「主が共におられたので」

及川 信

創世記 39章 1節〜23節

 

(聖書朗読個所 39章 1節〜9節)
ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。 主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。
主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。
これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

  38章との比較


 38章でユダとタマルの物語が挿入された上で、39章から再びヨセフ物語が始まります。明らかに38章はヨセフ物語と全く異なる話ですけれど、色々な比較が出来る話でもあります。両方とも性的な事柄に関わっており、また強者と弱者がいます。38章では一家の家長であるユダが強者で、追い出された嫁のタマルが弱者です。39章では、ヨセフを買い取った役人のポティファルやその妻が強者で、ヨセフが弱者です。そして、38章も39章も、強者の方が罪を犯す。ユダは罪を認めますが、ポティファルの妻は罪をなすりつけます。そして、ポティファルは、ヨセフの言い分も聞かずに、彼を牢獄に叩きこみます。彼の言い分を聞いてそれを信じれば、妻を追い出さざるを得ないこともまた、影響を与えているでしょう。ユダは性的な誘惑に負けましたが、ヨセフは負けない。また、ユダもヨセフも、その相手はイスラエルの民にしてみると異邦人の女性であるということも、38章と39章が並べられた背景にはあるのかもしれません。異邦人との付き合い方は気をつけろという警告があるのかもしれません。いずれにしても、この二つの物語が並んでいることは興味深いことです。

 前提

 37章で、兄たちの手に掛かり、着物をはぎ取られたヨセフが穴に放り込まれます。しかし、たまたまエジプトに行くために通りかかったミディアン人がヨセフを助け出してイシュマエル人に売り、イシュマエル人はエジプトでヨセフをポティファルに奴隷として売るところまでが記されていました。ヨセフがエジプトに連れ去られたことも、そこでファラオの宮廷の役人の奴隷として買われたことも、ヨセフの父であるヤコブは勿論、ヨセフを殺したいほど憎んでいた兄弟たちも全く知りません。

 着物

   このヨセフ物語の前半で目立つ言葉は「着物」です。ヤコブがヨセフにだけ着せた晴れ着が、兄弟たちの憎しみをかきたてたのです。そして、兄弟たちは彼を手にかけて殺そうとした。この着物が、今日の個所でも重要な役回りを演じます。37章では、ヨセフは兄たちによって強制的に着物をはぎ取られ、その後、その着物に山羊の血がつけられて、彼は死んだことにされました。つまり、着物は兄弟たちの偽装工作の道具として使われたのです。
今日の個所では、ヨセフの主人の妻が、ヨセフと強制的に性的関係を持つことを求めて彼の着物をつかみます。しかし、ヨセフは、それを脱げば裸になるしかない一枚の着物を即座に頭からすっぽり脱いで逃げる。妻の手の中に、ヨセフの着物が残り、それがまた偽装工作の道具となってしまう。そして、今度は牢獄に叩きこまれてしまうのです。
しかし、数年後、彼はファラオの夢を解いて、エジプトの総理大臣としての豪華な服を着させられることになっていきます。つまり、神様が彼の若き日に見せた夢が、紆余曲折を経ながらも実現していくのです。



 また、37章で既に3回使われ、39章では実に9回も出てくる言葉は「手」という言葉です(日本語の聖書には出て来ない個所もあります)。最初に、ポティファルがヨセフをイシュマエル人の「手」から買い取ったという形で出てきます。次に、3節の「主が彼のすることをすべてうまく取り計らわれる」とは、「彼の手の中にあることをすべてうまく取り計らわれる」ということです。「手」はこの場合、力とか支配を現します。日本語でも「手中に収める」とは支配や所有することです。
イシュマエル人の手からポティファルに買い取られて彼の奴隷となったヨセフは、頭がよく、さらに美貌の持ち主で、どんどん頭角を現し、主人の信用を得ていくことになります。人身売買が行われるという厳しいこの世の現実の中で苦労したせいか、この時の彼は父に猫かわいがりされていた頃の高慢な性格が消え失せ、多くの人々にも好かれたのでしょう。そういうヨセフをポティファルは信頼し、「自分が食べるもの」以外はすべてヨセフの手に委ねることになりました(翻訳では「手」とは出てきません)。この「食べるもの」が何を意味するかは、後で触れます。
その後、先ほども言いましたように、彼の「着物」がポティファルの妻の「手」に残されて、彼は罪を着せられることになります。しかし、その結果叩き込まれた牢獄でも、監守長は囚人すべてをヨセフの手に委ねることになります。そして、数年後には、彼は牢屋から出て、ファラオの側近となる。そういう形で、神様がヨセフに見せた夢が実現していくのです。

主が

 このような「着物」「手」を巡る物語の最初と最後に、すべてを囲むようにして出てくる言葉が、「主がヨセフと共におられたので」という言葉です。
 ヨセフ物語の中で「主」という言葉が出て来るのは、この39章だけです。原語ではヤハウェですが、これは元来、イスラエルの神様の名です。その「主」(ヤハウェ)がここに「ヨセフと共におられた」という形で出て来るのは、異教の神々の国であるエジプトにおいても、実は主である神こそがその力を発揮している現実を示していると思います。しかし、その「主が共におられる」とは、平穏無事な生活が保障されることではないことも示しているでしょう。以上のことを踏まえた上で、物語の中に入って行きたいと思います。

 ヨセフの信仰

 1節は舞台設定で、2節以降に物語が始まります。注目すべきは、「主がヨセフと共におられたので」という客観的な事実に加えて、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれるのを見た主人は」とあることです。ヨセフの主人ポティファルにとって、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、ヨセフの神である「主」など、これまで全く知らない神であるに違いありません。しかし、その彼が、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれるのを見た」とは、ヨセフが既に自分の神の名である「主」をポティファルに伝え、自分がその「主」に対する信仰を生きていることを伝えていたからであると思います。ヨセフは、少年時代からなんでも正直に、また物怖じせずに口にする人物であることは既に見てきましたし、これからも見ることになります。彼は、奴隷であるにも拘わらず、エジプトの宮廷に仕える主人、つまりエジプトの神々とその代表者でもあるファラオに仕える主人に向って、主なる神に対する自分の信仰を堂々と告白している。そして、その主を信じるヨセフのやることなすことが見事なものであり、誠実な仕事ぶりであったので、主人は多くの奴隷がいる家の管理と財産を彼の手に任せるほど信頼したのだと、私は思います。

 アブラハムの子孫としてのヨセフ

 その時、何が起こったかと言うと、「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及ぶ」ということです。
私たちは今、ヨセフ物語を読んでいます。この物語は、アブラハム・イサク・ヤコブの物語、通常「族長物語」と言われる物語の中で、様々な意味で特殊な物語です。舞台はエジプトですし、文体も全く異なるし、「主」は39章にしか出て来ないし、主が直接ヨセフに語りかけることもないし、アブラハムやヤコブがしたように、ヨセフと主が対話をすることもありません。そういう意味で、全く別の物語と言ってもよいと思います。しかし、この5節の言葉は、そうは言っても、ヨセフ物語もアブラハム以来の族長物語の系譜を継いでいることを示していると思います。
 アブラハム物語の最初である創世記12章は、アブラハムが主からの召命を受ける場面です。そこで主は、アブラハムにこう語りかけています。

「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」

   アブラハムを召し出した主なる神様は、ただ単にアブラハムとその子孫を祝福するために召し出されたのではありません。罪の呪いの中に落ちてしまった「地上の氏族すべて」を、信仰に生きるアブラハムとその子孫によって祝福に入れるために、主は彼を召し出し、異郷の地に旅立たせたのです。そのことが、思いがけない形で異教の地エジプトにやってきたヨセフを通して、一つの現実となっている。そのことを、6節の言葉は表していると思います。
ヨセフもまた、アブラハムの子孫として、罪の呪いに落ちた人々に祝福をもたらすために生きているのです。私たちも、です。私たちも、アブラハムを「信仰の父」とする「アブラハムの子孫」だからです。

 危機

 しかし、そのアブラハムの子孫、自ら祝福され、さらに祝福を周囲に及ぼす者として生かされている者は、艱難辛苦とは無縁の人生を生きるかと言えば、それは全く違います。6節に既に暗雲がたち始めています。

主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。

 ヨセフは、顔は美しく、体はたくましい青年でした。そして、頭もよくて仕事は抜群にできる。その姿は、誰が見ても惚れ惚れするものだったでしょう。もちろん、中には妬む者もいるし、その逆にすり寄って来る者もいる。そして、様々な意味で優れた人ほど罠を仕掛けられるものです。同性からは、様々な嫌がらせや妨害を受けることがあり、異性からは、性的な誘惑を受けることがある。そこに罠があり、落とし穴があるのです。ユダはひっかかり、ヨセフは見事に飛び越えました。ポティファルの妻の手に残ったのは、ヨセフの服であってヨセフではありません。そして、ヨセフは奴隷の服をいつまでも着ている人間ではないのです。

 自分の食べるもの

 6節には、主人が「自分の食べるもの以外は全く気を遣わなかった」とあります。ヨセフに「全財産を委ねて」いるのに、食べ物には気を遣うというのはどういうことかが気になります。
この先の43章には、「エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかった」「それはエジプト人のいとうことであった」という言葉が出てきます。「ヘブライ人」とは後にイスラエルの民のことだけを表すようになりましたけれど、この時代は、下層階級に属する外国人労働者のような人々を指していたようです。支配的な位置に立つ人々の人種差別や身分差別の意識がその言葉には込められており、それは39章でも同様です。また、宗教的な意味で、エジプト人は異教徒とは食事をしなかったようですから、そういうことが背景にあるのかもしれません。
しかし、こういう解釈もあります。「自分の食べるもの」とは、彼の妻のことだというのです。一見、唐突のような感じもしますが、私はそういう解釈も成り立つと思っています。当時の言葉遣いとして、「自分の食べるもの」が妻を意味する隠喩だったという証拠があるのかどうか私は知りません。でも、この物語の文脈と創世記2章に出て来るエデンの園の物語との関連性を考えると、食べ物と妻とを結びつけることは、それほど唐突なことではなく、むしろ理に適ったことのようにも思えるのです。

自由と制限

ヨセフは、主が共におられたので、やることなすことが上手く行き、ポティファルの家の中のことはすべて彼の手の中にありました。それはある意味で、エデンの園に置かれていたアダムのようでもあります。アダムは、園にあるどの木からもその実を手に取って食べてもよいことになっていました。でも、ただ一つ、「善悪の知識の木の実」は食べてはいけないと、神様に命じられていました。何もかも所有しており、何をしても自由だが、やってはいけないことが一つだけある。
こういう状況は、ヨセフの置かれた状況と似ています。そして、自由を手にしていい気分の時に、蛇が出て来る。罠が仕掛けられるものです。私たちも様々なことが上手くいっている時にこそ、危険が忍び寄ってくるものです。ユダのように浮かれていると、まんまとその罠にかかってしまう。

ポティファルの妻の誘惑

ポティファルの妻は、高級官僚の妻として仕事をする必要もない身分ですが、そういう面で満ち足りた人間こそ欲求不満でどうにもならないことがあります。彼女は、ヨセフの若々しい美貌や才能を見て心惹かれたでしょうし、また仕事にばかり精を出している主人との間に隙間風が吹いていたかもしれません。彼女は、ヨセフに目を注ぎながら「わたしの床に入りなさい」と言います。「目を注ぐ」とは直訳すれば「目を上げて」ですし、「床に入りなさい」は「わたしと寝なさい」です。多分、彼女は寝室のベッドに横たわりながら、ヨセフをうっとり見上げ、しかし主人の妻として高圧的な雰囲気を漂わせつつ命令したのだと思います。“私が命じるのだから、心配しないでよい。その命令に応えれば、これからあなたはこの家で何もかも手に入れることが出来る。主人には秘密だけれど、あなたがこの家の陰の主人になれるのよ”、ということでしょう。しかし、そのヨセフを手玉にとるのは彼女なのです。それはまさに、蛇の誘惑です。禁断の木の実を食べれば、神のようになれるということですから。

ヨセフの応答

しかし、ヨセフは答えます。
「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
ポティファルの妻、それだけはヨセフの意のままにならないものだし、そうでなければならないものです。ポティファルも、財産の管理はヨセフに任せ切りにしましたが、妻まで任せているわけもありません。その主人の信頼を、ヨセフは痛いほど感じていましたから、彼は妻の命令であったとしても断固として断りました。
さらに、彼には断る理由があった。それは、姦淫は神に対する重大な罪であるということです。その罪を犯したなら、死の裁きを受ける。それがたとえ肉体的な意味での死刑でないとしても、神様に見捨てられることを意味するのです。それは、主が彼と共におり、そのことのゆえに祝福を受け、さらにポティファルの家に祝福をもたらしているヨセフにとっては、致命的なことです。彼は、自分がどういう立場の人間であるかを、十分に弁えていました。彼は、神に選ばれて立てられたアブラハムの子孫です。そして、地上のすべての氏族に祝福をもたらすために、また「主」を知らしめるために、この異教の地にまで来たのです。たとえそれが自分の意志ではないにしても、いや自分の意志や願いではないからこそ、そこに主なる神のご計画を感じ取っていたのかもしれません。その神の愛に基づく信頼に応えること、それがヨセフの使命なのです。

妻の復讐

しかし、ポティファルの妻は、そんなことは一向にお構いなしに、「毎日、ヨセフに言い寄った」。一旦欲望の炎に火がつくと、何もすることがない人間は、ただその欲望の達成にのみ身を捧げることになります。しかし、「ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」。つまり、一切の関わりを断ったのです。それは、彼が罪を犯さないためだけではなく、ポティファルの妻が罪を犯さないためでもあります。しかし、彼女はそんなことは全く気付きません。簡単に手に入らないものこそ、人は欲しくなるものです。ヨセフをなんとかして自分の手中に収めていたという彼女の屈辱に満ちた欲望は、日に日に高まっていったに違いありません。
そんなある日、家の者が誰もいない時、ポティファルの妻は強硬手段に出ます。

こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

 先ほども言いましたように、当時のエジプトの奴隷が着ている服は、一枚の寸胴のようなものです。それを頭から脱げば、下には何も着ていないのです。彼は、きつく着物を掴まれたので、咄嗟に、頭からすっぽりと服を脱いで裸で逃げ去りました。そのことが、今後どのような事態を自分にもたらすかを、彼は十分わかっていたと思います。しかし、彼は逃げたのです。ちょっと添い寝する位ならいいかという曖昧な態度を取らない。
ポティファルの妻は、奴隷ごときにそこまで嫌われているのかと失望したでしょうし、また恥ずかしい思いをしたでしょう。そして、支配者側の人間としての屈辱を感じた。だから即座に復讐に転じます。その際、彼女はヨセフが脱いだ着物を決定的な証拠品として使います。

着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」

 彼女は、召使たちを自分の味方に引き入れるために「わたしたち」という言葉を使います。そして、先ほど言ったように「ヘブライ人」と言う。この場合は、完全に差別用語です。そして、「いたずら」しようとしたのは彼女の方です。でも、翻訳では書かれていませんが、「主人(彼)が連れてきたあのヘブライ人が、わたしたちにいたずらをした」と言うのです。つまり、究極的には主人のせいにしつつ、あのヘブライ人が自分の寝室にまで来て、目の前で服を脱いで裸になった。それで、大声を上げたらびっくりして逃げた。そういうストーリーを作りだす。状況証拠としては、彼女の部屋に服が残されているのですから、完璧でしょう。ただでさえ、主人の妻が言うことだから「それはおかしい」と言う召使がいるはずもないし、新参者のヨセフに対する主人の信頼の強さに対して反感を抱いていた古参の召し使いもいたでしょうから、家にいる召し使い全員が、彼女の言うことをそのまま事実として受け止めたと思います。
 彼女は、その後、主人が帰って来るまで、その着物を、わざと「傍らに置いて」、つまり、ベッドに置いて、主人にも同じ話をしました。しかし、そこでは奴隷である召し使いには敢えて使わなかった「あのヘブライ人の奴隷」という言い方をします。その奴隷を連れて来たのは「あなただ」と言う。こういう罪の責任転嫁は、アダムが禁断の木の実を食べた後、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言うのと本質的に同じだと思います。
また、主人には、「着物を わたしの傍らに残したまま逃げて行きました」と、まさにベッドの上で裸になったヨセフが、傍らに寝るところまで来たので、大声を上げて叫んだ。すると、あいつは慌てて逃げていった、と言う。
 そして、駄目押しのように、「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える。つまり、処分はあなたがしなさい、ということです。ポティファルが、妻の言うことを全面的に信じたかどうか、それは分かりません。しかし、着物が妻のベッドの傍らにある限り、「それは嘘だ」とも言えないし、ヨセフが図に乗ったということだって、人間として十分考えられることです。ポティファルは、怒りました。彼にしてみれば、飼い犬に手を咬まれると言うか、全幅の信頼を置いていた人物に完全に裏切られたのだし、さらにその男は「ヘブライ人の奴隷」です。実際には性的な関係を持つに至らなかったとしても、厳重注意で済まされる話ではなく、そのまま放置をしておくわけにはいかないのです。
 しかし、ポティファルはヨセフを当然死刑にしてもよいのに、一般の牢獄ではなく、「王の囚人をつなぐ監獄に入れた」ことに、神様の不思議な御業を見る解釈があり、私も同意します。「王の囚人をつなぐ監獄」とは、宮廷で仕えつつ、何らかのことをして王の逆鱗に触れた者が入れられる監獄でしょう。40章には、かつて王の側近だった二人の囚人が登場します。
 奴隷として売られ、奴隷として最高の地位に就いた彼は、またもや本人には何の責任もないのに、恨まれて、囚人になってしまうのです。

 しかし、主がヨセフと共におられたので

しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。 監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。

主が共にいる。それは、選ばれた人間における現実です。人間が、自分の願いでその現実を手にしようとしても、そのことの故に手に入れられる類のものではありません。主なる神は、自由にその恵みを与える方なのであり、人間に束縛されたり、強制されて、与える方ではない。ヨセフは、どういう訳か、主が共にいてくださる人間であり、恵まれる人間なのです。その結果、彼は、監獄の中でも、囚人を皆、その手に委ねられる人物となり、監守長から絶大な信頼を得ることになります。そのことを、聖書は、彼の才覚の故であるとは書きません。主が共にいてくださるから、主が恵みを与えてくださったからだと書くのです。

 うまく計らわれる

 39章には、原文としては「主が共におられた」という言葉が最初と最後の3回出てきますが、その3回すべてに「うまく事を運んだ」とか「うまく計らわれる」という言葉がくっついています。2節では、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と、主語は「ヨセフ」です。しかし、3節では「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれた」と、主語が「主」になっています。そして、物語の最後では、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」となっている。つまり、目に見える形としては、ヨセフがその才覚をもってすべてを上手く取り計らっているようだけれど、実は、本当の主語は「主」であることを、この物語は明言しているのです。
 そして、「うまく計らう」という言葉は、ツァーラーという言葉ですが、この言葉は創世記においては24章と39章にしか出てきません。24章とは、アブラハムがその僕を故郷に遣わして、ひとり息子のイサクの嫁を捜しに行かせる所です。その中で繰り返し、「主が旅の目的をかなえてくださる」という言葉が出てきます。この僕も惚れ惚れするほど賢く、主人アブラハムに対して忠実な僕なのですけれど、その旅の目的は、彼の才覚によってかなえられるのではなく、あくまでも主がかなえてくださる。そのことを信頼して祈りつつ歩む。それが、アブラハムとその僕の信仰でした。
 ヨセフ物語の中に、そういう信仰を表現する直接的な言葉はありません。この物語はあくまでも出来事を物語っていきます。ある意味では、ヨセフが信じていようがいまいが、主はそのご計画に従って事を運んでいくのだということでもある。しかし、先述したように、彼は「主の僕」であることを、主人であるポティファルには言っていたはずですし、その妻には「どうして、そのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことはできましょう」と言っています。彼女には「主」と言っても分からないからだと思います。

 神の救いのご計画

 こういう物語を読んで思うことはいくつもあります。しかし、その中でも、主なる神様のご計画の不思議さを思います。また、「主が共にいる」とは、順風満帆の人生を生きることなのではなく、思いもかけない苦しみを与えられる人生を生きることであるとも思われます。
そういう人生の極みを歩まれたのは、主イエス・キリストです。この方は、圧倒的な賢さの故に、幼い頃から律法学者たちと議論したと伝えられ、成人になってからは、他の律法学者が持っていない圧倒的な権威を持って教えられたと伝えられています。律法や預言を通して語られている神様の御心を忠実に生きたのは、この方です。しかし、そのナザレのイエス、大工のせがれであるイエスが、神の民ユダヤ人の権力者たちによって、神に対する冒涜の罪を犯したと訴えられ、それまでイエス様に心惹かれていた民衆も、彼らの扇動に乗って「十字架につけろ」と叫び、ローマ帝国の権力者によって有罪とされて死刑にされてしまうのです。その十字架の上で、イエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望的な叫びを上げられました。しかし、その一方で、「成し遂げられた」とおっしゃいました。罪人として、十字架に磔にされる絶望の死は、その一方で、「ユダヤ人の王」としての死であり、真の「神の子」の死なのです。この死を通して、地上のすべての氏族が、その罪の呪いから解放されて命の祝福に与ることが出来るのです。その祝福の現実を、主は死の牢獄からの復活と聖霊付与を通して、弟子たちに与えてくださったのだし、今は私たちに与えてくださっているのです。そして、私たちはその祝福に、聖霊によって与えられた信仰をもって与ることが許されている。それはまさに主の恵み以外の何ものでもありません。
神に悪を犯す罪が勝利したと思えたその時、実は、その罪を赦して新しい命を与えるという神の愛が勝利しているのです。主イエスの苦難に満ちた人生の目的は、誰も思いもよらないことですが、この十字架の死と復活を通してかなえられ、すべてがうまく計らわれたのですし、今も主の霊が、救いのご計画を教会を通して進展させて下さっているのです。恵みによって、私たちはその事実を知り、信じ、そして、今日も主の愛と赦しの食卓、祝福に与る食卓に招かれているのです。
私たちもまた、これからどんな人生が待ち受けているのかは分かりません。しかし、主は私たちと共におられます。私たちを祝福し、そして、私たちを通して祝福を地上に広めていこうとされているのです。その信仰の歩みを励ますために、主は今日も食卓を供えてくださいました。主が共にいるという現実を、私たちにはっきりと見させ、その身をもって味わわせるためです。感謝と信仰をもって、パンとぶどう酒を頂き、祝福を持ち運ぶ者として、この一週間の歩みを始めたいと思います。
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