「約束の地には入ったけれど」

及川 信

創世記 34章 1節〜31節

 

あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけたが、その土地の首長であるヒビ人ハモルの息子シケムが彼女を見かけて捕らえ、共に寝て辱めた。シケムはヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、言い寄った。更にシケムは、父ハモルに言った。「どうか、この娘と結婚させてください。」ヤコブは、娘のディナが汚されたことを聞いたが、息子たちは家畜を連れて野に出ていたので、彼らが帰るまで黙っていた。シケムの父ハモルがヤコブと話し合うためにやって来たとき、ヤコブの息子たちが野から帰って来てこの事を聞き、皆、互いに嘆き、また激しく憤った。シケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルに対して恥ずべきことを行ったからである。それはしてはならないことであった。

約束の地には入ったけれど


 ヤコブは神様の命令によって約束の地に帰ってきました。そして、恐ろしくて仕方なかったエサウとの再会を無事に果たしました。その上で、この地に定着を始めているのです。先週の箇所の最後に、ヤコブが祭壇に向かって「エル・エロへ・イスラエル」「神はイスラエルの神」と神の名を呼んで礼拝したことが記されていましたけれど、その礼拝から始まった生活の中で待ち受けていた現実は何か?ヤコブとその息子たち、つまり、イスラエル十二部族の父祖たちは何に直面し、何をするのか、してしまうのか?それが、今日の箇所が問いかけていることです。

二つの物語

 初めに混乱を避けるために、今日も物語が現在の形になるまでの経過について、少し説明させて頂きたいと思います。この三四章は、元来は独自の主題を持った物語が現在の文脈の中に嵌め込まれたのだと思います。それと同時に、この三四章自体も、一つの物語ではなく、二つの物語が一つに合わされていると思います。
一つの物語の筋は、ヤコブの娘ディナが町の首長ハモルの息子シケムに暴行された上に拉致監禁された所から始まります。しかし、その息子シケム(町の名前を同じ)はディナに恋をしてしまい、結婚したがっているのです。しかし、シケムが犯した性的暴行はヤコブとその子供たち、つまり神の民イスラエルにとっては、汚れた行為であり、恥ずべきことであり、決してしてはならないことで、そのことをした者は神の裁きを受けて殺されねばならないのです。またそれは、暴行を受けた女性だけでなく、親兄弟すべてを汚し、侮辱したことになり、被害者から復讐を受けるのは当然のことなのです。だから、ディナと母親を同じくするシメオンとレビは、策略をもってシケムとその父親を騙し、痛みに苦しむ彼らを殺し、監禁されていた妹を奪還した。そういう話です。二節にシケムが娘を「捕えた」とあり、一七節にシケムたちが条件を飲まなければ、「娘を連れて立ち去る」と兄弟たちが言い、二六節にシメオンとレビがディナを「連れ出した」とあります。この「捕える」「連れて立ち去る」「連れ出す」は皆、ヘブル語でラーカーという同じ言葉が使われています。つまり、侮辱された上に捕えられた身内の者を取り返し、侮辱した者に正当な復讐をする話なのです。ある言い方をすれば、損得の利害とは関係のない純粋な宗教的熱情の話だし、血気にはやる若者たちの話でもあります。
 しかし、もう一つの話がある。それは純粋な宗教的情熱とはほど遠い世俗的な話であり、欲に目が眩んだ大人の話と言ってもよいかもしれません。ディナを強姦したシケムの父ハモルは、その町の首長でした。彼は、息子のやったことを決して誉められたこととは思っていないでしょう。しかし、これを機会に、最近この土地にやってきて平和的に定着しようとしている遊牧民の家畜の群れや財産を自分たちのものにしようとしているのです。そして、そのための交渉にやってきた。相手はヤコブとその子供たち全員です。つまり、イスラエル十二部族です。その交渉において、ヤコブの息子たちは、いかにもヤコブの息子たちらしく策略をもってハモルを騙し、シケムの町に住む男子全員がイスラエルの徴である割礼を受けるなら、今後、互いの結婚も許可しようと言うのです。ハモルは、町全体の利益になると考えてその誘いにまんまと乗ってしまう。しかし、ヤコブの息子たちは男性器の包皮の先端を切って痛みに苦しんでいる町の男たちを襲った上で、「羊、牛、ろばなど、町の中のものも野にあるものも奪い取り、家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした」のです。これは先程の名誉と尊厳を重んじる復讐物語ではなく、侮辱されたことを利用した略奪物語であり、そのことのために割礼という聖なる契約の徴をも利用するあくどい大人たちの物語です。
前者の物語は残酷といえば残酷な話ですが、宗教的清さ、名誉、尊厳を重んじ、家族の結束をなによりも重んじるという美徳があります。現代人は、世俗化し、また個人主義となって、そういう大切なものを失っているとも言えます。それに対して、後者の物語は宗教的尊厳をも利益を得るための交渉に利用するあくどい略奪の物語で、現代人の戦争の姿そのものです。そういう戦争は、古代から現代に至るまで延々と繰り返されてきたのです。

大きな文脈(構造)

とにかく、そういう二つの話がここでは巧に組み合わされている。それは確実なことだと思います。そして、そういう話がヤコブ物語のこの箇所に置かれると、どういうメッセージを、あるいはどういう警告を発することになるのか?それが今日の問題でしょう。 「イスラエルの神」の名を呼んで礼拝することから約束の地における生活を始めたヤコブとその家族でしたが、そこにはそれまで経験したことがない誘惑や落とし穴が満ち満ちていたのです。そして、これは次回の箇所ですが、彼はここでも逃亡するのです。二十年前にエサウを騙し、彼の憎しみ、殺意に怯えて逃亡したように、今度はシケムの周辺の人々からの敵意を恐れて逃亡する。しかし、今度は神の命令によってベテルに向かうのです。二十年前、初めて主なる神に出会ったベテルに向かう。そこで再び祭壇を築いて礼拝を捧げるのです。そして、もう一度、「イスラエル」という名を与えられる。私たちがずっと読み進めているヤコブ物語は、このようにベテルにおける神の顕現と礼拝を大きな枠として構成されていると思います。そのことを踏まえた上で、物語そのものの中に時間が許す範囲で入っていきたいと思います。

異なる感覚が出会う時

これまでに、ヤコブには妻二人側女二人との間に十一人の息子と一人の娘が与えられていました。そして、その娘ディナはレアとの間に生まれた子で、母を同じくする兄弟はシメオンとレビです。シメオンは後のヨセフ物語の中で、一人選ばれて人質とされる人物だし、レビは「レビ記」という書物があるように、十二部族の中で独特の位置を持った部族となります。宗教的事柄にだけ関る人々なのです。そういうことも、考慮に入っているのかもしれませんが、とにかく、その妹のディナは同年代の娘たちに会いにシケムの町に出かけました。これは、それまでヤコブたちとシケムの町の人々が極めて友好的な関係をもっていたことを前提としています。
しかし、いつの時代にも、町には様々な危険があります。世俗化した人々がそこにはおり、権力を持った人もおり、そういう人は自分の欲望を力で満たしていくものだからです。
その土地の首長ハモルの息子シケム、彼は「ハモル家の中では最も尊敬されていた」とあります。重きが置かれていた、一目置かれた後継者なのです。その男は、ディナを見かけると、即座に彼女を捕えて暴行したのだけれど、彼はディナに「心を奪われてしまい、この若い娘を愛し、言い寄った」。つまり口説き始め、即座に結婚したいと願い、父ハモルに願い出たのです。
ディナが出かけたきり帰ってこないので、ヤコブは使いでも遣わして調べたのでしょう。そして、娘ディナが「汚された」ことを知りました。この「汚す」という言葉も三回で出てくる決定的な言葉です。そして、「汚す」とは、宗教的感覚に満ちた言葉です。古代の宗教はその多くがそうだと思いますけれど、浄不浄の感覚が極めて強いのです。行為にしろ物質にしろ、それが清いものか汚れたものかが重大なことなのです。たとえば死を忌み嫌い、死人に触ると汚れるという感覚は日本の土俗宗教の中にもあります。何らかの禁忌、タブーがない宗教はないし、タブーがない社会もありません。しかし、何が汚れで、何が汚れではないか、それは地域や民族や宗教、あるいは時代でそれぞれ違います。ですから、イスラエルにとっては決して受け入れることが出来ない汚れであり、また恥ずべきこと、してはならないことであっても、シケムの町の人々にとってはそれほど目くじらを立てるものではない。そういうことがあります。
日本においても、そういうことはあります。数日前の新聞では、今や全国で結婚する男女の四組に一組がいわゆる「出来ちゃった婚」であって、最早珍しいものでも、隠すべきことでもなくなっていると報じられていました。しかし、昨日の新聞の書籍広告には『明治時代の人生相談』という本の宣伝があって、その帯に記されているのであろう相談事とは「接吻や握手をした私、処女として立派に結婚できますか?」というものですから、同じ国のこととは思えません。時代が変われば様々な感覚も変わるものです。しかし、教会では「時代が変わったのだから」と時代の変化やニーズに何でも合わせていけばよいということではありません。時代の誤りやその危険性を正す使命があると思います。そういう問題は、性や結婚に限らず、他にもいくつもあります。時代がどうであれ、その土地の風習がどうであれ、教会は守るべきものは守る。そういう事柄があります。
今日の箇所の一つの問題は、そういうことです。一つの宗教、あるいは信仰が、他の宗教、信仰に触れた時、どちらか一方に同化するのか、互いに混ざり合ってそれまでのものとは全く違うものに変質していくのか、それとも排他的に自分たちの宗教的基準、信仰生活の純粋性を保っていくのか。そういう深刻な問題がここにはあります。それはイスラエルが絶えず問われてきた問題だし、イスラエルの中でも絶えず二つの立場があり互いにせめぎ合って来た問題なのです。そして、私たちキリスト教会、またキリスト者も同様です。この日本という国の中でキリスト教信仰を生きていくとは、具体的にはどういうことなのか。世に合わせてよいことと、合わせるべきではないことは何であるかに関しては、今でもキリスト教界全体において明確な基準とか答えはありません。

どっちも恥ずべきことをしている

とにかく、ヤコブとその息子たちにとっては、シケムの行為は娘を汚すことであり、それは即、自分たち家族全員が汚されたことなのです。しかし、シケムもその父ハモルも、そんなこととは思っていない。若者にありがちなことの一つ程度のことにしか思っていない。そのズレの大きさに危険が潜んでおり、悲劇を生み出す素地があるのです。そういうことは、私たちがしばしば経験することでもあります。こっちはそんなつもりはない。しかし、相手は深く傷ついている。或いは、その逆のことがよくあります。ヤコブの息子たちは、ディナに起こったことを聞いた時に「皆、互いに嘆き、また激しく憤った」のです。繰り返しますけれど、シケムの行為は「イスラエルに対して(原文では、「イスラエルにおいて」)恥ずべきことを行ったから」であり、「それはしてはならないこと」であったからです。タブーなのです。ここに出てくる「恥ずべきこと」(原文でネバーラー)は後で引用するヨシュア記七章では「愚かなこと」と訳されていますが、そのことをした人間は神の怒りにあってイスラエルの中から消されねばならない、死刑にされなければならないのです。それを野蛮だとか、残酷だとか言って無下に否定することは出来ません。小さな隠し事、汚れ、悪事を放置しておくと、それは共同体全体を蝕み、ついに滅ぼしていくことだってあるのですから。教会もまた、ほんの些細なことであっても、それが「汚れ」である場合は、少なくとも放置しておくことは出来ないのです。
ハモルは、そんなこととは露知らず、老練な政治家よろしく、ヤコブたちにこの土地に住んで自由に使って欲しいという提案をします。もちろん、その裏にはヤコブたちの家畜や財産をすべて自分たちのものにしようという思惑があるわけです。しかし、そこにはディナと結婚したくて仕方のない若いシケムもいて、「お申し出があれば、何でも差し上げます」なんてことを言ってしまう。そこにヤコブの息子たちの付け入る隙が出来ました。彼らは、割礼のない男に身内の者を妻として与えることは「我々の恥とするところです」と言います。これは二節の「辱める」と同じ言葉です。そして、割礼を受けることを条件とし、その条件が適えば互いの集団同士での結婚を認め、「一緒に住んで一つの民となる」と心にもないことを言うのです。
ハモルもシケムも、この条件を飲みました。一時的に体の痛みを我慢すれば、これからの町の経済は潤い、シケムは妻を娶ることが出来るからです。町の人々は、首長とその後継者の言葉を受け入れ、全員が割礼を受けました。
生まれて八日目に施すならまだしも、成人男子が麻酔もなく包皮の先端を切る手術を受けるのですから、三日経ってもまだその痛みで苦しんでいる。その隙を狙って、シメオンとレビは剣をもって難なく町に侵入し、ハモルとシケムだけでなく、町の男たちを殺し、妹を奪還し、さらに他の息子たちが町中を略奪し「女も子供もすべて捕虜にした」のです。当時の戦争捕虜は人身売買の対象である場合が多いのです。つまり、略奪戦争でぼろ儲けをしたのです。

困ったこと 災い

この間、ヤコブはなんら指導的な役割を演じません。彼は、息子たちが、かつて自分が父イサクを騙したように、ハモルとシケムを騙すのを黙って見ており、止めてはいないし、その後に予想される行動も止めてはいません。しかし、ことここに至って、彼はこう言います。

「こまったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか。」

 この「困ったことをしてくれた」という言葉は、先程言いましたように、ヨシュア記七章に出てきます。ヨシュア記には、モーセの後を引き継いだヨシュアを指導者としてイスラエルの民が約束の地に定着を始めた頃のことが記されています。その定着の仕方については、ヨシュア記はでは先住民と戦争をしつつ土地を獲得する姿が主に描かれ、士師記では徐々に徐々に平和的に定着する姿が描かれているのですけれど、戦争の場合は一切の略奪は神様によって禁じられていました。人も家畜もすべてを殺し尽くせと命じられていたのです。それは、まさに残酷な命令ですが、逆から言うと、人間の欲望を満たすための戦争をしてはならないという命令なのです。しかし、アカンという人が、戦利品をひそかに持ち帰って、自分の天幕の下に隠した。そのことを知ったヨシュアは、全イスラエルを集め、アカンに向かってこう言います。

「お前はなんという災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる。」

 ヨシュアがそう言うと、「全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で撃ち殺した。彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ」とあります。
この「災いをもたらす」という言葉、これがヤコブが言う「困ったことをしてくれた」と同じ言葉です。ですから、これは困ったもんだ・・というような程度の言葉ではないのです。イスラエルにおいてはしてはならないこと、恥ずべきこと、自らを汚すようなことをしたということであり、それは当然、神の怒りに触れ、神からの報復を受ける、そう言うべきことなのです。ヤコブは、そのことも多少は感じていたでしょう。しかし、その一方で、シメオンとレビの「わたしたちの妹が娼婦のように扱われても構わないのですか」という問いに答えることは出来ません。それは、私たちも同様だと思います。
 正義が踏みにじられ、汚されるという侮辱を受けつつ、そのことに対する正当な裁きを与えることが出来ないとすれば、そんな不当なことはありません。目の前で自分の娘や妻が犯されても、抵抗しない、何ら責めることもしない、為されるままということが、神の求める愛であり信仰なのか?それは違うでしょう。しかし、シメオンやレビがやったこと、またさらに他の兄弟たちがやったことが正義であり正当な行為なのか?それもまた違うでしょう。しかし、この場合、どうすればよいのか?三四章は、問いのまま終わります。ヤコブは沈黙するのです。

解決が見えない問い

 たとえば、今、イスラエル共和国がある地域は、何百年もパレスチナ・アラブ人が多数を占めていた地域であり、帝国主義時代から第二次世界大戦が終わるまではイギリスの直轄領でした。しかし、十九世紀末から、「全世界に散らばっているユダヤ人たちはシオン・エルサレムを中心とした彼らにとっての『約束の地』に帰り、自分たちの国を建設すべきだ」というシオニズムと呼ばれる思想に基づく運動が発生しました。そして、世界各地で迫害に耐えてきたユダヤ人が少しずつ帰っていき、当初は周辺のパレスチナ人とも平和的に共存していたと言われます。しかし、ナチスのホロコーストがあり、世界的な民族自決、独立運動の中で、イスラエル共和国が突然誕生したのです。それ以来、イスラエルと周辺アラブ諸国は戦争を繰り返し、ユダヤ人に土地を収奪されたパレスチナ人は難民キャンプに押しやられたり周辺諸国に逃げたりし、今もってイスラエルのユダヤ人との間には厳しい対立があることは周知の通りです。そして、ユダヤ人の中にも二つの立場、つまり穏健派と急進派があり、パレスチナ人の中にも穏健派と急進派があって、厳しく対立している。それは身内を殺されたとか暴行されたとか、土地を奪われたとか、そういう理不尽にして深刻な現実に対して正当な復讐するのか、それとも互いに赦し合って和解に向かうのかという対立です。殺されたり暴行された人の親族に復讐する権利はあるはずですが、復讐は復讐を呼ぶことも事実です。だから、ユダヤ人とパレスチナ人は互いに対立しつつ、実は内部でも激しく対立し、穏健派が敵との和解への動きを見せると急進派に暗殺されるということも起こります。
 「約束の地」にイスラエルが定着をするということは、紀元前のヤコブの時代から今日に至るまで、政治的、宗教的、経済的な様々な問題が絶えず存在しています。そして、その問題に対する態度も穏健と急進という対立が今日に至るまで絶えず存在するのです。そして、そういう対立の構造は約束の地を巡ることに限らないことは言うまでもありません。与えられた侮辱や損害に対して、ある人はあくまでも復讐し、ある人は心の底から許せないまでも、とにかく、復讐の連鎖を生じさせることはしない。しかし、その甘さに乗じて、更に侮辱や損害を加えてくる人がいることも事実です。私たちは、自分がやっていることが何であるかを知らないことが、あまりに多いからです。一体どうすれば良いのでしょうか?

新約聖書では

 言うまでもなく、イエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」とおっしゃいました。また、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言っています。
 こういう言葉を、私たちはどう読むのか?読めるのか?単なるお題目、奇麗事として読むのか、それとも私たちが実現可能な言葉として読むのか。どうなんだろうかと、いつも思います。

絶望がもたらすもの

 私たちはこの礼拝後に、幼児祝福式を行います。幼い子供たちに神様の祝福を祈るのです。その祈りは深刻なものです。幼い子供たちは、これからこの世を生きていくのです。いつ何時何が起こるか分からない世の中です。今年に入ってからは、「誰でもよかった。人を殺したかった」と言って無差別に人を殺す青年たちが何人もいます。彼らもまた幼児だった頃があることは確実なことです。しかし、二十年とか三十年とかこの世を生きる中で、自分でもどうすることも出来ない憎しみや悲しみや怒りを溜め込み、そして生きることに絶望していったのです。キルケゴールという哲学者が、『死に至る病』という本を書いて、その中で、絶望こそがその病だと言っているのですが、私はその深いことは分かりませんが、私なりに同感します。絶望の世界は深く広いものです。
 たとえば、シメオンやレビ、また他の息子たちにしろ、彼らは起こった事件について、何か平和的な解決があるかもしれないという可能性に関しては何ら希望を持っていません。最初から絶望しているのです。彼らの復讐の裏には、そういう絶望がある。恥ずべきこと、してはならないことをした人間に対しても絶望している。そういう人間に更正の可能性はないと思っている。また、自分たちがその人間を赦せるはずもないと思っている。そういう意味でも絶望している。死刑制度とは、そういう絶望を前提としているとも言えます。
 そのことを考えると、恥ずべきことをしたアカンを死刑にした神様も、少なくともアカンに関しては絶望しているということになります。しかし、神様はある意味でえこひいきですから、ご自身とイスラエルとの間の聖なる契約の徴である割礼を策略の道具として使ったヤコブとその息子たちは、災いを受けるべきなのに、守られました。神様は、彼らをベテルにおける礼拝へと招かれたのです。そこで彼らを新しく造り替え、再出発させる道を選ばれたのです。神様は自由な方であり、原理原則に縛られて生きるのではなく、自由な愛をもって、憐れもうとする者を憐れまれる方だからです。その神様が、やはり罪なる人間には絶望することがあり、死刑をもって報復することがあります。そのことが出来るのは、また神様だけなのです。

神の望み

 しかし、その神様がエゼキエルという預言者を通して語った言葉は、こういうものです。

「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。・・彼は生きることが出来ない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある。・・・しかし、わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。・・・悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と霊を造り出せ。イスラエルの家よ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ、と主なる神は言われる。」

 罪の責任は人間にある。そして、罪の値は死である。しかし、その死を神は喜ばない。むしろ、罪人が神様の許に立ち帰って生きることを喜ぶ。主なる神は、そう言われるのです。
 しかし、立ち帰るためには、私たち人間が、自分が何をやっているのかを知る必要があることも事実です。自分でやっていることは、正しい、少なくとも裁かれるほど悪いことだとは思わずに暴行したり、不倫をしたりしていることは往々にあります。また、何故人を殺してはいけないのか分かっていない場合があります。そして、一旦「戦争」と名付けられれば、人をたくさん殺せば殺すほど勲章を貰えるのですから、私たちの善悪の尺度は極めて曖昧にして独善的なものなのです。そういう私たちの現実の中で、「立ち帰れ」と言った所で、立ち帰る必要を感じないことは多いのだし、また何処に、あるいは誰に立ち帰るのかも分からないことはさらに多いのではないでしょうか。
 私たちは、しかし、今、神の言を聴いている者たちです。聖書の言葉を神の言、「父の命も子の命も同様にわたしのものである」とお語りになれる唯一のお方の言葉を聴いているのです。そして、そのお方は、「悪人の死を喜ばない」とおっしゃっている。この神様は、シケムの死も、ハモルの死も、まして町に住む男たちの死も喜ばないし、そういう人々を当然の権利であるかのように殺し、恥ずべき、してはならない略奪をしたヤコブの息子たちの死も喜ばないのです。彼らはすべて罪を犯した罪人です。その死の責任は彼らにあるのです。しかし、彼らは誰も自分が何をしているのか分からない人々です。だから立ち帰りようがないないのです。そして、新しく生きようがない。

 神の特別な愛

しかし、三五章で、神はヤコブに語りかけるのです。

「さあ、ベテルに上り、・・神のために祭壇を造りなさい。」

   何故か神様に特別に愛されているヤコブは、「立ち帰れ」と招かれます。私たちもまた、今、こうして礼拝に招かれているのです。今、この会堂の外に何千、何万という人が歩いているのでしょうが、その中で、何故か私たちはこの会堂において神の言を聴いている。神様によって招かれているからです。このことは、いつ何度考えても、私には不思議なことです。神様に特別に愛して頂いているとしか思えません。そして、こう言われているのです。「立ち帰れ」と。
どこにでしょうか?十字架の主イエスにです。私たちの罪をその身に負って、神に見捨てられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを上げつつ殺された主イエス・キリストの許に立ち帰れと言われているのです。罪を犯した責任としての死を、代わりに味わってくださった主イエスの許にです。その主イエスは、同じ十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。この十字架の主イエスの姿を見、その言葉を聴くことによってしか、私たちは自分が何をしたのか、自分が何者なのかが分からないし、神様が何をしてくださり、神様がどういうお方であるかが分かりません。私たちは、この主イエスの姿を見、その言葉を聴くことを通して、自分が死に値する罪人であり、その死を主イエスが代わりに味わってくださったことを知り、父なる神が、私たちを新しく生かそうとしてくださっていることを知るのです。そして、この主イエスを救い主と信じる時にのみ、私たちは敵を愛し、復讐を神に任せることを知るのだし、私たちが為すべきことは、復讐ではなく、主イエスを信じ、証しすることであることを知るのです。
 礼拝とは、この主イエスを知り、主イエスを通して神の御心を知り、十字架の愛を知り、復活の力を知り、その愛と力に満たされ、新たにされることに他なりません。そして、今日は、幼子たちが、その神の愛と力を知ることが出来るように、信じることが出来るように私たちは祈ります。神に祝福された私たちは、同時に神の祝福を祈る者たちなのです。次週の箇所でヤコブとその息子たちはそのことを知らされます。大きな過ちを犯しつつ、神の恵みと慈しみの故に、彼らは礼拝へと招かれ、再びイスラエルとして歩むことを命ぜられます。私たちもまた、様々な意味でヤコブの子、イスラエルであることを神様に感謝したいと思います。

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