「神が恵みを与えてくださったので」

及川 信

創世記 33章 1節〜20節

 

ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。「一緒にいるこの人々は誰なのか。」「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」ヤコブが答えると、側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した。エサウは尋ねた。「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」 ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
それからエサウは言った。「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから。」「御主人様。ご存じのように、子供たちはか弱く、わたしも羊や牛の子に乳を飲ませる世話をしなければなりません。群れは、一日でも無理に追い立てるとみな死んでしまいます。どうか御主人様、僕におかまいなく先にお進みください。わたしは、ここにいる家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり進み、セイルの御主人様のもとへ参りましょう。」ヤコブがこう答えたので、エサウは言った。「では、わたしが連れている者を何人か、お前のところに残しておくことにしよう。」「いいえ。それには及びません。御好意だけで十分です」と答えたので、エサウは、その日セイルへの道を帰って行った。
ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った。そこで、その場所の名はスコト(小屋)と呼ばれている。ヤコブはこうして、パダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。

晴れやかさと痛々しさを通して


 前回の箇所であまり触れなかった文章は三二章三二節です。そこには、こうあります。

「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」

 この場面は、聖書の中で最も映画的なものの一つだと思います。夜の間、人となって現れた神と格闘したヤコブ、そして、夜明け前に「イスラエル」という新しい名と共に「祝福」を与えられたヤコブ、そのヤコブに夜明けの太陽の光が燦々と降り注いでくるのです。彼の顔はその光を反射して明るく輝いていたでしょう。しかし、その彼は今、足を引きずっている。心身ともに健康で力が漲っているわけではない。手負いの獅子の様に傷ついているのです。晴れやかさと痛々しさの両方がある。彼は確かに変わりました。でも、彼は足を引きずるように過去の自分を引きずっています。そして、その現実はこれからも延々と続くのです。そこに聖書のリアリズムがあると、私は思います。人は変わっていきますが、性格まで変わることは滅多にないし、失敗や挫折も繰り返していくのです。それでも、彼は確かに成長し、彼を通して、神様の救いのご計画も進展していく。そういうことを、この物語は語っているのだと思います。

地にひれ伏すヤコブ

 ヤコブ物語の中の一つの大きな部分は、兄エサウとヤコブの物語です。その物語が、今日の箇所で終わります。エサウはこれ以後、父イサクの葬りの箇所にしか出てきません。エサウとヤコブという双子の物語、それは母リベカの胎内にいた時からずっと争いの物語でした。神様の選びと両親の偏愛、そして、ヤコブの知略とエサウの無思慮によって、その争いは複雑にして深刻なものとなりました。その争いの物語が、今日の箇所で終わります。

「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。」

 燦々と照りつける太陽の光の下、目を上げるとはるか遠くから砂埃を上げつつ四百人の軍勢を引き連れたエサウがやって来るのです。最初はおぼろげに見えていた軍勢が、次第にその足音と共に輪郭をくっきりと見せ始めている。ヤコブの緊張は極限まで高まったと思います。しかし、ヤコブはヤコブです。「神と人と戦って勝つ」という意味で「イスラエル」と神様から名付けられた男です。その極度の緊張の中でも、どこまでも冷静にしたたかに対処します。自分にとって大事なものを一番安全な所に配置したのです。こういう所を悪く評価するか、高く評価するかは人によって違うだろうと思いますが、ヤコブはヤコブなのであって、人に対して無策で立ち向かうことはしません。このように、自分が出来る最大限のことをした上で、彼は一人先頭に進み出ます。

「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。」

 「ひれ伏す」
という言葉は、目上の人、圧倒的に優位に立つ人に対して最大限の礼を尽くす行為ですけれど、ある注解書によれば、過ちを犯した臣下が王に許しを乞う姿勢だとも言われます。この場合、まさにそれが当てはまるとも言えます。また、アブラハム以来の族長物語では、「ひれ伏す」は、神を礼拝する姿勢としてしばしば使われる言葉です。ここでも、ヤコブがエサウと会うこと、その顔を見ることと、神の顔を見ることがだぶらされています。そして、ヤコブはエサウに近づきながら「七度」も地にひれ伏します。これはやはり尋常なことではありません。
 エサウは既に三つに分けられたヤコブからの贈り物を目にし、「これはすべて僕であるヤコブがエサウ様に差し上げるためのものです」との言葉を聞かされており、その上で、この尋常ではないヤコブの接近の仕方を見て、心が溶かされてしまったのでしょう。四百人の軍勢を引き連れてきたのに、

「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」

 あのルカによる福音書に出てくる放蕩息子の父親のように、エサウは無条件にヤコブを赦します。そして、彼らは抱き合って互いに泣きました。

二重の恵み

 その後、エサウも冷静になります。彼は顔を上げて(原文では一節のヤコブと同じく「目を上げて」)、ヤコブと一緒にいる女たちや子供たちを見回して尋ねました。

「一緒にいるこの人々は誰なのか。」

 ヤコブは二十年前に体一つで逃亡したのですから、当然の問いです。ヤコブは答えます。

「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」

 この「神が恵んでくださった」という言葉は一一節にも出てきます。そして、その間に挟まれる形でエサウの「好意を得たい」というヤコブの言葉が二度出てきます。「好意」とは原文では「恵む」の名詞形が使われています。つまり、神の恵みとエサウの好意(恵み)が二重にだぶらされており、エサウの恵みが神の恵みに囲まれる形になっているのです。ヤコブは今、神の恵みに満たされています。まだ満たされていないのはエサウからの恵み(好意)なのです。その両方が満たされた時、彼は安心して約束の地に暮らすことが出来るのです。
 前回の説教において、この物語の二重性について語り、その一例として「祝福」という言葉が持っている二重の意味を語りました。つまり、祝福には霊的内面的な側面と世俗的外面的な側面があるのだ、と。それはこの「恵み」という言葉にも当てはまります。今の日本では全く見かけませんけれど、昔は乞食と言われる人がいました。その人たちは、道行く人々から「恵み」を頂きたいと願っているのです。その「恵み」とは憐れみの心であり、また同時にその印としての幾許かのお金です。心だけでもないし、お金だけでもない。心とお金、その両方がそこには含まれています。
 ヤコブが、「神が恵んでくださった子供たちです」と言い、一一節では「神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っています」と言っているその中身もまた、家族の多さだとか財産という外面的な意味を含みつつ、自分に対する神様の憐れみの意味が込められていることは、この物語の文脈から言って明らかなことです。「神様は、約束通り私と共にいてくださり、守ってくださり、約束通り故郷に帰してくださり、今は新しい名前を与えてくださった。私は神様に罪を赦され、憐れみの中に置かれているのです。そのことの目に見える印が、この子供たちであり、財産なのです。」ヤコブは、そう言っているのだと思います。
 その時、彼の家族が次々と進み出てきて、それぞれがエサウの前に「ひれ伏し」ました。エサウは、その姿を見て、今度はこれまで見てきた膨大な家畜に関して尋ねます。「あれは何のつもりなのか。」  ヤコブは答えます。

「御主人様の好意(恵み)を得るためです。」

 ここでエサウはヤコブを「弟」と呼びつつ、こう言います。

「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」

 これは本当のことでしょう。でも、本当のことは一つではない場合だってあります。幾らもっていても困るわけでないものだってある。ヤコブは、そのことを知っていますし、このエサウの本当の言葉が、面子を保つための一種の社交辞令であり、もう一押しすれば面子を保ちつつ受け取ることが出来るから押してくれと暗に言っているのかもしれないのです。
 ヤコブは言います。

「いいえ。もしご好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神が、わたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」
 ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。


 このヤコブの言葉もまた本当のことです。彼にとって、エサウの顔は今、彼を恵んで下さった神の顔と同じものです。決して赦されぬ罪を犯したのに、エサウはヤコブを抱き締めてくれ、口づけをして迎えてくれたのですから、ヤコブにとってはエサウの顔を見てなお生きているということは、神の顔を見てなお生きていることと同じことです。そして、ヤコブはかつて自分がエサウから奪い取ったものを返却しているのです。「持参した贈り物をお納めください」と翻訳ではなっていますが、原文では「わたしの祝福を受け取ってください」です。つまり、「わたしが持って来た「贈り物」とは、かつて私が父イサクから騙し取った祝福です。イサクはあなたに与えたかったのです。しかし、私が奪い取りました。だから、これは元来あなたのものなのです・・・。」彼はそう言っているのだと思います。そして、エサウが受け取りやすくしたのでしょう。エサウは、「それならば・・」という形で受け取りました。

噛み合わない会話

 しかし、ここでも注意しておかねばならないことは、ヤコブがエサウに返却した「祝福」は外面的なものに過ぎないということです。彼が、この直前に神に与えられた「祝福」はアブラハム、イサク、ヤコブと継承されるべき祝福、人間を罪の呪いから回復し、神と敵対し、互いに敵対し合っている人間世界を和解と平和に導く祝福です。この「祝福」は、今エサウに返却したような形で人に返却したり、贈与したりできるものではありません。ヤコブは今、「恵み」にしても、「祝福」にしても、その外面的側面も内面的側面(あるいは実質的、本質的と言ったほうがよいかも知れませんが)も理解した人間となっています。神様による罪の赦し、憐れみを与えられて生かされているという現実、また家族も財産も神様から与えられて生かされているという現実、その両方の現実を知った上で、「恵み」「祝福」という言葉を使っています。
 しかし、エサウは相変わらず、そういう現実あるいは次元を全く知りません。彼は、若い頃から目先のこと、地上のことしか考えることが出来ない人なのです。善人であることは間違いないのですが、深謀遠慮にかけるし、霊的な感覚に欠けるのです。彼はここで、ヤコブが二十年ぶりに故郷に帰ってきたという現実を人間的な次元でしか考えていません。彼は恐らく善意から、しかし、これからは漸く兄として自分が優位に立てるという思いも持って、ヤコブを自分が住んでいるセイルの土地に連れて行こうとします。しかし、ヤコブは尤もな理由をつけて、エサウが先導することを断り、後で、「セイルの御主人様のもとへ参りましょう」と言うのです。しかし、これは本心ではありません。
それを聴いて、今度は護衛をつけるとエサウは言うのです。これは、ヤコブがちゃんとセイルに来るようにと見張りをつけるという意味かもしれません。しかし、それもヤコブは「ご好意だけで十分です」と丁重に断ります。
 この辺りのやり取りも実に微妙です。エサウは善意と共に支配欲のようなものを持っているでしょう。しかし、ヤコブはエサウと暮らすために帰ってきたのではありません。また生活に困って帰ってきたのでもない。彼は、神の命令で約束の地に帰ってきたのです。そして、その地に住む第一歩としてエサウと和解する必要があったのです。しかし、それ以後、彼と暮らす必要はありませんし、暮せば井戸や草原の広さの問題でトラブルが起きることは分かりきっています。そして、これこそが決定的な要因なのですが、彼はエサウが住むセイルの地ではなく、イサクが住む約束の地に帰らなければならないのです。そこに帰ること、かつてアブラハムに対して神様が、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束された地に帰ること。それこそが、彼の目的、いや使命なのです。その目的を果たし、使命に生きるために、彼はここでも嘘すれすれの言葉を使いつつ、エサウとの平和的な別離を演出します。
今日は、何もかも中途半端な微妙な言い方となってしまい、皆さんも聞きながらなんだかスッキリしない感じをお持ちではないかと思います。ここに出てくる「恵み」や「祝福」には二つの意味があり、ヤコブはその両方を理解しつつ、一方しか理解できないエサウとその言葉を用いて語り合うので、その対話も噛み合っているようで、どこかですれ違ってしまうのです。だから、ヤコブとエサウの和解の次元も、神とヤコブの間にあるような次元にはならないし、たとえば新約聖書に出てくる迫害者パウロの回心と彼を主にある兄弟として受け入れるアナニアとの間にあるような和解の次元とはほど遠いのです。しかし、その中途半端な現実こそが、これからもまだまだ続くヤコブ物語の現段階の現実を正確に表しているとも言えるのです。そして、それは一七節以下にも続く現実です。

微妙な結論部

一七節では「ヤコブは家を建て、家畜小屋を作った」とあり、完全に定住したという書き方です。つまり、ユーフラテス川沿岸からの長い旅は終わり、ヤコブは約束の地である故郷に定住したことになっているのです。しかし、一八節以降では彼はまだシケムという「町のそばに宿営した」、つまり「天幕を張って」一時的にそこに留まっただけで、旅はまだ続いているのです。しかし、天幕を張ったヤコブはその地の人間から土地を買い取り、「そこに祭壇を建てて、それをエル・エロへ・イスラエルと呼んだ」とあります。つまり、彼は約束の地の一部を取得したのです。家を建てるとか祭壇を建てるということは、その土地の一画を得たということであり、その点は共通している。しかし、旅が終わったことを前提とするか、続くことを前提とするかの違いはある。そういう中途半端さ、微妙さがここにはあるのです。しかし、そういうものを含むこの箇所が何を語っているかを考えることが大事なのです。そのために、この時よりも二十年前のあの出来事を振り返っておきたいと思います。それは、ベテルという場所で野宿をしているヤコブの夢に主なる神が現れたあの出来事です。あの時、主はヤコブに夢を見せて、その夢の中でこう約束されました。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。・・・わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
 この最後の約束が、このエサウとの和解の後に実現した。それが、ヤコブが「自分の家を建てた」とか、「土地を買い取った」という言葉で言い表していることなのです。つまり、神様の約束は必ず実現する。どんなに時間がかかっても実現する。近視眼的にしか現実を見ることが出来ない私たち人間には秘められた神のご計画があり、そのご計画はどんなに時間がかかっても必ず実現する。聖書は、そういうことを言っているのだと思います。
 そして、このベテルにおける神の約束は、ヤコブ個人がいつの日か約束の地に帰ってくることが出来るということに留まらず、ヤコブの子孫が世界中に広がり、「地上の氏族がすべてヤコブとその子孫によって祝福に入る」ということまで含んだ約束です。当然の事ながら、この約束の実現は今日の箇所で起こる話ではなく、創世記を最後まで読んだところでまだまだ実現などしていないし、旧約聖書の最後まで読んでも実現していないし、二〇〇八年の現在もなお、実現していないことです。

現在の世界

 今日の箇所で、ヤコブと和解をしたエサウの子孫はエドム人となり、ヤコブの血筋を引くユダヤ人とは、再び敵対関係になっていきます。そして、その敵対関係は広い意味で現在のイスラエル共和国におけるユダヤ人とパレスチナ・アラブ人の絶望的な敵対関係に繋がっているのです。ユダヤ人もパレスチナ・アラブ人も遡ればアブラハムの子孫です。だから「兄弟」なのです。そして、天地を造り、人を造られた神にまで遡れば皆「神の子」たちなのです。そういう神の子であり、また兄弟であるべき私たち人間は、しかし、世界の至る所で敵対と争いを繰り返しつつ現在に至っているのです。
つい最近、人種の坩堝であるアメリカで歴史上初めて黒人の大統領が選出されました。厳密に言うと、彼は黒人と白人の混血であり、父親はアフリカから連れて来られた奴隷ではなく、裕福で知的な環境の中で育ったと言われています。しかし、そうではあってもアフリカ系アメリカ人が大統領に選ばれたということは、アメリカの歴史上画期的なことであることは言を俟ちません。そして、この出来事は、一九六〇年代に人種差別撤廃を目指す公民権運動を指導したマルティン・ルーサー・キング牧師が抱いた夢の一つの実現であると多くの人々が考えています。たしかに、そうなのだと思います。そして、キング牧師の夢のルーツ、それは聖書に出てくる神様の約束であることは言うまでもありません。彼の有名な演説の一節はこういうものです。

「私には夢がある。それはいつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、共に兄弟愛のテーブルに着くことが出来ることである。
私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い四人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。
そして、私たちが自由の鐘を鳴らせば、そう、村という村、集落という集落から、また、州という州、町という町から自由の鐘を鳴らせば、その時には、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手に手を取って、『ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝すべきかな。私たちはついに自由になった!』というあの古い黒人霊歌を口ずさむことが出来るであろう。」


  もちろん、キング牧師が夢として与えられた自由、つまり、敵意や憎しみからの自由、罪からの解放、世界が祝福に満たされるということは、黒人の大統領が選出されたとしても、まだまだ夢のまた夢であることは事実です。しかし、その夢が神様に見させられるものである限り、必ず実現する。旧新約聖書は、そのすべてを通して、そう証言しているのです。

約束は必ず実現する 途上を生きるイスラエル

 その証言を新約聖書の中に捜せば幾らでも出てくるのですけれど、二箇所だけ挙げておきたいと思います。ヤコブの子孫であるイスラエル(ユダヤ人)とそれ以外の異邦人の関係に限定しますが、パウロはローマの信徒への手紙の中で、異邦人キリスト者に向かってこう言っています。

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。・・・
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。


   またエフェソの信徒への手紙においては、やはり私たちと同じ異邦人キリスト者に向かってこう言っているのです。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。・・・ 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 神から離れてしまうという現実は、ヤコブの子孫であれ、エサウの子孫であれ同じなのです。ユダヤ人も異邦人も皆、罪から自由になれた者はいないし、そのことの故に、神と敵対し、人間同士は互いに敵対し、憎み合い、和解をしたとしても表面的な次元に留まるものばかりなのです。しかし、神様はご自身の独り子イエス・キリストを通して神と人、そして人と人の間の敵意と憎しみの壁を完全に取り壊して下さったのです。このイエス・キリストを通して、このイエス・キリストを信じることによって、人は神の顔を見て尚生きることが出来るのだし、人と人も互いの顔をしっかりと見つつ神から与えられた恵みと祝福を分かち合うことが出来るようになるのです。そして、世界が、この十字架のキリストがかなめ石である聖なる神殿となる時、そこで「イエス・キリストこそ私たちすべての人間の救い主、祝福の源です。全能の神に感謝すべきかな」と信仰告白と賛美が捧げられる時、私たちは罪の束縛から完全に自由になるのです。ヤコブに約束された祝福が全世界を覆うからです。神様の約束は、そのことを告げており、聖書はその約束が必ず実現することを告げているのです。そして、私たちは、その証言を信じているのです。
 ヤコブは、二十年という歳月が掛かりましたが、約束の地に帰ってきました。そして、そこに一つの祭壇を建てました。そして、そこで「エル・エロへ・イスラエル」と呼んだのです。それは「神はイスラエルの神」という意味です。その地の人々にとって最高の神の名はエルでした。ヤコブは、その神こそ実はイスラエルの神なのだ、と告白したのです。その時代、その土地の人々の誰もそんなことは思っていません。でも、ヤコブ、イスラエルは、そのことを知り、そのイスラエルの神、主に対する信仰の告白をしたのです。その信仰の告白をすることによって、彼は約束の地に住み始めるのです。イスラエルの神、主を信じる信仰を広める、それが世界の祝福の源になるために生きる彼の使命だからです。次週読むように、すぐさまとんでもないことが起こりますが、ヤコブの祭壇を建て神の名を呼ぶことが、世界を聖なる神殿とし、世界の人々を一人の新しい人に造り上げていく神様の秘められたご計画の第一歩なのです。そして、今、私たちキリスト者は、「人々が心の奥底で慕い求めている神、それはイエス・キリストです。この方こそ、十字架の死と復活を通して私たちの罪を赦し、神と人、人と人との隔ての壁を打ち壊して下さいました。ただ、この方を信じ、この方の愛で愛し合うこと。そこに和解があります。平和があります」と、信仰の告白をしつつ世界に祝福をもたらすために生きているイスラエルの子孫なのです。だから、私たちには希望があります。決して消えることがない夢があるのです。これからも、幾度も幾度も夢も希望も打ち砕かれるようなことを経験するでしょう。私たち自身が、過去の自分を引きずりながら生きるヤコブなのですから。でも、それでも私たちの上には太陽が昇るのです。神の栄光が現れるのです。私たちはキリストに赦されているイスラエル、そしてキリストを信じるイスラエルだからです。だから、希望があり、夢があるのです。このキリストにある希望、夢こそ、神が私たちに与えてくださった恵みなのです。この恵みさえあれば、何でも持っているのと同じであり、この恵みが与えられていなければ、他に何を持っていても、絶望しかありません。
 最後にパウロの言葉を読んで終わります。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

アーメン
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