「アブラハムの子孫」

及川 信

                    創世記36章 1節〜43節

 

エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。エサウは、カナンの娘たちの中から妻を迎えた。ヘト人エロンの娘アダ、ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ、それに、ネバヨトの姉妹でイシュマエルの娘バセマトである。アダは、エサウとの間にエリファズを産み、バセマトはレウエルを産んだ。オホリバマは、エウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらは、カナン地方で生まれたエサウの息子たちである。エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。セイルの山地に住む、エドム人の先祖エサウの系図は次のとおりである。まず、エサウの息子たちの名前を挙げると、エリファズはエサウの妻アダの子で、レウエルはエサウの妻バセマトの子である。(以下省略)

 「聖書の面白さ」について私などが語ることは出来ないといつも思うのですが、「聖書の面白さ」を語ることほど楽しいこともありません。
 聖書が描く世界とその歴史は、実に壮大なものです。私はまだ全体を一読する程度しか読んでいないので、その壮大な歴史物語の本当の面白さを知りません。しかし、それは一生掛かっても知り尽くすことなど出来ようもないことですが、一生をかけて知っていきたいものです。礼拝や各分団の学びの中で、皆さんと共に創世記をこつこつと読んできて、今日で九一回目の説教です。夏から連続して語ってきた創世記のヤコブ物語の説教も、二〇〇八年の最後の日曜日である今日終わります。来年からは、少なくとも夏までは基本的にヨハネ福音書に集中していこうと思っています。

創世記における系図

その区切りの日、私たちはエサウの系図を読んでいます。以前、説教の中で、「系図は創世記の枠組みだ」と言ったと思います。創世記は系図の書でもあるのです。それは、今日お配りした資料をご覧になってもお分かりだと思います。左側には、アダムとエバ以来の人類の系図とユダヤ教、キリスト教、イスラム教に至る非常に簡略な流れが記されています。右側にはアブラハムからの系図を載せておきました。
創世記の最初の系図は、アダムからノアに至る十代の系図です。そのノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが当時考え得る範囲での全世界に散らばった民族の祖ということになります。その三人の息子の中からセムが選ばれ、それがアブラハムに至るのです。つまり、創世記の系図とは、一方で世界に民族が拡大していく様を描きつつ、他方で一つの家系に集約されていく選びの様を描き出しているのです。選びという固有性と世界という普遍性の関係、そのバランスをしっかり取りながら聖書を読まないと、少しも面白くないのです。固有性だけをとって見れば偏狭な選民思想を助長する書物となり、普遍性だけをとって見ればただの教養書になるだけだからです。
また、聖書に記されている系図や歴史には、史実と同時に史実の解釈が緊密な形で混ざっていますから、その意味でも一筋縄ではいきません。さらに、一人の人が数十年かけて書いたわけではなく、何人もの人々が恐らく千二百年以上かけて書き続けてきたものが一冊に纏められているのが、聖書です。文書としての最も古い層と最も新しい層では旧約聖書だけでも八百年位の差があるのですから、その時々の歴史的状況は異なり、それに伴って、たとえば今日の問題であるエサウの子孫としてのエドムに関するいくつかの記述も表面的には矛盾を孕んだものとなります。その意味でも一筋縄ではいきません。でも、だから面白いのです。

エサウの系図が意味すること

今日の箇所の直前にイサクの死があり、そのイサクをエサウとヤコブという双子の兄弟が共に葬ったことが記されています。彼らは、生まれる前から母の胎内で争い合ってきた双子です。青年期に決定的な対立状態になってしまい、弟が逃亡し、二十年以上も会うことがありませんでした。そして、二十年後に、ヤコブが故郷に帰る時も、彼は兄エサウの顔を見ることが怖くてたまらなかったのです。そういう兄弟が、しかし、アブラハムの息子であり、自分たちの父であるイサクが死んだ時に彼を共に葬った。そこに、彼らの和解が暗示されていると思います。
しかし、和解したことと一緒に暮らすこととは別のことです。特に遊牧民にとっては、牧草と井戸の水が不足することが死活問題なのですから、一つの土地に多くの群れを持つ者同士が共に住むことは出来ません。三二章では、エサウはこの時はセイルの地に住んでいたようになっていましたが、三六章六節以下では、エサウは約束の地に帰ってきたヤコブに土地を譲り、セイルの山地に移動したことになっています。この時のエサウ、それはヤコブがアブラハムからイサクへと継承されてきた祝福や約束を継承する息子であることを完全に認めています。そして、彼は彼で財産を持ち、また他所へ移って生活の場を確保する力を充分に持っていたということでもあると思います。
三六章は六節から八節にかけて物語文があるだけで、あとは基本的に系図が記されており、またエサウの子孫であるエドム人の歴代の王たちの名前が列挙されています。この系図がヤコブ物語の一つの完結なのです。この後、創世記はヤコブの息子たちの物語に移っていきます。エサウは最早登場しません。しかし、そのエサウの子孫の系図がこんなにも長く書かれていることにどんな意味があるのでしょうか?
三一節に「イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、エドム地方を治めていた王たちは次の通りである」とあります。つまり、イスラエルが王制を導入する少し前に、エサウの子孫のエドム人は王制を採用し、王国を形成していたということです。しかし、それと同時に、この系図は、エサウの時代からヤコブとその子孫イスラエルのエジプト滞在四百年、エジプト脱出と荒野放浪の四十年、そして土地定着から王国成立までの約百年間、そして後で述べますようにダビデ王の時代までを含むエサウの子孫の系図であることが、ここで明らかにされているのです。ざっと数えても六百年以上の歴史が背後にあります。
ということは、聖書の書き手は、六百年以上の長きにわたってエサウの子孫に関して興味や関心を持っていたということです。エサウがアブラハム以来の神様の約束を受け継ぐわけではないし、祝福を持ち運ぶ使命が与えられているわけではありません。それはヤコブとその子孫に与えられた賜物であり使命です。創世記もそれに続く物語も終始一貫、ヤコブとその子孫、つまりイスラエルの歴史を語っていくのです。しかし、この系図は、数百年に亘るイスラエルの歴史と並立するエドム人の歴史を系図の形で書いているのです。物語文は、「荒野で水を発見した人である」とか「モアブの野でミディアン人を撃退した人である」とかごく僅かなことしか書かれていません。でも、エサウの子孫がセイルの先住民フリ人を抱え込む形で氏族になり民族になり、そして王国を形成するに至る長い長い歴史が書かれていることは確かです。彼らエドム人自身は、自らの歴史をこのように書き残すことはなかったのに、ヤコブの子孫であるイスラエルの民がエドム人のことを、一人一人の名を挙げながら書いている。何故か。エサウもまたアブラハムの子孫だからです。

アブラハムの系図が意味すること

お配りした資料の右側は、創世記に出てくるアブラハムの系図です。彼は、ノアの三人の子供の中のセムの子孫です。そして、アブラハムは結局、三人の女性との間に計八人の子を生んだことになっています。アブラハムに与えられた約束や使命を受け継ぐのは、本妻であるサラが産んだ独り息子のイサクです。しかし、ハガルが産んだイシュマエルもまたアブラハムの子であるが故に神様に祝福され、十二人の子供を産んで、その子孫が一つの民族を形成して行くことになります。側女のケトラが産んだ六人の息子たちは祝福を受けるわけではなく、ただ財産を分与されてアラビア半島の方でそれぞれの民族になっていったことが二五章に記されています。アブラハムの息子たちが分布した地域は、アフリカの北端エジプトから肥沃な三日月地帯と言われるメソポタミア地方全域、また砂漠のアラビア半島にまで至ります。つまり、アブラハムの子孫は当時の全世界に散らばって生きている。そういうことを、聖書は語っているのです。そのことは、「あなたの子孫は天の星のように多くなる」という神様の約束が実現していく姿なのであり、アブラハムの子孫の増加は即神の言葉の実現、その力、その真実の証明でもあります。

ヤコブ(イスラエル)エサウ(エドム)の微妙な関係

そして、アブラハムの子孫の中でも、ヤコブの兄弟エサウに対して、聖書が尋常ではない関心を寄せていることを、この系図は示しています。そして、それはこの後にもエサウの子孫、エドム人がしばしば登場することからも明らかです。
たとえば、申命記にこうあります。それはヤコブの子孫であるイスラエルが、エジプトを脱出し、四十年の荒野放浪を終えて、約束の地カナンに入る直前のことですが、主はモーセにこう言われました。

「あなたは民にこう命じなさい。あなたたちはこれから、セイルに住む親族エサウの子孫の領内を通る。彼らはあなたたちに恐れを抱いているから、よく気をつけなさい。彼らに戦いを挑んではならない。彼らの土地は、足の裏で踏めるほどのものでもあなたたちには与えない。セイルの山地は既にエサウの領地として与えた。」

 また、その少し先を見ると、「セイルには、かつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫は彼らを追い払って滅ぼし、代わってそこに住んだ」ともあり、創世記三六章の背後にある一つの事実が書かれてもいるのです。
 こういう記述から何が分かるかと言うと、聖書の神様、つまりイスラエルの神、主は、イスラエルにだけ関心があるわけではないということです。神は、血族という意味でアブラハムの子孫であるエサウの子孫にも関心があるのです。
 また申命記には、こういう言葉も出てきます。
「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである。彼らに生まれる三代目の子孫は主の会衆に加わることが出来る。」
 イシュマエルを産んだハガルはエジプト人でしたし、(エサウの妻はイシュマエルの娘だし)ヤコブとその子供たちは、難民としてエジプトに下った当初、エジプトに優遇されたのです。後に奴隷となり厳しい弾圧を受けたとしても、エジプト人もまたアブラハムとの深い関係にあり、主なる神の祝福が及ばねばならぬ人々であるということが、ここには記されています。
 しかし、ヤコブとエサウの関係は、ある意味でずっと微妙な関係性の中にいたことも事実です。そして、その子孫たちもまた同様でス。エドム人はイスラエルを恐れていたし、イスラエルもエドム人を厭っていたのです。実に微妙な関係なのです。歴史的には、イスラエルがダビデの時代に強固な王国制度を打ち立てるとき、ダビデはエドム人一万八千人を討ち殺し、その地域を制圧したことがサムエル記下には記されています。それは創世記三六章の最後に出てくるエドムの王の時代のことです。しかし、その後もエドムとイスラエルの戦いは時折起こるのです。そして、紀元前八世紀の預言者イザヤの時代にはエドムへの審判が語られることにもなるし、それから数百年を経た預言者マラキは、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」との主の言葉を告げてもいる。一筋縄ではいきません。そして、ある意味で極めつけは、イエス様が生まれた時の「ユダヤ人の王」ヘロデは、実はエサウの子孫エドム人なのです。そのエドム人(ギリシア語ではイドマヤ人)ヘロデが、もう一人の「ユダヤ人の王」を殺害すべく、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにするという出来事が起こるわけです。創世記三六章の系図は、実は、マタイによる福音書のクリスマスの出来事まで繋がっているものなのです。

アブラハムの子、イエス・キリストの系図が意味すること

 聖書の系図の主流は、言うまでもなくアブラハム、イサク、ヤコブの系図であり、それがダビデ、ソロモンを経由してダビデ家のヨセフとマリアを通してイエス様が聖霊によって誕生するという流れです。しかし、その流れが主流であり正統であったとしても、マタイの系図を語った時にも言いましたように、そこには異邦人の血が入り込み、娼婦や極貧の難民という人々もあり、なにより近親相姦や姦淫、そして殺人という罪の現実が入り込んでいたものでした。つまり、一方では血族としての子孫の系図が記されているわけですが、他方では、人類の罪の歴史が記されているということでもあります。そして、イエス様は、一人の人間でありつつ「自分の民を罪から救う」ために、聖霊によって生まれた神ですから、「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」という新約聖書の書き出しの言葉は、肉的な子孫の系図でありつつ、霊的な神の子としてのイエス・キリストの誕生の次第を描いていると言って良いと思います。
 そこから同じアブラハムの子孫である人々が信じている三つの宗教、つまり、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の違いが出てくると言って良いのだろうと思います。ユダヤ人に信徒が多いユダヤ教、アラブ人に信徒が多いイスラム教において、アブラハムの子孫とは、基本的にはアブラハムの血族としての子孫です。しかし、私たちキリスト者にとっては、私たち日本人のキリスト者をも含むすべてのキリスト者のことでもあるのです。そして、その理解の土台になっているものは、旧約聖書の中に既にあります。
先程挙げたエジプト人だって「三代目には主の会衆の中に入ることが出来る」と、主は言われるし、ヤコブの子孫であるイスラエルがエジプトを脱出するときに、「種々雑多な人々もこれに加わった」(出エジプト記十二章三八節)と記されてもいるのです。つまり、主を神として礼拝しつつ歩む「主の会衆」とは、その最初からアブラハムの子孫としての血族集団だけを意味しているわけではなく、主なる神に対する信仰共同体をも意味しているのです。主イエスに至る系図もまたそのことを示しています。

選びの固有性と救いの普遍性

 しかし、イエス・キリストがユダヤ人の王として、「その民を罪から救う」ためにお生まれになったということの第一義的な意味は、ヤコブの子孫であるユダヤ人(イスラエルの民)を罪から救うという意味だと思います。それは裏を返すと、当時のユダヤ人が、アブラハムの子孫に与えられている使命を果たすことのない民になっており、罪に支配されていたということでもあります。だから、イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を開始されたのですが、その対象は、ヤコブ(イスラエル)の民、ユダヤ人でした。イエス様が、弟子たちを伝道に派遣される時、「サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とおっしゃったし、娘の病気の癒しを求めるカナンの女には「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお応えになったのです。しかし、このカナンの女の信仰を見て、イエス様は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃり、その時、娘が癒されるということが起こりました。つまり、異邦人の信仰に対して祝福をお与えになったのです。
こういう所にも、ヤコブの子孫の選びと同時にすべての民に祝福をもたらすという神様のご意志が現れているのだと思います。
そして、考えてみれば、神様がアブラハムを選び出した時、神様はこうおっしゃったのでした。

「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」


ここで神様は、神様を信じ、その命令に従って旅立つアブラハム個人を祝福する約束をされているわけですが、それはまた地上の氏族すべてを祝福の内に入れるためなのです。この時から既に、アブラハム個人の選びと世界の救いは緊密に関係しているのです。
そして、高齢の故に子供が生まれる可能性がなくなり、諦めているアブラハムと神様のやり取りはこういうものです。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

 この場合のアブラハムの子孫、それはイサク、ヤコブ、そしてその十二人の子供たちから増えていくイスラエル民族であると同時に、アブラハムの信仰を継承する人々のことでもあることは明らかではないでしょうか。少なくとも、私たちキリスト者はそう理解しているのです。何故かと言えば、ローマの信徒への手紙の中で、パウロがこう言っているからです。

「『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。・・神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。・・従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束に与るのです。」

 「律法に頼る者」
という言葉で言おうとしている一つのことは、血筋としてのアブラハムの子孫であるということです。しかし、パウロは、血筋が人を罪から救うのではない、また律法に記されていることを表面的に行うことが人を救うのでもない。ただ「恵みによって」与えられた信仰が、ユダヤ人に限らずすべての人を救うのだと言っているのです。そして、その信仰とは、彼によれば、こういう信仰です。

「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

 神に義と認められること、それが罪からの救いであり、それは罪に堕ちたすべての人間と神様との和解であり、その和解こそが永遠の命の内容です。その和解と永遠の命という祝福を地上のすべての氏族に与えるために、神様はアブラハムを選び、見知らぬ地に旅立たせたのです。そして、そのアブラハムの子孫として、ついに神の独り子を天から地に旅立たせて、私たちの罪のために死に渡されたのです。そして、その十字架の死を通して、私たちを覆う罪と死の支配を完全に撃ち破るために復活させられたのです。この神様の全能の力、何ものにも負けることのない愛の力を信じる。主イエスこそ、その力、愛の体現者であることを信じる。その信仰によって、私たちは神様に義とされる。罪赦され、永遠の命、神様との永遠の交わりの中に生かされるのです。この信仰は、血筋によって継承出来るものでもないし、努力によって勝ち取るものでもない、ただ恵みによって与えられる賜物です。そして、その信仰を生きる人々、それが旧約と新約が主イエス・キリストにおいて繋げられている『聖書』という書物が語るアブラハムの子孫なのです。それは、神によって、その名が一人一人数えられ、天の系図にその名が記され、そして神の子として名前が呼ばれる者たちのことです。

その名が呼ばれるということ

 現在のイスラエル共和国の首都エルサレムに、ホロコースト記念館(ユダヤ人大虐殺記念館)というものがあります。その建物の中に入ると、ナチスの収容所で殺された子供たちの顔写真が壁一面に貼られており、その子供たち一人一人の名前が読まれ続けている部屋があります。ユダヤ人は、戦後、誰がいつ何処でどのように殺されたかを調べ続け、記録に残し続けています。同時に、当時の誰がいつ誰をどのようにして殺したのかをも調べ続け、その人間が生きている可能性があれば、世界の果てまで探しに行き、捕まえて、法廷で裁くことをしてきました。また、その記念館の周囲には、ユダヤ人を庇い、助けた人々の名がプレートに記され、その人の記念の植樹がなされています。リトアニア領事館として多くのユダヤ人を国外退去させた日本人の杉浦千畝氏の名が記されたプレートと木もそこにあります。
 このように、何年掛かっても殺された人々を調べ上げて記録として残していくというユダヤ人の特質の背後にあるのは、自分たちユダヤ人は神に選ばれ、約束を担うアブラハムの子孫であるという確信であることは間違いありません。神に選ばれた民であるが故に、一人だってゆるがせに出来ないのです。そのユダヤ人と呼ばれる人々は、その後の歴史の中で、世界各地に散っていき、セム系の人々だけでなくハム系の人々、ヤフェト系の人々ともなって、肌の色も目の色も違う人々として全世界に様々な国籍をもちながら生きているのです。
これも実に不思議な話ですが、聖書が語るもう一つのアブラハムの子孫、それもまた今や世界中に生きています。私たちキリスト者がそれだからです。 キリスト者とは、世界に祝福をもたらすアブラハムの子孫としてのイエス・キリストの弟子であるということです。主イエスは、主イエスの名によって悪霊をも屈服させることが出来たと意気揚々として伝道の旅から帰ってきた弟子たちに向かって、こうおっしゃいました。

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 信仰によって義とされ、罪から救われるとは、天に名が記されることです。パウロの言葉によれば「本国を天に持つ」ということなのです。それこそが祝福です。神様に、その名が呼ばれることだからです。恵みによって信仰を与えられ、主イエスに従う弟子である私たちの旅路は、その本国、約束の御国を目指す祝福された旅であり、それは一人でも多くの人に天の国が目の前まで来ていることを告げ知らす伝道の旅なのです。一人でも多くの人が、祝福に入ることが出来るように祈りつつ歩む旅なのです。

全世界の民に向けての伝道

 先週のクリスマス礼拝の説教の最後に読んだ主イエスの言葉を、今日も思い出したいと思います。かつて「イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と言って弟子たちを派遣された主イエスが、復活の後には「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と、弟子たちを全世界に派遣されたのです。彼らは、この派遣命令を受けて旅立っていきました。そこにキリスト教会の誕生があります。私たちは毎週、この礼拝を通してキリストに祝福され、そして派遣されて一週間のこの世における旅に出ます。アブラハムの子孫として。そして、交わりを持っている人、出会う人に、この祝福を、救いを、証しするのです。アブラハムの子孫として。
私たちは現在「十年ヴィジョン」に基づいて、「顔の見える伝道」に励んでいます。自分の家族、友人たちに主イエスを証しすることを目指して歩んでいるのです。二三日のキャンドル・ライト・サービスは、そのための絶好の機会として、秋から祈りをもって備え続けてきました。その日、会衆はクリスマス礼拝よりも多い約一七〇名でした。現住陪餐会員はその内の七一名です。つまり、約百人が私たちの家族であったり友人だったのです。キャンドル・ライト・サービスをクリスマスイヴの二四日に捧げなくなってからは、当日の新来者が激減し、会衆の数も減少傾向にありましたが、今年は私たちが誘った家族、親や兄弟や子供や孫、甥や姪が四〇人近くいますし、友人、知人たちが五〇人以上いました。子供の数も十五名近くになっています。子供たちが共に参加できる礼拝を捧げることがキャンドル・ライト・サービスの一つの大きな目的ですし、「神の家族としての教会」を目指す私たちとしては、子供たちが大勢参加してくれたことは、真に喜ばしいことだと思います。多くの方が、アブラハムの子として生まれ、すべての人間を罪から救う祝福を与えてくださる主イエス・キリストに感謝し、讃美を捧げる礼拝に、家族や友人を誘ってきたのです。それが、信仰によってキリストに繋がるアブラハムの子孫の歩みであり、それはアブラハムの子孫が天の星のようになると言われた神様の約束の実現に向かっての歩みなのです。
 今年の歩みはもうすぐ終わります。来年の一月は、ヨハネ福音書を通してラザロの復活という大きな出来事を告げる御言を読み始めます。愛において死人を甦らせることを通して、自らの死と復活に向かっていく主イエスのお姿をそこに見ることになります。主イエスは、今日も明日も父と共に、「この囲いの外にいる羊」のために働かれます。一人でも多くのアブラハムの子孫を産み出すために。私たちも、その主に産み出されたアブラハムの子孫として、約束の実現を目指して心新たに伝道の旅に旅立ちたいと思います。
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