「兄の顔を見るとは」

及川 信

創世記 32章 2節〜22節

 

ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。
ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。
ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。」
使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。
エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。
ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。
それを群れごとに分け、召し使いたちの手に渡して言った。「群れと群れとの間に距離を置き、わたしの先に立って行きなさい。」また、先頭を行く者には次のように命じた。「兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」
ヤコブは、二番目の者にも、三番目の者にも、群れの後について行くすべての者に命じて言った。「エサウに出会ったら、これと同じことを述べ、『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。」ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。


 ヤコブ物語は今日の箇所からまた本筋に戻ってきます。ヤコブはアブラハム、イサクに与えられた神の約束と祝福を継ぐ者ですから、神様の命令によって故郷に帰る決断をします。しかし、彼の決断の深みにおいては神の命令がありますけれども、ラバンの下にいる限りいつまで経っても一家を成すことが出来ないという現実的理由もあり、彼は彼として限界を感じていたことは事実です。そういう人間の思惑と神様の救いの計画が分かち難く結びつきつつこの物語は進展していきます。ヤコブとラバンは、とにもかくにも平和的に別れました。今日はその続きです。

  神の使い ヤコブの使い

ヤコブは、故郷を目指して旅立ちました。その時、「突然、神の使いたちが現れた」のです。神の使いが何かを語るわけでもないのですが、この出来事が、今日の箇所を決定することは事実です。ヤコブは、その「二組の陣営」として現れた神の使いたちを見て、故郷への帰還は確かに神の命令に基づくものであり、そうである限りにおいて神の守りを期待できると確信したと思います。
 神の使いを見た彼は、エドムの地にいる兄エサウのもとに使いを遣わします。

お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、 牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。」

彼は、兄のエサウを「わたしの主人」と呼び、自分を兄の「僕」と呼んでいます。ヤコブは、若き日にあこぎな手段で長子の特権を兄から奪い取り、その後は母と共謀して父イサクからの祝福を騙し取りました。そのことの故に、エサウはヤコブを憎み、父が死んだ暁には、ヤコブを殺すことを決意したのです。人間につけられた心の傷は、心からの謝罪をされない限り、二十年位では少しも癒えるものではありません。今、ヤコブはそのことをよく知っています。しかし、その心に深い傷を負ったエサウとの再会を無事に終わらせなければ、彼は故郷に安住することが出来ないことをも知っている。だから、彼は考え得る限りの手段を用いて、エサウとの面会に備えようとしているのです。そして、使いを遣わして、エサウの状況を探ると共に、自分が相当な財産を持っていることを伝えさせます。
しかし、使者の報告は、ヤコブの想定の範囲を超えていました。なんと、エサウは四百人を引き連れてやって来るというのです。四百人というのは、この当時の軍隊の一部隊の数です。つまり、エサウは軍勢を率いてやってくるのです。つい先程は、ラバンが一族郎党を引き連れてヤコブを追撃してきたのですが、今度は兄エサウが一部隊を率いて迎撃しようとしている。ヤコブの人生は、すべて自分が蒔いた種とは言え、一難去ってまた一難というものです。
彼は使者の報告を聞いて、非常に恐れ、思い悩みます。そして、先ほど二つの陣営で現れてくださった神の使いの陣営に倣って、連れて来た人々と家畜の群れを二組に分けます。一組がエサウの攻撃で奪い取られてしまっても他の一組は助かるように考えたのです。こういう所がどこまでもヤコブなのですけれど、ここで私は、「ああ、彼も変わったな」と思いました。

祈るヤコブ

何故かと言うと、この時、ヤコブは祈るからです。ヤコブが祈る。こんなことはこれまで一度もありません。前回の場面では、彼は生贄を捧げる礼拝をしていますが、彼の祈りの言葉は記されていません。彼は今、人知を尽くした上で、神様に救いを求めて祈ります。生まれて初めて真剣に祈ったのではないでしょうか。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。

彼は、ここではっきりと「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ」と呼びかけます。ヤコブ物語はヤコブが次第次第に主なる神を知っていく物語であると言って来ましたが、そのことがここで明確に現れています。彼はここで、先祖の神が自分の神であり、その方の名が「主」であることをはっきりと自覚し、その方の名を呼んで祈っています。「神様、神様」と言っても、多くの日本人にとっての「神」は実に漠然としたものです。得体の知れない何物かが神様なのです。ヤコブやラバンの許で結婚した妻たちや連れて来た人々の神もまた、同様でした。しかし、今、ヤコブだけは「アブラハムの神、イサクの神、主」こそが、少なくとも自分にとっては唯一の神であることを知らされています。ただこの神様だけが、自分に語りかけ、自分を導き、そして守ってくださる方であると信じている。そのことがこの呼びかけから分かることです。
その上で、彼は神様の命令と約束に訴えます。「故郷に帰れと命じたのは、あなたですよね。幸いを与えると約束してくださったのは、あなたですよね」と。そして、神様が示してくださった「慈しみとまこと」に対する感謝を捧げます。「一本の杖しか持っていなかった者を今や二組の陣営を持つまでにして下ったのは、あなたです」と。彼は最早、自分の才覚でここまでのし上がってきたとは思っていません。惨めな自分を慈しみ愛し続けてくださった神様の真実の故に、今の自分があることを知っています。だからこそ、彼は正直に、腹の底から懇願するのです。
「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。」
 ヤコブらしくない言葉です。しかし、ヤコブは、無骨な兄エサウが怒りに任せて自分だけでなく、この際、自分と共謀して祝福を盗んだ母リベカも、また子供たちもすべて殺すかもしれないと恐れているのです。それはつまり、彼が兄エサウに対してやったことは、それほどに酷いことであると彼が自覚をしているということでもあります。
 そして、最後に、これは如何にも彼らしいと思うのですが、神様に約束の実現を迫ります。
「あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数え切れないほど多くする』と。」



 彼にとっては、もうこの約束を与えてくださった神様に頼るほかありません。しかし、ここが彼の偉いところと言うか、日本人的な潔さから言えばいやらしいところと言えるのかもしれませんが、彼はこう祈った後に全財産の中から相当な分をエサウへの贈り物とし、それを三つのグループに分けて、それぞれに距離を置いて、彼の前に歩ませようとします。そして、その一つ一つの群れを率いる者がエサウに会った時にはこう言う様に命じます。

「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、ご主人様のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります。」

 「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。こうして、贈り物を先に行かせた」
のです。実は、原文では何度も「顔」という言葉が使われています。直訳すると、「わたしは私の顔の前を行くこの贈り物で彼の顔を覆おう。そして、その後で彼の顔を見よう。もしかしたら、彼は私の顔を上げるかもしれない。そして、その贈り物が彼の顔の前を通って行った」となります。
 「顔」という言葉は、三二章二三節以下から三三章にかけて一つのキーワードになりますから覚えておいて頂きたいのですが、ヤコブにとってエサウの顔を見ること、つまり面会することが、どれ程大事なことであり、そして恐ろしいことであったかが、この言葉から分かります。彼にしてみると、彼の顔の前を通り過ぎる贈り物は、エサウと会うためにどうしても必要なものなのです。この贈り物によってエサウを宥めること(これは「彼の顔を覆ってしまう」という意味ですが)が出来れば、エサウはひれ伏しながら近づいてくるヤコブの顔を上げてくれるかもしれない。もしそうなれば、その時、ヤコブは救われます。ですから、彼の顔の前を通り過ぎ、エサウの顔を覆う贈り物は、ヤコブがエサウの顔を見るという救いのためにはどうしても必要なものです。
 先ほど、ヤコブは主に向かって「兄エサウの手から救ってください」と祈りました。この「救う」という言葉は、ラバンの許から立ち去る時にヤコブが妻たちに「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ」と言った時の「取り上げる」と同じ言葉です。神様がラバンから取り上げた財産は、実はヤコブが兄エサウの顔を見るために、つまりヤコブの救いにとってどうしても必要なものだったのです。こういうところにも人間の思惑とその思惑をはるかに越える神様の救いのご計画が緊密に結びついている現実を見ることが出来るのではないでしょうか。

 顔を覆う 宥め 贖い

 そこで、さらに範囲を広げて神様の救いのご計画について見て行きたいと思います。「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく彼の顔を上げてくれるだろうと思った」とあります。この「なだめる」という言葉は、「覆う」という意味があると言いました。直訳すれば「贈り物でエサウの顔を覆ってしまう」ということです。この言葉は、多くの場合、神様に対して罪を償う賠償金の意味だったり、罪を贖うという意味で使われます。罪を犯した人間は、その罪を償わない限り、神様の前で顔を上げることは出来ません。そして、神様の前で顔を上げ得ないということは、人が人として生きることが出来ないということです。神様の被造物として、神様に鼻から命の息を吹きいれられ、神様と息を合わせて生きるべく創造された人間として生きることが出来ないということなのです。罪人の状態とは、そういう息苦しさを抱え持った状態であるということです。大抵は、そういう状態しか知らないので、それが息苦しい状態であることも分からないだけです。都心に住んでいる私たちが高原に行くと、普段吸っている空気が如何に濁ったものであるかが分かります。そして、高原で肺一杯に空気を吸い込んで生き返った気分を味わうのです。そういう罪人の状態から、元来の人間の命を回復するためには、その罪が贖われなければならない、何らかの献げ物を通して償われなければならない。そのことを通して、私たちは再び神様と息を合わせて生きることが出来るのです。「なだめる」という言葉は、そういう形で旧約聖書の中でしばしば使われます。

慈しみとまこと

 そして、旧約聖書の特に詩編を読んでいるとしばしば出てくる言葉は、ヤコブの祈りの中に出てくる「慈しみとまこと」という言葉です。ここではそれが複数形となって「すべての慈しみとまこと」と強調されているのですが「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です」と、この時のヤコブは心底から思っている。彼は、その「慈しみとまこと」を与えて頂かなければ、今までも生きてくることは出来なかったし、これからは尚更生きていくことが出来ない、そういう思いの中にいるのです。
 この言葉は、どういう時に使われているのか、その一例を挙げると詩編二五編にこういう言葉があります。

「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
私の神よ、あなたに依り頼みます。
・・・・・
わたしの若いときの背きは思い起こさず
慈しみ深く、御恵みのために
主よ、わたしを御心に留めてください。
・・・・
主の道はすべて、慈しみとまこと。
主よ、あなたの御名のために
罪深いわたしをお赦しください。」


 この詩人は、若き日の罪の数々を主の光の前に見させられています。しかし、どうかその罪の数々を思い起こさないでください、と頼んでいる。実に虫がいい話なのです。でも、はっきり言いますが、「信仰」というのはそういうものなのです。全く虫のよいことを神様に願うことなのです。そんなことを願うことが出来る根拠は、私たちのあつかましさにあるのではなく、主は恵み深く正しいお方であり、その道は「慈しみとまこと」であることにあります。その「主の道はすべて慈しみとまこと」であるが故に、そのことを信じるが故に、彼は「罪深いわたしをお赦しください」と願うのです。ヤコブ物語の言葉を使えば、「どうかあなたの顔を覆ってわたしの罪をみないで下さい。そして、私の顔を上げて下さい」ということですし、「私を救ってください」ということです。しかし、罪の赦しのためには、贖いが必要、罪の償いが必要なのです。
 ヤコブは、この時、元々は神様がラバンから取り上げて下さった財産をエサウへの贈り物として差し出すことでエサウに対する罪を償おうとしています。しかし、神様に対しては、ただ「慈しみとまこと」を願うしかない、祈りを捧げるしかないのです。その「慈しみとまこと」の故に、「罪深いわたしをお赦しください」と願うほかにないのです。そして、その願いは、次回ご一緒に読むことになる二三節以下の実に不思議な出来事を通して与えられます。この箇所は、人への償いと神への償いが分かち難く結びついている箇所なのです。

恵みと真理

その現実を見ることは次回にしますが、今日も私たちは新約聖書の言葉に耳を傾けなければならいと思います。前回の説教でも、旧約聖書と新約聖書というのは神への信仰を同じくしつつも決定的に違う、その違いは、旧約聖書では人間が神に生贄を捧げていたのに対して、新約聖書では神様がご自身の子を生贄として捧げてくださっているということにあると言いました。今日もまた、同じことを語ることになります。
今日の箇所に出てくる「慈しみとまこと」という言葉は、私たちが礼拝で用いている新約聖書においては、「恵みと真理」と訳されています。「恵み」とか「真理」という言葉が単独で出てくるところは沢山ありますけれど、「恵みと真理」と合わさって出てくる所はひょっとしたら一箇所だけかもしれません。それはヨハネ福音書の一章一四節以下です。そこは、初めからあった言、神としての言、万物がこれによって創造されたという言、命としての言、人間を照らす光としての言が、人間と同じ肉体をもって私たちの世に宿られたことを告げる箇所です。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 この言、独り子である神イエス・キリスト、この神に遣わされた方が「恵みと真理」に満ちている方なのです。それは、どういう意味かと言えば、その直前を読むと分かります。

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

   この独り子なる神は、ご自分が愛をもって創造された民の所に来たのに、その民は自分の創造主を拒絶したのです。子が産みの親を拒絶するようなものです。その時、子は子として生きていくことは出来ません。それと同じく、神を拒絶する人間は人間として生きていくことが出来ないのです。神様の顔を見つつ神様と息を合わせて生きていくことが出来ないからです。しかし、この神の独り子は、ご自身を拒絶する民のために肉を取り、その肉が裂かれ、血が流されるという処罰を受けて下さったお方なのです。神を拒絶する人間の罪に対する処罰を代わりに受けて下さったのです。そのことを信じる、この方を独り子なる神と信じる、この方を通して、罪人の罪を赦し、新しい命を与えてくださるという神の「恵みと真理」が現れていることを信じる。ただそのことによって、人は神の子として新しい命が与えられるのです。この独り子こそ、神様が私たちのために支払ってくださった賠償金、償いなのです。言ってみれば、神様ご自身が私たちのために独り子イエス・キリストを贈り物として送ってくださり、その贈り物で私たちの罪を覆い隠して下さったのです。私たちは、そのことによって、今は神の子として顔を上げ、神様の御顔を拝することが出来るようにされているのです。
 パウロは、そのことを、彼が書いた手紙の中でこう言っています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

神の選び えこ贔屓


 私は、ヤコブの気持ちがよく分かります。彼は、祈りの中でこう言っています。

「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。」

 ヤコブ、彼は生まれた時から兄のかかとを掴んで出てきた男です。ヤコブという名前の意味は、「地位を騙し取る者」なのです。彼の場合は、まさに名は体を表しています。彼は若き日から兄を欺き、父を騙して生きてきた人間です。しかし、神様はその彼を母の胎にいる時から選んでいました。そして、その選びは変わらなかったのです。彼がどんなにあこぎな生き方をしていても、神様は、ヤコブを愛してきました。その愛は、彼を絶えず幸福の内に生かすということではありません。彼は、自分が蒔いた種を刈り取らねばなりませんでした。騙し取った長子の特権も、祝福もすべて失う形で杖一本だけをもって逃亡しなければならなかったのはヤコブですし、ラバンのもとで二十年間も苦しい生活をしなければなりませんでした。そして、今も若き日の罪の故に、不安と恐怖のどん底に叩き落されているのです。しかし、神はずる賢いヤコブ、そのことの故に苦労に苦労を重ねるヤコブをいつでも見守り、十一人の息子を与え、二つの陣営を持つほどに豊かにし、そして、時に応じて語りかけ、励まし、慰め、新しい出発を与えてくださったのです。裁きつつ赦して下さっているのです。ヤコブは今、その神の存在と愛を固く信じています。その彼が今、心底求めているもの、心底必要としているもの、それはこの世的な幸福、富や地位ではありません。罪の赦しです。神様に罪を赦して頂くことです。そのこと抜きに彼は故郷に帰ることが出来ない。エサウに会うことが出来ないからです。
しかし、自分のこれまでの歩みを考えると、そんなこと恥ずかしくて願うことなど出来ない。神様が自分を選び、愛してくださっていたことを、彼はつい最近知ったのです。これまでは、ただひたすらに自分の悪知恵に頼って策略によって生きてきたのです。そんな自分が今更、神様に「慈しみとまことを下さい。若き日の罪を思い出さず、恵みと真理の故に罪を赦して下さい」なんて言えない。そういう思いがあったでしょう。でも、だからこそ、彼は主なる神様の「慈しみとまこと」に縋るほかにないのです。自分を選んでくださった神様のご計画を変えないで下さい、と。平たく言えば、これはえこ贔屓の愛を与えてくださいという、虫がいい願いなのです。

神様の不思議な愛

 私たちは往々にして、神様は平等にすべての人を愛していると考えます。そして、神様はそうであるべきだとも考えます。でも、現実は不平等、不公平に満ち満ちている。ある人は何故か順風満帆の人生を生きており、ある人は生まれた時から苦難に満ち満ちた人生を生きて、死ぬ時も惨めこの上ない死を迎える。この世は、そういう現実に満ち溢れています。その現実を、私たちはどう考えたら良いのか分かりません。
先日、ある神学者が無神論者と対話した時の内容の一部を語っている文章を読みましたが、無神論になる人の多くは、「神がいるとしたら、その神はあまりに不平等であり不公平であり、そして無力である。そんな神を信じる人は愚かだ」と考えます。これもまた実に幼稚ではあるけれども、説得的でもあります。私も理屈としては真っ向から反論しようとは思いません。
 しかし、皆さんもそうだと思うのですが、皆さんのことは分からないので私のことを話しますが、私は理屈として神様がいると思うから神様を信じているのではありません。イエス・キリストと出会ってしまったから信じているのです。出会いは、自分の思いを越えています。人との出会いであれ、神との出会いであれ、私たちは出会いたくて出会うわけではありません。出会いたいと思う時に出会いたいと思う人や神とうまく出会えるなんてことは決してありません。出会いはいつも唐突です。時には出会っていることすらその時は分からないものです。後から、あの時に既に出会っていたんだ、と分かる。そういう場合が多いのかもしれません。そして、それが分かった時に信じるのです。出会ってもいない者を信じることは「鰯の頭も信心から」というのと同じです。
 私が出会ったイエス・キリストを通して示された神は、明らかに私を母の胎の中にいる時から信仰者として、また牧師になるべく選ばれた神です。私が何をしようと、また何をされようと、私を愛してくださっている神です。
私は、これまでに二度、「お前は神様にえこ贔屓をされている」と人から言われたことがあります。若い頃、自分の罪が切っ掛けですが、人から激しく裏切られ、傷つけられ、どうしても赦すことが出来ず、どうやって生きていったらよいか分からぬ時がありました。その時、意外にも、ある人から「お前は神様にえこ贔屓されている。特別に愛されている」と言われました。その人によれば、私が味わっている苦しみは、牧師になる人間が味わうべき苦しみだからだ、ということでした。「世の中には、愛する人に裏切られ、どうすることも出来ないほど苦しむ人が沢山おり、教会にもそういう人が来る。そういう人の話を聞き、そしてそういう人に説教をするのだから、お前の苦しみは、牧師として選ばれた人間の苦しみであり、お前が愛されている証拠だ、羨ましいくらいだ」と、その人は言いました。
 二番目は、その牧師になって以後のことですが、自分自身が人を裏切り、神様を汚す罪を犯した時です。モーセの律法によれば直ちに神の裁きにあって滅ぼされてもおかしくない、いや滅ぼされるべき罪を犯した時、自分ではどうすることも出来ませんでした。信仰者としても、牧師としても、これ以上やっていけないという茫然自失という状態の中で、まったく虫のよい話なのですが、なんとかこの罪を赦していただけないだろうかと漠然と祈り続ける他にありませんでした。私に神の声が聞こえたわけではありません。でも、神様は私を新しく用いる道を示してくださいました。裁きつつ赦して下さいました。その時、「お前はどういうわけか、神様にえこ贔屓をされている。何故、神様がお前を裁かないのか分からない」とある人に言われました。自分でも本当にそう思います。
 何故、このように愛されているのか?その理由は分かりません。ただ、事実がそうだから、そうだと思うほかにないのです。パウロは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」と言っており、ヨハネは、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と証言しています。私において、このことは疑いようもない事実です。洗礼を受けて信仰者となり、今日もこうして礼拝に集まっている皆さんも、きっと自分の人生を顧みた時に、この御言はまさに真理であることを感謝と喜びをもって承認なさると思います。私たちは皆、この神様の「恵みと真理」「慈しみとまこと」を受けるに足りない存在だし、道義的に考えれば受けてはならない人だっているはずです。誰だって、神の独り子の命という比類のない贖いを受けるような価値などないのです。でも、神様は何故か決めておられるのです。「わたしはお前に恵みと真理を与える」と。この神様の決意、秘められた救いのご計画、これが私たちの思惑、策略、悪知恵による罪の数々をはるかに上回っているからこそ、私たちは今日もこうして神様を賛美する礼拝に集っているのです。呼び集められているのです。こんな幸いなことが他にあるでしょうか。
 ヤコブは祈りの中で二度もこう言っています。
「主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。」
「あなたはかつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数え切れないほど多くする』と。」


 私たちが帰るように促されている故郷、それは天です。神の家(ベテル)としての教会はその天に至る門なのです。私たちは、罪によって故郷を失った者なのに、イエス・キリストにおいて現れた神の慈しみとまことの故に罪を赦されて、こうして天を目指して歩む者とされている。こんな幸いなことがあるでしょうか。この幸いを与えてくださる。それが神の恵み、神の真理です。その恵みと真理を与えられている私たちは、ただただイエス・キリストにおいて現れた神様の栄光を現す者として歩む他ありません。罪を赦された罪人、罪を増し加えつつ、それを上回る恵みの中に生かされている罪人として、神様を賛美し、祈りつつ歩む他にないのです。その私たちの歩みを通して、イエス・キリストを信じて神の子となる人の数は確実に増えていくのですから。

聖なる御父
御名を崇めます。あなたは今日も私たちを顧み、イエス・キリストを通して私たちの罪を赦し、あなたに向けて顔を上げさせてくださいました。今日も、私たちの帰るべき故郷を示し、帰りなさいと招いてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じて帰ります。ただ、あなたの独り子イエス・キリストを通して示された恵みと真理の故に帰ることが出来ます。感謝します。神様、これから始まるバザー、またその後の一週間の歩みをお守りください。すべてを通して、あなたの栄光を現していくことが出来ますように。主の御名によって祈ります。アーメン

創世記説教目次へ
礼拝案内へ