「誕生と死」

及川 信

                    創世記 35章16節〜29節
             マタイによる福音書 1章 1〜17節

 

一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがあるときに、ラケルが産気づいたが、難産であった。ラケルが産みの苦しみをしているとき、助産婦は彼女に、「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言った。ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた。ヤコブは、彼女の葬られた所に記念碑を立てた。それは、ラケルの葬りの碑として今でも残っている。イスラエルは更に旅を続け、ミグダル・エデルを過ぎた所に天幕を張った。イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。
レアの息子がヤコブの長男ルベン、それからシメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ラケルの息子がヨセフとベニヤミン、ラケルの召し使いビルハの息子がダンとナフタリ、レアの召し使いジルパの息子がガドとアシェルである。これらは、パダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである。
ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところへ行った。そこは、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。イサクの生涯は百八十年であった。イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。

ベニヤミンの誕生・ラケルの死


ヤコブたち一行がベテルで礼拝を捧げ、新しい名前「イスラエル」と共に新たに祝福と使命を与えられてから、どれ位の時間が経ったのかは分かりません。しかし、彼らはまた旅立ちます。ラケルが妊娠しており、臨月であるにも拘らず旅立つのですから、それなりの切迫した理由があるのだと思います。その旅の途上でヤコブの最愛の妻ラケルは非常な難産の末に男の子を産みました。その時、助産婦は彼女に、こう声をかけたのです。

「心配ありません。今度も男の子ですよ。」

 この言葉には伏線があります。彼女にはレアという姉がおり、その姉はヤコブの愛を受けることはありませんでしたが、神の顧みを受け、ヤコブとの間に六人の男の子を産んでいました。ラケルにとっては、その事実は耐え難い悲しみであり、屈辱でした。そこで彼女は自分の仕え女のビルハをヤコブの側女として与えて、ビルハはラケルのためにヤコブとの間にダンとナフタリという二人の男の子を儲けました。そういう壮絶な姉妹の争いの果てに、ヤコブにとって十一番目の男の子が、既にかなり高齢になっていたであろうラケル自身から産まれたのです。その時ラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言いつつ「主がわたしにもう一人の男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願ったのです。そのラケルの切実な願いが、その時から数年後の今、聞き届けられた。助産婦はそう言っているのです。
 しかし、その最大の喜びの時に、ラケルは命を失っていく。一つの命を産み出すために、一つの命が死ぬのです。ラケルは、息を引き取る間際に、「その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付け」ました。それが彼女の偽らざる心境であることは、痛いほど分かります。しかし、生まれた子にしてみれば、自分を産んだことによって母親が死んでしまったというだけで大変な重荷を負うわけで、その上に「わたしの苦しみの子」と名付けられ、幼い頃からそう呼ばれ続けるということは、やはり耐え難いことであることも事実です。ヤコブは、最愛の妻を失うという大きな悲しみの中で、その子の生涯を決定する名前をベニヤミン、「幸いの子」としたのでした。(直訳すれば「右手の子」となり、力の象徴でもあるようです。)
とにかく、このようにして「イスラエル十二部族」の先祖が揃いました。しかし、その時ラケルは死にました。このラケルは、後にイスラエル十二部族の母の象徴のようにされていき、後で触れるように、預言者エレミヤの預言の中で、戦争によって殺されたイスラエルの民の母として嘆く様が描かれます。そしてその言葉はヘロデ大王によるベツレヘム周辺の二歳以下の男児皆殺しの場面で引用されることにもなります。

ルベンのしたこと

 今は、もう少しヤコブ物語を読み進めます。ラケルの葬りもそこそこに「イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデル(家畜の見張り塔)を過ぎた所に天幕を張った」とあります。つまり、ここで漸くひと息ついたのです。シケム周辺の人々が追撃してくるのではないかという恐怖や緊張から解かれ、また嘆きや悲しみの連続であった旅の途中でしばしの安息を取ることが出来たのです。
 しかし、その時、思いもよらないことが起こりました。

「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」

 先程も言いましたように、ビルハはラケルの仕え女であると同時にヤコブの側女であり、ルベンにしてみればダンとナフタリという二人の弟の母です。ということは、これは完全な近親相姦ということになります。ふしだらな性的な罪なのです。そして、こういうことが約束の地に住むカナン人の間では行われていたのです。ですから、神様は後にイスラエルの民を約束の地に導いているモーセを通して、こうお語りになっています。

「父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。」(レビ記二〇章一一節)

 その他にも歪んだ性的な罪の数々を挙げた上で、主なる神はこう言っておられます。

「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない。彼らの行為はすべてわたしの嫌悪するものでる。・・・あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするために諸国の民から区別したのである。」

 ルベンの罪は、まず第一に、この戒めに違反しており、ビルハと共に死罪に当たる罪です。イスラエルの長男は、そういうことをしてしまった人間なのです。
 また、彼の行為は、そういう性的な事柄だけではなく、政治的な事柄でもあります。彼は、シケムの出来事においても、最早、指導的な役割を演じなかった父親、すべてが終わってから「困ったことをしてくれたものだ」などとぶつぶつ文句を言うだけの老いた父親になり代わって、自分が一家の頭であることを、こういう行為を通して宣言した。そういう側面もあります。当時の戦争の勝者は、負けた方の全財産を自分のものにしますが、その財産の一つは女なのです。支配者の女たちを自分のものにすることが、支配者が交代したことを宣言することでもあったのです。ルベンのしたことは、そういうことでもありました。
 彼らイスラエル十二部族の先祖は、メソポタミア地方からはるばる約束の地カナンに帰ってきた直後に、娘のディナがカナン人シケムによる性的な暴行を受けるという試練に遭遇しました。それは聖なる神の民イスラエルにおいては、決して赦されざる罪、汚れた罪であり、その罪を犯した者は除去されなければならないことでした。そこで彼らは聖なる契約の徴である割礼を利用して正当な報復をしようとするのですが、そこで彼らがやったことは、略奪であり、虐殺であり、女子供を捕虜として奪うというとんでもないことだったのです。彼らはカナンの地の汚れた文化に強く反発し、聖なる民の尊厳を守るという名目の下に報復しつつ、結局はカナン人と同じことを、つまり、この世の人々と同じことをしてしまったわけです。
 そして、その後、ベテルにおける礼拝を通して清められ、新たに出発をし、カナンの地、この世に聖なる神の祝福をもたらすための旅をしているのに、ルベンはすっかり汚れたカナンの文化に同化してしまっている。

この世を生きる信仰者

 私たちキリスト者がこの世を生きる上でも、ここで提起されている問題は存在しています。教派によって、またキリスト者個人によって離婚の問題、同性愛の問題、異性との交わりに関して、また中絶の問題、酒やタバコの問題、先祖代々家にある仏壇や神棚の問題などなどに関して様々な立場があります。現代においては、もう時代の流れとして受け止められつつある様々な事柄を、伝統的保守的な立場を堅持して断固反対し、この世の文化との決別の立場を取る人々が一方にいます。しかし、大体のことは時代の流れに合わせて容認している人々もいます。そして、前者の人々は、しばしば自己独善、自己絶対化に陥り、この世を、また信仰を持たない世の人々を見下して裁く傾向があり、後者の人々は信仰を生きているという目印はどこにもなく、完全にこの世に同化し、他人にも自分にも寛容だけれど、塩の味を失っていく傾向があります。つまり、自分も裁かれないようにするために他人も裁かないのです。そのいずれも、恐らく神様から見れば、間違っているのだと思います。
 ヤコブとその子供たち、つまり、イスラエルは、聖なる神を礼拝しつつこの世を歩むべき聖なる者たちです。しかし、その彼らが時に自己独善的、排他的にこの世の文化と対決しつつ、実はこの世にどっぷりと浸かり、時にこの世の文化を自らに取り入れることでどっぷりと浸かってしまうのです。そして、それはまた私たちの現実でもあるでしょう。申命記の五章に「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にも逸れてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすらに歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることが出来る」というモーセの言葉があります。しかし、この言葉の通りに生きることはまさに至難の業です。
 ヤコブは、ルベンのしたことを耳にしても、何も出来ません。彼は裁くことも赦すことも出来ない。主の道を示し、それを歩くことが出来ないのです。

イスラエルの系図

 それはともかくとして、ラケルの死とベニヤミンの誕生、そしてルベンのこの忌まわしい行為が書かれた直後に、ヤコブの息子たちの系図が書かれています。
 ここに登場する人々は、シケムにおける恐るべき出来事のきっかけとなったレビとシメオン、彼らに便乗した他の兄弟たち、そして、まだ幼いヨセフと生まれたばかりのベニヤミンです。それがイスラエル十二部族の先祖なのです。そして、後に、ヨセフの兄たちは父にえこひいきされるヨセフを憎み、彼は獣に噛み殺されたことにして、エジプトに向かうキャラバンに売ってしまおうとする人々でもあるのです。「イスラエルとは、そういう人々なのだ。罪と汚れに満ちた人々なのだ。」命の連なりと拡がりを表すべき系図は、実は、その裏で、罪の連鎖と拡大を表している。しかし、それと同時に、そういう罪人たちを何とかして神の祝福、約束を担う人々、世界の中に持ち運び、伝える人々として造り替えるために悪戦苦闘する神様の愛と赦しの御業、その歴史をも表しているのだと、私は思います。
 その一つの表れが、このヤコブ物語の完結部分に記されています。それはイサクの死とヤコブと双子の兄エサウによる埋葬の記事です。
 イサクもまた、神のものである祝福を私物化し、自分の好みに従ってエサウに継承させようとしたという大罪を犯した人物です。そのことが、エサウとヤコブの関係を決定的な対立に導いたとも言えるのです。しかし、その彼が今、エサウとヤコブという兄弟の手によって埋葬されている。イサクの死を通して、この兄弟はついに和解へと導かれている。長い長い年月を経て、イサクはついにすべての罪が赦される神の祝福の内にその生涯を終えることが出来、彼の子供たちも、互いに和解することが出来た。この場面は、そういう和解の出来事がイサクの死を通して起こったことを示しています。そして、そのイサクの死こそが、新しいヤコブ、新しいエサウの誕生を意味しているのです。イサクは、この死を通して、そうとは気づかぬ形で既にヤコブに与えていた神の祝福を彼に継承させたのだし、ヤコブはイサクの死を通して、祝福を担うイスラエルとして立たされたからです。
これが、ヤコブ物語第一部の結論です。(クリスマスを挟んだ次回はエサウの系図を読み、来年からは長らく中断していたヨハネ福音書を読みます。創世記の続きは、いつになるか分かりませんが、ご一緒に読みたいと願っています。)

イエス・キリストの系図

今日は、クリスマスの前の週ですから、ヤコブ物語の一つの延長としてマタイによる福音書の冒頭部分に少し触れたいと思います。この系図は基本的に、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と父親と息子の名前が記されています。しかし、所々、「〜は〜によって」と記されています。その「〜によって」の「〜」は女性の名前です。その最初は「ユダはタマルによってペレズとゼラを」です。続いてラハブ、ルツ、ウリヤの妻とあり、最後はマリアが、「〜によって」ではない形で出てきます。彼女だけは、男女の性の交わりによって子を産んだわけではないからです。
マリアについて今日は触れませんが、他の四人の女たちは皆、本来なら系図に入らない、入れたくない女たちであり、その女たちと関係する男たちの少なくとも二人は致命的な罪を犯した人間です。
その内の一人であるユダ。彼は、イスラエル十二部族の中で、後に中心的な部族になるユダ族の先祖です。「ユダヤ人」という言葉の元になった人物なのです。だからこそ、この系図に入っているとも言えます。しかし、全く逆の意味で系図に入っているとも言えるのです。彼とタマルの関係は、舅と嫁の関係なのです。彼らについては、創世記の三八章に記されていますから後でお読みになったらよいと思いますが、ユダはタマルと結婚した長男が死ぬと、当時の風習として次男の嫁に迎えるのです。しかし、その次男も死んでしまう。こうなると流石に不吉な女だということになり、ユダはタマルに「三男が成人したら再び嫁として迎える」と言いつつ故郷に寡婦として帰してしまう。しかし、彼はタマルを三男の嫁として迎える気などないのです。そのうち、ユダの妻が死にます。そこでタマルは顔を隠した遊女の格好をしてユダが通る道で待ち構え、ユダと床を共にして妊娠するのです。ユダは、まさか相手がタマルとも思っていませんし、タマルの胎の子が自分の子供であるとも思っていないものですから、その噂を聞いた時に「寡婦としてあるまじき、ふしだらな行為をしたあの女を殺してしまえ」と言うのです。しかし、タマルに後で払うつもりの代金の代わりに渡していた自分の印鑑と杖をつき出され、「私はこれらのものの所有者と床を共にしたのです」と告白をされ、ユダは決して人に知られてはならない罪を天下の人々に知られてしまうのです。そのようにして生まれたのがペレズとゼラです。そして、そのユダがユダヤ人の先祖であり、イエス・キリストの系図に記されている。
ラハブ、彼女はエリコという町の遊女です。今で言えば、歓楽街で身体を売って働く女です。彼女についてはヨシュア記の最初に出ていますので、お読みください。もちろん、彼女はイスラエルの民(ユダヤ人)から見れば異邦人、外国の女です。そういう女が、この系図に出てくる。
ルツはルツ記という小さな物語が旧約聖書にありますが、やはり外国人の女です。小作人が刈り取った後の落穂を拾いながら姑を助けた貧しい女です。しかし、その外国の女がアブラハムの子孫、イエス・キリストの系図に入っている。
そして、「ウリヤの妻」が登場します。ここは一見しただけで不自然な書き方です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とある。ダビデは、ダビデの妻との間にソロモンを儲けたわけではない。ダビデ王の部下で軍人であるウリヤの妻との間に息子を儲けたのです。彼女の名前はバテシバと言いますが、敢えてその名は記されないのです。つまり、イスラエル第一の王と言われるダビデは、部下の妻との不義密通によってイスラエル最大の王となるソロモンを儲けたのです。そして、ここには姦淫の罪だけでなく、間接的な殺人の罪も隠されています。彼は、自分の罪が人々に明らかにならないように、自分の部下ウリヤを、絶望的な戦略の最前線に立たせるように上官に命じて、意図的に戦死させたからです。
本来、系図は自分の家系の由緒正しさを証しするために書かれるものです。そして、そういう場合の系図にはすべての子孫が書かれる訳ではありません。消したい人物は消して書いていくことも出来るのです。しかし、ヤコブの十二人の息子の中で特にユダが選ばれている。ルベンの行為は一節だけしか記されていませんが、ユダのやった恥ずべきことは創世記の中で一章が割かれるほど強調されているのです。そして、ダビデのやったことはサムエル記下にもっと長く詳細に書かれています。そういうユダとダビデがこの系図に出ているのです。
つまり、この系図で言おうとしていることは、イスラエルの歴史、ユダヤ人の歴史は、実は罪と恥に塗れているのだということだし、イエス・キリストはユダヤ人だけでなく、あるいは男だけでなく、外国人、遊女、貧しい難民というすべての人の歴史、人生を背負って生まれてきたのだということです。ダビデ以後の王達の歴史、また旧約聖書には名前も出てこない人々の歴史、有名人、無名な者、そのすべての人間の罪と恥、嘆きと悲しみ、それら一切を身に引き受ける形で、イエス・キリストは誕生した。そういうことをこの系図は語っているのです。

罪から救うために

そして、そのイエス・キリストの誕生の目的は何かと言うと、ヨセフに対する天使の言葉に明らかです。この時のヨセフは、自分との関係によってではなく子を宿したマリアを妻として迎えるべきか、密かに離縁すべきか、死ぬほどに悩んでいるヨセフです。 天使は、こう言いました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 「この子は自分の民を罪から救う。」
アブラハムもイサクもヤコブもユダも、書かれてはいなくてもルベンも、王様も遊女も、男も女も、誰も彼もが罪を犯しながらでしか生きることは出来ないのです。そして、誰も彼もが苦しみ、嘆き、絶望しあるいは諦めつつ生きることしか出来ないのです。
 この世で私たちが引き起こすこと、それは物を奪い、人を奪い、その命を奪い、また汚し、傷つけ、敵対し和解し得ない程に分裂することです。聖書に記されている人間の業は、そういうものです。しかし、私たち罪人たちが犯すそのすべてをその目で見ている神様が、そういう私たち人間を何とかして赦し、清め、新しく造り替えようと、悪戦苦闘している。まさに心引き裂かれん思いの中で、それでも私たち人間を愛し、赦し、和解へと導こうとしてくださっている。聖書は、その事実をも告げているのです。そして、その究極が、神が聖霊によって女に宿した神の独り子イエス・キリストの誕生なのです。
 日本人というのは、本当に祭りが好きなんだと思いますが、今、街はクリスマス一色です。教会がまだ何も準備していない時から、街にはクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、クリスマスソングが鳴り響いています。ほとんどの人が、クリスマスの起源も意味も知らずに、ましてキリストを信じてもいないのに、宴会をしたり、家の飾り付けをしています。前任地の松本にいた時、周囲は寺や神社だったのですが、「隣の寺の住職の家の中はクリスマスの飾り付けが凄く綺麗だった。お宅は教会なのに地味ね」と近所の方に言われました。その近くにある寺の附属幼稚園でもクリスマス会はやっていました。もちろん、仏教のお祭りである花祭もやっていましたが。
私は、この季節にいつも何とも言えない暗い苦しみを感じます。その原因は、考えてみると実はいくつもあるのですけれど、そのすべてをここで語っても仕方がないことです。一つを挙げるとすれば、世の悲惨さ、つまり、私たち罪人の悲惨さは旧約聖書の時代も、イエス・キリストが生まれた時代も何ら変わっていないという事実です。
先週の婦人会のクリスマスで語ったことですが、つい先日観たアフリカのウガンダの一つの実態を描く映画などにおいて知らされていることは、こういうことです。かつて悪名高きアミンという独裁者がいたその国は、彼の失脚後、内戦が続き、現在も反政府軍の兵士たちによって、多くの人々が虐殺され、その子供たちは誘拐され、男の子は強制的に人殺しをするための兵隊にさせられ、女の子は男の兵隊の性欲の奴隷とさせられているという悲惨な現実です。親を目の前で殺された子供、自分の親を殺せと命ぜられた子供、また逆らったが故に殺された子供、子供が殺されるのを目の前で見させられる親。とにかく、そういう人々がこの世界には沢山いるのです。イラクでもアフガニスタンでも、兵士同士が殺しあうよりも一般の民間人が兵士に殺される、それも誤射とか誤爆とかで何千、何万という人が殺されているのです。兵士たちは兵士たちで、無事に帰国できても、絶えざる恐怖と人殺しをしてきたという罪責感の中で精神を痛め、そのために仕事を失い、家庭が崩壊し・・と非常な危機の中に捨て置かれている場合が少なくありません。これはこれで悲惨なことです。日本でも幼い子供が無残に殺される事件が後を絶ちませんし、嘆き悲しむ親の悲しみは癒えることがありません。毎日、毎日、そういう現実を知らされながら、私たちは生きており、そしてクリスマスを迎えようとしているのです。「主よ、いつまでなのですか」と呻かざるを得ないのです。これは世の中の現実を見ての他人事の呻きだけではなく、毎週礼拝を捧げつつも罪を犯し続ける私自身の現実を見ての呻きです。

クリスマスの嘆き

クリスマスの出来事は、人間の罪の歴史の只中で起こったことです。系図がそのことを物語り、またイエス・キリスト誕生を聞いた後のヘロデ大王によるベツレヘム周辺の二歳以下の男の子虐殺という痛ましい出来事がそのことを物語っています。彼は、自分に取って代わる王が誕生したことを聞いた時に、心底怯えて、可能性のあるすべての子を殺したのです。
その時のことをマタイは、こう記しています。

こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 ラマとはラケルが死んだエフラタのすぐ近く、つまり、イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムのすぐ近くの場所です。エレミヤの時代、ラケルはイスラエルの民の母の象徴でした。ベニヤミンを産んで死んだラケルが、すべてのイスラエルの母として記念されているのです。その母ラケルが、戦争によって殺された子供たちのために激しく泣き叫んでいる。それは最早、慰められることも拒否する嘆き悲しみです。そういう悲しみ、人を絶望と死で覆ってしまう悲しみ、そういう悲しみがいつの世にもある。だからこそ、私たちは、その悲しみを忘れようとしてドンチャン騒ぎをしたがるのかもしれません。でも、騒いだところで罪と死の闇が世界を、私たちを覆っているという現実は変わりません。

しかし、だからこそ

 しかし、だからこそ私たちは、その死の闇の中に、罪と死の歴史の中に生まれて下さった方、「自分の民を罪から救う」ために生まれて下さった方を見つめるしかないのです。この方、この方の十字架の死と復活の事実を見つめるしかないのです。私たちすべての罪人の罪を背負い、神に見捨てられて死刑にされるという絶望の裁きを身代わりとして受け、そしてそのことの故に復活し、「わたしは、天と地の一切の権能を授けられた。・・見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と語りかけて下さるこの方を見つめ、この方の言葉を聴き、私たち自身の内と外にある闇の現実に抗して立ち上がるしかないのです。ただこの方が、二千年前に生まれてくださり、死んでくださり、甦ってくださり、そして今も生きて働いて下さっている。ただその事実の故に、その事実を信じることが出来るが故に、私たちは今日も感謝し、喜び、賛美し、主の誕生を祝うことが出来るのだし、これからも自分自身と世界のその歴史に希望をもって生きていくことが出来るのです。そして、その私たちの人生は、どんな状況においても、天においても地においても一切の権能を授かった主イエス・キリストを証し、宣べ伝える人生でしかあり得ません。伝道者は伝道者として、信者は信者として、その賜物を献げ、その生活において、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを証ししながら生きる。私たちは、そのために今日もこの礼拝において祝福を受け、派遣されるのです。
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