「祝福を継承するために」

及川 信

創世記 27章 46節〜28章9節

 

 リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌 になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとっ たら、わたしは生きているかいがありません。」
 イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎 えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、 そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。どうか、全能の神がお 前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。どう か、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、 お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」ヤコブはイサクに送り 出されて、パダン・アラムのラバンの所へ旅立った。ラバンはアラム人ベトエルの息 子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄であった。
 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎 えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えては いけない」と命じたこと、そして、ヤコブが父と母の命令に従ってパダン・アラムへ 旅立ったことなどを知った。エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないこ とを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハ ムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。


    先週から創世記の物語を読んでいます。先週は、創世記の構造について少しだけお話 しましたが、今日は成り立ちについて初めに少し説明をしておきたいと思います。

   「創世記」の成り立ち

   私たちは、「創世記」「出エジプト記」とあると、それぞれ独立した書物であり、そ れぞれに一人の著者がいるものと考えます。現代の物語あるいは小説は一人の著者が 書くものだからです。しかし、古代においてはそんなことはありません。そもそも文 書として書かれるという段階は物語の最終段階です。それまでに何十年何百年という 各地に伝わった口伝伝承の時代があります。そして、今は「創世記」「出エジプト記」 とそれぞれ別個の書物の形になっていますが、それも最終段階の話で、ある文書群は 天地創造からカナンの地の取得までが書かれており、他の文書ではアブラハム物語か ら書かれていたと考えられます。またアブラハム、イサク、ヤコブと続く物語も一人 の人が書いたのではなく、いくつもの伝承があって、それぞれ語り伝えられており、 ある時代になって纏まった文書が出来上がっただろうと思いますが、そういういくつ もの文書が最終的に繋ぎ合わされて現在の形になり、次第に創世記、出エジプト記と いう一巻ずつの巻物となっていったと考えられます。それぞれに異なる時代や場所で 成立していた小さな物語が編集されて一つに結び合わされることにより、時折、その 繋がり方が唐突であったり、物語同士の矛盾が生じたりもするのですが、そこには数 百年に亘る古代イスラエルの民の歴史体験が組み込まれていくことになります。そう なることで、アブラハム、イサク、ヤコブという族長たちの経験は、一人の人間が一 生の間に味わう様々な経験となり、同時に一つの家族、一つの民族、一つの国家が数 十年数百年の歴史の中で経験するものとなっていくのです。個人としては誕生から死 までが入っていますし、民族や国家としてもその誕生、成長、そして衰退と滅亡さら に復興という長い歴史があるのですけれど、そういう出来事が全部、この物語に登場 する個人や家族の経験として描かれているのです。
 そして、この物語に登場する個人や家族が、一般の個人や家族と違うのは、ただ一 人の神様との特別な関係を持っており、その関係の中を生きているということです。 その神は主(ヤハウェ)なる神ですが、それは天地の造り主、全能の神でありつつ、 アブラハムの神、イサクの神、そしてこれからヤコブの神となり、ついにイスラエル の神となるお方です。この特定の個人、あるいは家族、民族と特別な関係を持つ神が、 実は世界の神であるということ、それが天地創造から始まり、アブラハム物語に繋が っていく創世記が主張している一つのことです。そういう個別性あるいは特殊性と普 遍性の問題が、ここにはあります。その問題は、今後、おいおい見ていくことになり ます。

   物語の文脈

 前置きはこの辺で終えて、今日の箇所に入っていきます。今日の箇所は、物語の文 脈上は、リベカと共謀してイサクから祝福を騙し取ったヤコブが、エサウの憎しみを 恐れてリベカの故郷であるパダン・アラムに逃亡するということのはずです。しかし、 ここではむしろヤコブの嫁取りのための旅立ちと、エサウの二度目の結婚が描かれて います。「二度目」というのは、エサウは既に二人の妻を娶っているからです。それは 二六章の最後に記されています。

エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマト を妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

 お気づきの方もあるかと思いますが、この言葉は、今日お読みした二七章の最後の 言葉に直接繋がると言って良いでしょう。

リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているの が嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘 をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」

 この言葉を受けて、イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して旅立たせる。そこでは二 七章で与えられた祝福と同じく「アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神が アブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことが出 来るように」と、正式な祝福の言葉が述べられています。つまり、この部分を書いた 著者は、二七章のヤコブの策略による祝福奪取の物語を知らない可能性が高いのです。 二七章とは別個の作者が全然違う時代背景の中で書いていると考えられる。そしてそ の時代は、恐らくユダヤ人の多くがバビロン帝国に捕囚された時代であり、バビロン の文化や宗教に強く影響され、ユダヤ人の中には自分たちの信仰を捨て、その地でバ ビロン人と結婚するということも起こりつつあった時代ではないかと想定されます。
 ですから、この箇所を書いた人にとっての問題は、アブラハム、イサク、ヤコブと いう一つの家系に他の民族の血が混じること、より厳密に言うと、血と同時に他の文 化や信仰が入り込んでくることなのです。ですから、エサウの結婚、リベカの言葉、 イサクの祝福、ヤコブの結婚のための旅立ち、エサウの二度目の結婚という一連の物 語が書かれたのだと思います。
 それに対して、ヤコブの策略、エサウの憎しみ、ヤコブの逃亡という物語があり、 それは元来は次週の箇所である二八章一〇節以下のベテルでの神とヤコブの出会いの 場面に繋がっている。そう考えてまず間違いないと思います。

   異文化交流の中での信仰継承

   ですから、今日の箇所の問題は、信仰の民イスラエルが幾度も経験してきた異文化、 異教との接触による信仰の継承、祝福の継承、約束の継承だということになります。 信仰を守る生活は、外部からの迫害によって危機にさらされる場合があります。しか し、外部との平和的接触によっても危機にさらされる。そして、その両方とも、単純 な話ではありません。迫害に遭っても信仰を生き抜く人もいれば、捨てる人もいるし、 平和的接触によって信仰が変質し、なくなっていく人もいれば、むしろその人を通し て外部の人に信仰が伝わっていく場合もある。原始キリスト教会がローマ帝国やユダ ヤ教からの大迫害の中、爆発的にその勢力を拡大したことは、その実例です。
 今日の場合は、結婚という異文化交流による祝福の危機に関する事柄が問題になっ ています。

   カナンの娘から妻を迎えてはならない

   イサクは、リベカの言葉を受けて完全に同意し、ヤコブを呼び寄せて祝福します。 二七章の続きとして読めば、ヤコブに対する怒り心頭に達しているはずのイサクがヤ コブを祝福するというのはおかしな話です。しかし、イサクはここでは個人的感情を 超えて、信仰を継承するためにヤコブを祝福し、旅立たせているのだと読むことも出 来ますし、そう読むことが現在の形になっている聖書の読み方として健全だろうと思 います。
 ここで、最初に宣言されていること、それは「お前はカナンの娘の中から妻を迎 えてはならない」です。そして、結婚相手はアブラハムの一族の中から迎えねばなら ないということです。
 考えてみると、リベカもまた、イサクの父アブラハムが死の直前に僕を遣わして自 分の親族から迎え入れた女なのです。ここで問題になっているのは明らかに血族であ り、民族とか人種とかいった事柄です。しかし、より深い次元において問題になって いるのは、信仰なのです。
 そもそもアブラハムの父テラが家族を連れて、大昔にカルデヤのウルという町から カナンの地を目指して旅立ったということが一一章に記されています。その理由は聖 書には書かれていません。しかし、カルデヤのウルという大都市は天体崇拝が盛んな 所でした。その場所から、決然として旅立つ、そこにアブラハムのルーツがあると言 って、それは間違いないだろうと思います。しかし、テラはユーフテラス川上流のハ ランという町に留まりました。そして、ある時、神がアブラハムに現れ、アブラハム に親族と別れて神が示す地に旅立つように命ぜられたのです。それはアブラハムにと っては、これまで築いてきた絆のすべてを断ち切って、ただ主なる神にすべてを委ね て生きるように命ぜられたということであり、神の約束を信じる信仰を生きることで、 罪に堕ちた世界を祝福するという祝福を担い、継承するために生きる使命を与えられ たということです。
 そして、今、ヤコブは自分もその使命を共有し、子孫に伝える伴侶を求めてたった 一人で旅立たねばならないのです。

   日本の精神風土

   私たちの国は、その歴史の中で一時的に仏教が迫害されたり、キリスト教が迫害さ れたりということがありましたけれど、基本的には多神教の精神風土があると言って 良いでしょう。多くの宗教が混在し、平和共存している。それぞれの宗教団体の登録 信者数の合計は総人口の何倍にもなるということからも分かりますように、一人でい くつもの宗教に関与している人も大勢います。しかし、多くの人、特に都会で生活し ている人々にとって、宗教は生活に根付いているわけではなく、年始参りとか子ども のお宮参り、また葬式や結婚式に利用する一つの形式であると言って良いでしょう。 その形式の選択も、家に近い、先祖代々そうである、格好が良い、流行である、そう いう理由が大半で、個人としての内的な信仰に結びついた選択をする人は非常に限ら れています。ですから、最近は、人前結婚とか葬式というものも増えているようです が、キリスト教式で結婚式をしても、子どもが生まれればお宮参りをして、死ぬとき は仏教で葬式をするということが珍しくありません。そういう風に器用に使い分けす ることが、宗教間の争いを減らし、家族内における争いをなくし、また社会における 生き難さを緩和させる知恵であると言ってもよいと思います。そういう意味での知恵 は、日本人は長けています。
 しかし、それは一方では、全身全霊を傾けて一つのものに集中することがないとい うことであり、一つのものに集中するところでしか知り得ないものを全く知ることが 出来ないということでもあります。
 キリスト教の土台となっている聖書、それは旧約聖書も新約聖書も同じことですが、 一つのものに集中しているのです。神々がいるとされている中で、ただ一人の神の愛 を信じる。ただこの方との愛の交わりに集中する、徹する。そのことによってしか知 り得ない喜び、感謝、苦悩、望みを味わい尽くしていく。そして、この一つに集中し、 徹することで全世界との交わりをもって行く。神はイスラエルという一つの民を通し て世界と関り、イスラエルは一人の神を通して世界と関る。それが聖書宗教です。そ こが単なる民族宗教とは違うところです。そして、キリスト教はアブラハム、イサク、 ヤコブに現れた天地の造り主なる神が、イエス・キリストを通してご自身を現してい ることを信じる宗教です。

   日本の冠婚葬祭とキリスト教の礼拝

   私たちの国は、先ほども言いましたように、特に都市部では多神教の人、あるいは 自覚的には無宗教の人が大半ですが、地方ではご先祖様を奉っている仏壇が座敷に置 かれていることは普通のことですし、その家の嫁さんとか子供たちが、毎日先祖供養 のために仏壇に供え物をすることがごく当たり前の家もたくさんあります。また地域 でも、住民に寺の掃除、神社の掃除が割り当てられていたり、祭りの時の神社のしめ 縄張りや奉賛金を集めることが住民の仕事であったりします。また親族の法事やお盆 の集まりなども盛んです。
 私の前任地は長野県の松本でしたが、赴任した最初の葬式は古くからの農家の方の ものでしたが、三日間に亘って近所の人たちが料理を作り、参列者に酒を出し続ける という葬式でした。キリスト教式でやっているのに、遺体の上には魔除けの刀がおか れていたり、三角の布が鉢巻のようにご遺体の頭に巻かれていたり、三途の川の船頭 に渡すための小銭を棺桶に入れたり、極楽浄土にたどり着くための旅支度としての足 袋やら杖やらを棺桶に入れたりと、様々なことがありました。
 東京の牧師家庭に生まれて、そういう日本のしきたりや慣習を全く知らなかった私 は随分と驚かされましたが、次第に経験を積んで、その地域の葬式のやり方を身につ け、仕切る人が誰であり何を大事にしているのかが分かってきて、そういう人とのト ップ会談をして、キリスト教の信仰に相応しい形を持った葬式を挙げることが出来る ようになりました。
 また結婚式も、最低半年、出来れば一年間、二人で礼拝に来てもらい、キリスト教 の礼拝というものをよく理解した上で式を挙げるように努力をして、何組かの結婚式 を礼拝堂で挙げてきました。結婚するのが毎週礼拝に来ている信者同士であれば、そ の二人の間では何の問題もありませんが、そのご家族がどういう宗教に関係している かということは、時には大きな問題になります。

   日本においてキリスト者になるとは

 そもそもこの国でキリスト教の信者になるという場合、それは様々な抵抗を受ける ことが多いと思います。結婚前に信者になる場合は、「結婚相手がいなくなるからやめ ろ」と言われることがあるし、「先祖代々の墓を守るのはお前だぞ」と言われる場合も あるし、「就職に不利になる」、「世間との付き合いが難しくなる」などなど、様々な理 由で反対されることがあります。それは皆、無理からぬことだと思います。
 逆の立場で言えば、私だって、自分の子供たちが、明確な形で他の宗教の信者にな ると言えば、個人の思想信条の自由の大切さは十分に分かっているつもりですが、「そ れはよかった。信仰するということは、それが何であれ大事なことだ。親子とは言っ ても別人格だからお前の自由だ」とすぐには言わないと思います。これは神様に委ね るしかないことですが、幼いときから、私たちなりに信仰教育をしてきたわけで、出 来ることならいつの日か同じ信仰を継承してもらいたいと願っています。しかし、も ちろん、それは「親からの子への継承」ではなく、その本人が神と出会って信仰を与 えられる以外にないことです。結果として信仰を継承するということになって欲しい。 それは子供が生まれる前から、つまり、結婚した時から私たち夫婦共通の願いです。 もし一つだけ願いが叶うと言われれば、そのことを願う。それは信仰を同じくする夫 婦であれば同じだと思います。

   結婚とは

   結婚において最も大事なのは互いを愛する愛だと一般的には考えられているでし ょう。しかし、私たちはその愛の源は神だと信じています。ですから、二人を出会わ せたのも神だと信じている。その神の愛を信じることが出来なければ、牧師である私 は結婚式の司式をすることは出来ませんし、する必要もないと思っています。そして、 結婚する者同士も、二人を出会わせ、愛し合う愛を与えてくださった神を愛し、神の 愛で互いに愛し合う約束をしないのであれば、宗教の形式など利用せず、人前で約束 をした方がはるかに誠実でしょう。
 しかし、そういう世俗性が、聖なる儀式の中に混ざり込んでくる。そういうことは 結婚式であれ、葬式であれ、通常の礼拝であれ、油断すればすぐに起こってくること です。
 今日の箇所では、ヤコブとエサウの結婚が比較されています。エサウは気軽に地元 の女性と、それも二人の女性と結婚しました。大事な結婚について親と相談した形跡 もない。つまり、アブラハムの祝福、神の約束とその約束を信じて生きる使命を生き ているイサクとリベカに相談もしていない。彼は約束とか信仰というものを重視して いないのです。そのことの故に、彼の結婚は、両親の悩みの種になっている。そして、 単純なエサウは、その後で、血族であればよいのだなと勘違いをして、今度は、ある 事情があってアブラハムとその妻サラの女奴隷であったハガルとの間に生まれたイシ ュマエルの娘と結婚したりします。しかし、問題は血族ではなく、受け継ぐべき祝福 であり信仰なのです。エサウは、そのことが分かっていない。

   結婚生活とは

   結婚すれば食事を共にします。家庭には家庭の味がありますから、夫の家に入ると いう形であれば、昔だったら、夫の家の味付けを嫁は身につけなければならないとい うことでしょう。そこには様々な軋轢や抵抗があります。また信仰を持っている家で あれば、食前に神に感謝するのは当然のことであり、そのことを通して子どもたちに 命を養ってくださるのは親ではなく神であることを伝えていきます。しかし、「俺が食 わせてやっているんだ」と父親が思っていたら、「そんなことはするな」ということに なるでしょう。
 子どもをどう育てるかについては夫婦の間で、祖父母との間で様々な問題が起こり ます。そこに信仰の要素が入れば、さらに大変なことになる場合があります。学歴を 重視して日曜日に塾に行かせるか、健康を重視して野球教室に行かせるか、信仰を重 視して教会学校に通わせるか。そこには子どもの希望もありますし、親や祖父母の希 望もあり、夫婦がそれぞれ違った価値観を持っていれば、日曜日の過ごし方一つとっ ても大問題になります。それは、夫婦がお互いに愛し合っていれば大丈夫ということ ではない問題なのです。
 地方に行けば、地域の子供会が催す御輿を担ぐ祭りに子供を参加させるのかしない のか、という問題もあります、こういういくつものことがあるので、「宗教には深入り するな」という知恵が生まれてもくるのだろうと思います。しかし、その知恵は、子 供の全存在を丸ごと愛してくれる存在を知らないでもよい、ということを教える知恵 でもあるのです。それで、よいのでしょうか?
 皆さんも、ご夫婦で礼拝に来られている方もいれば、そうでない方もおり、子ども の信仰継承が出来ている方もいれば、そうでない方もおり、家族の誰かが教会に行く ことを快く思っていない方もおられるでしょう。様々な事情を抱えつつその信仰生活 を送っておられるはずです。それが現実です。いつかまだ信仰を与えられていない伴 侶が信仰に導かれることもあるし、親が子を通して導かれることもあるし、子が親を 通して導かれることもある。また逆に、幸せな結婚を通して教会生活から離れて行っ てしまう場合もままあります。この世的な幸いが、むしろ信仰の妨げになることはよ くあることなのです。あるいは結婚した相手の家庭の理解を得られずに信仰を捨てる 場合もある。すべては一概に言えないことです。

   ヤコブの場合

   ヤコブは、この後に、アブラハムの兄弟の子孫である女性と出会い結婚します。し かし、その女性の家庭には先祖伝来の守り神があり、その他諸々の守り神を信じる宗 教がありました。アブラハムの親族とは言っても、アブラハムではありません。血が 繋がっているだけですから、当時の他の人々と同様に様々な守り神を身につけて過ご していたのです。ヤコブが、そのことをどう思っていたのか、それは分かりません。 そして、彼は親族同士の間で陰湿な争いを嫌というほど経験します。
 しかし、旅立ちから二十年を経て、神様の命令によって漸く約束の地カナンに帰っ た時、エサウとの再会は無事に果たしましたが、その直後に彼の子供たちが、神の名 を語りつつ、とんでもない不始末を引き起こしてしまったのです。ヤコブは、周囲の 人々からの敵意を恐れて茫然と佇むしかありませんでした。
 その時、主なる神様がヤコブに現れます。そして、カナンの地から逃亡した時に、 神様がヤコブに出会ったベテルという場所に、祭壇を築いて礼拝するように命令され ました。その時、ヤコブは決然と立ち上がり、家族や一緒にいたすべての者たちにこ う言ったと記されています。

  「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えな さい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答 え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」
 人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡 したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。こうして 一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡 する者はなかった。
 

 ここから分かることは、この時まで、ヤコブの家族は様々なお守りを身につけて、 その神々にも頼るような多神教的な生活をしていたということです。この時以後もこ の家族には不信仰なことが続きます。しかし、この時以後、最早他の神々にも頼りつ つ生きるということはなくなりました。そして、ヤコブはこの時、再びアブラハムに 与えられた祝福を継ぐ者として神に立てられるのです。

   祝福の継承とは如何にして起こるのか

   祝福を受け継ぐということ、それは親から子へ、世代から世代へと延々となされて きた神の業です。しかし、そうではあっても、それは人為的な手段とか努力でなせる 業ではありません。昨日、『教会を必要としない人への福音』という本を買ってパラパ ラとページをめくっていたら、こういう言葉がありました。

「神の恵みが、私たちの信仰を呼び出してくれるのです。キリスト者二世、というも のは存在しません。神は、それぞれの世代を、それぞれの時代に新たにお招きになり、 ご自分の恵みの贈り物を与え、新しい世代にキリストにおける神の大いなるYES(神 の愛と言って良いと思います。全存在を受け止めてくれるキリストを通しての神の 愛:及川)を聞かせてくださり、それに対してYES(分かりました。あなたが私を愛 してくださる方であることが分かりました。私もあなたを愛します:及川)と応える ようにと呼びかけて下さるのです。」

 その通りだと思います。私は今日の説教題を「祝福を継承するために」としました。 この題を変更するつもりはありませんが、説明が必要であることは確かです。下手を すると、この題から受ける印象は、私たち信仰を与えられている者たちが、自分の子 供にしろ、何にしろ、信仰を継承するためには、こういうことをしなければいけない。 こういう生活をしていれば必ず伝わる。しかし、こういう生活をしていると絶対に伝 わらない。そういうことをこの題は言おうとしていると思われる方もいると思います。
 しかし、そんなことは決してないのです。確かに、やるべきことはあるでしょう。 しかし、それをやることが子孫に信仰が伝わる絶対条件であるとは決して言えないの です。幼い頃から教会学校に通わせる。これは一つやるべきことに数えられると思い ます。家でも聖書の話をし、食前や眠る前に祈る。これも大切なことです。しかし、 そのことが却って子供たちを教会から遠ざける場合も少なくないのです。親の面子を 保つために中学までは通ってやった。しかし、もう十分だ。聖書の話など聞き飽きた。 キリスト者なんて偽善者ばかりだ、親を見ればそんなことは分かる。教会なんて、暇 な人間がいく所だ。私は忙しい。そんなところに行っている暇はない。そう思って、 教会を毛嫌いしているクリスチャン家庭、牧師家庭の子どもたちはたくさんいます。 熱心なクリスチャン家庭の子どもたちにそういう子が多いとも言えます。もちろん、 親の不熱心さに呆れ、信仰に魅力を感じない子もいます。
 子どもへの信仰教育が不必要かと言えばそんなことはないし、家族への伝道はしな い方がよいかと言えば、そんなこともない。イスラエルの民は、そのことに命をかけ たと言っても言い過ぎではないのだし、その命がけの努力のお陰で聖書は書き記され てきたのです。彼らの信仰教育、信仰継承の熱心がなければ、私たちは今、聖書を読 むことも出来ません。
 しかし、信仰はあくまでも神の恵みの贈り物、賜物であることに変わりありません。 アブラハムだって、イサクだって、ヤコブだって、その子供たちだって、それぞれの 人生の中で神の御手の働きを知り、それこそ体が震えるような経験をすることを通し て、自分が何者であるかを知らされていったのです。自分が神に愛されていたにも拘 らず、神を知らず、知らぬ間に背き、知らぬ間につまらぬ人生を生きてきてしまった こと。しかし、そのことも含めて神が自分を愛し続け、導き続け、招き続けてくださ ったことを知らされる時があるのです。ある人は、得意の絶頂の時に、ある人は失意 のどん底で。いつ何時そのことが起こるかは神のみぞ知ることであり、私たちの与り 知らぬことです。しかし、その神との出会いがその人自身においてなければ、信仰は 与えられないのですから、継承も何もあり得ません。
 信仰を伝え、継承するマニュアルなどはありません。これをやれば誰でも伝道出来 ますという信仰継承の取扱説明書はありません。聖書の中でも、異なる文化や宗教と 関る場合についての不変のマニュアルは記されていないのです。しかし、相手が誰で あったとしても、子供であれ、無宗教の人であれ、他宗教の人であれ、自分を愛する ようにその人を愛すること、そして神を愛すること、その愛に集中し、徹していくこ と、それは変わりないことです。
 異文化、他宗教との接触の中でひたむきに伝道したパウロがコリントの信徒への手 紙二の最後の言葉は、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あ なたがた一同と共にあるように」というものです。この言葉は、全世界のキリスト 教会の礼拝の最後に告げられる祝福の言葉となっています。私たちは、この祝福を礼 拝の度毎に頂いてそれぞれの家庭や職場やその交わりの中に派遣されています。私た ちのために人となり、十字架に磔にされてまでして神の愛を伝え、甦って永遠の命へ の道を開き、今は聖霊において共に生きてくださる主イエスの愛、主イエスを通して 現された神の愛、その愛を豊かに頂き、信じ、感謝し、讃美しつつ生きる。そのこと を通して、神の祝福が私たちの家族や交わりを持つ人々に及ぶことを祈りつつ暮す。 それが祝福を受け継ぎ、また継承していくために生きる私たちの在り方だと思います。  神様は、今日も私たちを祝福し、恵みの贈り物としての信仰を私たちに新たに与え てくださいました。感謝し、讃美しつつ、今日からの歩みを始めたいと願います。
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