「人の思い、神の思い」
ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。ふと見ると、野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって伏していた。その井戸から羊の群れに、水を飲ませることになっていたからである。ところが、井戸の口の上には大きな石が載せてあった。まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。ヤコブはそこにいた人たちに尋ねた。「皆さんはどちらの方ですか。」「わたしたちはハランの者です」と答えたので、ヤコブは尋ねた。「では、ナホルの息子のラバンを知っていますか。」「ええ、知っています」と彼らが答えたので、ヤコブは更に尋ねた。「元気でしょうか。」「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやって来ます」と彼らは答えた。ヤコブは言った。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」すると、彼らは答えた。「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」 ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」 ヤコブがラバンのもとにひと月ほど滞在したある日、ラバンはヤコブに言った。「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。 旅する神の民 教会のことを「旅する神の民」と表現することがあります。教会とは建物のことではなく、天の故郷、あるいはいつの日か実現する神の国の完成を目指して地上を旅する神の民だからです。そして、その旅の原型はイスラエルの族長であり、私たちの信仰の父であるアブラハム、イサク、ヤコブにあることは言うまでもありません。彼らは皆、神様の約束を与えられ、その約束を信じて生きるという祝福、また使命を与えられて世界中の旅をした人々です。もちろん、その中心は現在のイスラエル共和国がある地域ですけれども、彼らの旅の範囲は、現在の国で言えば、イラク、シリア、そしてイスラエル、さらにエジプトという地域をまたぐものであり、アブラハムの子孫はまさにエジプトからメソポタミア一帯に広がっています。それは聖書を書いた人々にとっては全世界です。そして、信仰の子孫としては、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒として世界中に広がっているのですが、互いに兄弟喧嘩をしており、細かい内部分裂もある。それはエサウとヤコブ、またヤコブの子どもたちの時代から今に至るまで変わらぬ現実です。 それはともかくとして、私たちは今、ヤコブの旅物語を読んでいる最中です。当時の旅は、物見遊山の観光旅行ではありません。キャラバンを組んだ商売の旅も危険に満ちたものですが、ヤコブのように身一つで旅をするということは、さらに危険に満ちたものです。強盗がおり、獣がおり、町に入れば様々な悪意を持った人間が騙そうとして近寄ってくる。旅人は、そういう様々な危険に身をさらしつつその身を守らなければならないのです。そして、旅の目的を達成しなければならない。そこには神の守りが絶対に必要です。だから古今東西を問わず、旅に出るときには安全祈願をするのです。 ヤコブの場合も父イサクの祝福と無事に行き着き、帰って来られるようにとの祈りによって送り出されました。そして、二週に亘って読んできましたように、ベテルと名付けられた場所で神ご自身がヤコブに会い、そして「彼と共にいること、守ること、そして連れ帰ること」を約束してくださり、同時に「子孫が多く与えられること」と、「ヤコブとその子孫が全世界の祝福の源になるべきこと」を語り聞かせたのです。その時、ヤコブは初めて父イサクの神を自分の神として意識したと思います。しかし、それはまだ序の口で、彼が本当の信仰に至るのはまだずっと先のことです。彼はその段階では、神様と取引をする人間でもあったのです。しかし、そういう男を神様は、ご自身の計画の中に置き、そしてご自身の計画を進展させる器として用いる。その不思議さは、私たちが今こうしてキリスト者として生かされていること、私がこうして牧師として生かされていることの不思議さと同じことだと思います。 ヤコブの旅 さて、実際のヤコブの旅はどんなものだったのか、ご一緒に見て行きたいと思います。私はこの箇所を読みながら、まさに私たちの一週間の歩み、その旅路のことを思いました。神様との出会いと礼拝の時を終えたヤコブは、神様の「か」の字も出てこないこの世の旅路を歩みます。そこには様々な苦難があり、不如意なことが起こる。皆さんもまた、日曜日、この場所で礼拝を終えて出て行く世においては、神様の「か」の字もない現実の中で、様々な経験をしています。そういう世俗における歩み、それがヤコブの旅路、その人生と重なるのです。 少し文脈を追って読んでいきましょう。 ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。ふと見ると、野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって伏していた。その井戸から羊の群れに、水を飲ませることになっていたからである。ところが、井戸の口の上には大きな石が載せてあった。まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。 この場所が、実は彼の目的地ハランのすぐ近くで、もうすぐ彼が会いたがっていた親族、母リベカの兄の娘であるラケルもやってくることを彼は知らされます。まさに神様の約束どおり、彼の旅は守られたのです。そのことを知った時、ヤコブは、その娘と二人きりで会いたいと思ったのでしょう。心密かに人払いをしようと企てます。羊飼いたちが邪魔なのです。 彼はこう言います。 「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」 しかし、彼らはこう答えました。 「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」 「あの石」とは、二節に「大きな石」と出てきて、その後、「石をころがす」とか「石を元の所に戻す」とか繰り返し出てきた石です。つまり、大人が二人三人で転がすことが出来る石なのです。一人では出来ない。勝手に自分の羊たちに水をやれないように、幾つかの群れが集まってから皆で平等に水をやることになっていた。そのための石です。 しかし、そんなことを話しているうちにラケルがやって来てしまった。その時のことを聖書はこう書いています。 ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。 こういう所は信仰とか教えとか抜きに純粋に物語の描写を楽しめば良いのだと思いますが、ヤコブは火事場の馬鹿力ではありませんが、ラケルを見た瞬間に一目惚れをしたのでしょう。そして、とにかく恋には第一印象が大事ですから、自分でも信じられない程の力でもって、ラケルの目の前で「あの石」を一人で転がしてしまったのです。そして、ヤコブには先に来て待っていた群れなど眼中にありません。さっさとラケルが連れて来た羊に水を飲ませた。たった今この地に来たばかりのよそ者のくせに。 こういうところにヤコブの性格描写が見事に描かれているわけですが、この物語作者はさらに巧妙だと思います。この場面に、三度も「伯父ラバンの」という言葉を書いています。ラケルもラバンの娘だし、その羊もラバンの羊なのです。つまり、所有者をはっきりと記しているのです。彼が本当に相手をしなければならないのは、その気を惹かねばならないのはラケルではなく、むしろラバンなのだよ、とさり気なく書いていると思います。 しかし、それはそれとして、ヤコブの激しさは凄まじいものです。普通だったら羊に水を飲ませた後、まずは自己紹介をして、それから上手くすると挨拶の口づけまでいけるかもしれないということだと思います。この時代のこの地域の人々の挨拶の習慣を知りませんが、大体、そんなことでしょう。しかし、この時のヤコブは順序が逆です。羊たちが水を飲んでいる最中か飲み終わったか分かりませんが、自己紹介の前にいきなりラケルに口付けをします。これは女性からしてみれば、恐ろしいことではないでしょうか。ラケルが、大きな石を一人で転がした力強い男に魅力を感じていたとしても、どこの誰だかも分からない男にいきなり口づけをされる。そして、茫然としていると、今度はその男は「声をあげて」泣き始めるのです。そして、漸く、自己紹介をする。自分が誰で、どういう目的でこの地まで来たかをラケルに告げるのです。 ラケルはビックリして父ラバンのもとに「走って行って」知らせます。ラバンもまた、その時は相当な歳のはずですが「走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけ」するのです。そして、彼を家に迎え入れ、詳しい事情を聞いた上で、「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」と言って歓迎します。 ここまでが一幕であり、実に麗しい親族の出会いの物語と言って良いでしょう。しかし、創世記はこの後、その親族同士の間で、また姉妹の間で、さらに親子、兄弟の間で、凄まじく陰湿な争いが描かれていくことになります。その物語は、実にリアルであり、リアルすぎて目を背けたくなるようなものでもありますが、これほど面白いものもないのです。それは他人の不幸は蜜の味というような面白さではなく、神様のご計画は、かくも人間臭い現実の中を悠然と進行して行くものなのだと知らされる面白さです。 ラバンの策略 ラバンは、ヤコブが一月ほど滞在した頃に「身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい」とさぐりを入れます。これは単なる好意から出た言葉ではありません。ヤコブの有能さを見込み、彼を手放したくないという思いから、有利な交渉を始めようとしているのです。 ヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていません。彼はとにかくラケルに一目惚れで、愛しているのです。ラケルには「優しい目(弱い目とも訳せる)をしてレアという姉がいますが、ヤコブは初対面の時から、「顔も美しく、容姿も優れていた」ラケルを愛していたのです。だから、彼女のことばかり考えている。そして、ラバンは先刻その事はご承知なのです。(こういう所を読んで、すぐ「男って嫌よね。美人には弱いんだから」とか言わないでください。女だって、美男には弱いし、それが若ければ、尚更弱いと、中年の男になった私は今、よく知っています。)愛してしまった男は弱い立場です。 彼は「ラケルを嫁にしてくれるのなら、七年間ただ働きをします」とラバンに申し出ます。昔の日本ならやはり男親がすべての権限を握っていましたから、そういう申し出を受けて、ラバンのように「そうか、お前なら、どこの馬の骨かも分からぬ男に娘をやるより余程よい。私のところにいなさい」と言えたわけでしょう。今は、父親にそんな権限はなく、基本的に娘が連れて来た男を、余程のことがない限り駄目とは言わないし、言えないと思います。ここでラバンが、「わたしのところにいなさい」と言って、何を言っているかと言うと、七年のただ働きをしろ、と言っているのです。でもラケルを愛するヤコブには、その七年は「ほんの数日のように思われた」と言うのです。なんと美しい恋愛か、と思います。 さて、ここまでは順調です。少なくともヤコブは万事上手く行っていると思っている。そして、実はラバンも別の意味でそう思っているのです。ラバンは、聖書には明言されていませんが、明らかにレアと結託してヤコブを騙しにかかります。結婚式の後の宴会、それは一週間の長きに亘って開かれる大宴会ですが、その初日の夜、ラバンは恐らく酒にも酔っていい気分のヤコブの天幕にレアを連れて行きます。レアも黙ってヤコブの天幕に入る。そして、真っ暗な夜を共に過ごすのです。しかし、朝になってみると、ヤコブの天幕にいるのはラケルではないことにヤコブが初めて気付くのです。 この時のヤコブの気持ちを察すると、ヤコブには自分との同質性を感じてはいても、好きにはなれない私であっても、同情を禁じ得ません。翻訳では、「どうしてこんなことをなさったのですか」と丁寧語になっていますし、日本的感覚で言えば義理の父に当たるラバンに対しては、ヤコブが言える精一杯の言葉がこれだとも思いますが、原文の直訳は「あなたが私にしたこのことは何か」です。そして、この言葉はそのまま三章で蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったエバに対する神様の言葉です。人間が最初に犯した罪に対する神様の言葉と同じ言葉が使われているのです。ヤコブの悲しみ、怒り、嘆きの深さを思います。 しかし、その一方で、彼はその七年前には母リベカと結託して父イサクと兄エサウを物の見事に騙したこともまた事実です。彼もまた家族の愛と信頼を利用しつつ、自己の利益だけを追求し、その手段を選ばない人間でした。その彼が、老獪なラバンに一本取られてしまったのです。蒔いた種はいつか刈り取るものです。良き物を蒔けばいつか良い実を刈り取るでしょうが、悪い種を蒔けばいつか悪い実を刈り取る。これはやはり一つの事実です。そして、蒔かないものは刈り取れない。これも事実でしょう。しかし、私たちが蒔かなくても、神様が私たちに蒔いているものがある。これもまた事実であり、私たちはその事実に縋るしかないと思います。 結局、ヤコブは、「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」と言われ、「とにかく、一週間何事もなかったかのように宴会に出ていろ。そして、あと七年ただ働きをすればラケルをやる」と言われてしまうのです。この土地には、ヤコブを弁護してくれる人は誰もおらず、娘たちもまた、黙って父親に従うしかないので、ヤコブは結局十四年間、親族のラバンのもとでただ働きをすることになりました。 あの麗しい出会いの場面からページをめくると、もうそこには恐ろしく俗っぽい駆け引きの場面が続くのです。 主の介入 その後は、人間の感情のせめぎあいです。エサウとヤコブという双子の兄弟の時から偏愛・えこひいきのテーマが創世記にはあります。あの時は、イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛したのでした。ここでは、ヤコブは当然の事ながら、レアよりもラケルを愛するのです。これは彼の身勝手ではなく、初恋の相手に対する愛を貫いているわけで、責められるべきことではありません。しかし、責められるべきではなくても、そこに問題が生じるであろう事は予想されます。 そして、ここに初めて主が、介入して来ます。 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子どもが出来なかった。 「疎んじられている」とは、他の箇所では「憎む」とも訳される言葉です。後のことですが、ラケルが産んだヨセフをヤコブは特別に可愛がる。その余りに露骨な姿を見て、他の兄弟がヨセフを憎む。そういう形で出てきます。ここでは、ヤコブがラケルを愛している。レアとはただ肉体の関係だけを持っている。そういうことでしょう。このレアとヤコブの関係については、たとえばこの先の三〇章一六節に、レアがヤコブに向かって「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから」と言ったことにも、その一端が現れています。レアは、夫からの愛と尊敬を求めているのです。しかし、愛とは、本人にも分からぬ心の底から生まれるものであって、求められたから生じるとは限りません。そこにレアの悲しみ、ヤコブの困惑があることは間違いありません。 もちろん、レアは父親と結託して、有能なヤコブの妻になりたいという願望を実現したのだと思いますし、妻にさえなれば、ヤコブも自分を愛してくれると甘い期待をしていたのだと思います。でも、その期待はまさにあまかった。現実は厳しいものです。そのことをレアは嫌というほど体に感じている。その状態を主がつぶさにご覧になった、「見た」のです。そして、主はレアの胎を開き、ラケルには子どもが出来なかったのです。 レアの出産 レアは、この後立て続けに四人の男の子を産みます。どんなに早く産んでも五年か六年は掛かるでしょう。当初は、ラケルだって次は私の番だと思って、レアを祝福したでしょうが、次第に激しい妬みと悲しみを抱くようになりました。それが三〇章前半の内容です。 ここで注目をしなければならないのは、レアが子どもにつけた名前です。長男は、主が自分を顧みて下さったことを意味するルベンです。「顧みる」とは「見る」ことです。ラーアーという言葉です。次男は、主が自分の状態を「耳にしてくれた」、つまり、「聞いてくれた」ことを表すシメオン。三男は、夫が自分と結びついてくれるに違いないと期待する意味のレビ。そして、四男は「今度こそ主をほめたたえよう」という意味のユダです。 レアは、ヤコブと出会うまでは、「主」という神は知らなかったはずです。彼女らは、アブラハムの親族ではあっても、彼のように主だけを神と信じて生きてきたわけではないからです。しかし、ベテルで主と出会い、条件付きではあっても、この主を自分の神とすることを誓ったヤコブとの出会いと交わりの中で、主こそが命を造り出す力をお持ちであることを知っていったのかもしれませんし、主こそが自分の悲しみや嘆きを知り給う方であることを知って行ったのかもしれません。 このレアに比して、ヤコブに愛されているラケルは、レアに対する激しい妬みの中で、ヤコブに向かってこう言うのです。 「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます。」 なんとも恐ろしきは女かな、とも思いますが、この時のヤコブは立派でして、激しく怒ってこう言うのです。 「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」 人の思い、神の思い ヤコブはラケルを愛した、しかし、主はレアを顧みた。ラケルは子供を産めない。レアは子供を四人も産んだ。ラケルは、子供は人間が作ることが出来るものだと思っている。レアは、子供は主の顧み、憐れみの中で与えられることを知り、主を讃美している。 ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしている。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生したのです。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、族長物語に一貫していることは不妊のテーマです。アブラハムの妻サラは、子どもが生まれるという約束を受けてから二十五年間、一人の子も産むことが出来ませんでした。産まれた時、彼女はもう九十歳だったのです。 イサクとリベカの間にも結婚から二十年、子供が産まれませんでした。そして、漸く生まれたのがエサウとヤコブです。 ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずですし、彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。 こういう不妊のテーマを通して、創世記が語っていること、それは人の命を創造するのは、ヤコブの言葉にもありますように、「神ご自身」であるということです。そして、それはまた人の歴史を導くのも「神ご自身」であって人ではないということです。 人は様々な思いで生きていきます。そして、その思いとは自分の利益を求める思いですし、自分の未来を確保したいという思いです。ここに登場するすべての人間が、その思いを持っており、それ故に利害が対立し、争い、策略をめぐらせ、妬み、奢り高ぶり、落ち込みもしています。私たちもまた同様です。そういう私たち人間の様々な思惑、願い、そしてその衝突の中で、神様の願い、その約束、ご計画は、「悠然と」とでも言いたくなるような形で実現していくのです。そういう神様の姿、圧倒的なユーモアを持ちつつ、地上の様を眺め、時に介入し、ご自身のご計画を実現していく。そういうお姿が、ここに見えるような気がします。 世界の現実 昨日から、北京オリンピックが始まりました。オリンピック開催は「中国百年の夢の実現だ」と言われていましたが、昨日の新聞でその意味を知りました。百年前に「天津青年」という雑誌に「いつ中国は五輪に選手を送れるのか。いつになれば中国は五輪を開催できるのか」という文章が掲載されたのです。百年前の中国、それは西欧列強に食い物にされていた満州族が支配する清朝の中国です。それから百年、中国は様々な歩みを経て、今は漢民族が支配する一党独裁体制の下、周辺諸民族を圧倒的権力によって支配下に置き、様々な矛盾を抱えながら、ついに五輪を開催しました。この平和の祭典の裏側では、弾圧、暴力、テロ、抗議活動が展開されており、剥き出しの格差社会の現実があると言われています。 そして、同じ新聞紙面では、ロシアとグルジアが、戦争状態に入ったことが報じられていました。数十、数百人の市民が殺されたと報道されている。それぞれに誰かにとって掛け替えのない父であり、母であり、夫であり妻であり、子供であり孫である人たちです。そのたった一つの命が、領土争い主権争いの中で殺されているのです。昔は「オリンピック休戦」というものがあって、五輪開催中は休戦するという不文律のようなものがあったと思いますが、今は開会式当日に開戦の火蓋が切って落とされる。そういう時代です。 そこにも様々な人間の思いがあり、思惑があるでしょう。皆、自分の利益を求め、将来を確保しようとしている。そして、それを自分の力で出来ると思っている。 世界を導く神 しかし、そうなんだろうか?私は今回、改めてこの物語を読み直して面白いなとつくづく思ったのですが、今日の箇所でレアが産んだ四人の息子のうち三人は、皆、主の名前が入っています。主が見ている。主が聞いている。主を讃美する。そして、その三人、ルベン、シメオン、ユダは、この後に続くヨセフ物語の中でそれぞれ重要な働きをすることになります。彼らもヨセフのことは憎んでいたのです。でもルベンは、ヨセフを皆で殺すことには必死で反対しました。ユダも同様ですし、彼は後に自分たちの罪をヨセフの前で告白する人間でもあります。そしてシメオンは、他の兄弟たちを代表して人質としてエジプトに残されることになります。それぞれが、兄弟同士の和解のために、また親子の和解のために、そしてなによりも神様との和解のために、必死になるのです。それはこの時から何十年も経った頃のことです。そして、三男のレビ、彼の子孫として出エジプトを導いたモーセが生まれます。彼は、まさにイスラエルの民と神を結び合わせる要となる人物です。 この時に生まれた四人の子供、それは人間的にはラバンとレアが結託してヤコブを騙し、そしてラケルとの陰湿な争いの中で生まれた子供たちです。でも、その彼らこそが、自分たちが罪にまみれていることを自覚させられ、その赦しを求め、神の救いのご計画、人と人、神と人が和解するという救いのご計画を知らされ、御前にひれ伏す人間に造り替えられて行く、成長していくのです。そのすべての道行きを導いておられるのは神様です。聖書は、そのことを語っているのだと思います。 すべてのものは神に向かっている 私たちの世界は、聖書の告げる所によれば、ノアから生まれた三人の子どもの子孫が生きる世界です。つまり、私たちは皆、何人であれ兄弟であり親族なのです。しかし、バベルの塔以来、その兄弟、あるいは親族は、様々な思惑の中で互いに騙しあい、搾取し合い、弾圧したり殺したりしている。アブラハムの子孫もまた、そのことを経験しました。しかし、そのすべてを導き、愛しておられる神がおられる。それもまた変わることのない事実です。そして、神は世界を祝福において一つにする。あの天地創造の時に、すべてのものをご覧になって「よい」と言って下さったように、十字架の死の贖いと復活を通して天に挙げられている御子主イエス・キリストの再臨の時に、新しい天と地を創造して下さるのです。その時、ヨハネ黙示録にありますように、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という救いが完成するのです。 私たちの身近な現実が今どうであれ、世界の現実が今どうであれ、主は、疎んじられている者を見てくださっているし、その嘆きを聞いてくださっているし、いつの日か互いに結び合わせてくださるし、そしてすべての者が主を讃美するように導いてくださるのです。ルベン、シメオン、レビ、ユダの誕生はそのことのしるしです。そして、ユダはダビデの父祖であり、イエス・キリストの肉における父祖です。その子が、この策略と争いの只中で生まれたのです。 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。 だれが主の相続相手であっただろうか。 だれがまず主に与えて、 その報いを受けるであろうか。』 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 主の思いは私たちを越えています。そして、その思いは私たちの和解と救いに向かっているのです。私たちは、その神の思いの中に置かれている。そのことを知れば、私たちは主を讃美せざるを得ないのではないでしょうか。 |