「策略と計画」

及川 信

創世記 27章 1節〜46節

 

「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」

 今日から夏の間は創世記の御言をご一緒に聴いていきます。しばらく離れてしまいましたから、少しだけ復習をしておかないといけないと思い、「創世記の構造」を記したプリントを用意しました。

創世記の構造
   天地創造物語
 創世記は大きく分ければ「天地創造物語」(原初の物語)とイスラエルの先祖の物語である「族長物語」に分けることが出来ます。
 天地創造物語はその名の通り天地創造から始まり、アダムとエバの物語とかカインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔と続くわけですが、その構造を非常にシンプルに言えば、祝福から呪いへ、調和から分裂へ、という流れだと言って良いと思います。その分岐点は言うまでもなく、人間の「罪」です。その罪の内容は、結局、人間が神の地位に就こうとするということです。神のようになりたい、神のように思いのままに自然も人も支配したい、そういう思いとそれに基づく行動によって、人間は実は本来の人間の姿、神との愛の交わり、人との愛の交わり、自然との共生に生きる姿を失って行った。そういうことです。祝福と調和を失っていくのです。

   族長物語

 その人間と世界に対して、神様はアブラハムという一人の人間を選んで、神様が示す地に旅立たせることを通して、地球上のすべての人間を再び祝福の中に置こうという救いの御業を始めた。創世記12章からの物語、族長物語は、そのことを示す物語です。
このアブラハムがいつの時代の人物かの特定は出来ません。しかし、一般には紀元前1500年頃のことと言われています。今から3500年前のことです。私たちの人間の歴史という単位で言えば長いとも言えますけれど、天地創造以来の神の歴史を24時間とすれば僅か1分程度のこととも言えるわけです。とにかく、神様は約3500年前に一人の人間を選び、罪によって呪われた人間と世界を、再び祝福と命に満ちたものに造り替える救いの御業を始められたのです。そして、その神の歴史は今もなお続いており、私たちキリスト者はまさに神の歴史の最先端を生きており、救いの完成を目指して生きているのです。そして、その救いとは神様の約束を信じることによって与えられるのですから、その歴史は信仰の歴史とも言えるし、礼拝の歴史とも言えます。そして、歴史とは継承されて初めて歴史になるのですから、私たちはアブラハムの信仰を継承し、また次の世代に継承するために生きているということでもある。そして、その信仰の継承の歴史を、神様は絶えず導いて下さっている。族長物語が語り伝えている一つのことは、神が選ばれし者と共にいますという事実であると言ってよいだろうと思います。この、神が共にいますという事実こそが救いの内容であり、祝福の内容でもあるのです。

不可解な選び

 プリントにも記しておきましたが、族長物語の一つの特色は「選び」です。ノアの洪水以後、ノアの三人の息子から世界の諸民族が広がったことになっていますが、その中のアブラハムに繋がる家系が何故どのような理由で選ばれたかは、聖書を読む限り定かではありません。「これこれこういう理由で神はアブラハムを選ばれた」という記述は、そこにはないのです。そのことがまず不可解なことです。
そして、それは私たちが今この国で、つまり、キリスト者の数が名目上の人々を集めても総人口の中で0.9パーセントに満たないような国の中で、今何故信仰を与えられ、洗礼を授けていただけたのか、何故あの人この人でなく自分なのか、それも理由は分かりません。もちろん、あの人この人だっていつどうなるか分からないから伝道するのですけれど、つまり神様が誰を選び、いつその選びを具体的な姿で実現されるのか、私たちは誰も分からないのです。そして、私たちにとって明らかなことは、私たちがイエス・キリストを通して示された神を選んだのではなく、神様がイエス・キリストを通して私たちを選んでくださったということです。その不可解な選びの歴史は、創世記の時代から今なお続いているのです。

 ヤコブの事情 双子 託宣

 私たちが読み進めていきますヤコブ物語、この物語は、創世記の根幹である「祝福」と「選び」が複雑に絡まりあった物語ですが、アブラハムやイサク物語にはなかった要素が入るのです。アブラハムは先ほど言いましたように登場したときは既に選ばれた人物でしたし、イサクは妻サラとの間に生まれた一人っ子です。神様から約束されていた子はイサクであることはアブラハムにとっては明白なことでした。
 しかし、ヤコブの場合は同じ母から生まれた兄弟がいましたし、その兄弟は双子の上にヤコブは弟なのです。この兄弟は、母リベカのお腹の中にいたときから互いに蹴り合って争いを繰り返していた兄弟です。あんまりその争いが激しいので、リベカは神様にお伺いを立てたことがあります。その時、神様がリベカに言った言葉、これは実に不穏なものでした。

「二つの国民があなたの胎内に宿っており
二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。
一つの民が他の民より強くなり
兄が弟に仕えるようになる。」


 これが何故不穏な言葉かと言えば、当時は兄弟間の家督相続争いを防ぐために長男が家督の多くを継ぐということが慣習となっていたからです。さらに、アブラハム、イサクと継承されてきたものは、所謂家督だけではなく、神の祝福であり、約束であり信仰です。それは、世界を祝福するという神様の救済の意志を受け止めて生きる使命であると言ってもよいものです。その祝福と使命を受け継ぐのはどちらであるのか?それが大問題なのです。王という地位が一つしかないように、この場合の祝福を受け継ぐ地位も一つしかないからです。
 今日の箇所を読めば分かりますように、父イサクは、家督だけでなく祝福も当然のことながら長男のエサウが継ぐものと思っていますし、エサウもそう思っていました。
 しかし、神様は彼らが母の胎にいる時に既に、ヤコブを選んでいたのです。その理由は分かりません。ただ、聖書に記されている神様は、しばしば人間が当然だと思っていることとは逆のことをされる。それは事実です。

  人間の選び 神の選び

 しかし、その問題に入る前に、もう少しだけ振り返っておかねばなりません。彼らが生まれる時、エサウの踵を掴んでヤコブは出てきたとあります。そういう激しさ、執念深さをヤコブは持っている。しかし、大人になった頃、エサウは狩人でヤコブは穏やか人で天幕の周りで働くのを常としていたとあります。そして、父イサクは、狩りの獲物が好物だったのでエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した。その理由は敢えて記されていない。しかし、多分、彼らが胎内にいる時に直接聞いた神の託宣の言葉がリベカの心にはあっただろうと思います。そして、その言葉を夫であるイサクは聞いていたのか、エサウとヤコブは聞いていたのか、それは聖書には記されていません。
 その上で、ヤコブは予め煮物を用意して、狩りの獲物がとれずに腹ペコで帰ってきたエサウに対して、「長子の特権を譲ってくれるならこの煮物をあげる」と交渉をし、後先のことをあまり考えないお人好しのエサウは一杯の煮物のために長子の特権をヤコブに譲ってしまうということがありました。
 それから何年も何年も経って、イサクが年老い、彼としては自分の老い先が短いと思われた時、何が起こったか。それが今日の話です。
しかし、その直前に、エサウが地元の娘二人と結婚して、その嫁たちがイサクとリベカの悩みの種となったということが記されています。それは27章の最後のリベカの言葉を引き出しますし、28章でエサウが再び妻を娶ることの伏線になりますから覚えておいて頂きたいと思います。
 とにかく、この家族の中には夫婦がそれぞれの子を愛すという偏愛があり、嫁と姑の問題があり、兄弟の不和という問題がある。そういう、私たちの家庭にもよくある問題があるのです。そして、愈々遺産相続の問題が生じるわけです。

 目がかすんでいるイサク

 イサクは何の疑いもなく、だから妻に相談するわけでも、家族会議を開くわけでもなく、長男エサウに祝福を与えようとします。彼は狩りの獲物の料理が好きなので、祝福を与える儀式の時の祝いの料理はエサウが獲ってくる獲物の料理が食べたいと言います。ひょっとしたら、ヤコブを愛するリベカには秘密に、やりたいことしたのかもしれません。その時、彼の心の中に、祝福は自分が自由に与えてよいものだという思いがあったと思います。しかし、祝福は神のものです。アブラハムに祝福を与えたのは神です。そして、アブラハムが死んだとき、「神は息子のイサクを祝福された」と記されています。これ以後、祝福はイサクを通して息子に、またヤコブを通して息子や孫たちに与えられることになりますが、彼らはあくまでも媒介者であって、祝福の与え手ではありません。イサクもそのことは知っています。しかし、当時の慣習と彼の偏愛によって、また年をとってしまったことによって、そのことが見えなくなっているのではないか、と思います。彼の「目がかすんで見えない」とは、そのことを暗示しているような気もします。

 イサク・エサウ 対 リベカ・ヤコブ

 彼は「息子よ」(わたしの子よ、ヘブル語で「ブニー」)と呼びます。そして、自分はもういつ死ぬか分からないから、大事な使命である祝福の継承をしておきたいと言う。「わたし自身の祝福を与える」と。これは「わたしの命の祝福」とも訳し得る言葉ですけれど、微妙な表現です。神の祝福であるものを「わたし自身の祝福」と言って自分の所有物にしまっているのか、それとも全人類の中でイサクにだけ与えられている「神の祝福」を継承しようとしているのか、俄かには判然としないように敢えて二重の意味を込めて書いているのかもしれません。この物語は、そういう微妙な表現が多いのです。
 しかし、その言葉をリベカは聞いていました。そして、イサクと同じくヤコブを「わたしの子よ」(息子よ)と呼びかける。そして、「わたしの言うことを聞け」と命じるのです。その命令は、夫を欺くことであり、息子に父を欺かせることです。ヤコブは躊躇します。でもそれは、神を恐れての躊躇ではなく、失敗したらどうするのだ、という躊躇です。彼も祝福は欲しいのです。しかし、リベカはひるみません。「そのときにはお母さんが呪いを引き受けます」とまで言います。母は自分の子の為なら鬼にもなると言われるとおりです。
しかし、彼女は双子が胎内にいた時に、神の託宣を直接聞いた人間であり、ヤコブを愛する理由が敢えて書かれていない人間でもあります。ですから、リベカがヤコブに祝福を受けさせたいと願う場合、それはイサクがエサウに受けさせたいと願うのとはちょっと違う理由、あるいは違う次元があるとも言えます。しかし、それがどうであれ、彼女はイサクに向かって、「それはいけません」と言っているわけではなく、とんでもない策略を使って祝福を騙し取ろうとしていることは確かですし、ヤコブもまた父親を騙そうとしていることは確かなことなのです。

イサクとヤコブの対話

 彼は、リベカが作った料理を手にし、エサウの服を着て、毛深いエサウに化けるために子山羊の毛皮で変装して父イサクのもとに行き、「わたしのお父さん」(アビー:ヘブル語)と呼びます。イサクは「あなたは誰だ、息子よ」と言う。声はヤコブなのです。イサクの顔が少し怪訝そうに見えたのでしょう。ヤコブは、こう答えます。「長男のエサウです。」
これはヘブル語で見るとさらに面白いのですが、ヘブル語では敢えて「わたし」と言わなくても動詞の形で主語を表すことが出来るのですけれど、強調したいときに使う「わたし」という言葉あります。通常は「アニー」という言葉ですが、時に、それをさらに強調したい時に「アノキー」という言葉を使うのです。たとえば神様がモーセに十戒を与える時、「わたしは主(ヤハウェ)あなたの神」と自己紹介をされました。その時は、「アノキー 主 あなたの神」となっています。
ヤコブはここで「わたしはエサウ あなたの長男です」と言っているのです。後にエサウが帰ってきて、イサクから「お前は誰か」と聞かれたときは、「わたし(アニー)はあなたの子、あなたの長男です」と答えています。これだって「わたし」を強調していると言えば言えるのですが、ヤコブはさらに強調している。「わたしこそ、あなたの長男エサウです。お分かりになりませんか?!」という感じです。こういうことを平気で言えるのがヤコブなんです。この性格はそんなに簡単に変わりません。
 イサクは、「どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と訝しがるのですが、「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」といとも簡単に嘘を言う。しかし、これもまた微妙なんで、ある意味では、本当のことです。リベカに託宣を与えた主が、イサクがエサウに語る言葉をリベカに聞かせたとも言えるし、賢いリベカとずる賢いヤコブだからこそ、エサウに祝福が与えられないように策略を練り、それを実行できたとも言えるからです。単純で人の好いイサクとエサウは、そんなことは全く分かりませんし、リベカとヤコブだって、主の御心を実現するために心ならずもこういうことをやっているのだ、という自覚はないでしょう。しかし、実際にここで起こっていることは、深い意味では主の御心に適っているのだし、イサクの神、主の取り計らいがあると言って間違いはありません。
 その後も、「お前は本当にわたしの子エサウなのだな」と言われても「もちろんです」(はい)と答え、料理を持って来いと言われれば、今流行の「食肉偽装」をした料理を食べさせる。イサクは食べてもそれが獣なのか家畜なのか分からないのです。私たちだって、飛騨牛と神戸牛の違いなんて分かりません。イサクは、さらにヤコブの匂いまで嗅ぐのですが、エサウの匂いのしみついた服を着ているので分からない。イサクは、視覚は見えないのですが、聴覚としてはヤコブの声だと思っている。でも、触覚、味覚、嗅覚のすべてで騙されて、ついにヤコブをエサウだと思って祝福するのです。
 その前半は農耕民に対する物質的な祝福です。そして、中盤は神様の託宣の実現、そして後半は父祖アブラハムに対する神様の祝福の言葉と同じ言葉です。つまり、ヤコブを通して、人々が祝福を受けるようになるということです。そのような祝福が、このような卑劣な男に与えられる。それは一体どうしてなのか?!

 イサクとエサウの対話

 その直後、首尾よく獲物を仕留めたエサウが帰ってきます。彼も早速イサクの大好きな料理を作って持って行きます。そして、ヤコブと同じように、「わたしのお父さん」(アビー)と呼ぶ。その心はもう嬉しくて嬉しくて仕方なかったでしょう。しかし、イサクは、ここでは先程とは違った驚きをもって、「お前は誰なのか」と尋ねます。それは無理もない話です。
 エサウは心底びっくりしたでしょう。「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答える。彼はヤコブのように「わたしこそ」と強調する必要はありません。実際に長男ですから。でも、イサクが、ヤコブに訊いたように、「わたしの子よ、お前は誰なのか」ではなく、まるで彼が息子ではないかのように、「誰だ、お前は」と訊くものだから、たまらず「あなたの息子ですよ」と答えている。悲しい現実です。嘘つきのヤコブは長男であること強調し、お人好しのエサウは息子であることを強調しなければならない。

 激しく体を震わせるイサク

 そのエサウの答えを聞いた時、「イサクは激しく体を震わせた」とあります。驚天動地とはまさにこのことです。イサクは、この時、自分がやってしまったことがなんであるかを知らされたのではないかと思います。その「やってしまったこと」とは、ヤコブに騙されて誤って祝福してしまったということではなく、自分が神の御心を尋ねもせず、自分の好みに従って、また当時の社会的慣習にならって、長男のエサウに祝福を与えようとしていたということだと、私は思います。
 何故なら、この激しく「体を震わせる」という言葉は、創世記にあと一回だけ出てくるのですけれど、それはこういう文脈だからです。箇所はずっと先の42章28節です。細かいことはすべて省きますが、ヤコブは後に自分の子供たちに騙されるのです。やったことはやられる。蒔いたものは刈り取るものです。しかし、その子供たちが、自分の欲望に従ってやったことが暴かれる時が来るのです。その時のことを聖書はこう書いています。

「みんな者は驚き、互いに震えながら言った。『これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。』」

 人間の策略でことが進んでいるとしても、ある時、神が介入してくるのです。その時に、私たち人間は初めて自分がやってきたことが何であったかを知る、知らされる。それはまさに震えが来るような瞬間です。そして、さらに後に、その策略をも含めた形で神の計画があったことを知り、茫然とする。
 イサクを襲った全身の震え、それは神の介入を知らされた時の震えです。

 エサウの叫び

エサウは悲痛な叫びを上げます。

「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」

 しかし、イサクは言います。
「お前の弟が来て、策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」

 イサクは、ヤコブを騙したヤコブの子供らと同じように、まだその策略の中に神の計画があることまでは分かっていません。それが分かるのは、まだ何年も先のことなのです。ヤコブだって、祝福を受けるとはどういうことなのか、まだ全く分かっていませんし、エサウはそれこそ何も分かっていません。祝福が一つであることも分かっていないのです。
 それでもイサクは、祝福にはならない一種の予告の言葉をエサウに告げます。それは、エサウは地の産物には恵まれず、剣に頼って生きる者となるということです。しかし、剣を持っても、「弟に仕える」という定めは変えられないのです。けれども、いつの日か、エサウは「自分の首からくびきを振り落とす」と言われます。彼はこれから約二十年を経て、ヤコブに仕えるのではなく、自分自身の住む場所を見つけて移動することを暗示しているのかもしれません。

 エサウの殺意とヤコブの逃亡

 エサウは、ヤコブを憎みます。そして、やはり弟のアベルの方に肩を持った神を恨みアベルを殺してしまった兄カインのように、イサクが死んだ暁にはヤコブを殺すことを、「心の中で言う」のです。
 けれども、先ほどは確かにイサクがエサウに語った言葉を聞いたリベカは、今度はエサウの心の中で言った言葉を聞き取ってしまったのか、それとも彼はその思いを嫁などに漏らして、それが耳に入ったのか、その辺りも微妙なのですけれど、とにかく、リベカはエサウの企みを知るとすぐに人を遣わしてヤコブを呼び寄せ、自分の生まれ故郷にヤコブを逃亡させようとします。
 イサクが死んでしまったら、エサウがヤコブを殺す。そんなことをすればカインがそうであったようにエサウはこの地から追放される。あるいは神の罰を受けて殺される。そうなれば、彼女は夫も息子二人も失い、天涯孤独の身になってしまうのです。そこでリベカは世の姑らしく、「あの嫁たちのことで生きているのが嫌になりました。もし、ヤコブまでも、この土地の娘の中から、あんなヘト人の娘を娶ったら、わたしは生きている甲斐がありません」と言って、イサクにヤコブを祝福させた上で、故郷に逃亡させるのです。
 このリベカの言葉もまた微妙で、ある意味本心だし、ある意味策略です。とにかく、こうやってヤコブは逃亡する。長子の特権を譲り受け、また祝福まで与えられたのに、です。

 聖書という書物 私たちがその中にいる

 皆さんは、この物語を読んで、どんな感想をお持ちでしょうか。私は若い頃から何度読んだか分からず、今も中渋谷教会の婦人会の三つの分団で創世記を語っているのですから、一つの話を三度も語るのですが、何度読んで何度語っても面白くて仕方ありません。一生、読んでいけると思います。人間は誰だって大なり小なり親を騙してきたはずです。そして、それは親になれば子に騙されているということでもあります。しかし、その嘘が何もかも悪く、また悪いように作用するかと言えば、必ずしもそうではないし、知らないままの方がよいこともあるし、とにかく、人生には嘘や策略はつきものです。老人になったことでしか分からないことがあるし、老人になったから分からないこともある。そういう人生の中で、聖書はずっと読み続けていくことが出来る最高の読みものです。しかし、その読み物は、所謂読み物ではなく、そこに私たちが生きている言葉なのです。私たちがイサクでありエサウでありヤコブでありリベカなのです。

 思惑通りいった人はいるのか?

 さて、ここで思惑通りにいった人はいるでしょうか?
イサクは全く思惑通りに行きませんでした。そもそもイサクはもうすぐ自分は死ぬと思っていましたが、実際には全く死なないのです。彼が死ぬのは、ずっと先、少なくとも二十年も先のことです。そして、彼は神の介入によってその思惑が打ち砕かれ、恐ろしさの余り体を震わせました。
 エサウ、彼は今度の狩りは首尾よく獲物をすぐ捕まえることが出来たのですが、帰ってきたら、もう既に何もかも手遅れでした。そもそも親も喜ぶと思った結婚が喜ばれないという思惑外れもありました。そして、殺したい弟はさっさと逃げてしまいました。
 リベカは、神の託宣を実行したいという思惑もあったかもしれませんが、物語の表面上は、少なくともそうではありません。彼女はエサウが嫌いなのです。そして、彼女はエサウの怒りは程なく治まると思っていますが、全く思惑外れで、エサウは二十年経っても怒りと憎しみを持ち続けていたことが後に分かります。そして、「呪いは引き受けます」と言ったリベカは、この後、消息を絶つのです。死んだとも書かれていない。もう聖書には出てこないのです。創世記の最後にアブラハムが買った墓に「イサクと共に葬られている」と出てくるだけです。これもまた何だか暗示的なことです。
 ヤコブ、彼は長子の特権も祝福も受けたのに、何のことはない。カインのように体一つで逃亡しなければならないのは彼なのです。約束のものは何も手にしていない。イサクは「穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった」とエサウに言いましたが、それを当面手にしたのはこの地に留まったエサウです。彼はこの後、相当な財産を持つことになります。そして、ヤコブは、親戚の所でとんでもない苦労をさせられることになるのです。
 ここで実現しているのは、25章に出てきた神様の言葉だけです。神様は弟のヤコブを選んだ。そのことが人間たちの思惑、策略の中で、実現しているのです。

 祝福の式 言葉と象徴行為

 そして、その実現の徴に祝福授与式が行われたのです。つまり、人を通して人に祝福が継承される儀式が行われたのです。後にヤコブはヨセフの息子の頭に手を置いて祝福の言葉を述べます。十二人の自分の息子に祝福を与える時は、全員を集めて厳かに祝福の言葉を告げる。これは明らかに通常の会話ではなく、厳かな儀式です。神の言を告げる行為だからです。そして、それは一旦行われれば取り消せません。神の言は無効にならないからです。
 私たちが洗礼を受ける時、そこでは神の赦しの宣言があり、私たちの信仰の告白、誓約がなされた上で牧師によって水が注ぎかけられます。言葉と象徴行為は分けることが出来ません。そして、洗礼は同じ人からも別の人からも二度受けることは出来ないのです。また、私たち牧師が按手礼を受ける時、そこには勧告があり、誓約があり、そして按手を既に受けた牧師の手が頭の上に置かれます。そして、牧師として選び立てるという神の言が告げられます。長老の按手礼も同じことです。言葉と手を置くという象徴行為があって長老は神に選び立てられます。また、結婚式を挙げるとき、新郎新婦は神の前に愛し合う誓約の言葉を述べ、結婚指輪の交換をし、牧師によって「神が合わせたものは、人が離してはならない」との主イエスの言葉が宣言をされます。その一つ一つのことには、人間の意志とか願いがありますが、何よりも神の意志があり、願いがあるのです。そして、それは人間の側が契約違反をし、破棄しない限り決して取り消されないのです。その事実を恐れをもって受け止めないとすれば、それはその儀式に臨む資格がまだないということです。

 誰も分かっていないのに

 しかし、この物語に登場する人物は、誰も本当の意味で、まだ神への恐れを抱いていない。イサクは、激しく体を震わせた後、祝福をエサウにも与えるという愚かなことまではしませんでした。しかし、この段階での彼の認識あるいは信仰は、不徹底です。しかし、そのような者を通してヤコブに祝福は与えられています。それも、エサウに与えているつもりで。ヤコブは、親を欺くというとんでもない仕方で神の祝福を親から受け取っている。イサクもヤコブも神への恐れなど皆無です。
 誰も完全な意味で分かってはいないし、罪の只中に生きている。だけれども、そういう人間の思いや行動を通して神様のご計画、つまり呪いに堕ちた人間と世界を祝福していく、罪から救い出していく、信仰を与えていく、信仰を育てていくという救いのご計画は進展しているのです。
私たちの誰も洗礼を受けた時に、揺ぎ無い不動の信仰を持っているわけではないし、その後の信仰生活と言っても、それは迷いの連続、躓きや背きの連続です。洗礼を受ける方だって、授ける牧師だって、全くもって情けない現実を生きていることに変わりありません。でも、神様は、イエス・キリストを通してそういう者を憐れみ、罪を赦しつつ、信仰から信仰へと育て続けてくださっている。それが現実でしょう。
 ヤコブもエサウも、これから様々な経験をしつつ、育てられていきます。そして、彼らは和解し、平和的に別れていくことになります。私たちはその過程を見ていく。そして、私たちもまた同様です。様々な失敗を繰り返しながら、「彼らは何をしているのか分からないのですから赦してあげてください」と祈りつつ死んでくださった主イエスの執り成しの中で生かされていくのです。
「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と嘯いていたヤコブは、逃亡の最中に夢で主の言葉を聞き、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言って、自分の神として主を礼拝しますし、20年後にはその妻たちに「わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった」と告白するようにもなるのです。つまり、父の神は私の神だと分かるのです。そして、エサウと会う直前には「祝福を下さらなければ、あなたを放しません」と、一晩中、神と格闘する人間にもなっていきます。彼は人生の晩年、聖書によれば130歳の時には、哀れな難民としてエジプトに降ります。神様の約束の地を離れるのです。そして、そこで死ぬことになる。与えられたはずの穀物もぶどう酒も失う。その不幸のどん底で、「自分は不幸だ」と言いつつ、エジプトの王を祝福する人間になるのです。
 それが神様のご計画だから。そして、そこに彼が祝福されたことの目的が達成されているのです。本当に嫌な男だったヤコブが、このように造り替えられていく。それが神様のご計画なのです。私たちもまた同様に、人格、人柄の高潔さの故にではなく、ただ神の恵みの選びによって、その計画の中に置かれているのです。誉むべきは、ただ神様なのです。
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