「因果応報を越える逆転」
ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ」とラバンは言い、更に続けて、「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った。ヤコブは言った。「わたしがどんなにあなたのために尽くし、家畜の世話をしてきたかよくご存じのはずです。わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。しかし今のままでは、いつになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか。」「何をお前に支払えばよいのか」とラバンが尋ねると、ヤコブは答えた。「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう。今日、わたしはあなたの群れを全部見回って、その中から、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それをわたしの報酬にしてください。明日、あなたが来てわたしの報酬をよく調べれば、わたしの正しいことは証明されるでしょう。山羊の中にぶちとまだらでないものや、羊の中に黒みがかっていないものがあったら、わたしが盗んだものと見なして結構です。」ラバンは言った。「よろしい。お前の言うとおりにしよう。」ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。
ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにしたので、家畜の群れは、その枝の前で交尾して縞やぶちやまだらのものを産んだ。また、ヤコブは羊を二手に分けて、一方の群れをラバンの群れの中の縞のものと全体が黒みがかったものとに向かわせた。彼は、自分の群れだけにはそうしたが、ラバンの群れにはそうしなかった。また、丈夫な羊が交尾する時期になると、ヤコブは皮をはいだ枝をいつも水ぶねの中に入れて群れの前に置き、枝のそばで交尾させたが、弱い羊のときには枝を置かなかった。そこで、弱いのはラバンのものとなり、丈夫なのはヤコブのものとなった。こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった。 因果応報 私たちが読み続けているヤコブ物語は、ある面から言うと「未来を巡る争いの物語」と言って良いと思います。人間は、誰もが明るい未来を望んでいます。そのために生きていると言っても良いのではないでしょうか。財産を確保し、跡を継いでくれる子供を産み、未来に対する不安や恐れを取り除きたい。そう願って、懸命に生きている。そして時には、未来を手にするために策略を練り、争い合うこともする。そういう意味で、この物語は現実的であり、ここに登場する人々は、私たちにとって非常に身近なのだと思います。だから、礼拝後に様々な反応があります。 先週は、いつも意味深な目で私に一瞥をして黙って帰るか、何か一言チクリとおっしゃってから帰るかする方が、「『人の思いと神の思い』という題で二回やったから、今度は『牧師の思い、信徒の思い』という題でやったらどうですか?来週は『因果応報を越える逆転』だし」というようなことをおっしゃいました。いつも出会い頭にチクリと言われることの意味が分からず、曖昧に笑って受け流し、その後も結局何を言われたのか分からない場合が多いのですが、先週のお言葉の意味も実はよく分からないのです。「牧師は勝手に色々と思っているけれど、信徒だって色々と思っていて、最後に勝つのは信徒だよ」とおっしゃりたいのか、それとも、「牧師や信徒が色々と思っていても、結局、神の思いだけが実現するんだよ」とおっしゃりたいのか、よく分からない。 また、ある方は、「人間が悪意をもってやったことも、神様の計画の中で用いられていくということは分かる。でも、悪意をもって色々やっている人間そのものは、どうなんでしょう?それもまた神様の救いのご計画の中に入れられているということなんでしょうか?」という意味のことをおっしゃいました。しかし、それこそ私は神様ではありませんし、本当のことは分かりません。でも、「悪意をもってやったことは、いつか何らかの形で帰ってくる。悪い種を蒔けば悪い実を刈り取る。これはやはりヤコブ物語を読めば明らかだし、私たちの経験でも明らかだとは思います」と言いました。しかし、それは、悪い実を刈り取るという現実が、地上に生きている時のことを言ったのであって、死後に刈り取ることになると言ったのではありません。でも、現在のことが未来に関係する、そういう因果応報の原則が、地上に生きている未来にだけ関るのか、死後という意味での未来にも関るのか、これは私たちにとって大問題でありつつ、誰も分からない問題です。未来は、神に属するからです。そして、以前も言ったように、神様が私たちに蒔いて下さっているものこそが、決定的なのです。 先日、新聞のコラムにある仏教学者がこんなことを書いていました。「寿命のある限り静謐に過ごし、死んで完全に消滅することが、釈迦の一番の望みだったのだ。彼が最高の目的とした、その『完全な消滅』を涅槃という。仏教とは『正しく涅槃に向かうための道』なのだ。」こう書いた上で、この人は、人の情としては、愛する人が死んで完全に消滅するなどということは受け容れ難く、「『死んでもまた生まれ変わる』という思いは、多くの人間社会に共通する『救い』なのだ」とも書いています。こういう願いが通俗的な意味での因果応報思想なのでしょう。釈迦自身が言ったかどうかは別にして、この世で悪いことをすればあの世では地獄に行き、また将来生まれ変わったとしても動物として生まれ変わってしまう。良いことをすれば天国に行き、生まれ変わるときは大金持ちで幸せな人生を生きることが出来る。そういう因果応報思想は、人間社会の中に行き渡っていると思いますし、良い面だけを取って、「死ねば皆仏様」として崇めるという形をとる場合もあります。 人間は、今の現実がどうであれ、未来は明るいと信じたい、そういう生物だと思います。しかし、その明るい未来を自分の力で獲得することは出来ないのです。けれども、何とか明るい未来を自分の力で獲得しようとする。そこに利害の対立が生じ、争いが生じ、諸行無常、勝者必滅の歴史が生じてくるのだろうと思います。 ラバンとヤコブのやりとり 二五節は、こういう書き出しです。 ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存知のはすです。」 「尽くした」とそのことを「よくご存知のはずだ」という言葉は、二九節でも繰り返されています。ヤコブが言いたいことは、私は好意で働いてきたのだ、だからあなたも好意をもって送り出して欲しい。そういうことだと思います。 しかし、ラバンという人間は、そういうことが通じる相手ではありません。彼はどこまでも功利的な人間です。彼は言います。 「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから。」 「必ず支払うから」は、多少意訳ですけれども、ラバンの性質をよく言い表していると思います。「必ず支払う」などと言う人に限って支払わないものです。そして、彼はここでも金で人を買おうとしている。ヤコブと最初に会ったときから、有能な彼を引き止めるために「報酬」を払うと言いつつ、二人の娘を嫁として与える代わりに十四年間もただ働きをさせた男なのです。ここでも、「報酬を支払う」と言いつつ、腹で何を考えているのか分かったものではありません。 この後のやり取りは、いかにもこずる賢いヤコブとラバンのやり取りです。表面的には好意とか善意を漂わせつつ、実は、自分の利益を求め、将来の安泰を確保しようとしているつばぜり合いなのです。 ヤコブはあくまでも好意に訴えつつ、ラバンが「お前のお陰で、主から祝福を頂いている」と言ったことを踏まえて、「わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます」と言って、暗に、すべては主の御心の実現であることを匂わせている。しかし、ラバンは、あくまでも「何をお前に支払えばよいのか」と問います。 ことここに至って、ヤコブは最早、ラバンに通じない言葉は使わなくなります。ヤコブもまた実に功利的な人間であり、ラバンのもとで過ごした二十年間で、その知恵は良くも悪くも磨きが掛かっているのです。 彼は「何もくださるには及びません」と言います。そう言いながら、家畜の群れの中から、「ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒味がかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それを報酬にしてください」と言う。「何もいらない」といっておきながら、これはなんだ、と思わないわけにも行きませんが、こういう言い方は大人の世界ではよくあることです。「これは掘り出し物です、あなただけに安くしときますよ」と言いつつ、実は在庫処分品を誰にでも高く売っているのと同じことです。 ぶちとかまだらの家畜、黒味がかったものとは、商品価値が低いもののことのようですが、ラバンは、口では「よろしい。お前の言うとおりにしよう」と言いつつ、実はその日の内に、それらの家畜を全部取り出して息子たちに託し、歩いて三日もかかる離れた所に隔離してしまったのです。もう露骨と言うか何と言うか、「報酬を支払う」と何度も言ってヤコブの本心を巧みに聞きだした途端に、ヤコブの未来を暗澹たるものにするための手立てをするのですから、徹底しています。 しかし、ヤコブはそのことも既に織り込み済み、想定の範囲内なのでしょう。長年の経験で培った知識を使って、群れの中にぶちやまだらのものを生ませ、さらに強く丈夫なものばかりが自分の群れの家畜になるようにしてしまうのです。その結果、「弱いのはラバンのものとなり、丈夫なのはヤコブのもの」となり、「ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった」というのです。つまり、大逆転が起こった。無一物でラバンのところに逃げてきたヤコブは、ついには大金持ちになり、ラバンの方は、三一章の書き出しを見れば分かりますように、「財産が全部奪われてしまった」と息子たちが嘆くような事態になっているのです。こういう物語は、映画にしたら実に面白いだろうなと思うのですが、物語はまだまだ続き、これからも様々なことがあった上で、創世記の最後では、ヤコブは再び無一物の難民としてエジプトに下ることになります。その時の彼は、神様の祝福以外何も持っておらず、その祝福を、エジプトの王に与え、また自分の息子たちに与える。そういう人物となります。もう知恵も力も使わない。神様の祝福だけを頼みとし、それを与えるためにだけ生きる。そういう人物になります。それは、聖書に記された年齢では彼が百三十歳とか百四十七歳の時であり、ラバンの所から脱出した時より七〇年以上も先のことですが・・ 因果応報と逆転 それはそれとして、今日までの箇所で私たちが知らされていることは、この物語は神の選びから始まり、祝福を巡って、神の思いと人間の思いが交錯しているということです。始まりは神の選びです。神はかくも悪賢い男をその祝福を受け継ぎ、世界に広めるために選んだ。その不可解な現実からこの物語は始まり、絶えざる争いと欺きの連鎖の中で因果応報と逆転が繰り返されます。兄と弟は母の胎内にいる時から争い、兄が先に出てきたけれど弟はそのかかとを掴んでおり、巧みな交渉で長子の特権を獲得し、さらに母と共謀して神の祝福を騙し取りました。しかし、結局無一物となって約束の地カナンを後にするのは弟です。土壇場の逆転がここにあります。そして、今度は姉妹の争いがある。夫から愛された妹は子供を産むことが出来ず、愛されなかった姉は産み続ける。しかし、最後に妹が待望の子を産むのです。さらに伯父ラバンと甥ヤコブの争いがあり、それはヤコブの敗北から始まり、結局、ヤコブの勝利に終わります。でも、そのヤコブは故郷で兄エサウと会う時には、恐怖のどん底に突き落とされて、必死になって神の祝福を乞い願うことになります。 人間同士の争いや欺きは、実は神の御心に対する人間の抵抗、反抗でもあります。そして、人間が何をしても神様の御心に反することをしている限り、それは結局、破綻するのです。そして、神の選びは変わらない。その御心は因果応報の繰り返しに見える現実の中にあって、実は首尾一貫して実現していくのです。ヤコブは、長い人生の中で次第次第にそのことを知らされていきます。主が、自分を選び、好意をもって遇してくださっている、恵みを与えてくださっている、それは自分の性格が良いからとか、行いが良いからではなく、神様の自由な選びと憐れみの故なのだという事実を知らされていくのです。そして、彼はそのことを「祝福」という言葉で表現します。自分は祝福され、そして、その祝福が自分を通して交わりを持つ者たちに与えられていく、それはラバンであっても変わることがないという不思議な事実を知らされていくのです。 「祝福」と「恵み」 今日の箇所に、二度「祝福」という言葉が出てきます。最初はラバンの言葉です。 「わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」 そして、二度目はヤコブの言葉です。 「わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。」 同じように「祝福」と訳されていますが、実は、原語では違います。ラバンの言葉の方はヘブル語では「ヘーン」という言葉ですけれど、「好意」とか「贈り物」を表す言葉であり、「恵み」とも訳される言葉です。ラバンがこの言葉を使う場合は、物質的な富を内容としています。もちろん、「ヘーン」は、そういう物質的な意味だけではありません。聖書に最初に出てくるのは、先週も引用したノアの洪水の場面です。そこでは「ノアは主の好意を得た」と出てきます。つまり、主の好意、恵みによってノアは選ばれ、滅びから救い出され、新しい世界、祝福された世界の担い手になるのです。そういう意味がある。しかし、同じ言葉でも違う人が使うと全く別の意味になることはしばしばあることです。ラバンは、明らかに物質的な意味での祝福、富の増加のことを言っています。 ヤコブは、その言葉を受けて、それを「バーラク」という言葉に言い換えているのです。この「祝福」にも、物質的な意味、心身の健康とか富とか、そういう意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。 この時の彼は、神様の約束どおり無事に母の実家に到着し、色々と複雑な問題を抱えつつも十一人の男子を得ている人間です。三一章五節の言葉によれば、「わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった」と告白する人間なのです。神様の真実な愛、決して約束を破らない愛の確かさを痛感しているのです。どれ程、自分やラバンがどす黒い争いをしていたとしても、レアやラケルが罪深い争いをしていたとしても、神様は約束通り、ずっと共にいてくださり、子孫を増やしてくださり、今、約束通り、故郷に導き返そうとしてくださっている。そのことを確信する中で、彼は自分に祝福が与えられており、自分の故にラバンにも祝福が与えられている。そのことを語っているのです。しかし、ラバンには、そのことが分からない。どこまでも、この世の現実だけしか見ないのです。 その彼の心の中に「平和」はありません。自分の未来の安泰を自らの力、富とか知恵によって獲得しようとしている人間に平和はありません。しかし、ヤコブは、自分がどんなに知恵を使おうとも、三一章九節にありますように、「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ」と言うことが出来る人間になっています。家畜が増えたこともまた自分の知恵の故ではなく、神様の恵みの故であることを知っている。そして、そのことを告白することで神様を讃美している。既にそのことにおいて彼は平和を得ています。それが、神が共にいますことを知っている人間とそうではない人間との決定的な違いです。ずる賢い性格は全く同じであり、とる行動もほとんど同じであったとしても、神が共にいることを知らない人間の心の中は、絶えず将来に対する不安と恐れがあるのです。そうであるからこそ、安心を得たくて、さらに物質的な富を求め、争いを繰り返す。それこそ、今も少しも変わることのない人間の現実だし、国や民族の現実です。 聖書において「罪」とは、いわゆる「悪」ではありません。罪イコール悪ならば、罪という言葉は必要ありません。聖書で言う「罪」、その本質は神からの離反です。神から離れている状態です。それはつまり、命の源から離れていることです。天地をお造りになり、人間をお造りになった神は、人間を祝福し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とおっしゃったからです。この神の祝福の中に置かれた状態が「罪」の反対語である「義」であり、その義を与えられた人間には命の充満があり、平和があるのです。しかし、人間は最初の人類アダム以来、神から離反し、命の源から離れ、結局、自分の未来を確保するためにあくせくと働き、策略を使い、欺きを使い、争い合うことになり、どのようにして神の許へ帰ったら良いのか分からない。それが、私たち惨めな罪人の現実です。罪人は、生きれば生きるほど罪を積み重ね、増し加えていくほかにない。その現実は、ヤコブ物語を見るまでもなく、否定することができない人間の現実です。 しかし、その人間の現実、その人生、歴史の中に、神が介入して、恵みによってある個人を選び、また民を選び、その個人また民に祝福を与えて、神の真実な愛を伝え、平和を与えてくださる。その現実、否定できない現実をもヤコブ物語は伝えていると思います。 「恵み」と「平和」 昨日は教会学校の夏季学校があり、新約聖書に入っている手紙の多くを書いたパウロについて学び、また共に豊かな交わりの時を与えられました。そのパウロの代表的な手紙は、言うまでもなく「ローマの信徒への手紙」です。その中で、彼はこう言っているのです。 「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。・・・一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。・・罪が増したところには恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」 ここで対照されているのは、最初の人類アダムとイエス・キリストのことです。アダムは、神から離反してしまった罪人の代表であり、私たちは皆、そのアダムに連なった者たちです。その者たちが織り成す因果応報の人生があり、また歴史があります。しかし、その人生、歴史の中に、神の御子イエス・キリストが介入してくださった。「突入してきてくださった」と言った方が私にはピッタリ来るのですが、全く思いがけないことに、また、全く思いがけない形で突入してくださったのです。それは、神の御子イエス・キリストが、人間のすべての罪をその身に負って裁きを受けてくださるという形です。そのことをパウロは「恵み」、ラバンが「祝福」と言ったその言葉を使って表現しているのです。この「恵み」が私たちに与えられている。新しい命の「祝福」が与えられている。ただそのことによって、神は、罪の連鎖としての因果応報を生きるしかない私たち、つまり未来には罪とその結果としての死だけが待っている私たちを、全く新しい者に造り替えてくださったのです。今や、恵みが義によって私たちを支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導いて下さっている。その救いこそが、私たちの未来になっている。パウロは、そう告げているのです。 私たち罪人の人生、私たちの罪なる世界の歴史は、イエス・キリストを通して現された神の恵み、祝福によって、完全に逆転されている。その喜ばしい知らせを私たちは「福音」と呼び、また「祝福」と呼び、「恵み」と呼ぶのです。そして、この福音を信じ、祝福を受け、恵みに与った者に与えられるものは「平和」です。ヘブル語ではシャロームと言います。神が共にいますことの平和です。神が共にいますとは永遠の事実ですから、これこそが私たちの現在であり、また同時に未来なのです。その未来は、自分の力で獲得したのではなく、恵みによって贈り物として与えられた平和です。 「勝利」と「平和」 先週の金曜日の午後一時五〇分、六月からは意識不明の状態で入院されていたESさんが息を引き取られました。EE 夫人からお知らせを頂いて、私が病院に駆けつける一〇分前に召されました。昨日、ご遺体はご自宅からこの礼拝堂に運ばれて、今、私たちの目の前に安置されています。ESさんは、八十歳を過ぎた頃からEE夫人の影響を受けて信仰を求め始め、二〇〇三年のクリスマス礼拝において、八三歳の時に洗礼を受けられました。当時、既に長津田のご自宅から礼拝堂まで来る体力はなかったので、毎月の家庭集会や訪問などを通して求道を続け、二〇〇三年のクリスマスの時に初めてこの礼拝堂において朝礼拝に出席をされ、洗礼を受けられました。ESさんが、この礼拝堂の中で礼拝を守るのは、その時以来です。 ESさんの歩み、その信仰に関しては明日、明後日と続く葬りの式の中で語ることですが、今日も一つのことだけ語らせていただきます。 ESさんは、以前から気管を患っておられて、ここ一年ほどは、ほとんど声も出ない状態でした。そして、今年に入ってから、もう自由に動かなくなった手を必死に動かして便箋にサインペンでその思いを綴られました。その何枚かの便箋の中で四月七日と日付が記されたものだけを読ませて頂きます。ESさんはこう記しておられます。 「四月七日 早朝からイキが苦しい毎日の近況。 おかあさん、有難う。大感謝。 島津副院長、有難う。大感謝。 教会の先生、皆々様、有難う。 皆々様も有難う。 さようなら。 平和の道を行く。 S」 毎日息苦しい日々が続く中、五〇年以上を夫婦として連れ添ってきたEE子夫人への感謝、大感謝を書き、献身的な医療処置を続けてくれた医師への感謝を書き、教会の牧師である私や教会員の皆さんへの感謝、交わりのあったすべての方への感謝を書き、「さようなら、平和の道を行く。S」と書く。このESさんの遺言のような言葉を、金曜日の午後、私はEEさんと共に病院で改めて読みました。その時、私は葬儀で読むべき言葉を示されました。それは、ヨハネ福音書に記されている主イエスの言葉です。主イエスは、十字架の死を目前にして、愛する弟子たちに向かって、こうおっしゃったのです。 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 主イエスは、この世の罪人が織り成す人生、そこにある勝者必滅、因果応報の連鎖を、その十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨を通して断ち切ってくださっているのです。私たちの罪がどれほど増し加わろうとも、主イエス・キリストを通して与えられる恵みはそれをはるかに上回っているのです。その事実に平和の源があり、その事実を信じるところに私たちの平和があります。ESさんは、その平和を知っていた、知らされていたのです。既に世に打ち勝ち、罪と死の支配に勝利している主イエスが、生死を越えていつまでもESさんと共にいて下さり、永遠の命へ導いて下さっていることを知っていた。そこにESさんの平和があります。 パウロは、ローマの信徒への手紙本文の最後を、こういう言葉で締め括ります。 「平和の源である神が、あなたがた一同と共におられるように、アーメン。」 これは、彼の祝福の言葉です。私たちの礼拝の最後の言葉、それも「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」という派遣の言葉であり、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、アーメン」です。 このキリストの恵み、神の愛を信じて、聖霊の導きの中、主と共に生きる。そこにすべての因果応報を越える逆転があり、輝かしい栄光に満ちたキリストと共なる命が待っているのです。それが、私たちに恵みとして与えられた未来です。ただ感謝し、讃美する以外にはありません。 |