「和解に導く神」
ヤコブは怒ってラバンを責め、言い返した。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。それをここに出して、わたしの一族とあなたの一族の前に置き、わたしたち二人の間を、皆に裁いてもらおうではありませんか。 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」 「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。もし、お前がわたしの娘たちを苦しめたり、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神御自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな」とラバンが言ったからである。 ラバンは更に、ヤコブに言った。「ここに石塚がある。またここに、わたしがお前との間に立てた記念碑がある。この石塚は証拠であり、記念碑は証人だ。敵意をもって、わたしがこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えてわたしの方に侵入したりすることがないようにしよう。どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように。」ヤコブも、父イサクの畏れ敬う方にかけて誓った。 ヤコブは山の上でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事の後、彼らは山で一夜を過ごした。次の朝早く、ラバンは孫や娘たちに口づけして祝福を与え、そこを去って自分の家へ帰って行った。 ヤコブ物語の主題 ヤコブ物語は、家族の物語でありつつ、同時にヤコブが長い時間をかけて父イサクの神、主を知っていく過程を描く物語でもあります。そして、主なる神を知っていくとは、実は主との和解、主との交わりの中に入っていくことであり、それは同時に敵対する人間との和解に向かっていくことでもあると、このヤコブ物語は告げていると思います。 ヤコブは二十年間、親戚のラバンのもとで散々苦労した挙句、主の命令で家族と全財産をもって、故郷に帰ることにしました。実際には、伯父のラバンに隠れて逃亡するのです。しかし、その時、ヤコブの妻ラケルは父ラバンの「家の守り神の像」を盗みます。そのことの意味や背景については前回語りましたから、今日は省きます。ラバンは、目に見えない神を一方では信じているのですが、同時に、こういう「神の像」も大事にしているわけで、それはレアやラケルも同じことです。日本人の多くもまた複数の宗教と関ることに違和感を感じていないと思います。しかし、その彼らがヤコブを通して、次第に主という神を知っていく。まだ信じるまでにはいきませんが、知っていく。関りを持つようになる。三一章は、そういう消息を描いているように思います。 ラバンとヤコブのやり取り 神の介入 羊の毛を刈ることで家を離れ忙しくしていたラバンは、ヤコブが全家族と全財産をもってひそかに逃亡したことを三日後になって漸く知りました。そして、自分の家から奪われたものはないかどうかくまなく調べた。そして、守り神の像がないことに気付きました。今になっても、娘たちも孫たちも家畜の群れも皆「自分の財産」だと思っているラバンは、「自分の財産」を奪還するために、一族郎党を引き連れてヤコブの追撃に出発します。これはまさに軍隊の出動を意味します。そして、七日をかけてやっと追いつくのです。彼らが住んでいたハランからギレアドの山地は、直線距離で五百メートル以上もあります。東京から京都くらいあるわけで、それをラクダか何かに乗って必死になって追いかけたわけです。ヤコブの出方によっては戦いをしかけて娘と孫、家畜のすべてを奪い取り、盗まれた守り神を取り戻そうとしている。ヤコブの一行は武装していませんから、ラバンが戦いを仕掛ければひとたまりもありません。 しかし、その夜、神がラバンの夢の中に現れる。この神はラバンの家の守り神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブが次第に知りつつある「主」と言ってよいだろうと思います。その主なる神が、ラバンに「ヤコブを一切非難せぬように、よく心に留めておきなさい」と語りかけたのです。このことは、ラバンにとっては決して無視できない大きな出来事でした。彼は、「わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが」と強烈な恫喝をしつつ、前の晩の経験がある故に、ヤコブたちが去ることについては諦めると言うのです。これは彼にしてみれば大変なことです。しかし、当然のことながら、彼は守り神が盗まれたことについては、猛然とヤコブを責めます。 「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」 ヤコブは、ラケルが盗んだことを知りません。だから盗んだ者がいるのなら、「その者を生かしてはおきません」と啖呵をきる。 こういう話は、元来文章ではなく口で語り伝えられたわけですから、私たちも最初の聴き手の気分を味わった方がよいと思います。聴き手は知っているのです。ラケルが盗んだことを。でも、そのことを知らないヤコブは、知らぬが故に愛する妻ラケルを殺すと約束してしまったのです。さあ、どうなる!?聴き手は胸をわくわくさせたはずです。 それと同時に、聴き手が主なる神を信じる者たちだとするならば、腹の中ではクスクスという笑いが生じていたとも思います。それはどういうことかと言うと、ラバンは絶対的な権力者として振舞っているけれど、彼が必死に捜し求める神は、ただの木像に過ぎず、娘である女の尻の下に敷かれて何も語ることも出来ない。「俺様はここだ。ここにいる」と声を出すことも出来ない。それに対して、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神になりつつある主は、ラバンの夢の中に現れて語りかけ、彼の行動に対して大きな影響力を与えている。その対比の面白さがここにはあります。しかし、この件に関してだけは、ラバンに非はなく、盗んだラケルの方に非があるし、そうとは知らないにしてもヤコブの側に落ち度、あるいは犯罪があるのに、結局はラバンの方が悪者になってしまう。それも実の娘に「生理中ですから立てません」などと嘘を言われる形で恥をかかされてしまうという皮肉、ブラックユーモアのようなものがここにはあります。 ヤコブの気付き とにかく、守り神の像は見つからなかった。ヤコブは、ここぞとばかりにラバンを責め立てます。彼はその中で、「皆に裁いてもらおうではありませんか」と言います。そして、彼のこれまでの苦労や憤懣、ラバンのあくどさを挙げつらった上で、最後にこう言うのです。 「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」 私が面白いなと思ったのは、最初は人々によって「裁いて」もらおうとしたヤコブが、実は神が既にラバンを「裁いている」のだと気がついていることです。と言うのは、神が「あなたを諭された」の「諭す」は「皆に裁いてもらおう」の「裁く」と訳された言葉と原文では同じ言葉だからです。 ラバンとヤコブの間で起こっていること、それは醜い争いです。財産の奪い合いであり、面子の張り合いです。家族の奪い合いでもある。そして、「盗み」と「欺き」(原文では「心を盗む」)がそこには満ちている。二十年間、ヤコブを欺き続けてきたのはラバンです。しかし、今、ヤコブの妻であり、ラバンの娘であるラケルがラバンを欺いている。それらすべてのことをご覧になった上で、今、アブラハムの神、イサクの神は、ヤコブを非難してはならないと判決を下しておられる。それは人々の裁きを待つまでもなく、既に昨夜の内にラバンにその裁きが告げられているのです。その裁きはヤコブが正しいとかラバンが間違っているとかそういうものではなく、とにかく、ヤコブを非難しないようにということでした。直訳すれば、「善いも悪いも何も言うな」です。つまり、彼らはお互いに「どっちもどっち」ということなのだと思います。私もそう思います。そういう問題を、人は裁けない。神様しか裁けない。その事実にヤコブが気付いていく。そういうことが、ここで起こっているのではないか。そんな気がします。 このヤコブの言葉を聞いたラバンは、「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしのものだ。いやお前の目の前にあるものはみなわたしのものだ」と、ここでも自己中そのもののことを言いながら、娘や孫のために、手荒いことはしないでやると精一杯の虚栄を張りつつ落とし所を探り始めます。そこで彼は、ヤコブとの間に契約を結ぼうとするのです。口約束だけではない証拠をもった契約です。 その後の記述は、実は二つの話が合体することで複雑怪奇になっています。たとえば、石塚がガルエドと呼ばれたり、ミツパと呼ばれたり、食事の場面が二回もあったりすることから、そのことが分かりますけれど、今日はそのことの詳細には入りません。私たちが今、見つめているテーマはヤコブとラバンにとっての神の問題ですから、その問題に集中します。 ラバンの気付き ラバンは、ここで娘たちのことを思って、自分が持っていて当然の権利を放棄してやるのだという言い方で面子を保ちつつ、「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように」と言います。彼が今、「主」という神に対する信仰を持っているとか、そういうことではありません。しかし、彼が今、アブラハムの神、イサクの神でありヤコブの味方である神、主に頼り、その主の見張りがないとヤコブという男は何をするか分からないという思いがあることは事実だと思います。そして、主の見張りがなんとしても必要である。彼は、そういう思いを二十年間のヤコブとの関りの中で抱くようになったのです。 そして、次には相互不可侵協定を結ぶのですが、その際には、こう言います。 「どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように。」 実に意味深で難解な言葉です。アブラハムはヤコブの祖父であり、ナホルはラバンの父であり、アブラハムの兄弟です。ですからヤコブとラバンは先祖を同じくする親戚です。そして、アブラハムの父テラの時代に、アブラハムとナホルは父と共にカルデヤのウルという場所から旅立ってハランにまで来ました。それは既に天体崇拝が盛んだった大都市ウルからの脱出という要素があり、アブラハムの旅立ちを準備するものとも考えられます。ですから、アブラハムの神とナホルの神は、元来は同じである可能性もある。しかし、時代が下ってヤコブとラバンの時代になってくると、ラバンは他の民族と同じ様に守り神の木像を大事にしたりもする多神教的な信仰になっているのです。しかし、その彼が今、こういう協定を結ぶ場合の常套句なのですが、それぞれの先祖の神の名にかけて協定が守られるように祈っているのです。そこには、先祖の神においては同一の神を持っていた者同士の親近感があるように、私には思われます。そして、先ほどはヤコブが神の裁きに関して語っていましたが、ここではラバンが「先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように」と祈っている。原文では、この場合の「裁き」は先程のものとは違って「支配」の意味もある言葉ですけれど、とにかく彼は木で作られた偶像にではなく、目には見えず、人を支配し守り導く神に相互不可侵条約の証人となってもらおうとしているのです。策略によってすべてを支配しようとしていた男が、ついにヤコブの前ではなく先祖の神の前にシャッポを脱いだ。その支配に身を委ねた。そういうことがここで起こっていることなのではないでしょうか。 生贄を捧げて礼拝するヤコブ さて、ヤコブ、ヤコブはどうしたのでしょうか?彼は礼拝を捧げたのです。それも生贄を捧げる礼拝です。 「ヤコブも、父イサクの畏れ敬う方にかけて誓った。ヤコブは山の上でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事の後、彼らは山で一夜を過ごした。次の朝早く、ラバンは孫や娘たちに口づけして祝福を与え、そこを去って自分の家へ帰って行った。」 敵意と憎しみ、不安と恐れから始まったヤコブの故郷への帰還の物語、一時は一触即発の危機を迎えたこの物語の最後は実に穏やかなものです。ヤコブとラバンの一族は、契約が無事に締結された徴としての食事を共にして、その翌日、ラバンは孫や娘たちを祝福して別れていきます。そこに和解があります。そして、その和解をもたらすために必須であったものは、ラバンはラバンなりに生ける神の存在を知り、ヤコブがアブラハムの神、イサクの畏れ敬う神を知って、その神に誓い、礼拝を捧げることだったと、私は思います。 ここに「いけにえをささげる」という言葉が出てきます。これは創世記では初めて出てくる言葉です。ヤコブが、神様を礼拝するというのは、この時が初めてです。彼が故郷を逃亡した時、野宿をするヤコブに神様が現れた時に、ヤコブが石を立てて記念碑としたということはありますが、この時はまだまだ神を礼拝するという信仰とは程遠いものでした。しかし、今彼は、激しく敵対していたラバンとの和解が与えられるという現実を前にして、思わず神様に感謝のいけにえを捧げて礼拝をしたのです。この場合の「いけにえ」とは焼き尽くす献げ物ではなく、動物の首を切り裂いて血を流す「いけにえ」であり、屠った後、皆でその肉を食べる「いけにえ」です。出エジプト記などでは、しばしば「過越の小羊」を指す言葉として使われる言葉です。 いずれにしろ、一つの命を殺すことによって、神への感謝、畏敬の念を表明し、その礼拝を共にする者たちが、その肉を食べることを通して命を分かち合う。そういう礼拝がここにはあります。ヤコブとラバンは、ついにそういう礼拝を共に捧げる者たちにされた。神への感謝と畏敬をもって、一つの命を分かち合い、互いに和解をする。そういう関係にまで導かれた。そこに至るまでに実に二十年という歳月が掛かった。そういうことが言われているのではないか。神様の忍耐強い導きに対して感嘆する他ありませんし、私たちの希望も、この神様の忍耐にしかないことを思います。 私たちにとっての生贄とは しかし私は、そう思ったと同時に、私たちにとっての生贄とは何なのだろうかと思いました。 私たちは、二〇〇四年度から一貫して聖餐の食卓についての学びを続けています。それは説教と聖餐を二つの核として持つ礼拝に関する学びを続けているということであり、同時にそれは礼拝共同体としての教会とは何であるかを学んでいるということだし、その礼拝共同体に属している私たち一人一人の信仰の生活とは何であるかを学んでいるということです。そして、私たちが毎月守る聖餐の食卓に流れ込んでいる一つの大きな流れが過越の食事であることは既によく学んできたことです。元来の過越の食事は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放するためのものでしたが、そこに何が起こっているかと言えば、罪に対する神様の断固たる裁きです。罪の値は死である。そのことが、示された出来事だと言って良いでしょう。小羊を屠り、その血を家の鴨居に塗った家の前を死の使いは過ぎ越し、血が塗られていない家には入り込み、その家に生まれた最初の子が殺される。小羊の血が、生と死を分け、赦しと裁きを分けたのです。 主イエスは、その過越の食事を弟子たちと摂る時に、パンを裂き、「取りなさい。これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒の入った杯を渡してから、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃいました。そのことを通して、ご自身を過越の小羊とされたのです。 その事実を受けて、パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたのです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と言っています。 旧い契約と新しい契約 新約聖書は旧約聖書なしに成り立ちませんし、旧約聖書から連続した契約の書です。しかし、旧約の単なる延長ではありません。新しい契約の書なのです。その新しさとは何かと言えば、生贄を捧げる主体が違うということです。旧約では、人が神に捧げるのです。罪の赦しを乞いつつ、神との和解を祈り願い、また人間同士の和解を願い、あるいは感謝して、生贄を神様に捧げるのです。神様は、畏敬と感謝の念をもって捧げられた生贄を受け入れて下さいました。しかし、新約聖書、神の独り子イエス・キリストを通して啓示された新しい契約を記す書物においては、神様の方が、人間の罪を赦すために、犠牲の生贄を捧げるのです。全く逆なのです。 そのことを、ヨハネ福音書はこう言っています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」 神が独り子を与える。それはつまり十字架の上に生贄として捧げるということです。そのことによって、罪なる人間を赦し、和解し、そして人間同士が十字架の主イエスにおいて現れた神の愛で互いに愛し合う道を開いてくださる。そういうことです。その救いに与るために必要なもの、それが独り子イエス・キリストを信じる信仰です。 あるいは、こういう言い方も出来ます。ヤコブが生贄を捧げたとは、彼は祭司の役割をしたということです。後に制度化された祭司の務めは、犠牲を捧げて罪の赦しを乞い求めることです。 新約聖書において、祭司はイエス・キリストです。イエス・キリストご自身が祭司として、弟子たちを初め多くの人の罪が赦されるように犠牲を捧げつつ祈ってくださるのです。しかし、新約聖書における祭司イエス・キリストはこういうお方なのです。ヘブライ人への手紙の言葉を読みます。 「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」 「このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」 私たちの大祭司イエス・キリストは、動物ではなく、ご自身を生贄として神に捧げて下さったお方なのです。これらのことをどう考えたら良いのでしょうか。どう受け止めたら良いのでしょうか。 神様は、たった独りの子を私たちに与えて下さった。独り子イエス・キリストは、たった一つの命を犠牲として捧げて下さった。誰にですか?「私に」です。皆さんお一人一人にです。私は、そんな価値があるのでしょうか?皆さんは、どうなんでしょうか?神様からたった独りの子供を死に渡してまでも必要とされる人間なのでしょうか?イエス様が、死ぬほどに悲しいと言いつつもだえ苦しみながら死んでくださるような値打ちがあるのでしょうか?どうなんでしょう?小羊一匹の犠牲ならまだ気が楽です。でも、神の独り子の犠牲など、どう考えたってあり得ないことです。 世間では費用対効果という言葉があります。これだけの費用をかけて効果はどれ位かを計算して、費用をかけるだけの価値があるかどうかを慎重に判断するのです。これは大事なことです。そういう観点から言うと、私たちはどうなんでしょうか? 聖餐 中渋谷教会では、夕礼拝も朝と全く同じ内容で守っていますが、聖餐式の時に司式長老が皆さんに配餐を終えた後に、私から聖餐を受け取ります。その時も私はその一人に向けて、「これはわたしたちの為に裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心の中にキリストを味わうべきであります」と読みます。ある日、その日が司式当番であった長老が、「夕礼拝の中で、自分ひとりに向けて『あなたのために』と言われると、やはりドキッとする」と言われました。私も心から同感しました。 「わたしのために、キリストが、大祭司としてのキリストが、他の犠牲ではなく、ご自身を生贄として捧げて下さった。」そして、その方の肉と血を頂く。私の罪が赦され、新しく生かされるための命の糧として頂く。神は、そのようにまでして、私を愛してくださっている。どう考えたって、私にそんな価値があるわけがない。命に勝る価値あるものはありません。しかし、その命を投資して下さった神がいる、キリストがいる。今も生きて愛してくださっている。その動かしようのない事実の中で、私たちは現にこうして生かされているのです。その神の子の命という投資に見合う効果などまだほとんど出ていません。でも、私たちは、今日もこうしてご自身を捧げて下さったキリストを礼拝している。キリストを与えてくださった父なる神を礼拝している。聖霊の注ぎの中で礼拝をしている。そして、今日も命の御言、命の霊を与えられ、再来週の召天者記念礼拝では、生きていれば、また聖餐に与るのです。これもまた動かしようのない事実です。この事実は、まさに恵みとして与えられた贈り物以外の何物でもありません。どんなに感謝しても、賛美してもし切れないものです。 礼拝 先日、『対話としての説教』という講演を聴きました。ドイツの神学者によるものでしたが、私はとても感銘を受けました。その方は、説教者は何よりも罪人として聖書を読む。そして、神が独り子を通して自分の罪を赦してくださっているという福音に触れて驚きと喜びが沸き起こる。その驚きと喜びを語ることが説教であるということを語っていました。そして、その福音は聖霊によってのみ知らされるのだ、と。聖霊によって、説教者は聖書を通して神と対話し、説教を通して神が集めた会衆は神と対話する。そして、自分のようなものに与えられている贈り物が何であるかを知り、思わず感謝と讃美を献げるのです。ですから礼拝そのものが神様との対話的構造を持っているのです。 これから私は皆さんを代表して神様に感謝の祈りを捧げます。神様から与えられた福音に感謝して神様に語りかけるのです。そして私たちは讃美を捧げます。そして使徒信条によって信仰告白を捧げ、献金を通してこの身を捧げるのです。キリストがあの十字架の上にご自身を捧げて下さった愛に応えて、私たちも己が十字架を負ってキリストに従って歩むことを誓うのです。パウロの言葉によれば、悪意と邪悪のパン種を用いることなく、純粋な真実のパン種、つまり、信仰と希望と愛をもって生きていくことを約束するのです。そして、頌栄を通して三位一体の神を賛美し、神様からの祝福を受け、この世における一週間の歩みに派遣される。 礼拝から押し出される信仰生活 パウロは、この神様との対話である礼拝から始まる私たちキリスト者の歩みに関して、こういうことを言っています。 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」 ヤコブは、まさにこの世に倣った生き方しかしてこなかった人物です。悪意を持ち、策略を用い、人を尊敬するどころか馬鹿にし、利益を求めて敵を作り、戦い、勝ったり負けたりを繰り返していた人物です。しかし、その彼が少しずつ変えられているのです。真実のパンを与えられていく。神の存在を知り、神の働きを知り、そして神を礼拝することを覚え始め、そして神と和解し、人と和解することを覚え始めているのです。この後、彼は、彼が作った最大の敵であり、彼を殺そうとしている兄のエサウと対面するという出来事に向かっていきます。そして、そのために彼は、神と対面し、対決しなければなりません。そういう神様との交わり、対話を通して、彼はこれからも少しずつ変えられていきます。神の祝福をこの世にもたらすために派遣される人間に造り替えられていくのです。私たちも同じです。現状は目を覆いたくなるような惨めなものであるかもしれません。でも、それでも神は愛してくれるのです。キリストは、私たちのために肉を裂いてくださったのです。そして、今も天にあってはとりなしの祈りを捧げて下さり、地にあっては御言と聖霊をもって、そして聖餐の食卓を通して養い導いてくださっています。それは事実です。この事実だけが私たちの希望です。この事実を信じる。ただそれだけを神様は望んでおられるのです。そして、それが神様の望みだから、私たちも希望があります。 信仰のないわたしをお助けください 昨日、説教の準備をしている午後、教会員のSさんが召されたことをご遺族から知らされました。八六歳の方です。もう時間ですが、少しSさんのことを語らせてください。 私が赴任した八年前には既に青梅の老人ホームに長く入っておられましたし、それ以前も、病院の看護士をしておられた関係もあり、礼拝に来られることはあまりなかったようですから、Sさんをご存知の方はほとんどおられないと思います。しかし、そのSさんのご要望で、私たちの教会は電話礼拝のシステムを整えたのです。その恩恵に与っている方は何人もおられますし、これからもおられるでしょう。Sさんは献体をされているので、今日の午後には病院の車が来てご遺体を運ぶということで、今朝、八時に青梅の老人ホームでご遺体を前にしてご遺族と共に小さな礼拝の時をもちました。独身でいらしたので、三人の甥子さんたちのご都合に合わせて後日告別式をすることになります。私は、つい先月に敬老のお祝いをもって伺い、「またクリスマスに来ますね」と言い、「待っています」とおっしゃってくださったのが最後となりました。 昨晩、説教の第一稿を書き終えた時に、Sさんの教会員原簿を見ましたら、愛唱聖句はマルコによる福音書九章二四節でした。その御言を今朝、ご遺体を前にして読みました。それは重い障害を持った息子の父親が、主イエスに癒しを願う場面です。父親は言います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」イエス様はそれに対して、こうおっしゃいました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」すると、父親はこう叫ぶのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 この父親の叫び、それがSさんの心の中にある言葉です。 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 そして、原簿の中にもう一つ言葉が記されていました。これはSさん自身が書いたものなのか、また聖書の言葉なのかどうかも私には分かりませんが、こういう言葉です。 「いかに幸いなる、我が務めや、悩みにも望みあり、 主よ、御旨にかなわば、明日もつくさん。」 看護士としてのお働きのことをおっしゃっているのか、信仰に生きようとする人間の人生のことをおっしゃっているのか、分かりません。ただ、「悩みにも望みあり」とは、私は、私たち信仰者に与えられた恵みの事実だと思います。 Sさんは数年前に脳梗塞を煩い、ただでさえ不自由だったのに、完全に寝たきりになってしまいました。ここ数年は、私がお訪ねしても、意識が混濁している時も何回かありました。私が聖書の話をしても、そんなこと信じないという感じでおられることもありました。無理もないことだと思うのです。私たちは順境の時は神を忘れ、逆境の時は神を恨むものです。そういう不信仰が絶えず付き纏うのです。 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 この父親の叫びは、私たちの叫びだし、Sさんの叫びだったと思います。でも、そういう不信仰な私たちの叫びを聞き、生贄となり、天において執り成し祈り、御救いへと導いてくださる主イエス・キリストがおられる。その方が「わたしを信じなさい。不信仰のまま信じなさい」と語りかけてくださっている。ただそこにのみ不信仰を抱え持つ私たちの望みがあるのだと思います。「悩みの日にも望みあり。」これが主を知っていく人間、主を礼拝する人間の現実です。ヤコブもその望みを生きましたし、パウロもそうです。ペトロもそうです。そして、私たちもそうなのです。 |