「しかし、わたしの父の神は」

及川 信

創世記31章 1節〜21節

 

ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。また、ラバンの態度を見ると、確かに以前とは変わっていた。主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」ヤコブは人をやって、ラケルとレアを家畜の群れがいる野原に呼び寄せて、言った。「最近、気づいたのだが、あなたたちのお父さんは、わたしに対して以前とは態度が変わった。しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。あなたたちも知っているように、わたしは全力を尽くしてあなたたちのお父さんのもとで働いてきたのに、わたしをだまして、わたしの報酬を十回も変えた。しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。群れの発情期のころのことだが、夢の中でわたしが目を上げて見ると、雌山羊の群れとつがっている雄山羊は縞とぶちとまだらのものばかりだった。そのとき、夢の中で神の御使いが、『ヤコブよ』と言われたので、『はい』と答えると、こう言われた。『目を上げて見なさい。雌山羊の群れとつがっている雄山羊はみな、縞とぶちとまだらのものだけだ。ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」 ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください。」
ヤコブは直ちに、子供たちと妻たちをらくだに乗せ、パダン・アラムで得たすべての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方へ向かって出発した。そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。ヤコブはこうして、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かった。


 先月はマルコ福音書の受難物語を四回連続で読みましたので、創世記のヤコブ物語は中断しました。これから年末までこの物語を読んで、来年からヨハネ福音書の連続講解説教に戻ります。

主が言われた

 これまでの流れを復習する時間はありませんから、すぐに今日の箇所に入ります。三〇章の最後にこうあります。
「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった。」
 この現実を見て、ラバンの息子たちもラバン自身も態度を変え始めたのです。そして、ヤコブは、もうここにはおれないと思った。まさにその時、主がヤコブにこう言われました。

「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」

 客観的状況だけでなく、こういう明確な神の指示がその心に聞こえる。そういうことはあります。八年前の秋に中渋谷教会からの招聘を受けた時も、それよりも十五年前に松本の教会に赴任する時も、色々なことがありましたが、動かしようのない神様の言葉があり、結局、私はそれに従う他ありませんでしたし、そのことが神様の裁きでありまた救いであることが分かりました。
 ヤコブは、この時、客観的状況から言っても、ここにはこれ以上いられないことを知りました。その上で、神様からの命令があったのです。彼は、決然と行動を起こします。彼がしなければならない第一のこと、それは妻の同意を得ることです。彼がもし妻子を捨て、築いた全財産も捨てて、来た時と同じく身一つで故郷に帰るのであれば、ラバンやその子供たちにとっては万々歳です。しかしヤコブは、妻子は勿論、全財産を持って帰ろうとしているのです。そのことが、神の命令だからです。
 と言うのは、この時の主の言葉、それは嘗て彼が生まれ故郷を脱走した時に、彼がベテル(神の家)と名付けた場所で出会った主の言葉に呼応するからです。ベテルで、主なる神は、アブラハムに始まりイサクに継承させた祝福を、今ヤコブに継承させることを告げ、彼のこれからの道行きを絶えず共にし、必ず故郷に連れ帰ることを約束されました。
その言葉を聴いた時、ヤコブはこう言ったのです。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

彼は、父イサクのもとで成長していましたが、イサクが「主」と呼ぶ神様はまだ彼にとっては他人事でした。しかし、ベテルで主からの語りかけを聞いた時に初めて、彼はその父の神、主が、自分の神でもあることを知り始めたのです。その主が、それから二十年を経た今、「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と語りかけておられるのです。
また、ベテルにおける主との出会いも夢の中の出来事でしたが、彼がこの後、妻たちに語ったことによると、このときの少し前に夢の中に「ベテルの神」が現れて「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と語りかけたというのです。その夢の中の言葉と三節の主の言葉によって、彼の心は完全に定まったのです。

すべては神の業

彼は繰り返し、妻たちにこう言います。

「しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。」
「しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。」
「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。」


   ラケルとレアもまた、この二十年の間に自分たちの父ラバンがヤコブに対して何をしてきたかをつぶさに見てきました。ラバンは、幾度も嘘をつき、ヤコブの労働の結果をすべて自分のものにし、結局、嫁にやった娘たちのものとなるべき財産もすべて自分のものとし、それを浪費してしまったようなのです。そういう父の行状を見、その一方で、故郷を脱走して身一つで転がり込んできたヤコブの人並外れた働きとその結果を見つつ、彼女らも、自分たちの夫には確かに神が共にいます事実を知っていったのでしょう。彼女らは言います。

「神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください。」

 彼女らは、夫から懇願されたからこう言ったのではありません。ヤコブが全財産をもって家族と共に故郷に帰ることには神の御心があると信じて、こう言っているのです。そうでなければ、この後に起こってくる様々な苦難を経験する度に、「あなたが懇願したから、私たちもついて来たんじゃない。どうしてくれるのよ。こんなことならついて来なければよかった」と言ったに違いありません。彼女らは、全く見知らぬ地に、そしてもう二度と帰ってくることもない旅に出発するわけですから、それは単に夫が言ったからとか、父親に呆れたからという理由だけではないと、私は思います。
 妻たちの言葉を聞くと、ヤコブはただちに家族と全財産をもって出発しました。その時、ラバンたちは羊の毛を刈るという一年で最も忙しく、また牧畜民にとっては最も喜ばしい時を過ごしており、ラバンの天幕には誰もいなかったのです。その隙を狙って、ラケルがラバンの天幕から、先祖代々の守り神を盗みました。ヤコブはそんなことは知らぬまま、ラバンの居ない隙に、彼を欺いて脱走しました。ここに「欺く」と出てきますし、それは後に「だます」とも訳される言葉ですが、直訳すれば「心を盗む」ということです。この「盗む」という言葉が三一章には何度も出てきます。これは次回にまた触れることになると思います。

盗まれる神?

 しかし、何故、ラケルが先祖代々の神を盗むのか、またその神とは何なのかについては少し考えておく必要があるように思います。それはこのヤコブ物語の本筋とも関係すると思うからです。
最初に、何故ラケルは家の守り神を盗むのかですが、考えられる可能性の一つは、彼女にとってその守り神は必要だったということです。彼女は、ヤコブの神、主を信じ始めてはいる。でもまだ、この段階では先祖代々の偶像崇拝の名残が残っているのでしょう。実際、この先の三五章で、ラケルを含めた全家族や一緒に出てきたすべての人々が、ヤコブから「お前たちが身につけている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」と言われることになります。人は、主なる神への信仰を与えられても即座に完全な形でその信仰を生き始める訳ではありません。それは、ある意味でヤコブも同様です。神様を信じて生きるとはどういうことであるかを正しく知り、その信仰を生きるためには時間が必要です。
しかし、恐らくラケルは、そういう宗教的感覚だけでなく、狡猾な父親ラバンを困らせてやろうという思いも強かったのではないか。ヤコブを騙し、結果として、自分たちから財産を盗み取っている父親への腹いせをしたいという思いで、父親が大事にしている神の像を盗んだという可能性もあります。そしてその出来心が、ヤコブの脱走を妨げようとするラバンに口実を与えることになりますが、それも次回の問題です。

神を知る物語

ヤコブ物語は、表面的に見れば家族の愛憎物語です。しかし、その実、ヤコブやその家族が真の神を知っていく長い行程を描いている。そういう物語でもあるのだと、私は最近になって思うようになりました。ヤコブの父の神、それは祖父アブラハムの神でもありますが、この神は「主」(ヤハウェ)という名を持つ神であり、ラケルが盗んだ守り神のように目には見えるものではありません。しかし、確かに存在し、人に語りかけ、そして一人の人間の人生を、一つの民を、また実は世界の民を導いている神です。そのことを一人一人が、自分の人生の中で知らされていく。神との出会いと交わりの中で知らされていく。そういう物語でもある、と思うのです。そして、その主なる神との出会いと交わりの中で起こることの究極は、和解なのです。短期的に見ればラバンとの和解であり、さらに兄エサウとの和解です。騙したり、盗んだりすることを通して、今は顔を見ることも嫌であり、恐ろしい相手との和解が、ヤコブが神をより深く知っていくことを通して与えられていく。神様を知ることは、神様との和解であり、それは人との和解の道を開いていくことなのです。私たちは、これからも、そういう物語を読んでいくことになります。

様々な神様?

 今日の箇所に、神様を表す言葉がいくつも出てきます。最初に「主」、次に「わたしの父の神」、そして、「神」「ベテルの神」「父の家の守り神」。「主」はアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、またイスラエルの神の名であるヤハウェで、「神」はエロヒーム、そして「守り神」はテラフィムという言葉で目に見える偶像を表します。ヤコブにとっては、偶像は最初から神ではありません。彼が初めて主なる神と出会ったのは、先程も言いましたように、故郷を脱走しひとりで野宿をしていたベテルにおいてです。その時、彼は「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言った後、「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と言って、礼拝をしました。つまり、主とは、単なる家の守り神、先祖代々の守り神ではなく、天と地を支配するお方であると感じ取ったのです。そのことが本当に彼の実感として染み渡っていくのはずっと後のことですが、この時、彼は確かに天地の神、天地の造り主なる神が、砂粒の一つに過ぎない自分と出会い、その人生を導くという約束を聞き、畏れをもって礼拝をしたのです。そして、それからの長く苦しい人生経験の中で、この方こそ生ける神であり、砂粒の一つに過ぎない自分に目を留め、その苦難を顧み、共にしつつ救い出してくださる方であることを、徐々に徐々に知らされていくことになります。

神って本当にいるの?

 しかし、こういうことはヤコブの経験であって、彼と同じ様に神に出会うことがない人にとっては、理解も共感も同感も出来ない事柄です。「そんなものは錯覚じゃないの?ただの思い込みじゃないの?」と言われるようなことです。そして、実際にそういうことだって、しばしばあるように思います。先日も、私は顔も名前もすっかり忘れてしまった小学生時代の友人という女の人から電話があって、「聖霊様が、及川さんから洗礼を受けるように言っている」とか言われて、恐る恐る丁重にお断りしたのですが、たまにそういうことを言う人と出会います。それは、私にしてみると、何か妙な錯覚、思い込みにとらわれているように見えるのです。
 しかし、私だって毎週、この礼拝で「神様は私たちを愛している、赦してくださる、共に生きてくださる」と、声を大にして語っているわけです。でも、それは私の錯覚と言えないのか、思い込み、希望的観測に過ぎないと言えないのか?私が語っていること、それは聖書が語っていることですが、聖書とは結局、人間の壮大な空想、錯覚、思い込みの産物ではないのか。「そうではない」と言える決定的証拠、客観的証拠はあるのか、と自ら問うとき、「それはない」としか言い様がないと思います。しかし、私は私として信仰を告白し、洗礼を受けてから三〇年余、様々な罪を犯し、道に迷い、罠に嵌り、落とし穴に落ち、崖からも滑り落ちるようなことをしてきましたが、そうであるからこそなのか、そうであるにも拘らずなのかよく分かりませんけれど、前にも増して、神様の愛と導きの力を強く感じています。しかし、これは歳をとって思い込みが強くなったのではないか。ヤコブにおいて起こったことも同じではないか。こういう問題が、信仰にはあります。
 明日も行く青山学院の短大では、授業の終わりに、その日の講義を聞いて思ったことを学生たちに自由に書いてもらっています。先週の講義では、創世記一章の天地創造と人間の創造に関して語りました。毎回、様々な反応があって面白いのですが、中でも面白い(つまり、わたしを喜ばせた)三人の感想を選んで紹介します。

「わたしは、神は私たちの想像で造られたと思う。もしも、神が考える生き物(人間)を造らなかったとしたら、逆に神の存在があっただろうか。魚や植物が神の存在を造れただろうか。実は、神が私たちを造ったのではなく、私たちが神を造っていると思う。」
「わたしが思うに、『神』とは生命の根源、我々の存在の核たる大きな力の象徴なのではないかと思う。自然への敬意や畏怖の心が、人間に神という存在を象徴化させたのではないか。また、人も確かにその『神=自然・生命の源』から生まれている。すなわち、神も人も互いに互いを生み出したと言えるのではないか。」
「神は人が作ったのか。人が神に作られたのか。私は前者だと思うのですが、もちろん証拠はありません。一説によると、人は人が生まれた理由がわからなかった。子は親がいなければ存在しないのと同じ様に、先祖のまた先祖、こうたどっていくと、どうして人が生まれたのかが分からなかった。だから人は人が生まれて良かったのだと、生み出した人がいるのだと安心するために、神の存在を考え始めた。私はこの説を信じているのですが、もし仮に、聖書に書いてある話が真実だったとしましょう。“自分に似せた”生き物が人であるのです。科学を引っ張り出してきましょう。“人は元来異なる形をしていた”。人は人になる前は猿のようなものだったと言われています。とすると、神は猿の形をしている?大変面白い連想です。『証拠がない』ということは実に神秘的ですね。」

最後の学生が、多少神を信じている者に対する皮肉を込めて書いたように、いずれにしろ「証拠がない」わけです。神がいる証拠もないし、いない証拠もない。神が人間を造ったのか、人間が神を造ったのか、それを証明する証拠もない。しかし、ラバンの守り神のような「神」、それは人間が木を彫って作った偶像であり、その偶像を自分で神として拝んでいるわけで、それは明らかに人間自身が自分の安心のために作ったものに過ぎないし、拝んでいる人間自身だって目の前の木像が自分を造った神であると信じているわけでもないしょう。ラバンにしても、この木像だけが神ではなく、目に見えない神も信じているのです。彼が後にその父の名である「ナホルの神」と呼ぶ神は、目には見えない神です。そういう多神教的感覚は日本人には馴染みが深いと思います。
しかし、それはそれとして、聖書に記されている神は、天地の造り主なる神であり人間の創造主です。そして、アブラハム・イサク・ヤコブの神、主です。この主なる神もまた多神教の神々の一つであり、人間が作り出したものなのか?さらに新約聖書は、その神は同時にイエス・キリストの父なる神であり、イエス・キリストも子なる神であり、聖霊と共に三位一体の神として天地をお造りになったと証言しており、さらに二千年前に十字架にかけられたイエス・キリストの死がすべての人間の罪を贖うための死であり、イエス・キリストは死から復活され、今も生きて人間に働きかけ、語りかけてくる方であり、この方を信じることを通して人の罪は赦され、神との交わりに生かされ、人はその信仰において死後復活すると証言しているのです。そして、私たちはその証言を信じ、「イエスは主である」と告白しているのです。これは壮大な作り話を信じる愚かな錯覚の極みではないか。そう言われても仕方のないことです。そして、信仰を与えられる前は、私たちの多くがそう思い、またそう言っていたのではないでしょうか。短大の学生の中にも、かつての私たちと同じ考えを持ち、それを自分の言葉で書ける学生がいる。それは私にしてみると、何とも心強いことなのです。しかし、私は明日の授業でどう語ったら良いのか心細い。大学の授業は授業であって礼拝ではありませんから。説教をするわけではないからです。でも、それなりの反論や、彼女らの前提を揺さぶる程度のことはした上で、私なりの考え、信仰の表白はしなければならないと思っています。

霊によらなければ

私は今、「イエスは主である」と言いました。この言葉は、パウロが書いたコリントの信徒への手紙に出てくる言葉です。しかし、かつての彼は、「イエスは主である」と告白する者を気が狂っていると思い、また主なる神を冒?している者たちだと思い込み、キリスト教徒を迫害し続けていた人物です。しかし、その彼が、命を懸けて「イエスは主である」と告白し、伝道するようになった。そして、多くの手紙を残し、それが聖書に入れられている。それはどういうことなのか。
彼は、その手紙の中でこう言っています。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

イエスが主であることを知る。信じる、そして告白する。それは聖霊の業である、ということです。聖霊によらなければ、イエスが主であることを知ることは出来ないし、信じて告白することも出来ないのです。しかし、この信仰告白は、正解でも解答でもなく、証しです。信仰の証し、証言です。論理的説明ではありません。神様の存在証明とか、イエス様が主であることの論理的説明は、私たちには出来ないし、そもそもすべきでもありません。私たち自身、説明されて信じたのではないし、神様ご自身がそのようにして存在証明をされることを願っておられないからです。
パウロは、霊的な事柄は霊によってしか知り得ないと言いつつ、こうも言っています。

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」


  人間は、その知恵によって神を知ることは出来ない。それは神の知恵に適っている。神は、信じることによってしか知り得ない。それはまさにその通りです。それでは「信じる」とは、どういうところで起こるのか。キリストを宣べ伝える言葉を聴くことによって起こるのです。それはまさに愚かな手段です。聴けば誰でもその時その場で信じるわけではないからです。信じる者は信じるし、信じる時は信じるのです。その違いはどこで起こるのかと言えば、聖霊の働きです。
牧師が、キリストを宣べ伝える説教を語るためになすべきことは、もちろん聖書の勉強をすることです。でも、幾ら勉強したってキリストの言葉としての「説教」は与えられません。聖霊の導きがなければ、聖書をいくら読んでもそこに神の言を聞き取ることは出来ないのです。色々と考えさせられたり、反省させられたりはしますが、一瞬の光線で自分自身が刺し貫かれるようなことはないのです。それがあるとすれば、それは聖霊が注がれた時です。しかし、イエス様がおっしゃる如く、聖霊は風のようなものですから自由に働きます。自動販売機にコインを入れればガシャンとジュースが出てくるように、私たちが祈れば即座にサーと吹いてくる風ではありません。神様の御心のままに吹く。無風の時がひたすら続くことだって幾らでもあります。しかし、突然吹いてきて、光が射してくる時がある。

パウロにおける出会い

パウロという人は、全く思いもよらない形で、思いもよらない時に、霊として生きる主イエス・キリストと出会いました。彼の場合は、彼が出会いたかったわけではないし、彼が求めていたわけでもありません。彼は、キリスト教徒を迫害することが神から与えられた使命だと固く信じて、迫害に息弾ませてダマスコという町に出かけただけです。しかし、その町に到着する直前に、突然、天から聞こえて来る主の言葉に打ちのめされ、光に刺し貫かれて、自分が捕えて殺そうと思っていた人物から洗礼を受けるというとんでもない経験をすることになったのです。つまり、そこにあり得ない和解が生じたのです。主を知る、主を信じるとは、そういう出会いを通して起こり、そこに和解が生じるのです。その様なこと以外で「主を知る」と言ったところで、それは所詮、「世の知恵」の範囲内のことに過ぎません。
パウロはパウロとしての出会いの仕方があり、ヤコブはヤコブです。旧約聖書、新約聖書の違いはありますが、それぞれの主との出会い方があります。そして、主と出会って以後、その人の人生は変わっていきます。パウロのように劇的に変わる人も中にはいますが、ヤコブのように、十年二十年という人生経験の中で、父の神が実は自分の神であり、その方こそ生ける主であり、自分を守り導き救い出してくださる方であることをじっくりと知らされていくという人のほうが多いでしょう。それは善し悪しの問題ではなく、神様の自由な選びと導きの問題です。ただ、劇的であれ、緩慢であれ、神に出会った人間にとっては、神こそがリアリティがあるもので、その他のものは、所詮この世にある限り一定程度の意味を持つだけのものだし、その多くは持てば持つほど、追い求めれば追い求めるほど実は空しいものであることが分かってくるのです。
パウロは、生まれも育ちも知識も地位も、すべて優れたものを持っていました。しかしキリストと出会って以後、すべてが逆転したのです。彼はこう言っています。

「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
「 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

私たちは、結局、このように生きることしか出来ないし、このように生きることでキリストを証しする以外にないのです。キリストを捕えているわけではない、ただキリストに捕えられているから、捕えんとして、必死になって導きに従っていく。彼はそう生きた、いや生かされたのです。そして、その彼が残した言葉が、今の私たちにもキリストを証言する言葉であり、私たちは、その言葉を聞いて信じているのです。愚かと言われ、自分でもそう思わないわけでもありませんが、でも、このキリストを証しする言葉の中にこそ本当のリアリティがあることは、私たちにおいては確実なことなのだから、どうしようもありません。

生きる希望

ヤコブは、父イサクが愚鈍なまでに信じて生きた主なる神の存在と力を、中年になって漸く深く信じるようになりました。ベテルでの主との出会いから二十年を経てのことです。これからも彼は様々な試練に遭いつつ、何とかして主の祝福を得ようと必死になって生きていきます。そして、私たちの信仰の父となっていくのです。そして、私たちもこれから何年与えられるか分からない人生の中で、挫折や失敗を繰り返すでしょう。でも、キリストに捕えられている私たちは、その度毎に己の罪深さを知らされていくでしょう。そして、それはまた同時に主イエス・キリストにおける神の愛の強さを知らされていくということなのです。罪は、神の愛の中でしか知り得ないことだからです。そして、神は罪とその結果としての死の支配を主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して撃ち破ってくださいました。私たちは、その愛の勝利、キリストの勝利の中を生かされているのです。だから、私たちは望みがあります。望みがあるから生きていけます。
最近の大阪の個室ビデオ店で起きた惨事は、生きていく希望がなくなった人が自殺しようと思って引き起こしたことだと言われています。希望がなくなるということは、本当に恐ろしいことなのです。私もキリストと出会っていなければ、失望と絶望の闇の中に落ちたままである他にありません。希望は人間の中にはないからです。ただ神の中にあるからです。神が独り子主イエス・キリストを通して私たちを愛してくださり、私たちを御国に招き入れ、復活の体を与えてくださる。そこで主の御顔を拝することが出来る。こんな喜ばしいことはありません。私たちはその日に向かって生きている、その希望によって生かされているのです。

神は生きている

そして、今日も、主イエスは私たちの只中に立って下さり、ご自身の復活の命を、パンとぶどう酒を通して、私たちに分け与えて下さるのです。「私を信じる信仰を生きよ。私が与える希望を生きよ。私が与える愛を生きよ。そして、希望なき人々に私の愛を宣べ伝えよ」と語りかけながらです。私たちキリスト者とは、幸いなことにこのキリストに捕えられている者たちなのです。だからキリストと共に、キリストを目指して、キリストのために生きることが出来るのです。この信仰に生きる幸いは、アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへ、そして二人の妻たちへ、そして十二人の子供たちへと何年も何年もかけて伝わっていきました。そして、何千年も経て、今の私たちにも伝わってきたのです。何故か?それは、神が生きておられるからです。生きておられる神が、私たち一人一人に語りかけ、働きかけ、救いへと導き続けてくださっているからです。今日もこうして礼拝をし、天の御国を仰ぎ望みつつ聖餐の食卓を囲む私たちの存在が、そのことを表しているのです。何と幸いな人生かと思います。
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