「売られるヨセフ」
(聖書朗読個所 18節〜22節) 兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。 さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。 戦争の記憶 今日は言うまでもなく、私たちの国にとっては終戦記念日、あるいは敗戦記念日です。しかし、私たちの隣の国では光復節、日本の苛酷な支配から解放された解放記念日です。日本の兵士や民衆にとっては、戦争に負けた悔しさがあったとしても、やはり軍部の暴走の犠牲になっていた面は否めませんから、ある意味では解放記念日なのだと思います。どういう立場であの戦争を記憶し、心に刻みつけるかで、この日の呼び方も変わるでしょう。しかし、その解放の日を迎えることが出来ずに外国の地で、また沖縄や内地で、そして広島や長崎で、兵士、民間人を問わず一体どれほどの人々が殺されたかを思うと暗澹たる気持ちになりますし、それはまた日本軍によって殺された人々のことを思っても同じです。そして、人を殺すという経験をしなければならなかった人々の心を思っても、暗澹たる気持ちになります。 毎年、戦争にまつわる様々な報道を目にしつつ思うことは、生き延びた人々の記憶です。先日もNHKの番組で、大本営が「玉が砕けるように見事に散った」と礼賛し、戦意高揚のために利用したアッツ島の『玉砕』から奇跡的に生還したごく僅かな人々を巡る番組を見ました。その人々は、最後の突撃の時に負傷してしまったが故に、アメリカ軍の捕虜となり戦後帰って来たのです。しかし、その方たちは帝国軍人として「生きて虜囚の辱めを受けるよりは死を選ぶ」ことを命じられていたわけですから、無事に帰国して以後も、アッツ島の生き残りである事実を家族にも語らずに生きてきた。しかし、いずれも八〇代後半から九〇代になっておられるその方たちが、あの時のことを忘れているわけではない。当時の軍部の無謀な作戦と上官の命令によって二千人余りの兵士たちが無意味に殺されて行く姿や、上官が物陰で足手まといになった負傷兵を殺す姿などをつぶさに覚えているのです。そして、そのことの記憶が、戦後六五年間、彼らを深く傷つけ続けている。その記憶がその人々をして「運悪く生き残ってしまった」と言わせ、「こうして六五年、私は恥をかいているのです。皆さんの前で恥をかいているのです」と呻かせるのです。記憶というものが、その人間を長年、いや死ぬまで苦しめ続ける。記憶がその人間の生涯を支配し続ける。そういうことがあります。六五年経とうが、戦争は終わっていないのです。事実の記憶がある限り、終わりません。 ドイツにシンドラーという人がいました。十六年ほど前に日本でも上映された『シンドラーのリスト』という映画で有名になりました。彼は、自分の工場に、収容所に入れられていたユダヤ人を雇用することによって、千二百人のユダヤ人をアウシュビッツなどの強制収容所に送ることを免れさせました。そのシンドラーと、収容所の所長として残酷極まりないことをし、戦後処刑されたドイツ人将校の愛人やその娘、またシンドラーのおかげで生き残ったユダヤ人に関する番組も見ました。本当に深く考えさせられるものでした。当時の収容所から生還した人々の悲惨な経験の記憶は、決して消えることがないのです。その記憶から脱出することが新しい人生を生きることであるかも知れません。でも、人間は、そんなに簡単なものではありません。美しく、楽しい記憶が、後々までも人を支え、生かすように、苦しく、悲しい記憶は後々まで人を苦しめ、蝕みます。美しい記憶だけを留めるということは出来ないのです。 六月の旅行で訪れたエルサレムのナチス迫害記念館の入り口に、「過去を記憶することが、未来を形づくる」という言葉が印刷されたポスターが飾られていました。現代のユダヤ人にとって「記憶すべき過去」とは、絶滅の危機にさらされたユダヤ人に対する迫害のことでしょう。たしかに、その過去を忘れてはいけない。過去を忘れる者は同じことを繰り返すからです。しかし、その過去の記憶から形づくられる未来が、迫害される側から迫害する側への転換、つまり、弱い者から強い者への転換であるとするなら、その記憶とは一体どういうものなのか?!と思わざるを得ません。少なくとも現在のイスラエル共和国の中においては、ユダヤ人はパレスチナ・アラブ人を弾圧する側に立ち、その弾圧を強化していることは明らかだと思うからです。ユダヤ人がかつて鉄条網や壁で囲まれていたように、今は彼らがパレスチナ人を壁で囲み、自らの入植地は鉄条網で囲って武装しているのです。これは立場を変えた過去の繰り返しではないかと思います。 こういう戦争や迫害の歴史の記憶という事柄は、国家や民族の間に横たわっているだけではなく、親子や夫婦、兄弟の間に横たわっている問題でもあると、私は思います。 記憶が引き起こすもの 先週から、創世記のヨセフ物語を読み始めています。この物語は一見すれば家族の物語ですしそれでよいのですが、この物語の背後には民族の歴史があり、過去の記憶が盛り込まれていることも事実です。 今日の個所は先週の個所と不可分というか、一つの話です。先週から続くキーワードがいくつかあります。それは「夢」であり「裾の長い晴れ着」また「着物」です。そして、先週の個所で、兄弟がヨセフを「憎んだ」ことが強調されていましたが、今日の個所はその憎しみが具体的な行動となって現れた場面です。それは同時に、ヨセフを偏愛する父ヤコブに対する悲しい反抗でもあり、父母も兄弟たちもヨセフの前で地面にひれ伏すという夢をヨセフに見させた神様への反抗でもある。そのような反抗を引き起こす彼らの悲しい記憶があります。そして、そのような反抗を引き起こした後、彼らは長い間、その記憶を心の内に押し殺したまま、苦しい思いを抱え続けていることが、物語の後半で明らかになってきます。 今日の個所の粗筋はこういうものです。 「遠くで羊を飼っている兄たちの様子を見て来るようにと、ヨセフは父ヤコブに遣わされます。それは、ヨセフに対する父の偏愛やヨセフの高慢、また彼が見た夢で深く傷ついている兄たちにしてみれば、ヨセフをなき者とする絶好の機会となりました。しかし、彼らは結局、殺すことも奴隷として売ることもできず、ヨセフが死んだという嘘を父ヤコブに報告をする。ヨセフは、エジプトとの交易を生業とするイシュマエル人によってエジプトの高官に奴隷として売られてしまう。」 先週も言いましたように、兄弟というものは、何よりもライヴァルです。最初の子は次の子が生まれるまでは親の愛を一身に受けますが、次の子が生まれた途端その愛が奪われる、あるいは愛され方が変わる。突然、お兄さんらしくすることを求められたりする。そのことに反発して、赤ちゃん返りをすることはよくあることです。そして、えてして下の子の方が可愛がられたりするものですから、兄は、弟を恨んだり、妬ましく思ったりすることもある。もちろん、長男は長男であるが故に重んじられるということもありますし、親によって様々ですから一概には言えません。 ヤコブの場合は、愛妻ラケルから漸くにしてヨセフが生まれた途端に、それまで他の妻や側女から生まれていた十人の兄たちなど眼中にないかのように、ヨセフだけを可愛がりました。その時以来、兄たちが受けた傷は、やはり深いと思います。「着物」は、身分も表しますから、ヨセフが「裾の長い晴れ着」を着ているとは、彼がヤコブの家を継ぐ息子であることを表してもいるのです。もしそうであれば、長男のルベンを初め兄たちの心が激しく傷つくことは目に見えています。しかし、その現実は、見えない者には見えません。ヤコブには見えず、ヨセフにも見えていません。しかし、彼は神様から与えられる夢を見ました。 兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を見ました。「晴れ着」を着ているヨセフ、「夢」を見させられたヨセフです。彼らは、ヨセフが近づいて来る前に、「ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談し」ました。 「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」 臨場感のあるよい訳だと思います。「さあ、今だ」とは、これまでずっとその機会を狙っていたことを示しています。ヨセフが生まれて以来の十七年間、溜めに溜めこんだ兄たちの悲しみや怒りがここにはあります。それはつまり、父に愛されず、無視されてきた記憶です。しかし、その父に対して真っ向から抗議をしたり、反抗したり出来なかった彼らの屈折した思いが、ここにはあります。 愛の逆説 ヤコブがいるところから数十キロも離れたこの地でヨセフを殺し、死体を穴に投げ込み、父には野獣に食われてしまったと嘘の報告をすれば、父は調べようがないのだから、万事上手くいく。そう思ったのです。このことの背後には、父への恨みがあり、そして、父の愛を求めて止まない切ない子どもの思いがあると思います。「こいつさえいなければ、父は自分たちをそれなりに愛してくれるはずだ。」そういう思いもあったでしょう。父の嘆き悲しむ姿を見て、ザマアミロと思いたいだけということは子どもにはあり得ないからです。憎しみの背後には、狂おしい愛が隠されていることが多いものです。愛したい、愛されたい、その切実な願いが精神的、肉体的に裏切られることを通してその心が深く傷つき、逆説的に憎悪となって現れる。そういうことはあります。 しかし、彼らの思惑はものの見事に裏切られます。父は、彼らの慰めをも拒否し「ああ、わたしはあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」と言うからです。「こうなった以上はお前たちが頼りだ」とは言わなかった。ヤコブは、ひたすらにヨセフの死を嘆くだけであり、それは今後も続きます。 戦争で子どもを失った親、(御巣鷹山の)飛行機事故で子どもを失った親にとって、六五年とか二五年とかは、その記憶を消し去る年月ではありません。年月が経てば経つほど、生きていれば息子や娘はこんな年頃のはずだ・・と同年代の青年を見ながら嘆き続ける。そういうものでしょう。 兄弟たちは、こんなことも言っていました。 「あれの夢がどうなるか、見てやろう。」 これは、ヨセフに夢を見させた神様に対する反抗です。よりにもよって、この小生意気なヨセフが将来自分たちの王になるかのような夢を見させた神に対して反抗している。「あなたが王に選んだヨセフを殺してしまいますよ。あなたは一体どうなさるおつもりですか?」心にかすかな恐れを抱きながらも、彼らは昂然たる思いをもって、神への反抗を実行に移そうとします。こういうことも人間はするものです。このように神を試す、試みる。「お手並み拝見」ということをします。これもまた、逆説的には、神様に愛されたい、神様に目を留めてもらいたいという思いでもある。自分たちのことをちゃんと見てくれているのか?そのことを試したい。捨てられているわけではないことを、悪事をすることで確認する。そういうことが人間にはあると思います。幼子だって、少年少女だって、親の目を引くためにわざといたずらしたり、ぐれたりするのではないでしょうか。 ルベンの記憶 ヤコブの記憶 兄弟たちのヨセフ殺害の謀略を聞いていた長男のルベンは、もちろん、心情としては彼らに同調しつつのことだと思いますが、「ヨセフを彼らの手から助け出そうとして」「命まで取るのはよそう。血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」と言います。彼は、ヨセフを助けて父の許へ帰したかったのです。私は、ここにもルベン自身がかつて犯してしまったことの記憶があると思います。 ヤコブの愛妻ラケルは、ヨセフを産み、もう一人ベニヤミンという男の子を産んだ直後に死んでしまいました。ベツレヘムの近くのエフラタという所です。ヤコブは、深い悲しみの中で彼女のために記念碑を立てました。35章20節にはこう記されています。 「ヤコブは、彼女の葬られた所に記念碑を立てた。それは、ラケルの葬りの碑として今でも残っている。」 ラケルの墓は、紀元後2010年の「今でも残って」います。6月にバスでベツレヘムに行く途中に、ラケルの墓のすぐ近くを通りました。そこは、子宝に恵まれるように多くの既婚女性が詣でる墓所であり、イスラエル民族の母の一人であるラケルを記念するものとして、つい最近イスラエル政府が国会遺産に指定したらしいです。 それはともかく、ラケルを失ったヤコブの失意は想像するに余りあります。しかし、その時、こういうことが起こりました。 「イスラエルが(ヤコブが)そこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」 ビルハとは、元はラケルに仕えていた女性であり、ヤコブの側女となってからダンとナフタリという二人の兄弟を産んだ母親でもあります。そのビルハと性的な関係をもつとは近親相姦の罪であると同時に、ヤコブの父権を侵すことなのです。老年に達しつつあるヤコブ、ヨセフを目の中に入れても痛くないように猫かわいがりする父親、愛妻を失って気力も何も失いつつある父親の地位を、長男である自分が奪う。そういう意図を持った行為でもある。 ヤコブは、その事実を知りました。しかし、彼はルベンに父権を譲るわけでもなく、ルベンを罰するわけでもない。そのままにしておいた。その理由は分かりません。しかし、このルベンがやったことの記憶は、ヤコブの心の中に留まり続けます。そして、彼が百四十七歳でエジプトの地で死ぬ間際、子どもたちに対する遺言を語りますけれど、ルベンに関して、彼はこう言うのです。 「ルベンよ、お前はわたしの長子 わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。 お前は水のように奔放で 長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。 あのとき、わたしの寝台に上り それを汚した。」 「あのとき」から何十年経ったのかは、正確には分かりません。でも、ヤコブはずっと憶えていました。記憶していたのです。その結果、ルベンはこの時、正式に「長子の誉れを失う」ことになりました。 ルベン、彼もまた憶えていたと思います。十数年前に彼がしてしまったことを。父の沈黙の中に何があるのか分からぬ恐怖を覚えつつ、自分のしたことの結末が見えない漠然とした不安と共に記憶していたでしょう。そのことが、ヨセフを巡る彼の言動に現れていると、私は思います。彼はなんとかして父に赦してもらいたかったし、父の悲しむ姿を見たくはなかったのです。息子に裏切られる父の顔を見たくはなかった。 殺人と食事 兄弟たちは、ある意味で、ルベンの言うことに従いました。直接、刃物で刺し殺して血を流すという手段をとることはやめた。でも、彼らの憎しみは最早抑えることが出来ないものでした。彼らは、呑気に近づいて来て、「やあ、お兄さん。調子はどう?ずいぶん探しちゃったよ。羊たちは皆元気?お父さんから、様子を見て来いって言われたから来たんだけれど、暑いね。水はない?」なんて言ったのではないかと想像しますけれど、そのヨセフに向っていきなり襲いかかります。彼らはまず、あの「裾の長い晴れ着をはぎ取り」ます。これはもうよってたかってはぎ取った。皆でびりびりに引き裂きながらはぎ取ったでしょう。その上で、彼を捕まえて、穴に投げ込んだのです。この「穴」は、しばしば井戸とか水溜と訳される言葉ですけれど、「その穴は空で水はなかった」のです。放っておけば、死ぬことは目に見えています。 ここだけでは分かりませんが、その後、彼らは必死になって助けを呼び求めたであろうヨセフの声が聞こえない所に行って、食事を始めました。 一昨日の夜、夕べの平和祈祷会を終えて食事をしながら、やはり戦争に関する番組を見ていました。戦闘機や戦車が出て来る場面は食べながらでも平気で見ることが出来るのですが、ユダヤ人の強制収容所の場面で、これが人間かと思うほどに痩せこけた人々の姿を見たり、骨だけのようになった死体が転がっていたり、戦場で焼け焦げた死体とか、海に身を投げて自殺した人々が浮かんでいる姿を見たりする時は、映像を通してとはいえ、やはりそのまま食事を続けることに何とも言えない複雑な気分を味わいました。平気で食べ続けることは難しかったのです。 三年ほど前に『告発の時』というアメリカ映画を見たことがあります。それは退役軍人の息子がイラクの戦場から帰って後、無断で基地から消えてしまって帰って来ないことを父が電話で知らされるという場面から始まります。彼は、自分の跡を継ぐように軍人となった息子を誇りとしており、あの息子が無断で基地から逃亡することなどあり得ないと思いました。父親は、かつて軍の警察にいた経験もあって、軍が何かを隠していることを察して独自に捜査を開始します。そして、息子の遺品であるボロボロになったビデオフィルムを専門家に依頼してかろうじて見える状態にすることを通して、自分が知らなかった息子の姿やイラク戦争の悲惨さを知っていきます。そのフィルムに写っていたのは、イラクの民間人を殺して笑っている息子たちでした。銃撃で脳味噌だとか内臓が飛び出した様を笑っているのです。あるいは捕えた民間人を生きたままナイフで切り刻む拷問をしたことを笑いながら語っている。 数日後、その息子が基地の近くで無数の刺し傷を伴う焼死体で見つかっていたことが分かります。映画の終盤で明らかになったのは、息子と同じ部隊の仲間たちがちょっとした喧嘩から彼を殺して、その死体をドライブインの近くの草原で焼いたということです。そして、その直後、彼らはそのドライブインでステーキかなにかを食べていた。戦場における仲間を殺し、その死体を焼く匂いを嗅ぎながら、空腹を覚えたというのです。愛国心に満ちており、イラク戦争にも疑問を感じていなかった元軍人の父親は、戦争でその心が蝕まれ、狂ってしまったアメリカの青年たちの現状を知って、やり切れない思いに押しつぶされて行きます。私は、戦後六五年の間も、世界各地で戦争をし続ける国が侵されている病の深さを改めて思い知らされました。 誰だって、いたいけな赤ん坊の時代があったのです。しかし、たった二十年程度生きただけで、人の脳味噌が飛び出る姿を笑い、人を殺した直後に平気で食事が出来る人間にもなってしまう。その心の奥深くにある深い傷を思わないわけにいきません。彼らが、戦場から帰って、自分がやったことを思い出す時、その記憶が、今度は彼ら自身を苦しめ、死に追いやることもあります。 ヨセフの兄弟たち、彼らは、ヨセフを水のない穴に投げ込みつつ離れた所で食事をしました。放っておけば、ヨセフは飢えと渇きで死にます。彼は、泣き叫びながら助けを求めたでしょう。でも、兄弟たちは、その声が聞こえない所まで離れて食事をするのです。その時の食事は、どんな味がしたのか?積年の恨みを晴らした爽快感の中で旨かったのか?それとも、気分が悪くなって、食事は喉を通らなかったのか?ルベンは、そうでしょう。肉親を殺すのはやはりよくないことだし、何の得にもならないからイシュマエル人に売って儲けようと提案したユダは、微妙です。他の兄弟たちも、心のどこかでは、やはり何とも言えぬ後味の悪さを感じていたのでしょう。彼らは、食事中に出されたユダの提案を受け入れました。 思わぬ展開 28節以降が、この物語の分かりにくい所です。多分、二つの伝承が合体させられた結果こうなったのだと思いますが、兄弟たちはイシュマエル人が遠くから来るのを見ているのに、ミディアン人を見ておらず、彼らがヨセフを引き上げてイシュマエル人に売る様子を全く見ていないことになっています。そんなことがあるのか?と思わざるを得ませんが、そういう所は目をつぶって、29節を見ると、「ルベンが穴の所に戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった」のです。つまり、彼らはミディアン人がイシュマエル人にヨセフを売ったことも知らない。ただ、穴の中にヨセフがいないという事実だけを知ったのです。もちろん、ヨセフがひとりで逃げることが出来たはずはないのですから、誰かがヨセフを引き上げて逃がしたか、連れ去ったかしたと思う他にありません。ルベンは長男としての説明責任もあるし、父親に対する負い目もあるしで、衣を引き裂いて嘆きます。 他の兄弟たちは、とっさに隠ぺい工作を始めます。雄羊を殺して、その血をあの晴れ着にたっぷりつけて、人を使って父に送り届け、「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになって下さい」と言わせるのです。一刻も早く知らせたかったという熱意を示す意図と共に、直接父の顔を見て言うことが出来ない後ろめたさが彼らにはあったでしょう。 父の反応の一つは、彼らの思いどおりでした。父は、ヨセフが野獣に食べられたことを信じたからです。しかし、先ほども言いましたように、父の愛は彼らには向かわず、死んだヨセフにだけ向けられ、後にはヨセフの弟であるベニヤミンに向っていきます。 そして、ヨセフは、父も兄弟たちも知らぬ形で、エジプトの高官ポティファルの家に奴隷として売られたことが告げられます。 人の思惑 神の計画 この物語は、何を私たちに告げているのでしょうか。 兄弟たちは、憎しみをもってヨセフを殺そうとした。しかし、ルベンの記憶に基づく説得のお陰で、殺人の罪までは犯さないで済んだ。ユダは、殺さないで父の許にヨセフを帰そうとしたのではなく、売ってしまおうと思った。弟を売って、父に内緒で銀貨二十枚をせしめるというのも、恐ろしい話です。しかし、結果として、彼らはそういう罪も犯さないで済んだ。彼らの知らない間に、他の民族がやって来て、ヨセフはエジプトに売られてしまったからです。 このすべてのことは、ここに一度も言葉としては登場しない神様がなさったことなのではないでしょうか?ヨセフは、兄弟たちに殺されませんでした。エジプトに奴隷として売られ、そこで生き延びて行きました。そこに神様のご計画があります。父ヤコブや兄弟を初め、イスラエルの先祖を生き延びさせていくというご計画があったのです。そして、兄弟たちは当初は殺意を抱き、次は金儲けをしようという悪意を抱きましたが、その殺意も悪意も自分たちの手で実行することはありませんでした。実行できなかったのです。そこにも、神様の憐れみがあります。神様が守ってくださったのだと、私は思います。殺人や人身売買の罪を犯すことから。 こうして見てみると、ここに登場するのは人間だけですけれど、誰一人として思い通りに事が運んだ人はいません。強いて言えば、ヨセフを売ったミディアン人とか、さらにエジプトでヨセフをポティファルに売ったイシュマエル人(聖書では、メダンの人となっており、伝承が混在していると思いますが)ですが、彼らは物語の脇役です。主たる登場人物であるヤコブは現実が見えておらず、今日もヨセフに兄たちの告げ口をさせようと思ってひとり旅立たせます。しかし、その結果は無残なものです。ヨセフも、こんなことになるとは思ってもみなかった。兄弟たちも同じです。ルベンもユダも含めて、誰も思い通りになんてなっていない。けれども、これらすべてが、実は長く深い神様の救いのご計画の中にあることなのです。 引き渡されて行く主イエス 一昨日の平和祈祷会では、ヨハネ福音書の十字架の場面を読みました。そこでは、主イエスを殺せと主張するユダヤ人と、殺す必要はないと主張するローマ人のピラトがいます。そして、ヨハネ福音書では、「引き渡される」という言葉が印象深く使われています。最初に、主イエスがイスカリオテのユダによってユダヤ人に引き渡されます。彼は、主イエスはあっと言う間に死刑にされるなんて思ってもみませんでした。しかし、ユダヤ人の権力者は最初から罪人として殺すつもりでした。主イエスは、その彼らによってローマ人に引き渡され、そしてローマ人から十字架に磔にされるために「彼ら」という不特定多数の人々に引き渡されていく。「引き渡す」とは「裏切る」とも訳される言葉です。そこには、人間の思惑が渦巻いています。それぞれ立場が違う、しかし、すべて自己保身に凝り固まっているという点では全く同じ人間の思惑のぶつかり合いの中で事が進んでいるのです。そして、現実には誰の思惑通りにもなっていません。ユダは、その後の展開に驚き自殺してしまうし、総督という絶大な権力をもっているピラトは、自分の意志とは裏腹のことをする屈辱を味わいます。しかし、彼は、この十字架にわざわざ三つの言葉で「ユダヤ人の王」という称号を打ちつけたのです。それは、彼の意図とは裏腹に、全世界に主イエスこそメシア、救い主であると宣言することでした。そしてそれは、「罪人」としての処刑を望んだユダヤ人の権力者にとっては、全く思いもかけない痛恨事でした。けれども、そこに神様の救いのご計画が成し遂げられているのです。 主イエスは十字架の上で「成し遂げられた」と言いつつ、息を「引き渡された」のです。すべての罪人によって十字架に引き渡されたお方が、すべての罪人を神に引き渡して下さったのです。そして、その事実を知らせ、罪人に新しい命を与えるために三日後に復活され、聖霊を与えて下さいました。それは、すべての人間にとって全く思いもかけないことでした。そして、この聖霊こそが、弟子たちに主イエスのすべての言葉と業を思い起こさせたのです。弟子たちのすべての記憶を呼び起こし、彼らが目にし、耳にしたことが何であるかを教えたのは聖霊です。聖書は、この聖霊の導きの中で書かれた書物です。だから、聖霊の導きの中で読む時に、私たちは神の救いのご計画が、あの十字架の死と復活の出来事を通して成し遂げられたことを知り、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立って、十字架の傷跡が残る両手を広げて「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったことを思い起こし、それが今の現実であることを知ることが出来るのです。 聖書 記憶 聖書は、明らかに過去の出来事を記憶に留めるために書かれた書物です。私たちが記憶すべきものは何であるかを、はっきりと教えるために書かれた神の言なのです。私たちが記憶すべきことは、自分の罪の数々であり、同時に、神はその罪人を赦すために独り子をさえ惜しまずに十字架につけて裁き、復活させて下さったという事実です。神様は、そのように、私たちを愛して下さった。愛して下さっている。その愛を記憶し、心に刻むことです。 私たちは、与えられた傷ばかりを記憶し、与えた傷は忘れがちです。神様に対しても、人に対しても同じです。恨むべき、憎むべき過去を記憶することで新たな憎悪を作り出していく愚かな者たちです。でも、神様はその愚かな罪をも逆転させて、御子をすべての罪人に引き渡し、十字架に引き渡すことを通して、罪の赦しを与えるという救いのご計画を成し遂げて下さったのです。私たちが記憶すべきことは、このことです。この神様の御業を絶えず新たに心に刻み、与えられている神様の愛と赦しによって未来を形づくっていく。それが、新しいイスラエル十二部族である私たちキリスト者に与えられている栄えある使命なのだと思います。 戦争を深く記憶すべきこの日に、今度は負けない強い国家などを夢見るのではなく、地上に生きるすべての者たちが、主イエスこそ、メシア、救い主と信じてひれ伏す日が来るのだという夢に向かって歩む者とならせて頂きたいと思います。 |