたのです。彼はこの時、アブラハムの神を、自分の神として受け入れたのです。以後「アブラハムの神、主」は、ご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、主である」と自己紹介をされるようになります。父の神は、この時、自分の神になったのです。

  使命に生かされるイサク

 イサクは、ベエル・シェバに天幕を張り、井戸を掘り始めました。その時、アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長ピコルとを連れてイサクの許に来ました。一国の王が、総理大臣と防衛省大臣を連れて来たのです。イサクは、最早恐れることなく、彼らに詰問しました。この場面は、その父親アブラハムそっくりです。

「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」

 その時の彼らの答えは、こういうものです。最初と最後だけ読みます。

「主があなたと共におられることがよく分かったからです。・・・あなたは確かに、主に祝福された方です。」

 そう言って、アビメレクはイサクとの和解を求め、今後友好的な関係を結ぶことを互いに誓約しようと提案するのです。イサクは、その提案を快く受け入れました。何故なら、アビメレクには主なる神様への畏敬の念があったからです。父親アブラハム同様に弱さやずるさを持ったこのイサクという男に対して、アブラハムに対すると同様に主(ヤハウェ)という神は、何故か、見捨てることなく共におり、そして祝福を与える。アビメレクは、その事実を彼ら親子と長年接する中で痛切に知らされたのです。主はイサクに向かって、「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福する」と仰っていました。その言葉が、イサクにおいて実現している。その事実をアビメレクは目撃しています。彼自身は、主がイサクに言った言葉の内容など知る由もないのですが、事実として、主はイサクと共におり、彼を祝福している。その事実をアビメレクは目撃し、感嘆し、主を畏れている。そして、このようにして異邦人に主の存在、その真実と力を証しすることこそ、アブラハムやイサクに与えられた使命なのです。イサクは、「何ということをしたのか」と言われざるを得ない大失敗をしましたけれど、その失敗を通して、今、その使命を生きる者とされているのです。

  恵みによって召されたキリスト者

 こういう物語を読んで思うことはいくつかあります。そのすべてを語ることは出来ません。私は、「何ということをしたのか」と自ら言わざるを得ず、また神様に言わせてしまう過ちを犯すという点においては充分に長い年月を生きてきた者として、やはり神様の憐れみを深く思いますし、その約束の真実を思わざるを得ません。先週も語りましたように、イースターに洗礼を受けることを志願している方とその準備をするために、日本基督教団の信仰告白を読んだり、式文を読んだりすることが最近多いのですけれど、その中に繰り返し出てくる言葉は「恵み」という言葉です。私たちキリスト者は何よりも恵みによって選ばれた者ですし、恵みによって召された者だということを、改めて知らされます。何故、自分がキリストに召されたのか、それは分かりません。皆さんも同じだと思います。選びは神秘であって、合理的な説明は出来ません。私たちは選ばれて当然の人間ではなかったし、その後も、それに相応しい生き方だけをしてきたわけではありません。この世の様々な試練や誘惑に負けてきたし、恐れに捕らわれて過ちを繰り返してきたのです。しかし、今も、この礼拝堂にいる。今尚、キリスト者の末席に連なることを許され、礼拝するために丘を上がってくることが出来、主の言葉を聞くことが出来る。そこにある恵みの確かさ、選びの確かさ、その約束の真実を思わざるを得ません。アブラハムを、またイサクを見捨てなかった主は、今日も私たちをお見捨てになっていない。その事実を前にして、やはり圧倒されるのです。あなたは、何というお方なのですか?!と。

  ペトロたちの現実

 マタイによる福音書によれば、ペトロは、ある日、いきなりガリラヤ湖の畔で、イエス様から「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と召し出されます。何故、ペトロなのか?誰も分かりません。ペトロだって分からない。でも、彼は、その時、自分を召し出した方が、何かとてつもない存在であることを心に感じて、網を捨てて従った。つまり、それまでの仕事を捨てて、托鉢僧のような生活に入っていったのです。彼らはイエス様と共に、枕するところがない伝道の旅を続け、食物も人々からの施しで得るという生活を始めました。まさに、「明日のことは思い煩うな。まず神の国とその義を求めよ」という生活を続けたのです。そのような弟子としての生活の中で、ついに彼は「あなたはメシア、生ける神の子です」と、その信仰を告白したのでした。キリスト者になったのです。イエス様も喜ばれ、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とまでおっしゃっいました。しかし、その直後には、イエス様に「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と面罵されてしまうのです。そして、その「人間のことを思う」という彼の内面の事実は、いよいよ主イエスが十字架に架けられる直前に、「あの人のことは知らない」と三度も言ってしまうことによって外面の現実となって現れたのでした。ペトロは、イエス様を見捨てたのです。そうすることによって、自分の命を長らえさせたのです。自分が殺されることを恐れて妻を妹だと偽ることも人間の根源的な弱さであり、また罪の姿に違いありませんが、「あなたはメシア、生ける神の子」と告白したのに、「あの人のことは知らない」と言うのは、やはりもっと根源的な裏切りの罪だと思います。人間は「恐れ」に捕らわれると、こうやって自分を愛してくれる存在を裏切り、その関係を破壊し、結局、自らをも破滅させてしまうものです。
 しかし、イエス様は、究極的な恐れの只中で、ただひたすらに「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈り続けられました。そして、その「父の御心」は、主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びつつ、十字架上で罪人として殺されることであったのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 これが生ける神の子メシア、神の愛する独り子の地上における最後の肉声でした。その時、弟子たちは、皆、逃げ去っていました。
 しかし、主イエスはそれから三日目の日曜日の朝、死人の中から甦られたのです。そして、墓にやって来たマグダラのマリアともうひとりのマリアに対して、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と告げられた。私はここを読むたびに、「イエス様、あなたは何というお方なのですか!?」と言葉にならない思いが込み上げてきます。ペトロだけでなく、すべての弟子たちが、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と口々に言っていたのです。でも、彼らはその直後に、「あの人のことなど知らない」と裏切って逃げて行ったのです。それが僅か三日前の事実です。しかし、その弟子たちのことを、主イエスは「わたしの兄弟たち」とお呼びになる。「あの裏切り者たちにこう言いなさい。あなたたちにはほとほと呆れ果てた。私はあなたたちを呪う。さっさと野垂れ死んでしまえ」とはおっしゃらない。「わたしの兄弟たちと、わたしはガリラヤで会う」とおっしゃる。

  変わることのない恵み

そう、弟子たちと初めて出会ったガリラヤです。弟子たちを「人間をとる漁師にしよう」と約束してお招きになったガリラヤです。その最初の出会い、最初の約束の場所に、主イエスは弟子たちを、裏切り逃げ去った弟子たちを、お招きになるのです。何故?そんなことは分かりません。神様の選びの理由なんて分からない。神様の愛の深さなんて分かりません。ただ、それがイエス様であり、イエス様の為さったこと。それが事実だということだけ分かります。
 弟子たちは、イエス様に言われたとおり、ガリラヤに行きました。大失敗を犯した後、信仰の故郷であるベエル・シェバに行ったイサクのように。そこで、弟子たちはイエス様に会い、ひれ伏しました。恐れと喜びと疑いと、何とも言えない思いを内に抱えながら、ただひれ伏すほかになかったのです。
 そういう彼らにイエス様は近づいて来て、「あなたは何ということをしたのか」とはおっしゃらなかった。こう、おっしゃったのです。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 弟子たちは、共に死ぬと言いながら、共に死にはしませんでした。イエス様は、最初からそれは分かっていました。「共に死んでくれ」ともおっしゃらなかったし、そんなことは願いもしなかった。イエス様は独りで死ぬ。しかし、それは自分の罪の内に死ぬ死ではありません。私たちすべての罪人の罪のために死ぬ死です。私たちすべての罪を贖い、私たちを新たに神の子として誕生させるための死なのです。その死を死ぬこと、罪人が神様に見捨てられないように、ご自身が見捨てられて死ぬこと。それが父なる神様の御心だったのです。イエス様だけが、その御心を生きた。神様の変わることのない愛を生きてくださったのです。そして、イエス様だけが甦り、イエス様だけが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って下さったのだし、言えるのです。そして、私たちは、今日もその言葉を聞いている、聞ける。これが恵み、これが変わることのない恵みです。選ばれて召された者たちが与えられる恵みです。
 イサクに対する約束、「わたしはあなたと共にいる」という約束は、イサクの不信仰によって、彼が異邦人を「罪に陥れる」ようなことをした後も変わることはありませんでした。彼はその後、多くの試練や苦しみを経験しつつ、しかし、そのことを通して、神様が共にいて下さるという恵みと祝福の事実もまた経験していったのです。そして、その事実は、ついにアビメレクにも伝わったのです。彼はイサクを通して、神の恵み、ご自身が選ばれた者が何をしてしまっても、決して見捨てず、どこまでも共に生きてくださり、その歩みを祝福してくださる事実を知らされ、感嘆しました。私たちも、またそのイサクであり、ペトロに違いありません。私たちは恐れに捕らわれ、罪を犯します。主を見捨て、背き、逃げ、隠れてしまいます。でも、こうして今日も礼拝に招かれ、この丘を登ってきました。そして、今日も主イエスから「わたしはあなたと共にいる」と約束の言葉を与えられ、「宣べ伝えなさい」「洗礼を授けなさい」と派遣されるのです。一体、何ということかと思います。
 これから、主の晩餐、聖餐に与かります。この食卓の主はイエス様です。ここに主が臨在しておられます。その主が、「これはあなたがたのために裂かれたわたしの体」「これはあなたがたのために流した私の血」「さあ、これを食べ、これを飲み、勇気を出して、信仰に生きなさい。証と伝道のために生きなさい。恐れるな。わたしが共にいる」と語りかけてくださるのです。信じて聞き、信じて食べ、信じて飲み、感謝と讃美を捧げつつ今日よりの一週間の歩みを始めたいと思います。
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