「神の顔を見るとは」

及川 信

創世記 32章23節〜33節

 

その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

ヤコブ物語の二重性


 ヤコブ物語は今日の箇所で一つのクライマックスを迎えます。先週は、「兄の顔を見るとは」という題で語らせていただきました。今日は、「神の顔を見るとは」です。ヤコブにとっては双子の兄エサウの顔を見る、つまり面会することと、神の顔を見る、神と面会することの両方が緊密な関係を持っているのです。
ヤコブは、二十年以上前に決して癒えることのない傷をエサウに負わせてしまいました。そして今も、エサウの憎しみは少しも消えておらず、場合によってはヤコブを殺し、家族さえも殺すかもしれない勢いでヤコブを迎えにきているのです。ヤコブは、そういうエサウと会わねばならない。それはヤコブにとっては恐怖以外の何ものでもありませんでした。だからこそ、彼はエサウへの贈り物をどのようにして届けたらよいかに細心の注意を払いました。しかし、その一方で、彼は神様に祈り、その「慈しみとまこと」を求め、かつて約束してくださったとおり「幸い」を与えてくださるように求めました。その両方のことが、バラバラのことではなく、一つのことなのです。そして、今日の箇所は、エサウとの面会に先立つ、神様との面会、神様の顔を見ることに関係し、次週はエサウとの面会の場面となります。
 そういう一連の物語を読む上で、私たちが気をつけていなければならないのは、この物語の二重性です。今読んでいるところでも神と会うことと人と会うという二つのことが緊密に結びついています。そして、今日も出てくる「祝福」という言葉にもその二重性があります。「祝福」が意味するところの一つは極めて物質的なものです。財産であるとか健康であるとか生活の安泰などです。かつてのヤコブが神をも畏れぬ仕方で父イサクから騙し取った祝福にはそういう要素が多くあります。しかし、「祝福」は罪に対する呪いとは正反対のものですから、元来は罪の赦しであり神の愛を意味します。ヤコブの祖父であるアブラハムに神様が与えた「祝福」には、土地と子孫を与えるという要素がありますけれど、何よりもアダムとエバ以来の罪に対する赦しがあり、新しい人生、新しい世界を創造するという要素こそが本質的なものです。今日の箇所に出てくる「祝福」は、そちらの面が強いもので、来週の箇所に出てくる、ヤコブがエサウに差し出す「贈り物」は、原文では「祝福」と書かれているのですけれど、それは物質的な要素が強いものなのです。そういう二重性がこの物語の至る所に出てきます。
 そして、そういう二重性が出てくる場面の中で最も面白い、つまり、難解なのが今日の箇所だと言ってよいと思います。この箇所は、私の特愛の箇所の一つですけれど、何度読み、何度語っても、掴み切れない箇所です。だから、何度でも読んでは味わい、語ることが出来るのですが、今日も汲めども尽きないこの箇所から示されることのほんの一端を語らせていただきます。
そして今日は、「聖徒の日」と定められた日であり、中渋谷教会では召天者記念礼拝として礼拝を捧げる日ですから、そのことをも意識しつつ御言の語りかけに耳を澄ませ、またこの場面に目を凝らしていきたいと思います。

元来の物語からの変遷

 今ご一緒にお読みして、皆さんもこの箇所から何とも言えない不思議な印象をお受けになったと思います。そもそもここでヤコブと格闘する存在は人なのか神なのかが分からない。そして、どちらが勝ったのか分からない。そして、何が語られているのかがよく分かりません。 そこで、この三二章二三節以下が元来はどのような物語で、それがヤコブ物語の中に入れられると、どういう意味を持つことになるかについて少し見ておきたいと思います。
創世記の族長物語は、各地に残っているアブラハム、イサク、ヤコブの様々な伝承が何世代にもわたる歴史の中で組み合わされていって次第に壮大な物語になっていったと思うのですが、その一つ一つの伝承の中にはその地域特有の民間伝承もあったと思います。古代人にとって川というのは、生活にとって不可欠なものですけれども、同時に危険なものであったことは言うまでもありません。治水事業が進んでいる現在の日本だって大雨が降れば洪水が起こって川沿いの家が流されてしまうということがよくあります。まして治水事業などされていない時代や地域の人々にとっては、川は自然の恩恵を与えてくれるものであると同時に自然の恐ろしさを知らせるものです。また、日本でも河童伝説があり、その川を渡ろうとする者と相撲を取ったり、足を滑らせて溺れさせたりという話が各地にあります。そういう伝説は世界各地にあるのです。この「ヤボクの渡し」と呼ばれる所は渓谷に挟まれた急流地帯のようですが、川幅が狭いので人はそこを渡る。そういう危険な場所には、川から精霊が現れて人を妨害するという話が生まれるものです。ユーフラテス川沿岸のハランの地からはるばる故郷目指して帰ってきたヤコブは、その故郷に入るために、この川を渡らなければならなかったのです。
日本では冥土に辿り付く前に「三途の川」というものを渡らねばならず、その川の渡し舟を漕ぐ船頭さんにお金を払わないと上手く渡れないということで、棺桶に小銭を入れる習慣があります。私の前任地の松本では、ほとんど葬式のたびに、キリスト者ではないご親族から、「棺桶に金を入れないで平気なのか?」と尋ねられ、「平気ですよ。イエス様が道となって天国に連れて行ってくださるんだから」と答えるのですが、どうも私の見ていない所で入れていた節があります。それだけ、川を渡るということに対する恐怖が人間にはあるのだと思います。
そして、ヤコブの場合、その恐怖は、若き日に手ひどく騙した兄エサウと会わねばならぬという恐怖と重なります。彼との面会を無事に済ませない限り、彼は故郷に入り、安心して住むことが出来ないのです。そのために、棺桶に入れる小銭ではありませんが、莫大な財産をエサウへの贈り物として用意している。しかし、それだけでは根本的な解決にはなりません。三途の川を渡ったとしても、極楽浄土と地獄を自由に行き来できる閻魔様によって地獄に落とされてしまうかもしれないという恐怖があるように、ヤコブも目の前の川を渡り、贈り物によってエサウの怒りを和らげることが出来たとしても、彼が本当に恐れているのは神様なのです。彼が、母リベカの勧めによって父イサクから祝福を騙し取る時、彼はリベカに「そんなことをしたら、反対に呪いを受けてしまいます」と言って神様から呪われることを恐れていました。しかし、結局、祝福が欲しい、それも物質的な祝福が欲しくて、彼がイサクを騙す時に使った決め台詞は「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったのです」という言葉でした。それは、イサクを騙しただけではなく、実はもっと深い所で、自分の欲望の実現のために神の名を利用したということです。彼の心の中には、そのことがずっと一つの重しのようにあったと思います。兄を騙し、父を騙し、そして神の名前を利用しつつ生きてきた自分。しかし、そういう自分を絶えず見守り、必要に応じて助け、「慈しみとまこと」を示して来てくださった神。その神様との真実の和解抜きに、彼は「約束の地」である故郷に入ることは出来ない。本質は、そこにあるのだと思うのです。その本質とエサウとの和解が、分かち難く結びついている。現在の物語の形では、そういうことになっていると思います。川にまつわる民間伝承や伝説、人間が心の奥底に抱え持っている得体の知れない存在に対する恐怖が、壮大なヤコブ物語の中に組み入れられる時に、物語は元来のもとはかなりその趣を異にするものになるのです。

川での格闘

次に文脈に沿って読んで行きたいと思います。彼は、真夜中に起きて、家族を初めハランの地から持ってきたすべての財産を導いて川を渡ります。軍隊でも何でも川を渡っている時に攻撃をされればひとたまりもありませんから、エサウが到着する前に夜陰に乗じて川を渡らせたのだと思います。しかし、そこでヤコブは家族や財産を先にいかせて、彼だけは川のほとりに残りました。

「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」

 「何者か」とは原文では「一人の人」と書かれています。「人」と言ったって化け物みたいな人だっていますけれど、とにかくこれは恐ろしい光景です。真夜中の川のほとりでいきなり人が現れて取っ組み合いをしかけてくるのですから。私だったら、事態をつかめずに、「何するんですか、止めて下さい」と言いつつ、とにかくここは「私が悪かった、謝ります」とか言って取っ組み合いはやめて、隙があったら逃げたいと思うのですが、ヤコブは流石です。見も知らぬ相手がいきなり無言で掴みかかってきても、ちゃんと相手をするのです。リベカのお腹にいた時から兄のエサウと殴り合っていただけのことはあります。人と争うことが無性に好きな人というのはいますが、彼はそういう人です。そして、彼は兄の踵を掴んだままお腹から出てきた人ですから、とにかく掴んだら離さないのです。手に入れたいものを得るまでは執拗に追求を続ける。そういう人です。
 それはそれとして分かるのですが、こういう場合、ここで現れる「人」というのは、圧倒的に強い存在のはずです。超人的な力を発揮する存在のはずなのです。そして、確かにこの「人」は、そういう存在でもある。でも、この人はヤコブに勝てないのです。にもかかわらず、彼の関節を外すことはできる。不思議な存在です。この「人」はどうも、明るくなると力を発揮できないようです。こういう所が民間伝承によく見られる要素なのですけれど、ヤコブはその人を何が何でも離さない。彼は「祝福」が欲しいのです。彼は、この人を神、少なくとも神の使いだと信じているからです。その神から、財産とか健康という意味の祝福ではなく、もっと本質的な意味での祝福を与えて欲しい。つまり罪の赦しと、それに伴う新しい命を与えて欲しいのです。彼は、それをもらえるまで決して手を離さない。

人・神からの問い

 そこでこの「人」は問います。

「お前の名前は何というのか。」

  これは本質的な問いです。この場合、これは「お前は何者なのだ」「どういう人間なのだ」という問いだからです。ヤコブは答えます。

「ヤコブです。」

 ヤコブ、この名前は「かかと」を表すアケブから来ていますけれど、先週も言いましたように、「地位を騙し取る者」という意味になっているのです。彼の場合は、まさに名は体を表しています。彼はイサクから祝福も騙し取る時に、神の名すら利用しているのです。それがどんなに罪深いことであるかを、その時は知りませんでしたが、今は知っています。それ故に、彼は今、財産ではない祝福を、真っ向から願い求めているのです。彼がここで自分の名を「ヤコブです」と言う時、それは「私は罪にまみれた人間です」ということを意味します。そういう罪の認識がここにあり、そして、悔い改めがあり、そして、罪の赦しの懇願があります。川のほとりで現れ、彼と格闘するこの人は、あるいは神は、今、そのヤコブの認識、悔い改め、懇願の本気度を確かめているのかもしれません。己の罪深さをどこまで知り、どこまで本気になって悔い改め、どこまで真剣に罪の赦しを求めているのか。そのことを確かめている。そんな気がします。そして、このとき、ヤコブが恐れをもって罪を認識し、本気で悔い改め、真剣に赦しを求めていることを知ったのです。

名をつける 名を知る

 この人はこう言います。

「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。」

 イスラエル、この名前が聖書に出てくるのは、ここが最初です。そして、この言葉もまた実に謎めいているのです。「戦う」とか「争う」はヘブル語でサーラーと言い、子音はSとLです。そしてイスラエルの中に、そのSとLがあり、イスラエルの「エル」とは神のことですから、「神と争う者」とも言えるし、イシャラーは勝つ者の意味なので、「神に勝つ者」とも訳せるようです。しかし、色々調べていくと、「神は争う」という意味だと言われていたり、「神の支配」という意味だと言われていたりします。とにかく謎めいた言葉で、ここもある種の二重性があるのでしょう。
元来、名をつけることが出来るのは、優位に立つ者です。戦争に勝った方が負けた国や地域に新しい名前をつけることは歴史上ずっと行われてきたことです。そういう意味では、ここでも「人」あるいは「神」がヤコブに勝ったわけですけれど、表面的な文脈では勝てないと見て、夜明け前に解放してもらうために、求められている祝福を与えて何とか解放してもらったという形になっている。そちらに重きを置けば、ヤコブが勝ったとも言える。そういうことになります。
また、子に名をつける(呼ぶ)という場合、親が子に名をつけるのであって、その逆ではありません。そして、親が名付ける時は、愛をもって名付けます。名をつけることには、そういう意味もあります。
 しかし逆に、古代社会において人間が神の名を知ることは、その神の力を身に帯びることを意味します。呪術的に神の名を読んで何でも願いごとをすれば、その願いが実現すると考えられていたのです。それが宗教の基本的形でしょう。だから、古代の神々は、いくつもの名前を持っていて人間に知られないようにしている。そういう神話もあります。聖書は、神の力を自分のものにしようとする目的で神の名を呼ぶことを、「神の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の戒めによって禁止しているのです。ここでこの人、あるいは神は、ヤコブの「名を教えて欲しい」という要求に対しては断固として拒絶しています。しかし、彼が本当に求めていた「祝福」は与えるのです。この「祝福を与えられた者。」それがヤコブ、それがイスラエルなのです。そして、そのイスラエルのことをヤコブ自身が、こういう言葉で表現しています。

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている。」

 そう言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けたという逸話が記されています。さらに後代にユダヤ人が動物の腰の筋を食べない理由が付け加えられていたりもしますが、これは本筋とは違う話です。

神の顔を見るとは

 ヤコブ、彼はこの時、肉体的には大きな痛手を蒙ります。彼はこれ以後、生涯、足を引きずりながら歩かなければならなくなります。しかし、彼はこの時、新しい名前を与えられる。それは、神を見るという死の体験を通して新しい命が与えられたことを意味するのです。
 旧約聖書において、罪人である人間は神を見ることは出来ません。それは死を意味するからです。今日の箇所を考える上で、どうしても読んでおかねばならない個所が二つあります。それは創世記に続く出エジプト記ですけれど、モーセがシナイ山で十戒を石の板に刻んでもらっている最中に、山の麓ではイスラエルの民は神が座す台として金の子牛を作るという罪を犯しました。そこでもう一回、モーセは十戒を石の板に刻んでもらうためにシナイ山に登りました。その時、彼は神様に向かってこう願うのです。

「どうか、あなたの栄光をお示しください。」

すると、神様はこうお答になりました。

「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」


 ここには、神様の名前の啓示があります。そして、圧倒的な主権、つまり、「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という自由が宣言されます。愛というのは、この自由のないところに成り立たないからです。神の主権は、完全な自由に根ざすことです。
そして、その神様、罪人としてしか生き得ない人間とは隔絶している神様の顔を見ることは、人間にとっては死を意味するのです。古代社会では、王の顔をまともに見ることは平民には出来ないことですし、日本でも殿様が通る時は、平民は皆、土下座をしていましたし、戦前では天皇だって間近にその顔を見てはいけなかったのではないでしょうか。古今東西を問わず、あまりに隔絶した存在と直に触れることは、それが人間であっても恐ろしいことなのです。まして、この場合は、目に見えない神です。その栄光を見るということは、目がつぶれるどころの話ではありません。この時、シナイ山にはモーセだけが登ることが許され、「山のどこにも人の姿あってはならない」と命じられています。しかし、そのモーセですら、この時は、神の顔を見ることは許されていません。
 しかし、その同じ出エジプト記の中に、極めて例外的なことが記されています。それは、今の出来事よりも前のことで、モーセがシナイ山で「言葉として」十戒を与えられ、またそれに基づく律法(契約の書)を与えられた直後のことです。モーセは山を下りて民全体に「主のすべての言葉」を語り聞かせ、また書き記しました。民は、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と二度誓います。その時、モーセは犠牲の動物の血をとって民とイスラエル十二部族のために建てた十二の祭壇に振り掛けました。そして、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言したのです。
 この契約締結式の後、モーセはイスラエルの七十人の長老たちと一緒にシナイ山に登って行きました。その時のことは、こう記されています。

モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

 このシナイ山の場面は、旧約聖書における一つの頂上だと私は思っています。人間たちが神の顔を見る。そして、神の顔を見ながら、食べ、また飲んでいる。食卓を囲んでいるのです。神の言葉に基づいて契約を結び、神様の御心を生きる民イスラエルが誕生したその直後、彼らの代表者は神を見て、神の前で食事をすることが許されている。ここにすべての罪が赦され、清められ、聖徒とされるという救いの究極的な姿があるのです。
 しかし、今も言いましたように、この直後、モーセが石の板に十戒を刻んでもらい、様々な律法を頂くために山にこもっているその時、山の下ではアロンも含めてイスラエルの民が金の子牛を作るというとんでもないことが起こるのです。これもまた私たち罪人の現実です。聖書はどこまでもリアルなのです。人間の罪の現実をとことん見つめているのです。それ以後、「神の顔を見る」という言葉が旧約聖書に出てくることはありません。モーセでさえ、顔を見れば死ぬのです。
 神の顔を見るとはそういうことです。その顔を、ヤコブは、つまりイスラエルの先祖はこの時見て、そして深い痛手を負いつつも、なお生きているのです。そして、それがイスラエルなのです。

イスラエル

 私たちキリスト者は新しいイスラエルと呼ばれる民です。それは、どういうことなのか?端的に言って、イスラエルとは、神の顔を見てなお生きている者であると言って良いと思います。そして、それは自分の罪を恐れをもって知り、本気で悔い改め、真剣に赦しを求め、神の慈しみとまことの故に赦された人、あるいは人々と言って良いでしょう。その罪の赦しと新しい命という祝福だけを求めて神様と格闘する。そういう人、或いはそういう人々をイスラエルと言うのだ。今日の箇所が私たちに伝えているメッセージの一つは、そういうものだと思います。
 私たちキリスト者は、これから聖餐の食卓に招かれます。この食卓に招かれる者とは、罪なき神の独り子である主イエス・キリストが、十字架の上で流された血は、私の罪の赦しのためであり、主イエスが復活されたのは、私を新しく生かすためであると信じ、その信仰を告白して、「私は主の言葉に従って生きます」と約束し、洗礼を受けた者に限られます。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストを通して神様との契約を結ぶことです。その契約を結んだ者は、祝福を受け、そしてその徴としてこの命の食卓、主イエスの体と血を頂く食卓に招かれるのです。その時、私たちは、目に見えない主の臨在を心に感じます。そして、真の神でありつつ真の人としてこの世に現れた主イエスが、今日も、「あなたの名は何と言うのか」と問われるのです。つまり、「あなたは誰なのか。どういう人間なのか」と問われる。私たちは、「私は罪人です。ただあなたの祝福を頂かなければ、神の子として生きていくことは出来ないのです。どうぞ祝福を下さい。罪を赦してください。あなたこそが、私の唯一の救い主です」と、罪の悔い改めと信仰の告白をします。その時、主は「慈しみとまこと」「恵みと真理」をもって、私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さいます。「取りなさい。これはあなたがたの罪の赦しのために裂かれた私の体だ。飲みなさい。これはあなたがたのために流された私の血だ。そして、新らしく生きなさい」と言って下さるのです。そして祝福をもって、この世へと派遣してくださるのです。この主の祝福を世の中にもたらすためにです。

天と知を貫くイスラエル

 そして、この食卓を囲む時、これから賛美しますように、私たちは天の食卓の面影を映し偲ぶことが出来るのです。つまり、主の顔を見ながら食卓を囲む、その救いの情景を映し偲ぶことが出来る。それは昔の鏡で見るようにおぼろげではありますが、しかし、確かに救いの情景を望み見ることが出来ます。
 「救い」とは、神の顔を見てなお生きていることなのです。その救いを与えるために、キリストが血を流して死に、甦ってくださったのです。
 パウロは、コリントの信徒への手紙の中でこう言っています。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 キリストを通して示された神の愛、この愛は、いつの日か、御自身の御顔をはっきりと見させてくださる救いへと私たちを導くものなのです。この愛を信じて生きるとは、救いが完成する終わりの日をはるかに望み見つつ生きることだし、神を愛して生きることです。
今日、私たちが記念する召天者一人一人もまた、この世的には何の希望も持てない状況の中で、だからこそ、イエス・キリストを通して示された神の愛だけを信じ、望み、そして神を愛して生き、そしてキリストの迎えによって、罪赦されて天に召された方たちです。
 二月に召されたHSさんは、女学校時代に英語で教わった詩編二三篇の冒頭を死の直前に暗誦されました。その詩は、たとえ死の陰の谷を歩む時も、主が共にいて下さることを信じ、そして、永遠に主の宮に住むことを望む詩です。四月に召されたHTさんは、ひたすら天国を見つめ、神様の許にいるご両親に会うことを願っておられた人です。同じ四月に召されたTKさんは、死の一週間前に病室で聖餐の食卓を囲みつつ、「ただイエス・キリストだけが私の罪の贖い主です」と告白しつつ祈られた方です。八月に召されたESさんは、八十歳になり、死を意識し始めてから、真剣に救いを求め、主イエス・キリストと出会い、安心して死んだ方です。そして、十月には二人が召されましたが、SHさんは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という言葉を愛された方です。この言葉は、まさに今日のヤコブの「祝福を下さい。わたしはヤコブです」に通じる言葉だと思います。そして、KHさんは、人との交わりではなく、ただただ神様との交わりの中に身を置くことを決意しておられた方です。皆、それぞれの人生を生き、多くの苦しみや悩みを抱え、最後は地上には何の希望も持たず、ただただ神の御顔を拝することだけを望みとして生きるほかになかった人たちです。そして、神様はそのことを求めておられ、主イエスは、その一人一人と共に生き、その悩み悲しみを共にし、背負い、そして救い出してくださったことを信じます。
 聖書においては、主イエスの迎えによって死んだ者は天の父の住いに移されているという箇所と、終わりの日に復活するまで、主に守られつつ眠っているという箇所の両方があり、一方は空間的に救いの情景を描き、他方は時間的に救いの完成を描いていると思います。そして、私はただの人間ですから、天のことは何も分かりません。しかし、主イエス・キリストを頭とする教会、つまり、十字架と復活を通して罪と死に勝利して下さった主イエス・キリストが頭である教会は天地を貫いて、今日も主なる神と主イエス・キリストを礼拝している。そのことは確実なことだと信じています。ヨハネの黙示録には、天上の礼拝の光景が鮮やかに描かれていますから。
 だから、私たちのこの礼拝、そしてこれから与る聖餐は、天地を結ぶものなのです。そして、私たちは今、信仰のない時には、全く無関係であった天上の食卓の情景を映し偲び、神の御顔をおぼろに見ることが出来ます。しかし、天に移され、救いが完成するその時には、神様の顔をはっきりと見ることが出来るのです。そして、「あなたこそ神、昔いまし 今いまし 永久にいます主です。感謝します。賛美します」と数え切れない聖徒たちと礼拝することが出来るのです。このような幸いは他には決してないことです。この幸いを与えてくださった主を、今日も心新たに賛美したいと思います。
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