「人の思い、神の思いU」
ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」ラケルは、「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。ラケルはヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。 レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えたので、レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。 神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもってヤコブとの間に五人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「わたしが召し使いを夫に与えたので、神はその報酬(サカル)をくださった」と言って、その子をイサカルと名付けた。レアはまた身ごもって、ヤコブとの間に六人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった。今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」と言って、その子をゼブルンと名付けた。その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。 しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った。彼女は、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。 現実的な物語 旧約聖書の中には様々な物語が入っていますが、このヤコブ物語ほど世俗的な物語はないと言って良いかもしれません。そして、それはある意味ではこの物語ほど、現実的な物語もないということでもあります。ここで私が「現実的」と言う場合、それは「すべてのことが複雑かつ微妙な問題を含んでいて一見しただけでは事の真相は分からない」、そういう意味です。私たちが生きている現実の多くは、一方の側面から見て一刀両断することが出来ないものです。多くの事に両面性とか二面性があり、「これはああだ、あれはこうだ」と判断し、決め付けることが出来ないのです。 ヤコブ物語に登場する人物、それは実に俗っぽい人々でありつつ、しかし、どこかで神を信じ、頼ってもいる。そういう人々です。神様を信じているようでいてそうは見えず、かと言って、全く神と無関係に生きているかと思うと、そうでもない。これもまた私たちの現実でしょう。 これまでの流れ 二九章から、ヤコブ物語は第二の段階に入りました。兄エサウ、父イサクを騙して祝福を奪い取ったヤコブは、エサウから逃亡し、また結婚相手を得るために祖父アブラハムの縁の地であり、母リベカの故郷であるハランに向けて旅立ちました。そして、その途上で主なる神と出会い、神が共にいますこと、そしてアブラハムの子孫に与えると約束された地に連れ帰ってくださるとの約束を告げられ、ヤコブの子孫は大地の砂粒のように増え、彼とその子孫が全世界の祝福の源になるという約束を神様から受けたのです。 その結果、彼は神に守られ無事目的地に着きました。しかし、信頼していた親戚のラバンという男に騙されてしまい、ヤコブが愛した女性ラケルと結婚するために十四年間もただ働きをさせられ、さらに求めてもいないのにラケルの姉レアとも結婚しなければなりませんでした。そこに彼の不幸の始まりがあります。彼の家庭はただでさえ複雑です。そこにさらに神様の介入があり、人間の工夫や操作があって複雑さの度合いが増していきます。しかし、ヤコブに対する子孫増加の約束は、その複雑な家庭環境の中で果たされていく。極めて俗っぽい人間たちの敵意に満ちた争いの中で、神様の約束は実現していくのです。その面白さ、不思議さを味わうこと、それがこの物語を読む醍醐味の一つだろうと思います。 ヤコブと彼が愛する妻ラケルとの間に子供が生まれること、それが二九章以来の物語の一つの目標です。しかし、神様はヤコブに愛されないレアを顧みます。そして、彼女の「胎を開き」長男を与える。そして、彼女は立て続けに四人の男の子を産むことになります。その間に、ラケルからは一人の子どもも生まれません。今日は三〇章からです。 不平等、不公平 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」 このラケルとヤコブの問答が、今日の箇所の中心だと思います。そしてそれは前回の箇所でレアが、長男を産んだ時の言葉、「主はわたしの苦しみを顧みてくださった」と通じる言葉です。命は主である神が与えてくださる、人間の未来を切り開いてくださるのは主なる神である、ということです。 この物語の中では、イスラエルの神を表す「主」という言葉と「神」という一般名詞が混在しています。「主」という言葉を使う資料と「神」という言葉を使う資料があって、創世記はそういう幾つかの資料が合体させられて出来上がったと説明される場合がありますし、それはそれで分かりますけれど、この箇所は明らかに一貫した物語ですから、同じ著者が、何かの意図をもって使い分けていると考えた方が良いようにも思います。その点については、後にまた触れます。 とにかく、ラケルは夫のヤコブに愛されてはいるけれども数年間、子供が与えられないという苦しみの中にいます。同じ境遇にいながらの不公平、不平等ほど私たちを苦しめるものはありませんが、この世は昔から今に至るまで不公平であり不平等なものであり続けていますし、それを悪だと決め付けることは出来ないと思うし、その原因が人間にあるのか、神にあるのか、それも簡単には決め付けることは出来ません。この場合、ヤコブはラケルを愛しレアを愛していないという不公平が、ヤコブのせいではないけれども、確かに存在しています。そして、主はヤコブに疎んじられているレア(レアは父ラバンと共にヤコブを騙した女でもあるのですから、ある面、当然です)を顧みて、彼女の胎を開き、ラケルには子供ができなかった。これは明らかに神様が原因になっている不公平です。どっちが幸いなのか、それは分かりません。レアは、何人子どもを産んでも、夫が自分を尊敬してくれないという悲しみの中にいますし、ラケルはヤコブに愛されてはいても死にたいほどの「恥」の中にいるのですから。複雑です。 命を与えるのは誰? ヤコブは、ラケルの訴えに対して、命を与えるのは神なのであって、自分ではないと応えるし、それは正しいと言って良い。人間が命の創造主ではないことは明らかだからです。子供の誕生とは、未来が開かれることを意味しますし、アブラハムの子孫であるヤコブにとっては、神様から与えられた祝福と約束が相続されていくことを意味します。その子供がラケルには与えられていない。その意味は分からない。どうしてなのかは分からない。でも、神御自身がラケルとヤコブの間に子供を与えていない、その事実がある。この事実を、どう理解し、どう受け止め、どう対処するか?それが彼らにとっての問題です。そして、それは不公平や不平等の現実の中で、その意味が分からぬまま苦しむことがある私たちにとっての問題でもあります。格差が広がる世の中が嫌になり、死にたいほどの恥を感じつつ、「誰でもよかった」と無差別に人を殺すという対処をすることも出来るし、苦しみに耐えつつ、尚も希望を捨てずに生き続けることも出来る。人間には、そういう自由が与えられています。その自由が、人間には重荷である場合もあります。 ラケルは、自分の召し使いであるビルハをヤコブに与え、その女性との間に生まれる子供を、法的に自分の子とするという制度を利用するという対処方法に出ました。現代で言えば、代理母の制度です。この制度を、既にアブラハムと不妊の妻サラは利用しました。その件は時間の関係で省きます。 ここで問題になる一つのことは、こういうことです。たった今、ヤコブは「お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」と言ったわけで、それは大正解なのです。しかし、それではラケルの工夫と操作によってヤコブの側女となったビルハに子を宿らせたのも神なのか?という問題があります。これもまた明らかに「そうだ」と言って良いと言える面と、果たしてそうなのか?という面があるでしょう。命の与え手は神です。でも、人間の操作や工夫によっても、命は胎に宿る場合があります。そして、人間は絶えず命を操作しようとしてきたのだし、その様にして自分の未来を切り開こうとしてきたのです。人工授精などをする現代の産科医療の現実もまたその一つの表れと言って良いでしょう。そして、そのことの善悪を決めること、正しいか間違っているかを決めることは簡単なことではありません。末期医療にしても、産科医療にしても、倫理委員会が色々と考えて、その時その時の結論を出してはいても、それは絶えず変化していきます。誰も神ではないのですから、最終的な判断が出来ないのは当然のことです。 人の願いを聞かれる神? ラケルは、ビルハが子を産んだ時、「神は正しくお裁きになり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言いました。ここに神の正しい裁きがあると言ったのです。しかし、そうなのだろうか? 今日の箇所に「願いを聞き入れる」という言葉が三度出てきます。その内の最初がこの箇所です。そして、ここだけが、ラケル自身の言葉なのです。他の二回は、「神がレアの願いを聞き入れられたので」とか「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた」と出てきます。つまり、神ご自身がレアとラケルに子供を与えたのだと聖書は語っている。でも、ビルハが産んだダンについては、そういう確言はなく、ラケルの思い、ひょっとしたら思い込み、我田引水の言葉として記されている可能性があると思います。そして、彼女はビルハが産んだ二番目の子に関しては、ただ「姉との死に物狂いの争いをして、ついに勝った」という意味の名をつけています。そして、この争いこそ、彼女にとっての切実な問題なのです。彼女の願い、それは姉を見返したいということであり、その願いを実現させるためにこういう手段を使っただけなのです。その「願い」を「神は聞き入れた」のでしょうか? レアもまた、四人の子供を既に産んではいても、妹の勝ち誇った顔を見ると我慢できなかったのでしょう。同じように自分の召し使いであるジルパを使って二人の息子を得ます。その時、彼女はかつてのように「主」の名とは何の関係もない「幸運」とか「幸福」を意味する名前をつけるだけであり、「神がレアの願いを聞き入れた」と記されているわけでもありません。 姉妹の争い激化 物語は、さらに皮肉にしてユーモラスに展開をしていきます。レアの長男は、こういう母親を不憫だと思ったのでしょう。野原で「恋なすび」を見つけて、母親のレアの所に持ってきました。この恋なすびとは、精力増進とか受胎力増進の力があると言われたもののようですが、それをルベンはレアの所に持ってきた。しかし、ラケルが目ざとくそれを見つけて、その日の晩、ヤコブをレアの所に送る代わりに、「恋なすび」を自分のものとする取引をしたのです。ラケルは、この工夫と操作によって、自分の胎に子供が宿ると思った。レアは、このところヤコブの足が自分から遠のいていることを悲しく思い、怒りにも似た感情を持っていたはずです。妹に夫を奪われた姉は、ヤコブが仕事から帰ると、「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから」と言って、ヤコブに夫婦生活を強要します。そして、その時、「神がレアの願いを聞き入れ」たのです。しかし、一晩だけヤコブを貸す代わりに恋なすびを獲得したラケルは、子を宿すことはありませんでした。そしてレアは生まれた子に、ヤコブに召し使いを与えたことに対する「報酬」を意味するイサカルという名前をつけました。ここにも彼女の悲しみが表れていると思いますが、さらに六人目の子供を産んだ時は、「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった」と神に感謝しつつ「今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれるでしょう。夫のために六人もの男の子を産んだのだから」と言うのです。レアの悲しみは深いと言わざるを得ません。 彼女は、さらに女の子一人を産みます。この子は後に大事件を引き起こす切っ掛けとなりますが、今日は触れません。 レアは実子六人、召し使いに生まれた子二人の母親です。もう誰が見ても、レアの勝利は明らかです。正妻の地位はレアが持っていると言って過言ではない。そういう状況です。ラケルは、召し使いを使うという工夫と操作を通して、法的には二人の息子を得ていますが、恋なすびを使っても自分の子を産むことは出来ませんでした。勝負はついたのです。姉妹の死に物狂いの戦いに勝利したのは姉のレアであり、負けた妹のラケルは「死にたいほどの恥辱」にまみれているのです。 その時、初めて「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれ」ました。「胎を開く」という言葉は、レアが長男を産む時以来ここで初めて出てきます。そして、ラケルが長男を産んだ時、彼女は、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った後、「主がわたしにもう一人の男の子を加えてくださいますように」と言って、「加える」を意味する「ヨセフ」と名付けました。ハランにおけるヤコブの物語はここで一つのピークを迎えます。以後は、ヤコブが故郷に帰るためにラバンと壮絶な駆け引きをする場面に移って行くからです。 何をしているか知らない人間 この箇所を通じて私たちは何を知らされるのか?人の愚かさ、悲しさを知らされる。それは事実です。そして、神の御心の不思議さ、あるいは御心がどこにあるのかが分からないということを知らされる。それも事実だと思います。そして、その分からなさの中で、私たち人間は、まさに十字架上でイエス様が神様におっしゃった言葉通りのことをしている。主イエスは、こう祈られました。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 私たちは、神様が何をしているのか分からない。そして、だからこそ、自分が何をしているのかも分からない。分からぬままに、何とかして愛を勝ち取ろうと苦悩し、未来を切り開こうと工夫をする。そして、敵意や憎しみを深め、「勝った、負けた」と言って泣いたり笑ったりしている。そこに人間の愚かさがあり、悲しみがある。そして、その愚かさと悲しみは、現代に至っても少しも変わることなく続いている。これは現実だと思います。そして、そういう人間の現実の中で、神様は思いのままに行動し、その約束を実現させていくのです。これは事実です。そして、その事実を、私たち人間は時折知らされて、感謝し、讃美し、また罪を告白し、赦しを求め、また確信をもって願う。それもまた疑いようもない事実です。 確信と願望 レアは、最初に生まれた四人の子供のうち三人に、ヤコブを通して知らされたであろう「主」という神の名を含む名をつけました。「主は私の苦しみを顧みてくださった。」「主はわたしが疎んじられているのを耳にされ、またこの子をも授けてくださった。」「今度こそ、主をほめたたえよう。」そして、ラケルがヨセフを産んだ時の言葉にも「主」が出てきます。「主がわたしにもう一人の男の子を加えてくださいますように」というものです。 この「加えてくださいますように」という言葉は、ヘブル語では強調を表す動詞が使われていて、英語の翻訳などを見ると、「加えてくださいますように」と訳されたものの他に「加えてくださるに違いありません」と訳されたものがあります。ラケルは、ここに至って漸く、命を与えてくださるのは、また未来を切り開いてくださるのは、ヤコブでも恋なすびでもない、召し使いを使うという自分の工夫や操作でもない。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主こそが、命を与え、未来を切り開いてくださるのだということを知らされたのだと思います。その日に至るまで、恥辱に満ちた二〇年間という長き歳月がありました。その日まで、彼女はあがき続けましたし、そして願い続けました。でも、願いが本当の意味で聞かれたのは、ビルハがダンを産んだ時ではなく、神が彼女を「御心に留め」て、彼女自身がヨセフを産んだ時なのです。そして、その時、彼女は初めてヤコブに「子を与えよ」と迫るのでもなく、召し使いに頼るのでもなく、恋なすびに頼るのでもなく、ただただ主への信仰をもって、主は必ずもう一人の子を加えてくださると確信し、またそのことを主に願うことが出来るようになったのではないでしょうか。そして、その願いは後に、彼女の命と引き換えにする形で聞き入れられていくことになります。 新しいイスラエル=教会における不妊 ここで誕生しているのはイスラエル十二部族の先祖です。そして、私たちキリスト教会は新しいイスラエルと言われます。私たちは、信仰的な意味で、アブラハムの子孫なのです。アブラハムの子孫、それは最初の子イサクの時から、長い長い不妊という現実がありました。世界を祝福に入れていくはずの子供がなかなか生まれないのです。そこでアブラハムとサラも工夫しました。そして、それなりの成果を産みました。でも、それは神様の約束の実現としての成果ではなく、人間の工夫や操作による成果でした。神様の約束の実現は、神様が為さることです。人間がすることではありません。人間は、神様の約束を信じて生きるしかないのです。実現する時まで、神様の約束を信じて待つしかない。そういうことがあります。そして、そういう時がある。新しいイスラエルとしての教会もまた、そういうことがあり、そういう時期があるのだと思います。 これは日本に限ったことではないのですが、もう三十年ほど前から日本のキリスト者の数は減り続けています。信仰から離れてしまう人がおり、天に召されていく人がいる一方で、新しいキリスト者が誕生しないからです。私たちが属している日本基督教団に限っても、一九八七年度には全国の教会で二二四三人の受洗者がいたのですが、二〇〇六年度には一四二四人に減少しています。千人以上も減っている。もっと遡れば、その差はさらに開いていきます。中渋谷教会も、昨年度の後半から今に至るまで礼拝出席者は減り続けていますし、イースター礼拝以来、洗礼を受ける準備をしている人は一人もいません。伝道は、人集めのために安易な道を伝えることではありません。イエス・キリストの十字架への道、復活への道、天に至る一筋の道を伝えることが伝道です。そう信じて、礼拝に集中し、御言の説教をし、教会形成のための学びと交わりを重んじてこの五年間歩んできましたが、教会に加わる人は減る一方で、むしろ去ったり、天に召されたりする人の方が多い。そして、新来者は減少している。そういう現実の中で、私たちは今、ヤコブ物語を読んでいます。そこで思うこと、知らされることは、人それぞれだと思いますし、そうであるべきだし、そうあって欲しいと願います。 しかし、私の場合、それは待つこと、信じて待つことだと思いました。人間は命を生み出すことに関しては何も出来ない。神様の約束の実現を、自分の願いの実現と勘違いしてはならない。神様が中渋谷教会を祝福し、伝道の業を託し、その業を祝福してくださっているということは、私にとっては疑いようのないことです。神様は、必ずイスラエルの子孫を増やしていかれます。今、その結果は出ていません。少なくとも、私が願ったようには出ていません。私の怠惰や無能にもその原因の一端があることは分かっています。でも、それだけではないでしょう。神様が為さることは不思議です。私たちには分かりません。何もしてくださらないと思わざるを得ないこともあります。でも、そんなことはないのです。私たちにとっては長くても、神様にとっては二十年など瞬きするような長さでしょう。しかし、その二十年をかけて、神様は創世記の後半の主人公であるヨセフの母になるラケルに教えたいことがあったのです。命を与えるのは主なる神であり、未来を切り開くのは主なる神であることを。そして、そのことは後にヨセフ自身が骨身に沁みて知らされることでもあります。 「神はラケルも心に留められた」とあります。この「心に留める」はヘブル語ではザーカルという言葉ですけれども「思い出す」とか「覚えている」と訳される場合があります。聖書に最初に出てくるのはノアの洪水の場面です。神様が、地上のすべてを滅ぼす一年にわたる大洪水を終わらせ、新たに世界を創造される時のことを、聖書はこう記しています。 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」 人間が心に抱く思いが悪ばかりであるのを見て、人間を造ったことを後悔し、世界を滅ぼされた神が、ノアと動物たちを「御心に留められた。」ここに新しい祝福の世界の始まりがあるのです。神様がノアたちを思い出す、覚えていて下さる、忘れてはいない。その一点に人間の救い、世界の救いが掛かっているのです。未来は、神がノアを覚えていること、忘れていないことに掛かっている。 御心に留める・覚える この言葉が聖書のどこに出ているのか色々と調べていくことによって、私は深く慰められ、まさに心燃える思いがしました。今日は、ルカ福音書に限定します。 ルカ福音書は、その冒頭にアブラハムたちと同様に、子供がなかなか与えられなかったザカリアとエリサベツという老夫婦に一人の子が与えられえるという預言から始まります。その子が、イエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネです。そして、次にまだ結婚していない乙女マリアに神の子が宿るという預言が続くのです。そして、その預言を信じたマリアの讃美が出てきます。その讃美を、マリアはこういう言葉で締め括ります。 「(主は)その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 「忘れない」が、「御心に留める」と同じ言葉です。アブラハム、イサク、ヤコブに対して示された「憐れみ」、つまり、罪の赦しを与え、新しい命を与え、子孫を通して未来を与えるという約束、イスラエルを祝福し、世界を祝福するという約束を、神様は決して忘れない。覚えていて下さる。その実現が、今、自分が神の子を宿したところに現れている。マリアは、そのことを知らされて讃美しているのです。 そして、ヨハネが誕生した時、ザカリアはこう預言しました。 「主は我らの先祖を憐れみ、 その聖なる契約を覚えていて下さる。」 ここにも、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先祖に対する「憐れみ」と契約(約束)が出てきます。イスラエルの希望は、この神様の憐れみ、約束を覚えていて下さること、神様がイスラエルに対する憐れみを忘れないこと、神様がイスラエルを御心に留めてくださることに掛かっているのです。 私たちが覚えておかねばならぬこと 私たちの希望だって同じです。そして、私たちが忘れてはならないこと、覚えておかねばならないこと、絶えず心に留めておかねばならないことがある。それを忘れれば、すべての希望、願いは絶望に変わってしまうということがあります。祝福に満ちた未来がなくなってしまう、そういうことがあるのです。 ルカ福音書の最後に記されていることは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。イエス様が、何をしているか分からぬ人間の罪の赦しを祈りつつ十字架の上で息を引き取り、墓に葬られてから三日目の日曜日の朝、イエス様が復活された。そのことが記されています。 日曜日の朝、イエス様に従ってきた女性たちは、イエス様の死体に香料を塗るために出かけた墓で、輝く衣を着た二人の人、つまり御使いからこう言われました。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人はイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 「思い出しなさい」とあります。「心に留めなさい、忘れてはならない。そこにあなたたちの命が、未来が掛かっているのだ。」そう御使いは告げているのです。何を思い出さねばならないのか。主イエスの十字架の死と復活の約束です。主の約束は必ず実現するのです。主は、生きておられるのです。そして、自分で何をしているか分からない惨めな私たちを憐れんでくださっているのです。私たちの罪を赦し、新しい命を与え、そして私たち一人一人の、そして新しいイスラエルの未来を切り開いて下さっているのです。私たちの目には、その現実が見えなくても、それは事実なのです。主がお語りになったことを「思い出す」。それが、この事実を見るために必要なことです。女たちは思い出しました。そして、主が今も生きておられることを確信して、弟子たちに告げ知らせたのです。 しかし、女たちが言ったことを聞いても信じず、主がお語りになった約束を思い出すこともなく、失意の中にエルサレムを後にして、故郷に帰っていく二人の弟子たちがいました。しかし、イエス様はその二人を追いかけ、そして追いつき、語りかけるのです。しかし、彼らはそれがイエス様だとも分からない。でも、イエス様が聖書全体にわたって記されている神様の約束について説教し、メシアは受難を受けた後に栄光に入るはずだったのではないかと説教した上で、食卓で讃美の祈りを唱え、パンを裂いた時、彼らの目が開け、目の前にいるのがイエス様だと分かったのです。その直後、イエス様は彼らの肉眼では見えなくなった。しかし、彼らはイエス様がお語りになっていたことはすべて真実で、神様の約束は今、実現したことを知りました。そして、イエス様の説教を聞いていた時に、「わたしたちの心が燃えていたではないか」と語り合いつつ、再びエルサレムに帰っていったのです。そして、この福音書は、弟子たち全員が、神殿で主を讃美する礼拝の場面で終わります。 私たちは、今も生きておられる主イエスから、礼拝ごとに命の言葉を与えられ、命の霊(風)を与えられ、命のパンを与えられつつ生きているアブラハムの子孫としてのイスラエルです。祝福された民であり、神の憐れみの中に置かれた民です。私たちは神の御心に留められた民であり、覚えられている民です。そのことを忘れてはなりません。私たちの愚かにして悲しむべき現実の中で、神の子イエス・キリストは今日も語りかけ、息を吹きかけ、パンを与えつつ養い導き、約束の実現に向けて、私たちを導きつつ歩んでくださっているのです。新しい命を与え、未来を切り開いてくださるのは私たちの「主」イエス・キリストです。私たちが出来ること、しなければならないこと、それはこの主イエスの約束を決して忘れず、絶えず心に留めて、信じて生きることです。そして、目に見える現実がどうであれ、今に生きるイエス・キリストを礼拝しつつ、宣べ伝えること。それ以外にはありません。その信仰と伝道に生きる民に対して、神はその憐れみを忘れることなく、契約を覚えてくださるのです。それは確かなことです。そのことを確信できる。だからこそ、希望をもって新しい命を加えてください、と願うことが出来る。そこにこそ、真の幸いがあります。神様が、私たちに与えてくださる幸いがあるのです。 |