「夢を見るヨセフ」

及川 信

       創世記37章 1節〜11節
 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。
 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」
 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。


 今日から創世記のヨセフ物語を読み始めます。この物語は、先週まで読んでいたヨハネ福音書とは同じ「聖書」という書物に入ってはいても、全く似ても似つかない物語です。

 聖書という書物

 聖書を「一冊の書物」と言うことは一面から言えば真に正しいことですけれど、他面から言うと間違っています。聖書は旧新約聖書の二冊が合体したものであり、旧約聖書には三九巻の書物があり、新約聖書には二七巻の書物があります。続編(外典、第二正典とも呼ばれる)を合わせればさらに増えますけれど、それらの書物がイエス・キリストを中核として緊密に結びあわされて一冊となっているのです。
 聖書とは、様々な意味で全く異なる書物の集合体です。それぞれの書物の文体や思想が異なるし、書かれ始めた頃から最終的に編纂されるまでの期間は軽く千二百年を超えます。また、今は「創世記」と呼ばれるものも、各地に伝承されていた様々な物語が数百年かけて一つの物語として形成されたものだと言われます。つまり、数百年の民族の歴史がその記述の中に込められているのです。せいぜい数十年しか生きない一人の人間がその歴史を一〜二回読んだところで、その広がりや深みを捉えることなどできようはずもありません。でも、乏しい人生経験ではあっても、そのすべてを注ぎこんで聖書を繰り返し読んでいけば、最初に読んだ時よりも、広くて深い理解をすることが出来るようになることも事実です。私も二三歳の頃に創世記に出会い、それ以来、三〇年間、創世記を繰り返し読み、様々な形で語りつつ生きてきました。
 中渋谷教会では、二〇〇二年九月に創世記の一章から読み始めました。当初は月一回のペースで読み、時折、連続で読み、二〇〇八年十二月二九日に三六章まで読み終えました。そして、二〇〇九年から先週までヨハネ福音書を読んできました。今日から創世記のヨセフ物語と呼ばれるものに入りますけれど、創世記の説教としては九二回目となります。
 ヨハネ福音書と創世記は何もかもが全く違う書物ですから、頭を切り替えないと上手くその世界に入って行くことは出来ません。でも、それぞれの書物の冒頭の言葉、つまり、神の言によって天地万物が創造されたことや、闇と光の対比などは緊密な関係をもっています。
 創世記は、一章から一一章までは天地創造に始まる原初物語、つまり、イスラエルの歴史が始まる前の出来事が記されており、一二章以降はアブラハム、イサク、ヤコブという三代の家族の物語、一般にイスラエルの族長物語と呼ばれる物語が続きます。その三人の族長は実に個性的です。その三代目のヤコブ、別名イスラエルの十二人の子どもの物語が今日から始まるヨセフ物語です。この物語は大きな枠としてはヤコブ物語の中に組み込まれており、最初と最後にヤコブが重要な役回りで登場します。しかし、中身の大半はヨセフを中心とした兄弟の物語です。これからの数か月間は、この物語をご一緒に読んでいくのですけれど、皆さんもあらかじめ最後まで一読しておかれることをお勧めします。

 族長物語と(の中の)ヨセフ物語

 アブラハム、イサク、ヤコブという三代の族長たちの物語はそれぞれ個性的な物語です。でも、ヨセフ物語と比較すると、ある共通の特色があります。それは、神ご自身が彼らに直接語りかけるというものです。「主は、アブラハムに言われた」「イサクに言われた」「ヤコブに言われた」という言葉があります。その言葉が決定的なのです。しかし、ヨセフ物語には、そういう言葉はありません。ヨセフは、主なる神様から直接語りかけられ、行動を指示されることはありません。
 ただ、彼は最初に「夢を見る」のです。この夢が決定的なのです。現代でも「夢占い」というものがあります。それは主に、夢を見た人間の深層心理を探る意味で言われると思いますが、時には将来起こり得ることの暗示という意味で言われる場合もあります。古代人にとって、夢は時に神様の御心の啓示でした。しかし、その場合、御心が何であるかが解釈されなければなりません。アブラハムに対して、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言い、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束される場合、アブラハムがその言葉、約束を信じて従うか否かが問題です。具体的に、生まれ故郷、父の家を離れて旅立つ信仰と服従が問われるのです。しかし、夢の場合、それはその意味を解釈しなければなりませんし、その夢が神の御心の啓示であった場合、その実現は未来のことです。実現までに何年も掛かる場合もあります。そして、その夢に向かって、本人が何かをしなければならないということがあるわけでもない。アブラハムのように決然として旅立つことが求められているわけでもない。しかし、人生の流れの中でその夢は思いもかけない形で実現していく。こういった事柄は、やはり二十年三十年という人生経験の中で知らされていく事柄です。

 個人的な経験

 今言ったことを分かって頂くために、先週に引き続き少し個人的なことを語らせて頂きますが、私は東京の高校生時代に、ヨハネ福音書の冒頭の言葉とコインロッカーに捨てられた赤ん坊に衝撃を受けて、神様の圧倒的な臨在感と不在感を抱きました。神様はやはり闇の中で輝いている、しかし、一体どこに神はおられるのか分からない。そういう二律背反の思いの中でモヤモヤしていました。一浪して京都の私立大学に入り、色々なことがありましたが、やはり聖書の言葉は真実だ、聖書の言葉しか真実な言葉はないのだと確信することがあり、冬休みの帰省中に生まれ育った教会で突然洗礼を受けることを志願してキリスト者になりました。しかし、京都に戻ってから三か月間、どこの教会にも行きませんでした。しかし、当時名の知れた哲学者である森有正の講演集を読んだことを切っ掛けにして、京都の北白川教会に通うことになり、そこで毎週の説教に圧倒される経験をしました。それと同時に、小学校四年生辺りからの悪夢であった、キリスト者になったら牧師になるしかないのではないかという思いが、抗し難く湧き起こって来て非常に困りました。
 その北白川教会で、耳に蛸が出来るほど聞いた人物は森有正の父親である森明であり、その森明が開拓伝道した中渋谷教会という名前です。また、戦時中に中国に伝道に行き行方不明になった沢崎堅三という人物であり、同じく中国での伝道に携わりつつ、からくも生還した和田正という人物です。その教会では、そういう人々の名がしょっちゅう出てきていました。そして、そういう人々の命がけの伝道の姿を聞かされる度に、怖気づく思いと心燃える思いの両方を抱きました。そして、いつか自分も伝道者になるしかないのだという苦い覚悟を深めていくことになったのです。
 そして、神学校を卒業する頃、いくつかの教会から招聘の要請を頂いたのですが、その中の一つが北白川教会出身の和田正牧師が戦後一貫して伝道牧会してこられた松本の単立教会でした。その時、私は七年前に北白川教会に通い始めた頃に心に抱いた不吉な予感が、こういう形で実現するのか・・と茫然としました。私は、その和田牧師と会う前から心から尊敬しており、心のどこかで強い引力を感じていたのです。だからこそ、決して自分から会いに行くようなことはしませんでした。恐かったからです。そのことも一つの理由でしたけれど、卒業してすぐにその教会には赴任はせずに、教団の教会に赴任しました。しかし、全く思いもしないことが起こって、二年余りでその教会を辞任し、教団の身分としては聖礼典を執行できない補教師の資格のまま、しかし、単立教会では牧師として赴任することになりました。これは、私が決断したと言えば確かにそうですが、私の実感としては、そうなっていたと言わざるを得ないことです。
 その松本の教会で十五年間勤めましたが、そこでも内外に様々なことがありました。大きな挫折もあり失敗もありました。そして、中渋谷教会の主任牧師が辞めることも、早くから聞いていましたし、ある方から「後任にならないか」というなんとはない打診を受けたこともありますが、当時の私にとってはまるで他人事でした。しかし、松本の教会もまた中渋谷教会との関係は深く、戦時中、疎開していた森有正はその教会の奏楽者でしたし、和田牧師の亡くなった夫人は中渋谷教会員でした。松本の会員やその子どもが仕事や学校のことで東京に出ることがあれば、行く教会は中渋谷教会と決まっていました。そして、私自身の罪の蓄積の故に一歩も先に進むことができず、と言って過去に戻ることもできず、どうにもならない時に、二〇〇〇年の秋のことですけれど、突然、北白川教会とも深い関係のある中渋谷教会の長老から、主任牧師として来てもらいたいという正式な打診を受けたのです。中渋谷教会としても主任牧師不在の二年目を過ごしていた時期です。
 その打診を受けた時、やはり、私は言いようのない衝撃を受けました。神様は何もかも見ている。すべてを見ている。そして、計画していたのだ、と。二十歳の時に、森有正の本を読むことが切っ掛けになって、中渋谷教会の森明牧師が産み出したとも言える北白川教会に行った時から、二十年以上の時が経っていました。その間に私が犯してきた罪の数々は、すべて私の責任です。神様に従うと言いつつ、そしてそのことを人に求めつつ、自分自身は絶えず逆らい、背き、逃げようとして来たことは明らかです。しかし、そういう私を神様はいつも嘆きつつ見つめ、そして、いよいよという時に新たに捕えて下さったことを思います。それは、三度も主イエスを否んだあのペトロに、三度も「あなたはわたしを愛するか」と問いかけ、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしに従いなさい」と命令し、彼を行きたくない所に行かせるために腰に帯を締めて従わせたように、神様はこの私にもう一度、教会の牧師として新たに生きるようにと召し出して下さるのだと思いました。そして、私が中渋谷教会の牧師になることは、実は二十歳の時に既に決まっていたことだと思いました。北白川教会に通い始めた時に心に抱いた不吉な予感、悪夢、それが二十年の歳月を通して、こういう形で実現していく。そう思ったし、今もそう思っています。もちろん、今は、「不吉な予感」とか「悪夢」と言うつもりはありません。しかし、そうなって欲しいという「期待」とか「夢」とかいうものとも違うものであることに変わりはありません。そうなることになっている。だから、その道を、恐れと感謝をもって選び取るしかない。従うしか、召された者として生きる道はない。
 そういう選びが、人それぞれにあるのだと思います。皆さんが、今、この中渋谷教会の礼拝堂で神様を礼拝している。そこに皆さんそれぞれの意志や選びがあるでしょう。でも、もっと深い所に、神様の意志、選びがあるのだと思います。そして、その選びは、実は、ここに来る前に既に何らかの形で示されていたと思います。夢を見る形で、あるいは夢を聞かされる形で。
 そういう人生の歩みをしながら繰り返し聖書を読む、特に創世記の族長物語を読むと、そこには本当に心を分かち合う友人というか、家族がいることが分かります。ここに登場する人々は誰一人として遠い存在ではない。歴史的には紀元前二千年頃のことが、紀元前十世紀から七世紀頃にかけて書かれていると言われますけれど、アブラハムもイサクもヤコブもその子どもたちも皆、私たちの仲間、尊敬すべき、親しむべき、愛すべき家族です。皆、脛に傷を持ち、叩けば埃はたくさん出て来るし、思い出したくない過去を抱えつつ、懸命に生きている人々です。すべては神が彼らを選び、選んだが故に愛し、決して見捨てず、導き続けておられるからです。私たちも同様です。私たちのことも、神様は選び、愛し、見捨てることなく導き続けて下さっている。だからこそ、今日、私たちはこの礼拝堂にいるのです。

 舞台設定

 前置きが長くなりました。今日の個所に入ります。

 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。

 この言葉にも神様のアブラハムに対して与えた約束、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束が実現しているのだという宣言があると思います。そしてそれは、これから始まる新たな物語においても同じであることが暗示されているでしょう。神様の約束、そのご計画は実現するのです。

 ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。

 「由来」
とは系図、出来事、物語という意味です。作者は、「これからヤコブの家族の物語を始めます」と言い、いきなりヨセフを主人公として登場させます。彼の年齢は十七歳です。生業は羊飼いですが、わざわざ「兄たちと羊の群れを飼っていた」とある上に「父の側女ビルハやジルパの子どもたちと一緒にいた」とある。この点については、ヤコブの家族構成を説明しなければなりません。
 先ほど、ヤコブには十二人の子どもがいると言いましたが、正確には十二人の男の子と一人の女の子がいます。しかし、それは一人の妻との間に生まれたのではなく、四人の女性との間に生まれたのです。
 細かい説明は省きますが、ヤコブが愛した女性はラケルです。しかし、最初に結婚しなければならなかったのは姉のレアです。ラケルは順序としては二番目の妻となります。ヤコブはラケルを愛しました。しかし、神様の顧みを受けたのはレアであり、レアからは子どもが立て続けに四人生まれました。ラケルからは生まれない。そこでラケルは自分の仕え女のビルハをヤコブの側女とし、そのビルハから二人生まれます。その子らは、法的にはラケルの子になります。それに対抗して、レアも自分の仕え女のジルパをヤコブの側女とし、ジルパからも二人の子が生まれる。さらに、レアから二人と一人の女の子が生まれる。そこに至って、漸く、ヤコブの最愛の妻ラケルから生まれたのがヨセフです。そして、その後、ベニヤミンが生まれます。でも、不幸なことに、ラケルはベニヤミンを産むと、旅の途中で死んでしまうのです。
 そういう複雑にして不幸な出来事が、この家族にはありました。歳をとってから漸くにして愛するラケルから生まれたヨセフを、ヤコブは特別に可愛がりました。そして、程なくラケルは亡くなってしまったのですから、ヨセフに対する愛情は、亡き妻に対する愛情とも重なって、尋常ではないものがあったでしょう。それは分からないわけでもない。しかし、それが「分かる」と言えるのは、私たちが他の兄弟たちの身になっていないからです。他の兄弟たちにしてみれば、それはあまりに理不尽なことです。

 日本の家族

 現代は家族が崩壊している時代です。かつての封建主義に基づく家父長制が家族の形態として何もかもよいわけがあるはずもありません。しかし、そこには一種の秩序があり、またそれに伴う絆もあったでしょう。支配・被支配という関係であったとしても、親とは三十年も連絡を取っていないから、百歳を超えた親が「どこで生きているのか死んでいるのか分からない」などと平気で言う子どもはいなかったはずです。また、娘の住所も分からず、その娘が育児放棄をしてマンションに自分の子どもを置き去りにして餓死させていることを知らない親などもいなかったのではないでしょうか。戦後の教育は、家族の絆よりも個人の確立に重きが置かれたと思いますけれど、変動する社会の中で個人の確立と言ったところで、そんなことが出来ようはずもなく、浮草のような個人が増えて、社会も解体していく。結局、弱肉強食の社会がグローバルスタンダードだということになっていく。そこで捨てられ、忘れられていく個人がたくさんいると思います。

 ヤコブの家族

 ヤコブの家族、それは今言ったように止むを得ぬ事情によって複雑になりました。その中で、彼は露骨なえこ贔屓をする父親になっています。しかし、それは彼の成育歴にも原因があります。親だって元は人の子です。幼い頃の影響を引きずっているのです。彼は双子の弟として生まれました。兄弟は、愛し合う関係である以上に、親の愛を奪い合うライヴァルでもあります。長男の権利が確立された社会の中で、双子というのは微妙な関係になります。彼と兄エサウは母リベカのお腹の中にいた時から既に喧嘩が絶えず、リベカが困ったほどなのです。彼女は、こんなことでは将来が不安だと思って、神様に御心を尋ねて祈った。すると、神様は「兄が弟に仕えるようになる」とおっしゃいました。それは当時の社会秩序とは逆のことです。そこに神の選びがあるのです。
 しかし、神の選びとは別に人の選びもあります。そしてそれは、しばしばえこ贔屓となって現れるものです。父イサクは、狩りが得意な兄のエサウを愛しました。肉が好きだったのです。彼自身は一人っ子で兄弟はいませんから、兄弟の心理は分からなかったでしょう。母のリベカは、人は好いけれどもがさつなエサウではなく、狡猾な弟ヤコブを愛します。彼女自身も狡猾な人間なのです。ヤコブは、そういう両親の下で育ち、神と人との間に激しい戦いを繰り広げつつ、アブラハム、イサクと継承されてきた信仰の道、祝福の道を歩む人間にされて行きました。
 そのヤコブにしてみると、兄弟の中で誰かを特別に愛することは、それほど不思議なことではなかったでしょう。まして、ヨセフは年寄り子でありかつ最愛の妻ラケルの遺した子どもですから、特別な愛情を注いでも何ら不思議ではなかった。しかし、そのことが他の兄弟たちにどのような気持ちを起こさせるのか、そして、それがヨセフに何をもたらし、ついに自分に何をもたらすことになるのかを、彼はこの時まだ知りません。人間はそういうものです。蒔いた種が将来どんな実を結ぶかを知らないのです。

 何を見るか

 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。

 「穏やかに」
とは「平和の内に」(シャローム)ということです。兄たちは、父が愛した訳ではない妻や、それぞれの妻の仕え女から生まれた子たちです。それだけで負い目があり、悲しみがあったでしょう。しかし、それは彼らのせいではない。子どもは、親に愛されることを信じて生まれて来るだけです。そして、子どもこそ親を愛している。赦している。親の愛の深さが無前提に強調されることがありますが、実は子どもの方が親に傷つけられても、なにをされても親を愛しているものです。子どもにとっては親しかいないからです。しかし、悲しいかな、兄弟が大勢いる時、親の愛は誰かに偏る場合があります。それは、愛されない子どもにとっては、実に深い傷となります。彼らは、父親の愛を一身に受けるヨセフと心穏やかに向かい合うことは出来ません。当然です。ヨセフはヨセフで、ひとり労働をしない、また跡取り息子の証明でもある「裾の長い晴れ着」を着させられていい気になっており、さらに兄たちのことを父親に告げ口している。父の目の届かない所で兄たちがしていることを告げ口しているのです。そうなれば、彼らがヨセフを「憎む」のはさらに当然のことです。しかし、そんな空気を少しも読むことなく、猫かわいがりにされた子によくあることですが、ヨセフはどこまでも無邪気であり、その無邪気さは実は邪気となって兄弟たちに突き刺さっていくのです。

 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」
 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。


 兄たちはヤコブの偏愛ぶりを「見て」、ヨセフを「憎み」ます。しかし、ヨセフは兄たちの心を見ないで「夢を見る」。しかし、それは彼が心に抱く希望としての夢ではなく、神様が心に決めておられる計画としての夢です。その夢を、ヨセフは自分の心に留めておくことはしません。彼は無邪気にもというか、無謀にもというか、無礼にも、兄たちに告げます。その内容は、余程愚かでない限り、ヨセフが兄たちの「王」として「支配し」、兄たちが彼の前に「ひれ伏す」ことを意味することは明らかです。彼らが「ますますヨセフを憎んだ」のは、あまりに当然のことです。

 心に留める

 さらにヨセフは「夢」を見ます。今度は父や母も、彼の前に「ひれ伏している」ことを暗示する夢です。さすがにヤコブも腹を立てました。でも、兄たちがヨセフを「ねたんだ」のに対して、ヤコブはその言葉を「心に留めた」とあります。
 私たちは創世記を終えたらルカによる福音書を読みますけれど、その中に、この言葉と同じ言葉が使われている個所があります。それはイエス様が十二歳の時のことです。年に一回の過越しの祭りを祝うために家族でエルサレムに行き、祭りを終えて一同が群衆の中に混じって一日余り帰った時、長男のイエスがいないことに両親が気付いてエルサレムまで引き返すと、イエス様は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り議論していたというのです。母マリアは叱ります。しかし、イエス様はこうお答えになった。

 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 これも実に生意気で鼻持ちならぬ少年の言葉だと思いますし、両親とも、その言葉の意味は分からなかったのです。でも、母は、「これらのことをすべて心に納めていた」とあります。
 また、それと似た言葉で、イエス様が生まれたことを天使たちに知らされた羊飼いが、その様子を人々に話すと、人々は皆驚いたのですが、マリアだけは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。
 神様の不思議な業というか、理解できない心に触れた時、神に選ばれた人間は、理解はできずとも心に留めつつ思い巡らすことをする。そして、いつの日かその御心が実現することを知らされる。そういうことなのではないか、と思います。私たちが聖書を読むということも、そういうことであると思います。

 人間の業の中で進展する神の計画

 ヨセフ物語は、この後、ヨセフが十七歳の時に見た夢を巡って進展していきます。三七章後半では、「晴れ着」に象徴されるヤコブの偏愛に対する兄たちの恨み、ヨセフに対する憎しみが爆発します。しかしそれは、さらに深いところでは、神の選びに対する怒りや反発の爆発でもあるのです。そして、ヨセフの高慢が崩されていくことでもあります。ヤコブの偏愛が裁かれることでもある。すべての人間が罪人であることが明らかにされて行くのです。そして、すべての人間が裁かれて行く。しかし、その裁きを通して神の赦しが与えられていき、和解へと導かれ、アブラハムの選びの系譜に連なって行くことになるのです。しかし、それは「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた「約束の地」をヤコブの一族が離れて、エジプトに下るという危機を伴います。神様の御心は、一体どこにあるのか?そういう深い問いかけがそこにはあります。その問いは、出エジプト記に引き継がれていき、答えは四百年後に与えられることになります。しかし、それからもさらにその問いを巡る長い長い歴史が続き、キリスト・イエスの十字架と復活を経て、今に至るのです。
 神様のご計画、それはあまりに広く深く長いものです。地を這いつくばって数十年生きるだけの私たちには到底その全貌は知りようもないことです。
 若き日に、これまた取り返しのつかない過ちを犯して、その悩みを北白川教会の牧師に少しだけ打ち明けた時、その牧師が、アウグスティヌスが言っていることだとおっしゃりつつ語ってくれた例をよく思い出します。
 「人間とは、大きな絨毯が織られるのをその裏側からしか見ることが出来ない。裏には様々な色の糸がぐちゃぐちゃに行き交っているだけで、それがどんな形を表しているのか分からない。でも、表側から見れば、それは素晴らしく美しい絵画的模様になっている。私たちはいつも裏からしか見えない。でも、神様はこんなぐちゃぐちゃにしか見えない人生もきっと素晴らしいものとして導いて下さっていると信じることは出来る。」

 いつも言いますように、私たちは信じることが出来る。そのような者として神様に選ばれているからです。
 パウロは、その選びを信じる希望をこのように述べています。ローマの信徒への手紙八章二八節以下を飛ばしながら読みます。

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。・・・神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。・・・・
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


 ヨセフも兄弟たちもヤコブも、皆、惨めな罪人です。偏った愛しか生き得ず、嫉妬と恨みと妬みと憎しみを抱え持ちつつ生きている人間です。でも、神様がその「ご計画に従って召された者たち」なのです。だからその者たちには何があっても「万事が益となるように共に働く」のです。ヨセフは、兄弟たちに殺されそうになり、結果としてはエジプトに奴隷として売り払われたことを、自分の前にひれ伏す兄たちに向ってこう言いました。

 「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」

 アーメン


 私たちもまた、何の優れた所もないただの愚かな罪人です。偏った愛しか生き得ず、妬みや憎しみ、優越感と劣等感をその内に抱えつつ生きる惨めな人間です。でも何故か、私たちは神に選ばれて信仰を与えられ、今日もこうして兄弟姉妹が相集って礼拝を捧げています。そこにあるのは、私たちには理解できない、でも確信できる、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」以外の何ものでもないでしょう。主の十字架の死と復活。その人知を越えた神様の救済のご計画の実現の故に、人間の罪、悪意、憎しみ、復讐をも用いて、あるいは貫いて、私たちは今も見捨てられることなく、神の家族の中で、救いに導かれている。その事実を、固く信じて生きていきたいと願います。
 パウロは、人を不従順にしてまでも、救いのご計画を進展させる神を、このように言って讃美しています。

 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

 私たちもまた、アーメンと言って讃美する以外にありません。
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