「神がしてくださった」

及川 信

創世記 40章 1節〜41章57節

 

(聖書朗読個所 創世記 41章37節〜46節)
 ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、 印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。
 ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」
 ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。
 ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。

 人間が支配できない自然・夢


 今年の夏の暑さは記録的なものでした。それは、人間だけでなく、家畜や農作物にも大きな影響を与えています。豚や鶏、また牛も暑さに参って、弱ったり死んでしまったりしていますし、農作物も陽に焼けてしまって出荷できないものも多く、当然、様々なものが値上がりしています。そして、私たち人間は、日照りであれ、台風であれ、自然を支配できるわけではないので、ただ様々な工夫をしつつ耐えるだけです。
 人間が自分の力でどうすることもできないことの一つに、今挙げた自然現象がありますけれど、夢もまたその一つです。夢とは、人間が眠ってしまった時に見るものであって、自分ではどうすることもできません。
 先日、私は過去数十年で最も怖い夢を見て、多分、夜中じゅううなされていたのではないかと思います。その夢の中では、私が、小さな島の何の施設だか分からないのですが、施設に収容されているのです。その施設内では、職員が収容者に対してありとあらゆる虐待を繰り返す。その様を見ているだけで、あまりの怖さに私は逃げ出すのです。けれども、その島の住民は皆、職員の息がかかった者らしく、逃亡者を見つけては捕まえて施設に連れ戻してしまうのです。私は、茶畑の中に隠れたり、納屋に息をひそめて隠れるのです。でも、所詮、海に囲まれた島なものですから、逃げると言っても、逃げ切れるわけもないことも分かっている。だから、絶望的なのです。悲しくて怖くて、どうしようもありませんでした。そして、ふっと眼が覚めた時に「ああやっぱり、夢だよな、よかった・・」と思ってまた目をつぶるのですが、つぶった途端にその夢の続きが始まって、夢なんだか現実なんだか区別がつかないのです。もう二度と見たくない夢です。でも、そういう夢に限って、忘れた頃にまた見るものもでもあります。
 夢に関しては、古代から人間は重大な関心を持って来ました。それはやはり、人間が支配できないものであり、むしろ支配されているものだからでしょう。古代から、天候を含む自然現象に関して探究が続けられてきているように、夢も探求が続いています。
 ある人たちは、夢は記憶の考古学だと考えます。過去の出来事の記憶や感情が夢になって出て来るのだと。しかし、人間の誰もが持っている無意識の世界のリアリティを、夢は表現しているのだと言われる場合もある。たしかに、幼い頃や若き日の恐怖体験や苦しい記憶がずーっと心の奥底に残り、起きている時も寝ている時も、ふとその苦しい思いがフラッシュバックして来て苦しむということがあります。忘れることが出来れば、どんなに楽かと思う。思い起こす、覚えているということと忘れる、忘却することも、今日の個所に於いては重要な事柄です。

 未来を啓示する夢

 それはさておき、古代エジプトにおいて、夢とは、将来起こる事柄に関する神の啓示の一つでした。ですから、夢を解釈することは一つの学問だったと言われます。夢解きに関する膨大な文献が残っているようです。四一章八節に、エジプトのファラオが不吉な夢を見て、その夢を解き明かすために、「エジプト中の魔術師や賢者のすべてを呼び集めた」とありますけれど、それは夢が未来に起こることの神の啓示であると考えられていたからです。エジプトの王、ファラオは、神々の化身として絶対的な権威と権力を身に帯びた存在ですし、そういう存在でなければならないのですけれど、ある夜に見た夢によって「ひどく心が騒ぎ」居ても立ってもいられなくなっている。
 そういう現実に、まず注目しなければなりません。神の化身と言おうが、現人神と言おうが、人は人であって神ではない。人が神を思いのままに支配するのではなく、神が人を支配し、人の未来も決定する。しかし、その神の決定をすべての人が知ることが出来るわけではなく、専門家と言われる人でも、知ることが出来るわけではない。人は、その知恵によって神を知ることが出来るわけではない。神ご自身が知らせようとした人間しか、知ることはできない。ファラオの現実は、そういうことを表しているのではないかと思います。以上のことを念頭においた上で、今日の個所に入っていきたいと思います。

 主が共にいる

 今日は、四〇章から四一章の終りまでを一気に読みます。三九章に記されていたことはこういうことでした。エジプトの侍従長ポティファルの奴隷として買われたヨセフは、みるみる頭角を現し、奴隷のトップにまで上り詰めます。しかし、ポティファルの妻からの誘惑を断ったが故に、王の囚人が入れられる牢屋に叩きこまれた。しかし、そこでも監守長から信頼を得て、囚人の世話役の地位につくことになった。それはすべて、主が共におられたことの結果だと、三九章ではなっています。つまり、「主が共にいる」とは安寧な生活が保障されるということではなく、謂れのない苦難を味わうことでもある。しかし、にもかかわらず、主は共にいて下さり、祝福を与え、その祝福を周囲の者にも与えてくださる。そういうことです。そして、その時々の具体的な現実の中には見えないけれども、主なる神は確実にご自身のご計画に沿ってヨセフとその家族を救いへと導いて下さっている。さらには、エジプトを含む全世界に対して救いの手を差し伸べて下さっている。その時その場の現実しか見えない、あるいは見ない私たち人間には知りようもない現実が、「主が共にいてくださる」という現実であることを、三九章は教えていると思います。そして、それはヨセフ物語を貫く主題でもあります。

 解き明かすのは神

 ある日のこと、普段から囚人のことに気配りをしていたヨセフは、かつて王の側近であった二人の囚人が浮かない顔をしているので理由を尋ねると、前の晩に見た夢の意味が分からずに不安であるというのです。彼らは、こう言います。

 「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない。」

 私が先日見た夢の意味も分からぬままですけれど、私にとっては、それはそんなに大した問題ではありません。でも、夢が未来を告げる神の啓示だとするなら、やはり相当に不気味な思いがするでしょう。牢屋に入れられている彼らにとって、夢を解いてくれる専門家に話して、解き明かしてもらうこともできないことは、やはりかなり憂鬱なことです。
 しかし、ヨセフはこう答えます。

 「解き明しは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください。」

 神の啓示は、神によって意味を知らされなければ、正しく知ることはできないと、ヨセフは言っているのです。これは、聖書に関しても同じです。私などもその一人に数えられてしまうのかもしれませんが、聖書の専門家とか呼ばれる人が、色々なことを言ったり書いたりしていますし、それはそれで意味がある学問であるに違いありません。が、聖書がひとりひとりの人間に対する神の語りかけであるとするならば、その意味もひとりひとりの人間が、神様ご自身に教えてもらわなければどうにもならない話です。専門家の言うことを通して、様々なことを知らされたとしても、最終的に、神の語りかけは聖霊の導きの中でその意味を知らされるしかありません。世の知恵で、人は神を知ることはできないからです。そして、その場合の「知る」とは「信じる」ことだし、「愛する」ことでもあり、それは「従う」ことでもあります。神を知る、あるいは神の御心を知りながら、単に知っただけ、それ以上でも以下でもないということはありません。神様は知識の対象ではなく、信仰と愛と服従の対象なのです。そして、その信仰と愛と服従に生きる時に、人は人として生きる。最も深い知識をもって生きると、聖書は告げていると思います。
 王の給仕役の長をしていた人は、ヨセフの言葉を聞いて、ものは試しと昨晩見た夢の内容を話しました。すると、ヨセフは、それは彼が三日後に釈放されるだけでなく、元の職に復帰することを意味しているのだと告げます。そして、そうなった暁には、「わたしのことを思い出してください」と懇願する。無実の罪で拘留されているヘブライ人がいることをファラオに告げて、牢屋から出られるように取り計らってくれと頼むのです。そして、翻訳にはちゃんと出てきていませんが、「恵みを与えてください」と言っている。三九章二一節で、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので」とある、あの「恵み」です。
 それはとにかく、夢を見たもう一人の料理役の長は、ヨセフの夢解きが幸運を告げるものだったので、自分の夢について語りました。でも、ヨセフは、それは三日後に彼がファラオの命令によって処刑されることの徴であると告げました。そして、彼の夢解きは両方とも現実となりました。給仕役は復帰し、料理役は処刑されたのです。ファラオは、人間の生殺与奪の権を持っているのです。そして、復帰した給仕役は、「思い出してくれ。恵みを施してくれ」というヨセフの懇願があったにも関わらず、無実のヘブライ人のことを「思い出さず、忘れてしまった」のです。

 ファラオの夢 解き明かす人がいない

 それから二年の時が経ちました。ヨセフは忘れられたままです。しかし、実は、そのことが大事なことでした。給仕役が復帰した時に思い出したとしても、ヘブライ人の囚人であるヨセフがエジプトの宮殿の奥の間でファラオの前にひとり立つなどということはあり得ません。
 二年後に、今度はファラオが夢を見ます。囚人であれ、王であれ、人間です。誰もが夢を見る。そして、夢の内容によっては不安になります。牢獄の中であれ宮殿の中であれ、自分の未来まで自分の手にしている人間はいません。ファラオの夢の舞台は、ナイル川です。「エジプトはナイルの賜物」と言われますけれど、ナイル川は、エジプトの繁栄の象徴でした。豊かな水量を誇るこの川が、エジプトの牧畜と農業に豊かな実りをもたらせるのです。
 そのナイル川から、牧畜を象徴する肥えた牛が七頭出てきて、葦辺で草を食べ始めたのですが、その後に出て来た醜い痩せこけた牛が肥えた牛を食べてしまった。そこで一旦目が覚めるのです。しかし、すぐに次の夢を見ました。それはよく実った七本の穂が、次に出て来た干からびた七本の穂に呑み込まれてしまうというものでした。
どう考えても不吉な夢です。ファラオは、「ひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の 見た夢を彼らに話した」。つまり、エジプトの英知を集めて夢の意味を解き明かそうとした。しかし、その夢を「解き明かすことができるものはいなかった」。ファラオによって牢屋に入れられていた二人の囚人と同じなのです。ファラオであれ、囚人であれ、同じ人間なのです。

 ファラオの前に出るヨセフ

 その時です。例の給仕役の長が、ヨセフのことを思い出しました。二年間忘れていたのですが、突然、思い出した。これも、神様の計らいでしょう。彼は、かつて自分が見た夢の隠された意味を解き明かしてくれたヘブライ人がおり、彼の解き明かし通りになったことをファラオに告げました。藁にもすがる思いのファラオは、牢屋に使いを遣わしてヨセフを呼び寄せました。そこの記述は面白いので読みます。四一章一四節以下です。

 そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。

 ヨセフは、牢屋からいきなり呼び出されて、宮殿の奥の間にいるファラオの前に出てきます。汚い格好をしては失礼になりますから、周囲の者が髪を整え、髭を剃り、囚人服を脱がせてそれなりの服に着替えさせます。その時の様子を想像すると楽しくなります。散髪をしてきちんとした服を着れば、彼は元々美青年ですから、見栄えがしたでしょう。十七歳の時に、兄弟たちと父や母の星が自分の星を伏し拝むという夢を見たヨセフは、この時、三十歳になっていました。立派な成人です。浮き沈みの激しい人生経験を経て、人間としても練れてきて、風貌も立派な人間になっていたと思います。しかし、彼が生来持って生まれた率直な物言いは、この時も健在です。

 神が告げる幸い

 ファラオは、お前は夢を解き明かせるそうだな、と尋ねます。しかし、囚人である彼はきっぱりとこう答えるのです。

 「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

 ヨセフは、囚人たちに対しても、ファラオに対しても、全く態度は同じです。そういう意味で、実に清潔な人というか、大胆な人です。もちろん、この清潔さ、大胆さは、性格に由来するだけでなく、神様に対する信仰に由来すると言った方がよいことだと思います。彼は、ここで自分の力を謙遜してみせているのではなく、事実を言っている。そして、ファラオの権力に媚びへつらっているのではなく、むしろ、ファラオも囚人も同じであることを言っている。つまり、「未来を手に持っているのは神であって、あなたではない」ということです。そして、神がファラオに告げる「幸い」とは、ヘブライ語ではシャロームという言葉で、しばしば「平和」とも訳されます。神が共にいます平和ということであり、それは、神を信じ、愛し、従う平和ということでもあります。神は、あなたにも、その平和を与えようとしておられるのだ、ということです。
 ヨセフの言っていることが分かったかどうかは分かりませんが、その言葉を聞いた上で、ファラオは自分が見た夢をヨセフに語ります。その際、「とても醜い牛だ」とか「あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない」とか、彼の実感を込めて語ります。そして、最後に、エジプトには「その意味を告げうる者は一人もいなかった」というのです。自分たちの無知、神様に対する無知、無力の現実を認める。
 ヨセフは速やかに答えます。牛の夢も穂の夢も、七年の豊作の後に七年の不作が続くことを意味する、と。当時も今も、牛と穂は、牧畜と農業を代表し、人間の食料を意味しますから、命に関わることです。そして、それは人間ではどうすることも出来ない自然に依拠しているのです。だから、宗教が生まれるわけで、雨が降らなければ雨の神様に雨乞いをし、陽が射さなければお天道様に祈ったりする。しかし、ヨセフは、雨の神とか太陽の神などという神ではなく、天地の造り主にして未来を支配する神、あるいは歴史を支配する神のご計画を告げます。彼は三度も、「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです」と言います。ファラオが二度も重ねて夢を見たのは、「神がこのことを既に決定しておられ、神がまもなく実行されようとしておられるからです」と。

 神の決定と人間の応答

 しかし、神の決定は、時に人間の応答を必要とします。人間が何をしても、既にすべてが決定しており、結果は変わらないということではない。ヨセフは即座に、神の決定に対する応答のための施策も提案します。「聡明で知恵のある人物」を立てて七年の間に備蓄をすれば、国は滅びないと。
 その言葉を聞いたファラオと家来たちは皆、感心します。そして、元来神の化身であり、神の託宣として民に語るはずのファラオが、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフを宮廷の責任者とし、自分は「ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ」とまで宣言することになります。
 それ以後の記述は、ヨセフの即位式です。王による即位の宣言があり、王の印章のついた指輪をヨセフにつけ、豪華な亜麻布の服を着せ、金の首飾りをつけるのです。こうなれば、誰が見てもヨセフは王から全権を委ねられた人間に見えます。さらに、王に次ぐ立派な車に乗せて人々の前を走らせてお披露目をする。そして、エジプトでは高い地位にある祭司の娘と結婚させて、ヨセフにエジプトの名前(ツァファネアト・パネア)を与えて完全にエジプトの王家の中に迎え入れます。その名の意味は、「神は語り、彼は生きる」という意味だそうです。
 イサクの妻は、同郷の女性でなければならなかったし、ヤコブの妻もそうでした。しかし、ヨセフの妻はエジプト人です。こういう所からして、後に「ユダヤ人」と呼ばれる人々を人種や民族に基づいて定義することは出来ないのですけれど、エズラ書やネヘミヤ書では、異民族との結婚は宗教的な理由で厳禁されたりします。ですから、ユダヤ教のラビの中には、ヨセフの妻は実はユダヤ人だったとこじつけたりする解釈もあるようです。しかし、千年以上もかけて書かれた聖書は一筋縄ではいきませんし、それは神のご計画に基づく世界や歴史が、私たちが考えるような、あるいは願うようなものではないということでもあるでしょう。神様は血筋とか地域とか宗教・文化の違いを越えて、祝福と平和(シャローム)を全地に及ぼしていこうとされるのです。
 ヨセフは、豊作が続く七年の間、エジプトの国中で食料を可能な限り備蓄し、それは「ついに、量りきれなくなる」ほどまでになりました。

 神のご計画

 その頃、ヨセフに二人の子どもが生まれます。彼は、その子らにはヘブライ語の名をつけます。長男はマナセ。「神がわたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」という意味です。二男はエフライム。「神は悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」という意味です。
 「忘れる」とは、「思い出す」「記憶する」の反対ですが、意味深な言葉です。これまでのヨセフの心の中には、兄たちに対する恨みや憎しみがあったのでしょう。しかし、今、神がそのことを忘れさせてくださった。しかし、彼は、この後に十七歳の時に見た夢を思い出すことになります。
 そして、「増やす」は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という創世記一章に記されている神様の祝福を思い起こさせます。神の像にかたどって造られた人間は、地を従わせ、生き物を支配することを神に命ぜられ、また託されます。その人間の姿を、この時のヨセフは体現しているのだと思います。それは、神の化身として人々を支配し、従わせる人間ではなく、神の僕として神の御心に仕え、自然と人間と共生する人間です。そして、そのヨセフのお陰でエジプトは栄え、また飢餓難民としてエジプトに下り、エジプトに住むことになる彼の家族は、このエジプトで数の多い民に増え広がっていくことになります。しかし、そのことが起こるためには、エジプトに限定されない全世界的な飢饉がやって来なければなりません。その飢饉の故に、カナンの地に住んでいるヨセフの家族がエジプトにやって来ることになるからです。そして、そのことを通して、神様が二十年以上も前にヨセフに見せた夢が、思いもかけない形で実現していくことになるのです。それが、次回以降の物語の内容です。

 知恵 信仰

 今日の個所から知らされ、また考えさせられることは、例によっていくつもあります。先ほどから言っている「忘却と想起」も重要な問題です。しかし、もう時間もありませんから絞らざるを得ません。
 今日は「聡明で知恵のある人物」という言葉の、特に「知恵」という言葉に注目したいと思います。旧約聖書の『箴言』の中に、「主を恐れることは知恵の初め。無知なる者は知恵をも諭しをも侮る」という有名な言葉があります。「知恵」、それは「賢さ」とも訳されますけれど、それは「主への恐れ」、端的に言えば「主への信仰」を意味します。そういう者を通して、神の御心、そのご計画は受け止められ、また具体的に実行に移されるのです。神様は、元来、人間をそういう者として創造されたのです。しかし、罪に落ちた人間は、その知恵を失い、神様との関係を壊し、自然との関係も、人間同士の関係も破壊してしまった。創世記一章から三章に記されていることの一つは、そのことです。そういう世界を呪われた世界と創世記は表現します。そこには平和(シャローム)がないからです。神と共に生きる平和、神が共にいます平和がない。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福の言葉が語りかけられることがない。そういう世界です。
 しかし、神様はそういう世界にアブラハムを旅立たせました。信仰を生きる人間を祝福し、その人間によって全世界を祝福するためです。今、ヨセフが、そのアブラハムの子孫としてエジプトにいるのだと思います。彼は、エジプトのファラオをして、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言わしめる存在だからです。

 神の霊と知恵 主を知る知識

 この「神の霊」と「知恵」という言葉を聞くと、思い出すのはイザヤ書一一章の言葉です。そこにはメシア預言の一つが記されています。

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。・・・・
 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
・・・・
 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


 信仰を失ったダビデ王朝(エッサイ)が、一旦はその根元から断ち切られるが、その切り株から一つの若芽が萌え出でる。その人物こそ、主の霊に満たされた人物である。その霊とは、知恵と識別の霊であり、主を知り、畏れ敬う霊です。その霊に満たされた人物が全地を支配する時、互いに敵対していた者同士が和解する。狼と小羊が共に宿るということが起こる。大地が、主を知る知識で満たされる時、そういう平和、そういう祝福が全地に満ちるのだ。預言者イザヤは、そう語ります。
 彼もまた、未来のことを神に示され、それを語るべく選び立てられた人物です。彼の目に見える現実は、不信仰に満ちた現実です。偽りの繁栄に酔いしれ、またその繁栄を守るために右往左往する王がいました。そういう不信仰に落ちた王国は必ず断ち切られる。しかし、神は必ず、その後にメシアをお立てになる。神の霊に満たされた救済者をお立てになる。彼は、そのご計画を知らされ、誰も信じなくても、示された通り語ったのです。
 ヨセフの場合、彼が示された神のご計画は、その翌年には実現し始めることでした。しかし、紀元前八世紀のユダ王国に生きたイザヤに示された神のご計画は、それから何百年もの年月を経て実現し始めるものでした。

 聖書の言葉は実現する

 私たちはこの夏まで、約五年にわたってヨハネ福音書を読んで来たのですが、その後半、つまり十字架の場面によく出て来た言葉は、「〜〜という聖書の言葉が実現するためであった」という言葉です。そして、イエス様が十字架上で「(わたしは)渇く」とおっしゃった所には、「こうして、聖書の言葉が実現した」と記されています。
 それは、当時、誰も知ることがなかった現実です。主イエスの十字架の死が、聖書の言葉の実現であったということは、弟子たちが神の霊、聖霊を与えられた後に、知らされた現実です。しかし、イエス様だけは、それ以前に既にご自分の十字架の死に関して「聖書の言葉が実現しなければならない」とか「聖書の言葉が実現するためです」と弟子たちや、神様にお語りになっているのです。イエス様だけは、神様が定めている未来をご存知であり、その未来に向かって真っ向から歩んでおられるのです。世界に祝福と平和をもたらすためにです。
 世の知恵者、権力者はもちろん、誰も彼もが「神のようになれる」との蛇の誘惑に落ちて、何を食べようか、何を飲もうかと命のことで思い煩い、互いに目に見える物を奪い合っている世界の只中で、イエス様だけは、神の救いのご計画、祝福と平和をもたらす救いのご計画を知り、未来の救いに向って歩んでおられたのです。このお方こそ、主の霊が留まっているお方であり、知恵と知識の霊に満たされ、全地に神の支配をもたらすために、選び立てられたお方だからです。
 主イエスもまた、見た目は、ヨセフと同じく囚われの身であり、無力そのものです。大祭司アンナスの前でも、ローマの総督ピラトの前でも、主イエスは縛られ、鞭打たれ、嘲られる惨めな者です。でも、この方こそ、エゴ・エイミと言えるお方なのです。わたしは神だ、生きている神だ、あなたと共に生きる神だと言える唯一のお方なのです。父なる神様はこの独り子の惨めさ、弱さ、そして渇きに満ちた十字架の死を通して命の水なる聖霊を全地に満たし、主を知る知識を全地に満たそうとされたのです。
 パウロは、コリントの信徒への手紙一 一章二〇節以下で、こう言っています。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 神の知恵、それはこの十字架の主イエス・キリストに現れているのです。その事実を知ることこそ、まことの知恵なのです。その知恵を聖霊によって与えられた者こそ、呪いから祝福に移されるのだし、その祝福を周囲にもたらしていくのです。十字架につけられたキリストを宣べ伝えざるを得ないからです。証しせざるを得ないからです。誰の前に立っても大胆に、恐れることも恥じることもなく、神の知恵であるキリストを宣べ伝える。神に召されている者は、その宣教の言葉を聞いて信じるでしょう。すべては、神の御手の中にあります。そして、神様は何年かかろうとも、ご自身が愛をもって創造されたこの世界に主を知る知識が満ちる日を必ず実現してくださいます。
 もう一か所、パウロの言葉を読んで終わります。フィリピの信徒への手紙二章六節以下です。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 全地に主を知る知識が満ちるどころではない。天上、地上、地下、全宇宙に於いて「イエス・キリストは主である」ことを知る知識が満ちあふれて讃美の声が捧げられる日が来る。それが、神様の手の中にある未来、救いのご計画なのであって、それが神様のご計画である限り、神様が実現してくださるのです。私たちは、そのことを信じ、証しをしつつこの世の旅路を歩むアブラハムの子孫なのです。その信仰と証しの歩みに対して祝福があり、平和があるのです。そして、その祝福と平和は、私たちを通して世界に表されていくのです。その歩みは、アメリカのある牧師が提唱しているような、コーランを焼くという偏狭な自己絶対化の歩みとは正反対の、すべての者の神に従う愛と和解に向けての歩みであるはずです。
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