「神の祝福」

及川 信

創世記 35章 1節〜15節

 

神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」 人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行ったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。
リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。そこで、その名はアロン・バクト(嘆きの樫の木)と呼ばれるようになった。
ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。神は、また彼に言われた。
「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから/一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり/あなたの腰から王たちが出る。 わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地を/あなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」
神はヤコブと語られた場所を離れて昇って行かれた。ヤコブは、神が自分と語られた場所に記念碑を立てた。それは石の柱で、彼はその上にぶどう酒を注ぎかけ、また油を注いだ。そしてヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。

異なるもの、同じもの


 私たちの人生は人によって全く異なるもので、誰も他の人と同じ人生を歩むことはありません。しかし、それなりの年月を生きるならば、その人生には山があり谷もある、そして喜びの時もあれば悲しみの時もある。成功もあれば失敗もある。そういう点では誰しもが同じなのだと思います。そして、ある人々は成功の方が多く、ある人々は失敗の方が多い。そういう点では違う。しかし、誰しもが叩けば埃が出てくるし、脛に傷持つ人間であることには変わりはない。そう言ってよいのではないかと思います。
 私たちは、断続的に何年もかけてアブラハム、イサク、ヤコブという三代に亘る家族の物語、イスラエルの先祖である族長たちの物語を読んできました。そして、その三代目のヤコブの物語が、今日と来週で一つの完結を迎える所まで来ました。彼らはそれぞれ全く違う個性を持っており、環境も違い、異なる人生を生きてきたことは明らかです。しかし、彼らにも共通したことがあります。それは、彼らは皆神に選ばれた人物であり、神に使命を与えられた人物であるということです。それはつまり、彼らの人生は、そのことの故に様々な失敗や挫折があったのです。にも拘らず、彼らに対する神の愛は変わらなかったということです。

キリスト者としての「私たち」の「人生」

 私が説教の冒頭で「私たちの人生は」と言った場合の「私たち」とは、一般的な意味で、ある程度の年数を生きている人間全般のことです。しかし、これから言う「私たち」とは、信仰を告白し洗礼を授けられたキリスト者としての「私たち」という意味です。私たちの歩み、それは一般的な意味での人生であると同時に、アブラハム・イサク・ヤコブたちと同様に、神に選ばれ、使命を与えられた人生なのです。その点において、私たちキリスト者は共通しています。そして、そうであるが故に、私たちの失敗とか挫折とかは専らイエス・キリストとその父なる神様との関係の中において起こることであり、成功や幸いもまた、同様に神様との関係の中で与えられることなのです。
 私たちキリスト者の人生とはどういうものなのか、をたとえばパウロの言葉を使って言うとこうなります。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。」

 先程から「人生」という言葉を使っています。それは「人の生」という意味ですが、キリスト者の人生とは、その人の中に生きているキリストの生なのです。このキリストが私たちの中に生きるためには、古い自分が死んでいなければなりません。古い自分が私たちの中に生きている限り、キリストが生きない。私たちはキリストによって生かされて初めて「私たちになる」。つまり、キリストを通して新たに造り出されたキリスト者としての自分になるのです。そして、その時、私たちが生きていること自体が、神様の祝福、恵みを表し、世界にキリストの愛を広めていくという使命を果たすことが出来るのだと思います。そういう意味では、この世における人生では成功していたとしても、キリストが自分の中に生きる人生という意味では、失敗をしている。そういうことは幾らでもあるわけです。その点については、後にまた触れます。

ヤコブの人生

 ヤコブは才覚のある人でした。そして、その才覚をもって兄を騙し、父を騙して、長子の特権も目に見える富という意味での祝福も豊かに勝ち得た人です。しかし、彼の場合、自分の才覚によって勝ち得たものは、その直後に、すべてを失ったり、失う危機にさらされるのです。この世的な成功の裏に、いつも信仰的な失敗がある。そして、この世的な失敗であれば、自分で取り返すことが出来る場合があります。さらに知恵を使って努力をするとか、発想を変えて頑張ってみるとか、そういうことがあるでしょう。しかし、神様との関係の破綻という失敗に関しては、自分の努力とか発想の転換ではどうにもならないものです。私たちが壊してしまった関係を、私たちの方で修復することは出来ないのです。

約束を果たす神

 ヤコブは、これまでに何度かそういうことがありました。そして、その最初が前回も語ったように、兄エサウの敵意を恐れて母リベカの故郷パダン・アラムに逃亡するときです。その時、神様はヤコブに対して、アブラハム以来の祝福を継承する使命を与えると同時に、「わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない」と約束してくださったのです。この「決して見捨てない」という神様の約束、それは真実な約束です。神様が真実なお方だからです。その真実な神様が、ヤコブの不真実にも拘らず、彼を愛し、決してお見捨てにならないのです。
 三五章に入る時のヤコブ、それはもう絶望のどん底におちたヤコブでした。自分の息子たちがシケムの町の人々にやったこと、それは周囲の人々の激しい怒りを買うことであり、彼ら一行は奪ったものはもちろん、彼ら自身の命までも奪われることは確実な情勢でした。そして、さらに彼らがやったことは、神様に対する罪、決して犯してはならない罪であったのです。つまり、神の裁きによって死刑にされて当然の罪であった。そういう二重の意味で、彼は絶望的な状況に置かれ、もうどうすることもできませんでした。同じ場所に留まっていれば全滅することは目に見えているし、女(ラケルは、恐らく妊婦)や子供、それに多くの家畜を連れて逃げてもすぐに追いつかれてしまう。そして、何よりも、神の怒りからは逃れようもないことは明らかなのです。
 かつてペリシテ地方を支配していたアビメレクという王様が、アブラハムに向かって「神は、あなたが何をしてもあなたと共におられる」と言って、一介の遊牧民に過ぎない彼と平和協定を結んでベエルシェバという井戸のある土地を与える約束をしたことがあります。それと同じ様に、神様はヤコブがどんな失敗をしても彼と共にいて下さるのです。この時も、神様は突然彼に現れて、ベテルに行って、祭壇を造れと命ぜられました。これは確かに神様のヤコブに対する愛の表れであるに違いありません。えこひいきとも言える神様の愛がある。それは事実です。私たちが今、こうしてこの礼拝堂で神様の御言を聴き、礼拝を捧げることが出来る。それもまた、神様のえこひいきの愛の故であることを痛切に思います。しかし、それだけなのか?何故、ヤコブは、そして私たちはこのように今も愛されているのか?それは何のためなのか?もちろん、愛に理由があるわけではないと思います。神様がヤコブを、そして私たちを愛したいから愛して下さっている。そう思います。でも、神様の愛は、彼にだけ、また私たちにだけ向かっているわけではありません。彼を通して、そして私たちを通して、すべての人に神の愛が伝わっていくこと、そのことを神様は願っておられる。そういう愛の伝達者として、ヤコブは選ばれているのです。そして、私たちもまたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、神の愛を信じる信仰に生き、その信仰の人生、キリストが私たちの内に生きる人生を通して神の愛を広めていく。そういう使命を与えられているのです。神様は、この時、ヤコブにその使命を再び与え、使命に生きるようにと促してくださっているのだと思います。そういう意味で、神様は彼に「約束したことを果たすまでは決して見捨てない」のだと思います。つまり、ここには約束を果たすという神様の重大な決意がある。

応答する人間

 しかし、神様の決意を伴う愛は、全存在を傾けて受け留め、応答する存在がいて初めて現実化するものです。ヤコブは、信仰的な意味でも失敗の多い人です。しかし、彼は神様が現れ、語りかけて下さる時には断固として応答する人なのです。信仰は、神様の賜物であると同時に神様への応答です。彼は、ここでも、彼を見捨てず、新しい未来を切り開いてくださる神の愛に応答し、決然と立ち上がり、命じられたことを実行しようとします。つまり、ベテルで礼拝を捧げるために立ち上がるのです。彼は家族と一同の者たちに命じました。動詞だけ並べればこうなります。「取り去れ、清めよ、着替えよ、立て(さあ)、上ろう、祭壇を造る。」
 後半の三つは、神様の命令に出てきた言葉です。前半の三つは、神様の命令に応えるための備えとして彼が命じた言葉です。そして、これは私たちが洗礼を受ける際にも当てはまることですし、また毎週の礼拝において起こることでもあるのです。
 「取り去れ」あるいは「捨て去れ」とは、ここでは具体的に目に見える異教の神々の偶像や身につけるお守りのことですが、それが象徴していることは、現世利益的な宗教であったり、その価値観ですし、この世における成功だけを求め生きる生活習慣です。そういうものが心と身体にこびり付いている限り、新しい人間にはなれない。そして、新しくなれないのであれば、このまま滅びるほかにないのです。ヤコブが置かれた内外の状況はそういうものです。彼とその息子たちは、表面的には主なる神の名を語り礼拝を捧げてはいても、その実、日常生活においてはエゴイスティックな欲望を満たすための神々を身につけながら生きているのです。その結果が、シケムにおける略奪なのです。そういうものをすべて捨て去ることをヤコブは命じます。

洗礼・キリスト者

 「清めよ」。これは偶像礼拝における汚れから自分自身を清めよということですけれど、世俗化した現代においては、「取り去れ」と同じく欲望に基づく生活から離れることが前提となっています。しかし、離れるだけでは駄目なのであり、清められなければならない。そのためには「着替えなければならない」のです。古い衣を脱ぎ捨て、新しい着物を着なければならないのです。
 こういう言葉が洗礼を受ける時に、また受けて以後のキリスト者に語られている言葉を新約聖書の中に探せば、幾らでもあります。たとえば、コロサイの信徒への手紙の中にこうあります。

「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」

   また、ガラテヤの信徒への手紙にはこうあります。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

 信仰を告白して洗礼を受ける、また洗礼を受けてキリスト者として生きるとは、いつも新たにこれらの言葉を聴き、「アーメン」と言って従うことです。これらの言葉は、すべて神が私たちを愛しておられるからこそ語りかけて下さる言葉なのです。そして、それは絶えず新たに道に迷い、かつての生き方に戻ってしまう私たちを、神様の許に、その交わりの中に呼び帰してくださる言葉です。神様が、洗礼を授けてくださった時に私たちに与えてくださった約束を果たすために語りかけて下さる言葉なのです。だから、私たちは「アーメン、主よ、罪を赦してください。そして、どうぞ私たちを今日も新たに造り替え、あなたに与えられた使命を生きることが出来るようにしてください」と祈るのです。その祈りを、神様は聴き入れて下さいます。創世記三五章九節以下に記されていることは、その恵みの事実なのです。

誕生と死の物語

 説教の冒頭でも語りましたように、三五章はヤコブ物語が完結する部分です。三七章以後のヨセフ物語も大きな枠組みとしてはヤコブ物語に含まれますが、ヤコブとエサウという双子の物語は三五章で完結します。そして、そこには死と誕生が記され、系図が記されます。この系図が、創世記の枠組みなのです。
 八節に、ヤコブの母リベカの乳母であるデボラが死んだという記事が唐突に出てきて、一つの時代の終わりが暗示される。その直後に、ヤコブに対して新しい名前と同時に祝福が与えられる記事が置かれ、ヤコブの最愛の妻ラケルが難産の末に死んでしまい、ベニヤミンが誕生するという死と誕生の物語が続きます。そして、ヤコブの子どもたちの系図が置かれた上で、イサクの死が告げられ、そのイサクを、母の胎内にいた時から争い続けてきた双子の兄弟、エサウとヤコブが共に葬ったという記事で終わります。つまり、争いに満ちた壮大なヤコブ物語は、和解で終わる。そして、そこにはイサクの死がある。
 こういう構造を見た上で九節以下の記述を読むと、新たな光が射して来るように思います。

ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。」

 ヤコブ、それは彼が双子の兄エサウの「踵」(アケブ)を掴んで出てきたことに由来する名ですけれど、この時には、人を引き摺り下ろしてでも自分が上になりたがる男、人を欺く者、という意味になっているのです。神様が、「あなたの名はヤコブである」とおっしゃる時、それはそういう意味です。
 親が子供に名をつける時には願いが込められるものです。最近は、音の響きのよさだけでつける場合があるようですが、信仰をもった親が名をつける時、そこには神様に対する深い感謝と祈りがあり、願いがあります。考えてみると、創世記において、アブラハムは元々アブラムという名であったのを、神様がアブラハムと改めて命名したのでした。それは「一つの民の父」という意味の名を「多くの国民の父」と変更することでした。名前を通して彼の使命を明らかにしたのです。「笑い」を意味するイサクは、元々神様がつけた名前です。それはアブラハムや妻サラが常識では考えられない神様の約束を腹であざ笑ったことに対して、無から有を創造する神様の御業を讃美する笑いに変えるという意味がありました。不信仰がもたらす絶望を信仰がもたらす希望に変えたと言ってもよい。希望に満ちた顔は笑顔だからです。それに対して、ヤコブをイスラエルに変える場合、神様は三二章では「お前は神と人と闘って勝ったからだ」とおっしゃっていますが、ここは勝ち負けが判然としない所で、イスラエルという名前自体も一つの意味に決めることが出来ないことは、この箇所を語った時に言った通りです。しかし、一般的には、イスラエルとは「神の支配」「神の勝利」という意味だと言われています。神と格闘し、祝福を貰うまでその手を放さず、ついに祝福を勝ち得たという点ではヤコブの勝利なのですが、しかし、その祝福なしではヤコブは生き得ないわけで、そういう意味では神の方が圧倒的な勝利者であり、支配者であることは言うまでもありません。神と人を欺く者ヤコブが、この時、神の呼びかけに敢然と応えるその悔い改めの信仰の故に、再び「イスラエルがあなたの名となる」と言われるのです。神の支配を、その勝利を世界に広めるという使命が新たに与えられるのです。

「わたしは全能の神である。
産めよ、増えよ。あなたから
一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり
あなたの腰から王たちが出る。
わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。
また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」


 これは創造の根源に立ち帰り、そして、アブラハムの祝福に立ち帰り、ヤコブを全く新しく創造し、そして信仰を与えられてからも繰り返し罪に堕ちるヤコブに対する約束(契約)の再更新です。つまり、神様のことを信じつつも、なおこの世の価値観に捕らわれ、その価値観を引き摺りながら生きていたことに気付かされ、決然とそれらのものを捨て去り、家族にも命じたヤコブに対して、神は全く新しい命を与え、既に与えていた約束を更新してくださったのです。つまり、それまでのヤコブはここで死んだ。そのヤコブの死が、イスラエルの誕生に繋がるのです。彼は、神様の語りかけを聴く中で、自分に新しい命が与えられたことを知らされたでしょう。そして、それは古い自分が死んでいくことを感じたということです。

礼拝の場所 神の家

一三節から一五節までの間に、実に三回も「神がヤコブに語られた場所」という言葉が出てきます。その場所に、ヤコブは記念碑を建て、ぶどう酒を注ぎ、油を注ぎました。感謝を捧げ、その場所を聖なる場所として分けたのです。そして、「神の家」を意味するベテルと名付けた。神の語りかけを聴き、そして、礼拝する場所としたのです。エルサレムに神殿が建てられるまで、このベテルはヤコブの子孫であるイスラエルの民にとって重要な聖所、礼拝所でした。
 言うまでもないことですが、神様はいつでもどこでも自由に人間に語りかける方です。ヤコブもまた、夜の夢の中で語りかけられましたし、日常生活の只中で語りかけられることもありました。しかし、三五章におけるように、「この場所に来なさい」と命ぜられることがあるのです。何のためかと言えば、彼に語りかけるためです。新しい命を与え、約束を新たに与えるためです。そういう特定の場所がある。それはやはり私たちにとっても大事なことなのではないでしょうか?
 先週の説教の冒頭で、私は時折礼拝において演奏されるオルガン奏楽曲の題名が、「愛するイエスよ、私たちはここにいます」であることに触れました。そして、今日の礼拝における開会の讃美歌(「讃美歌21」51番」に選びました。その楽譜の左上の作詞者の上に書かれている曲名は、もう少し長いもので「愛するイエスよ、私たちはここにいます。あなたとあなたの言葉を(求めて)」となっています。礼拝とは、何よりも神の言葉、イエス・キリストの言葉を聴くためにあるのです。神の語りかけを聴くために、私たちは呼び出されているのです。今日も仕事をすればもっと儲かるのにとか、勉強すれば人よりも上にいけるのにとか、天気がいいから遊びにいきたいとか、今日くらいのんびり寝ていたいとか、そういうこの世の思いを捨て去って、新しい自分にしていただくために、キリストと結びついてキリストを着るために呼ばれ、そして集まってくる。それが礼拝であり、その場所がこの礼拝堂なのです。だから、私たちにとってのベテルは、この桜丘の上に建つ中渋谷教会礼拝堂なのです。その礼拝において、今日、最初に歌ったのが、「愛するイエスよ、私たちはここにいます」です。

「愛するイエスよ われらここにあり
世の思いみな うしろに退け
御言したいて ここに集まりぬ

われらの思い 闇に閉ざされぬ
ただ待ち望む 聖霊の光を
きよき御旨のみ はたしたまえ 主よ

栄の主イエス 光の光よ
心と耳と  くちびる清めて
さんびと祈りを ささげさせたまえ」


御言は聖霊の光に照らされないと、何にも分かりません。頭でいくら理解しようとしても、それは頭で理解できることしか分かりません。しかし、神の言葉は、頭で理解できることを語っているのではないし、そんなことを願って神様が語っているのでもないのです。御言は、X線が身体の内部の病根を見せるように、聖霊の光と共に読む時に、私たちの内なる現実を鮮明に見せるものです。そして、その内部にどす黒い闇が存在することを鮮明に見せるのです。「世の思い」「われらの思い」、それは皆、「闇に閉ざされた」ものです。三四章で明らかになったヤコブとその息子たちの思いなどまさにそうです。この後には、ヤコブの長男ルベンがラケルが死んだ後、ヤコブの側女ビルハと肉体関係を持つという恐るべき罪を犯したことが記されています。そういう貪欲、あるいはみだらな生活が、私たちと少しも無関係ではなく、そこに私たちの姿があることを示してくれるのは神の言であり、その言葉に聖霊の光が差し込んできた時なのです。その聖霊の光抜きに聖書を読めば、せいぜい「人間は昔から変わらぬものだ」とか、「神はなんだかえこひいきで、理屈に合わん。こんな神を信じるなんて馬鹿らしい」とか、「聖書の記述は矛盾に満ちていて信じるに値しない」とか、そんな程度のことしか分かりません。しかし、聖霊の光に照らされて聖書を読む時、読まされる時、また聖霊の導きの中で説教を与えられる時、そこで知らされるのは、耐え難い罪の現実であり、鹿が枯れた谷に水を求めるように、神の愛と赦しを求める思いです。生命の水はこの世にはなく、ただ神から与えられるしかないからです。

人間の罪の歴史 神の御業の歴史

新しい命は死を通して与えられる。そのことを三五章は、その構造においても内容においても語っていると先程言いました。しかし、いつものことですが、私たちは創世記三五章だけを読むわけにはいきません。聖書全体の構造と内容を考えなければならないし、実は、そういうことをしないと三五章の語りかけも十分には分からないのです。
私たちは今、アドヴェント、主イエスの御降誕を待ち望む季節を生きています。来週はクリスマスの前の週であり二一日がクリスマス礼拝となります。私は、来週もヤコブ物語の完結部分を読みます。そこには死と誕生の物語があり系図があります。来週の礼拝では、その物語と系図をマタイによる福音書の冒頭に出てくる系図と関連させて御言のメッセージ、語りかけを聴きたいと願っています。まだ、それがどんなものなのかはよく分かりません。しかし、明らかなことは、物語にしろ、系図にしろ、そこに記されている事の深層は人間の罪の歴史であり、その罪人を心引き裂かれる思いで愛し、その罪を赦しつつ、何とかして新しい命、新しい人間を造り出したいという神様の御業の歴史なのです。神の独り子であるイエス・キリスト、この方は、私たちすべての人間の罪の歴史をその身に背負って、この世に人としてお生まれになったのです。それは、何のためか?それは十字架に磔にされて処刑され、そしてその死から甦るためです。そのようにして、「自分の民を罪から救う」(マタイ福音書一章二一節)ためです。私たちを罪から救う。そのことのために、神の御子イエス・キリストは神の許からこの地上に生まれ、十字架上で殺されて死に、そして死を撃ち破って復活させられたのです。そして、その復活のイエス・キリストが弟子たちに語った言葉、つまり、ご自身を裏切り逃げて行った弟子たち、「たとえ一緒に死なねばならないとしても、あなたのことを知らないとは決して言いません」と口々に表明しつつ、その舌の根も乾かぬ先に逃げて行った弟子たち、肉体の死を恐れて愛と信仰を捨てた弟子たちに、復活のイエス様が語った言葉、それはこういうものでした。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。あなたが何をしても、わたしはあなたと共にいる。あなたがわたしを捨てても、わたしはあなたを決して見捨てない。あなたに与えた約束を果たすまで、わたしはあなたを決して見捨てない。さあ、立ちなさい。行きなさい。わたしが教えたことを宣べ伝えなさい。すべての民をわたしの弟子にするために。すべての民に、罪からの救いという福音を宣べ伝えなさい。そして、信じる者に洗礼を授けなさい。わたしは死を通して復活した。あなたたちも、古い自分に死になさい。この世の思い、闇に閉ざされた思いを捨て去り、わたしを着なさい。そして、新しく生きるのだ。」

 主イエスは、今日、この礼拝において私たちにこう語りかけています。新約聖書におけるベテル、神の家に建てられる祭壇、あるいは記念碑、それは私たち人間が建てるものではありません。それは神ご自身が建てて下さったものです。十字架、それが祭壇であり、記念碑です。私たちはこの十字架を仰ぎ、礼拝するのです。目に見えない十字架、そこに磔にされるまでして私たちを愛してくださったイエス様を愛し、復活して今も、そしていつまでも共に生きてくださるイエス様の言葉を聴き、その言葉に信仰をもって応答するのです。イエス様の死に与り、そして復活に与る。そして、神様の祝福を受けて派遣され、与えられた使命を生きる。礼拝で起こることは、そういうことだし、それが神の祝福なのです。
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