「わたしよりも彼女の方が正しい」

及川 信

創世記 38章 1節〜30節

 

(聖書朗読個所 38章 24節〜26節)
三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」 ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。

 8月8日から、創世記37章以下のヨセフ物語を読んでいます。今日は38章です。しかし、ここにはヨセフは登場しませんし、物語の流れも中断してしまいます。旧約聖書の創世記から列王記(王国の滅亡)までに記されている歴史は、一人の著者が書いたものではなく、何百年にも亘って、各地で伝わって来た様々な伝承が次第に一つの壮大な物語として編集されて出来上がって来たものです。ですから、一人の人が書いたのなら考えられない矛盾とか不整合が生じるのですけれど、そういうものを越えて、一つの壮大な物語が織りなされていることを見とっていかねばならないと思います。そもそも、人生や歴史も矛盾や不整合だらけですし。
 今、「各地の伝承」ということを言いました。それらの伝承は様々な土地に根付いたものであると同時に、それが生まれた時代も様々です。このユダという一人の人物に関する伝承は、カナン人が多く住んでいる土地にイスラエル十二部族の一つであるユダ族が侵入し、現地の人々と良くも悪くも交流を始めた頃のことが物語の形で書かれたのであろうと、私は思います。異文化、異宗教との交流というのは、互いを豊かにするという面とそれぞれの伝統が破壊されたり、衝突したりするということでもあります。そういう危険性を伴うものです。そのことの暗示、あるいは警告というものが背後にあるのかもしれません。
 そして、ある土地、ある時代に成立したユダ部族の物語が、ヨセフ物語のこの部分に挿入される時、それは一体どういうことになるのか?さらに、ヨセフ物語も創世記の一部であり、創世記は聖書の一部ですから、聖書全体の中にこの物語が置かれた時、そこにどういう意味が生じるのか?そういうことが問題となります。

 38章が挿入される意味


 最初に、その問題を少し考えておきたいと思います。前回、ヤコブの最愛の息子ヨセフが、兄弟たちの妬みや憎しみによって、結果としてはエジプトに奴隷として売られてしまったという所で終わりました。そして、その物語は39章に繋がって行きます。しかし、ヤコブも兄弟たちも、実はヨセフがエジプトに売られたなどということは知りません。そして、私たち読者も、この物語が挿入されることによって、ヨセフが一旦消えてしまう感覚を持ちます。即座に舞台がエジプトに移るのではなく、舞台はヤコブたちが住むカナンのままなのです。ヤコブは、ヨセフが死んだと思っており、ヨセフの兄弟たちは、ヤコブにそう思い込ませていますけれど、彼ら自身もヨセフがどこに行ったのか知らないのです。そういうヨセフの不在状態の中で、後にイスラエル十二部族の中心的存在となるユダ族の父祖ユダが何をしたかが描かれる物語が入っています。ユダ族は後の南王国ユダを代表しますし、ヨセフは北王国を代表する存在でもあります。そのことも意味のあることですが、物語の文脈としては、ユダはここでカナン人と接触を始め、ヨセフは今後エジプト人という異民族との交わりの中に生きる存在になっていきます。そして、39章でヨセフはエジプト人の主人ポティファルの妻に性的な誘惑を受けますが、ものの見事に突っぱねる。しかし、ユダはここでその誘惑に負ける。そういう対比が生じることになります。また、37章で既にユダは登場していますが、今後も重要な場面で登場する。過ちは犯したけれど、それを悔い改めて正しいことをする人物として登場します。今日の個所でも、それは同じです。そういう伏線にもなっている。
つまり、ヨセフがどこに行ったか分からないという、登場人物にとっての不在状態を読者に知らせ、さらに性的な問題の関連をつけ、そして、後にも登場するユダをここで登場させておく。また異民族と接触するとはどういうことかを示しておく。そういう意図が、いくつもの伝承を一連の物語にまとめていった編集者にあったのではないかと思います。聖書全体の中で持つこの物語の意味は後で語ります。

 粗筋


 この個所の粗筋はこういうものです。
 ユダは兄弟たちと別れてカナンの地の南方に移り住み、そこで現地の女性と結婚して三人の男の子を得ました。そして、長男のエルにタマルという嫁を貰う。しかし、エルは、ユダには分からないことですが、主の御心に反することをして、子どもが生まれる前に死んでしまう。そういう場合、長男の家督を継がせるために次男が長男の嫁との間に子を儲けることが次男の義務でした。しかし、次男のオナンは生まれる子が自分の子とはならないことを知っているので、完全な性交をしない。これも主の御心に反することであり、彼は死んでしまいます。ユダは、彼らの死の原因を知りません。だから、彼としてはタマルが疫病神としか思えない。そこで、三男がまだ成人に達していないことを理由にして、タマルを寡婦として実家に帰してしまうのです。三男のシェラが成人した暁には、再びユダの家に迎えるからという口約束をしてのことです。子がいない寡婦とは、嫁ぎ先でも実家でもまったく法的な保護を受けることが出来ない弱者です。タマルは、本人の責任ではないのに、そういう弱者になってしまったのです。以上が物語の前提です。ここから物語の本筋が始まります。
 それから、かなりの年月が経ちユダの妻が死んでしまう。喪の期間が明けた頃、羊飼いにとっては一年で最も嬉しい羊の毛を刈る季節を迎えました。羊の毛は大きな現金収入を得る唯一と言ってもよいものですから、その毛を刈る季節とは一年で最も喜ばしい季節であり、浮かれ上がる季節でもあります。ユダは羊の毛を切る者がいるティムナという地へ向かいます。タマルは人づてにそのことを知り、思い切った行動をとります。寡婦の服を脱ぎ捨て、顔にベールを被って遊女の姿となり、ユダが通る道に座ったのです。妻の喪が明け、羊の毛を刈って浮かれ上がっているユダを誘惑しようとした。彼女は、ユダの三男が成人しても、その妻にしてもらえないと分かったからです。つまり、ユダの言葉は嘘であると分かったのです。
 事は、彼女の思い通りに運びました。ユダはベールをかぶっている女性がタマルとも知らずに関係を持とうとします。その際、代金を持っておらず、タマルの言うがままに自分の印章と杖を後で支払う代金(子山羊)の保証として渡してしまう。そして、後日、使いをやって子山羊を渡そうとするのですが、もうその時にはタマルはいません。その際、ユダの使いは「遊女」ではなく、「神殿娼婦は、どこにいるのか」と土地の人々に訪ねます。「神殿娼婦」とは、カナンの人々の宗教の特色であり、イスラエルの民は決して倣ってはならない宗教的慣習なのですが、カナンの地では認められた存在なのです。地位もあるユダが、道端の遊女と関係を持ったという噂が立たないように注意しているのです。これ以上捜すと噂になるので、印章は別のものを作ればよいことにして、ユダは放っておきました。
 3ヶ月後、ユダはタマルが妊娠したことを知らされました。タマルはまだ法的にはユダの家の嫁ですから、ユダの息子以外の男性との間に妊娠したとなれば、それは姦淫の罪を犯したことになります。本心から言えば、ユダはまさにこの時を待っていたのです。彼はタマルを裁く権利を持っている人物ですから、即座に駆けつけて、「あの女を引きずり出して焼き殺してしまえ」と言います。しかし、この時を待っていたのは、むしろタマルの方です。彼女は、それまで周囲の者たちからは勿論のこと、家族からも軽蔑と非難の目で見られていたでしょう。でも、黙っていた。しかし、この時、口を開きました。
「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」
 ユダは、愕然とした。ちょっと見ただけで、それは自分のものであることが分かったでしょうから。しかし、周囲の人の目もありますから、裁判官として、提出された証拠品を調べました。そして、こう言ったのです。
「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」
 これ以後、ユダはタマルとは関係を結ぶことはなく、彼とタマルの間に生まれた双子の誕生を記して、この物語は終わります。この物語の最初と最後は、子孫の誕生という系図的な叙述で終わります。つまり、これはユダ族の出自に関する一つの完結した物語なのです。

 地域や時代の違い


 時代や地域によって慣習も法律も違いますから、現代の私たちの感覚でこの物語を読んで、ああだ、こうだと言っても仕方ない面があります。私たちの国においても、家の存続が最重要事項であった時代においては、親の決めた者と結婚するケースが多く、恋愛結婚など「ふしだらだ」とか「親不幸だ」とか言われたのではないでしょうか。また、戦争などで長男が死んでしまったら次男が長男の嫁と結婚することもありました。嫁は、その家の所有物であるという思想が背景にあるからです。それは、今では考えられないことです。今は、結婚は当人同士の意志に基づくものとされています。また、結婚式の時には既にお嫁さんのお腹には子どもがいるというケースも、よいことかどうかは別として、よくあることです。しかし、そんなことは、数十年前では勘当ものだったはずです。それ位、私たちの国においても考え方が変わっていますし、結婚に関する法律だって戦前とは違います。まして、紀元前のイスラエル人やカナン人の現実に関して、今の私たちの感覚で、是非を論ずることは愚かなことです。
 この物語の中で、タマルを非難する調子はないと思います。近親相姦になることを承知で遊女の格好をしてユダと関係を持った彼女の行為は、私たちから見ると、ちょっと受け入れ難い面があります。でも、この物語の中にタマルを非難する意図は見えないと思います。問題は、むしろユダの行為、それも遊女だと思ってタマルと関係したことよりも、嘘によってタマルから法的保護を奪うことをし、また当時の法慣習に逆らって長男の息子をタマルから産ませないという行為に対する非難の調子の方が強いと思います。もちろん、立て続けに長男と二男が死んでしまったことで彼が恐れを抱いたことは分かります。でも、それは彼が知らなかったことですが、タマルのせいではありません。彼らが主の意に背いたからです。また、ここにはユダの妻が死に、喪の期間が明けた後に、浮かれ気分で遊女と関係した上に、それをあたかもカナン人の間では恥ずべき行為ではない神殿娼婦との関係であるかのように偽装しようとした男の惨めさが強調されてもいると思います。

   主題探求の層


 しかし、それらもやはり瑣末な問題というか、主題を形づくる道具立てのようにも思えます。それでは、この物語が言わんとしていることは何なのか?その問題は、幾層にも亘って検討されなければならないことです。元来の物語の意図、また、その物語がこの場所に挿入された意図、そして、新約聖書を含めた聖書全体を見る中で生じて来る主題というものがあるだろうと思います。
 元来の物語は、先ほど言いましたように、ユダ族の出自を語るという意図があったと思います。イスラエル十二部族の中のユダ族は南方に定着しました。そして、平野に住むカナン人との交流を持った。そして、多くの羊を飼う裕福な存在にもなったけれど、同時にカナンの悪しき慣習にも馴染む傾向を持ったのだと思います。そして、性に関する過ちを犯す人間としてのユダが描かれていると思います。それに対して、タマルは、体を張って自分の権利を獲得するたくましい女性として描かれているようにも思えますし、立場の弱い女性の悲しみが描かれているようにも思えます。その点については、皆さんそれぞれの感覚がおありだと思いますし、先ほど言ったように、今の時代の感覚だけで判断しない限り、その感覚に基づく解釈の幅はあるだろうと思います。

 信頼できる物語?


 私にとってこの物語は、聖書を信頼させてくれる一つの物語として存在します。先週、私は人間の記憶を巡って語り、聖書は記憶すべきことが書かれている書物なのだと言いました。現在、私たちが「聖書」としている一冊の書物は千年以上かけて書かれ続けた膨大なものですけれど、「旧約聖書」の各部分の作者や最初の読者はアブラハムに始まり、その孫のヤコブの十二人の子孫としてのイスラエルの人々です。彼らは、後にユダの子孫としてのユダヤ人と呼ばれるようになりました。その歴史的経過については、今日は省きます。ユダ族とは有名なダビデ王が出た部族です。そういう意味で、イスラエル十二部族を代表する存在になっていったのです。そのユダ部族の出自の物語が、この38章です。このユダ部族の子孫が生まれる時に起こったことを、記憶に留めさせるために、この物語は書かれ、そして読まれ続けたのだと思います。
しかし、ここに記されている出来事は決して誇らしい出来事ではありません。少なくともユダにとっては恥とすべき出来事です。そして、それはユダの子孫にとっても同じはずです。自分たちの先祖が人々に称賛されるべき人とか英雄であれば嬉しいことですが、こんなことをした人なのだということを記憶し続けることは、決して嬉しいことではないし、心地好いことでもありません。
伝説は、いつでも後から作られて行きます。そしてそれは、その伝説を作る人々にとって有利なもの、有益なものとして作られるものです。日本の記紀神話だって、当時の朝廷の起源を天に置き、自分たちの支配を正当化するために作られたのでしょうし、戦前の日本政府が作り出した天皇の支配を権威づける皇国史観もまた同じことです。だから、私は全く信頼できません。現在の自分たちの立場の優位性を保つために作られた物語とか歴史書というものは信頼できない。しかし、ユダヤ人の中心となっていくユダの物語は、そういう意味では真逆な物語です。だから、むしろ信頼できると思います。

ユダの子孫、ダビデの罪


この物語は、ユダ部族の先祖は大きな過ちを犯したのだと告げます。そして、ユダの子孫であるダビデ王もまた同様であることを、サムエル記は書き記します。ダビデもまたウリヤという人の妻との姦淫を通して子どもを作った人物であり、ウリヤを間接的に殺した殺人者です。そのあくどい手口が、サムエル記にはっきりと記されています。そして彼は、譬話として、人妻を奪って、夫を殺した人間に対してどういう裁きをすべきかと預言者ナタンから問われた時、ユダ同様に「死刑にすべきだ」と断言しました。しかし、その途端、死刑にされるべきは自分であることをナタンから示されました。そういう人物なのです。正しいのは彼ではなく、殺されたウリヤなのです。
 この二人に共通していること、それは権力を持った男が人知れず罪を犯したということです。しかし、その罪は、犯したその時から神に見られており、必ず暴かれ、裁かれるということです。そして、罪が暴かれた時、それを認め、悔い改めたということでもある。
 旧約聖書とは、ユダとその子孫の物語(歴史)として書かれていったという一面があります。そして、その物語には人間の愚かにして惨めな罪が繰り返し記されているのです。つまり、罪の数々が記憶され、記録されている。そして、それは同時に、イスラエルの神は、悔い改めた者を赦し、新たに生かす憐れみ深い神であることが記憶され、記録されているということでもあります。そしてそれは、ヤコブ物語の主題であり、また趣きは異なりますがヨセフ物語の主題であり、旧新約聖書全体の主題です。今日の個所も、その主題において共通しているでしょう。

 新約聖書の冒頭


 新約聖書の冒頭に記されているものは系図です。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しによって新約聖書は始まります。いつも言いますように、「系図」とは出来事、物語、歴史の意味を持ちます。マタイによる福音書の系図はこういうものです。

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけた。」

 ここにあるのは、一つの選びの物語です。ヤコブの十二人の子どもの中からユダの家系が選ばれています。また、タマルから生まれた双子の中ではペレツが選ばれている。そして、基本的に男性の名、つまり父親の名によって書かれていくこの系図に、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という女性の名が記されているのです。皆、ユダヤ人からしてみれば異邦人であり、そして皆それぞれに悲しい事実を隠し持っている人々です。タマルは義父に捨てられることで義父と関係し、その子どもを産みました。ラハブはエリコという町の遊女として生きていた女性です。ルツは夫に先立たれながら、ユダヤ人である姑に仕え、自分にとっては異郷の地であるユダの国において極貧の生活に耐えなければならない女性でした。しかし、そういう女性がダビデ王の祖母になります。そして、ここでは名が記されず、敢えて「ウリヤの妻」と記される女性は、バテシバという名ですが、兵士である自分の夫が仕えているダビデ王にいきなり召し抱えられて、陰で、ダビデによって夫が殺されてしまうのです。そして、ダビデとの不貞によって身ごもり、産んだ子は一週間で死んでしまうという経験をしています。ソロモンは、正式に妻になってからの息子です。そして、王であるダビデの妻はバテシバだけではないのです。彼女は一途に愛され続けたわけではありません。
 つまり、アブラハムからユダを介してダビデに至り、最終的にはイエス・キリストの誕生に至る系図の中に出て来る選ばれた人々のすべてに隠したい過去がある。罪の事実がある。そのことを記憶するところから、新約聖書は始まります。そして、その記憶抜きに新約聖書を読んでも何も分からないのです。

 ご自分の民を罪から救う者 イエス・キリスト


それは系図の先を読めばすぐに分かることです。
婚約者のマリアが自分との交わりではない形で命を宿したことに苦悶しているヨセフに対して、天使は夢の中でこう告げました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 イエス・キリストは、ご自分の民を罪から救う者としてお生まれになったのです。偉大な思想家とか、宗教家として生まれたわけではありません
。 天使が言う「罪からの救い」とは、まず何よりも主イエスが人間の罪を背負って死刑にされることを通して与えられることです。人間は誰でも罪を犯す、あるいは罪の中に生まれて来る。そのことに例外はありません。しかし、その罪のすべてを背負って、神の独り子イエス・キリストが十字架に磔にされて裁きを受けてくださったのだということ、裁かれるべき罪人がではなく、裁かれるべき罪を何も持たないお方が、目に見える形では罪人たちに「罪人だ。死刑にすべきだ」と言われて裁かれた。しかし、そのことによって、罪人に「罪からの救い」をお与えになった。その信じ難い出来事を記憶するために、新約聖書は書かれているのです。その記憶こそが、人を本当の意味で生かすからです。
さらに、そのお方は罪に対する裁きの死から3日目に甦って下さり、罪人に現れて赦しを宣言し、新たな者に造り替え、永遠に共に生きてくださるお方である。そのことを告げているのが新約聖書です。

インマヌエル


 マタイは、天使のお告げに続けてこう書き記します。

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


 そして、十字架の死から復活された主イエスは、その数日前に、蜘蛛の子を散らすようにご自身を裏切って逃げ去った弟子たちに現れて、こう語りかけてくださったのです。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(インマヌエル)

 次回は、ヨセフ物語の続きである創世記39章を読みます。そこに何度も出てくる言葉は、「主がヨセフと共におられた」という言葉です。主が共にいてくださるとは、苦しみのない人生を歩むことではありません。彼は、異国人の奴隷として働き、主人の妻に誘惑され、きっぱりと断ると、腹いせに罪人に仕立て上げられて、牢獄に叩きこまれるのです。しかし、そのすべてのことを主はご覧になっており、そして、共にいてくださる。それをヨセフが自覚的に知っていようがいまいが、その事実はある。ヨセフ物語は、その事実を告げます。そして、その事実の究極は、主イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と復活を通して、私たち人間の罪を赦し、新たに生かし、その人生の歩みを共にしてくださるということに尽きます。罪からの救いに尽きるのです。
 ユダとタマル。彼らもまた、その罪の赦しを与えてくださる主なる神様を証しする罪人としてここに登場しています。そして、私たちキリスト者は、信仰の世界においては皆、「アブラハムの子孫」なのです。私たちもまた、このマタイ福音書に記される系図に連なる一人一人であると言ってもよいのです。私たち一人一人の人生、そこに起こる出来事、歴史は、すべて神の前にあるものです。人に隠すことは出来ても神に対しては出来ません。でも、そのことを知っているからこそ、私たちは神の御前に罪を悔い改め、赦しを乞うことが出来るのです。神にも隠せていると思っている間は、人は決して罪を認めず、悔い改めず、そして、赦しを求めません。ユダは、自分の罪は神の御前に明らかであることを知りました。「わたしよりも彼女の方が正しい」という言葉は、そのことを表していると思います。神は、己が罪を知らされ、悔い改めたユダを、救いの選びの系図の中に入れました。罪を悔い改め、主イエス・キリストによる罪からの救いを信じる私たちもまた、その系図の中に入れられている人間です。「命の書」にその名が記されている人間です。だから、私たちも主イエス・キリストにおいて示された神の愛と赦しを、その存在を通して、その歩みを通して家族や知人に証しをしていく証し人なのです。その証しを生きる者に対して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスは語りかけてくださるのです。この主イエスに感謝し、讃美しつつ今日よりの一週間の歩みを始めたいと思います。
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