「神が我々になさったことは、何か?」

及川 信

       創世記 42章 1節〜45章28節
(聖書朗読個所 創世記 42章26節〜28節)
 彼らは穀物をろばに積んでそこを立ち去った。途中の宿で、一人がろばに餌をやろうとして、自分の袋を開けてみると、袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ、ほかの兄弟たちに言った。「戻されているぞ、わたしの銀が。ほら、わたしの袋の中に。」みんなの者は驚き、互いに震えながら言った。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」

 ヨセフ物語を読んでおり、今日で五回目になろうとしています。今日は、四二章から四五章の終りまでという長い単元を読みます。
 ヨセフ物語は一つの家族の物語であると同時に、カナンの地とエジプトを舞台とした壮大な歴史物語でもあります。イスラエル十二部族の誕生やイスラエルとエジプトの関係についても、深く考えさせられる物語です。物語を読む視点はいくつもかりますが、とにかくご一緒に読んでいきたいと思います。

 飢饉 穀物

 四一章の終りには、六回も「飢饉」という言葉が出てきます。全国、世界各地に飢饉が広がり、激しくなり、世界各地から穀物を求めて人々がエジプトのヨセフのもとに来るようになった、と。そして、四二章の六節までに、やはり六回も「穀物」という言葉が出てきます。エジプトには穀物がある。その穀物を求めて、ヤコブはヨセフの十人の兄たちをエジプトに遣わすのです。しかし、ヨセフの弟ベニヤミンだけは同行させません。危険な目には遭わせたくなかったし、ヨセフと同じような万が一のことがベニヤミンにあれば、ヤコブは最早生きていく気力もうせてしまうからです。ヤコブのえこ贔屓、偏愛は昔と少しも変わっていません。
 兄たちは、穀物を求めてエジプトまでやって来ました。そして、穀物販売の監督をしていたヨセフの前にひれ伏しました。十七歳の少年だった彼が今は四十歳です。そして、この時の彼は、ファラオに次ぐ権力をもつ者としての衣装を着ており、エジプトの言葉で語っています。その威風堂々たる男がヨセフであると、兄弟たちが気付くはずもありません。彼ら兄弟たちにしてみれば、ヨセフは獣に咬み殺されたことにしてあるし、実際、どこで生きているのか死んでいるのか分からぬ存在なのです。しかし、ヨセフは十人揃って自分の前にひれ伏している人々が、かつて自分を殺そうとし、また売ろうとした兄弟であることに気づきました。そして、もう二十年以上前に見た夢を思い出した。それは、神様が見せた夢であり、そうである限りにおいて、必ず実現する夢です。しかし、兄たちの刈った麦の穂がヨセフの穂にひれ伏すとか、太陽や月、そして十一の星がヨセフにひれ伏すという夢の意味がどういうものであるのか、それは夢を見た時のヨセフにも、それから二十年以上経たこの時のヨセフにも、よく分かってはいなかったと思います。ただ、目にみえる現象としては、今、十人の兄たちが目の前でひれ伏している。食糧を求めてです。そして、目の前に立っている人間がヨセフだとも知らずにです。

 罰 血の報い

 それ以後のヨセフと兄弟たちのやり取りを、順を追って見ていく時間はありませんから、大事だと思われる所を選択しながら読んでいきます。
 ヨセフにとって、当面の問題は、父や愛する弟ベニヤミンが健在であるかどうかです。そして、十人の兄たちがヨセフのことをどう思っているかを知ることであり、その上で、神様がこの現実の中で何をしておられるのかを知ることです。
 彼は、兄たちをスパイ呼ばわりすることから始まり、身元調査をします。それに対して、彼らは、「カナン地方からやって来た十二人兄弟で、末の弟は父のもとにおり、もう一人は失った」と答えます。その「失った」弟が目の前にいるエジプト人だとは思いもよらないし、彼らとヨセフとの間の会話は通訳を通してのことです。「失った」と言われた弟のヨセフは、三日間、兄たちを牢獄に閉じ込めます。かつて、自分がむりやり穴に放り投げられたように。そして、四日目に呼び出して、自分は「神を畏れる者だ。お前たちが本当に正直な人間だというなら、兄弟のうちひとりだけを牢獄に監禁する」と言います。そして、食料をもってカナンに帰り、末の弟を連れてくれば、その一人を釈放してやるというのです。
 その沙汰を聞いて、兄弟たちは互いにこう言い合いました。

 「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」

 そして、長男のルベンは、「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ」と言うのです。目の前に立っているエジプト人が、ヘブライ語で語られる自分たちの言葉を理解しているとは思いもしないことですから。
 彼らも、二十年前のことを鮮明に憶えているのです。そして、悔いている。ヨセフが穴の中から助けを求めて叫んでも、それを聞かず、離れた所で食事をし、結局、死んだことにしてしまった。そういう自分たちの罪の行為が、こういう形で降りかかっている。血の報いを受けている。そう思わざるを得なかったのです。

 神が我々になさったことは、何か。

 しかし、ヨセフは、彼らの言葉を聞いて、ひとりその場を離れて、陰で泣きます。その上で、兄弟の一人シメオンを牢獄に入れて、他の兄弟たちにたくさんの食料をもたせて帰すのですが、その際、彼らの荷物の中に、彼らが支払った代金の銀を入れておくのです。帰路の途中で、一人の兄が自分の袋の中に銀が入っていることを知った時、彼らは驚き、互いに震えながらこう言いました。

 「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」

 この言葉については、後で帰ってきます。その後、彼らは父ヤコブにすべてを報告しました。しかし、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れていくことを拒否します。長男のルベンが、「必ず連れ帰るから」と言っても、「この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか」と言って、ヤコブは拒否するのです。彼にとっては、エジプトの牢獄にいるシメオンよりはベニヤミンの方がはるかに重要であり、またヨセフの記憶も生々しいままなのです。

 全能の神の憐れみに委ねる

 しかし、飢饉はますますひどくなります。そこで、ヤコブは息子たちに「食料を買いにエジプトに行け」と命じる。しかし、弟を連れていかない限り、ヨセフとは会えないのですから、それは無茶な命令です。今度はユダが、もしベニヤミンを連れ帰ることが出来なければ、ヤコブに対して「生涯その罪を負い続ける」と言います。その言葉を聞き、総勢七十名になっている一家を飢え死にさせるわけにはいかないヤコブは、ベニヤミンを連れていくことを承知します。その際、彼はこう言うのです。
 「では、弟を連れて、さっそくその人の所へ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子どもを失わねばならないのなら、失ってもよい。」
 彼は、全能の神様の憐れみに一切を委ねます。そのこと抜きに、彼はこの決断は出来ませんでした。その決断によって、彼らはヨセフのもとに行きます。すると、ヨセフは彼らを自分の家の執事に委ねて自宅に連れて行かせます。思いもかけない展開に彼らは恐怖に慄いて、執事に前回袋の中に入っていた銀は盗んだものではないことの言い訳をするのです。すると執事は、「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから」と答えます。
 エジプトの祭司の娘を妻とし、すっかりエジプト人に同化しているかのようなヨセフですが、彼に仕える執事は、ヨセフの父の神、つまり、アブラハム・イサク・ヤコブの神の祝福、守りの中に、この家族が生かされていることを知っている。そして、このエジプト人の方からヨセフの兄弟たちは、自分たちの神の守りがあることを教えられてしまう。そういう逆転現象がここにはあります。すべてを支配し、導いているのは、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、全能の神であり、その神の憐れみなのです。その憐れみの中で、彼らはシメオンとの再会を果たし、ヨセフの帰りを待ちます。

 ひれ伏す兄弟たち

 ヨセフが帰って来ると、彼らは地に「ひれ伏してヨセフを拝した」とか「ひざまずいて拝した」と、二十年以上前の夢が、誰にとっても思いもかけない仕方で実現しつつあることが強調されています。そして、ヨセフは弟ベニヤミンを見て感極まり、奥の部屋に入って泣きます。まだこの段階では、身分を明かせないからです。その上で、彼らに食事を提供するのですけれど、ベニヤミンを除けば、見掛け上誰が年長者か他人には見分けがつくはずもない兄弟たちを、年齢順に席につかせます。兄弟たちに対して、自分はすべて見えている、分かっているのだという暗示を与えているとも言えるでしょう。そして、ベニヤミンには他の兄弟の五倍の量の食事を与えるというえこ贔屓をします。無理もない話と言えばたしかにそうですけれど、血は争えないものだなとつくづく思います。

 神が罪を暴かれた

 その後、ヨセフはベニヤミンがヨセフの銀の杯を盗んだように仕掛けて、兄弟たちをさらに試します。その時、ユダは、ヨセフの前にひれ伏します。それはこれまでのように食料をもとめてのことではありません。「お前たちのしたこの仕業は何事か」と詰め寄るヨセフに対して、ユダはこう言うのです。

 「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」

 彼は、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言います。「神は私たちの罪を見い出した」とか、「神が私たちの罪に到達した」とも訳される言葉です。ヨセフは、さらに杯を盗んだ者だけが奴隷になり、あとの者は帰れと詰め寄っていきます。するとユダは、これまでの成り行きを全部、正直にヨセフに伝えつつ、こう言います。四四章一八節以下を抜粋して読みます。

 「御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。・・・ 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

 ユダはここで、以前は、「失いました」と言っていたヨセフのことを、「亡くなった」と言います。少なくともヤコブにはそうとしか思えないように報告していたのです。しかし、彼らが実際に殺したわけではなく、彼らの知らない間にヨセフはミデアン人とかイシュマエル人によって穴から出されてエジプトに売られてしまったのです。だから、彼ら自身もヨセフが生きているのか死んでいるのかも分からない。ただ、ヨセフが着ていた晴れ着に雄山羊の血をつけて、獣にかみ殺されたであろう証拠品としてヤコブに見せている。それは、殺したことと同じです。そして、その証拠品と彼らの言葉によって、ヤコブがどれほどの悲嘆に暮れたか、それ以来、同じ母をもつベニヤミンをどれほど愛しているかを、ユダは語ります。そして、あの時と同じ悲嘆に暮れる父を見たくはない。そして、父には必ずベニヤミンを連れて帰ると約束し、もしそれが出来なければ、生涯、罪を負うと約束して来たのだから、どうか自分を奴隷としてエジプトに残し、ベニヤミンを返して欲しいと嘆願するのです。

 神が遣わした

 その姿を見て、ヨセフはもはや平静を装っていることは出来なくなりました。周囲の者を追い出してから、大声を上げて泣き始め、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と身元を明かしました。兄弟たちは言葉も出ません。しかし、ヨセフは彼らをそば近くに招き寄せてこう言うのです。

 「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。』」

 この件は、エジプトのファラオも了承し、次週はいよいよヤコブがエジプトにやって来る場面となります。

 自分たちが何者であるかを知らされる

 今回の個所は、一回の説教で取り上げるには非常に長い個所ですし、いくつかのことを掘り下げたいとも思います。しかし、今日は、四二章二八節にある「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」という言葉に注目したいと思います。
 この言葉は、兄弟たちがヨセフを訪ねて、シメオンを人質に取られてカナンに帰る時、一人の兄の袋の中に、代金として支払ったはずの銀があるのを見て、「互いに震えながら言った」言葉です。彼らはその前に、「弟のことで罰を受けているのだ」と言い、「あの子の血の報いを受けるのだ」と長男は言っていました。彼らが二十年以上も前に犯した罪、その原因は、ある意味では彼らにはなく、父ヤコブの異常な偏愛にあるのです。しかし、そうであっても、彼らはヨセフにその憎しみを向けました。父親の不公平な扱いに対する怒りをヨセフに向けたのです。父からえこ贔屓されていい気になっているヨセフ、自分が支配者になることを意味する夢を見て、それを平気で口にするヨセフ、父に自分たちの行状を何かと告げ口するヨセフに向けて、最初は殺そうとし、結果としては行方不明にしてしまったのです。そして、死んだことにしていた。
 ヨセフも年月の流れの中で、若き日に見た夢も、故郷でのことも忘れ始めており、エジプトの女性との間に生まれた長男に、忘れることを意味するマナセという名をつけていたのだし、兄弟たちも少なくとも表面的には何食わぬ顔をしていたでしょうし、忘れていたのです。でも、心の奥底には、その記憶が生々しく残っていました。ヨセフが穴の中から、助けを求めて叫ぶ声を憶えていたのだし、その声に耳を貸さなかった自分たちのことも鮮明に憶えていた。そして、その記憶が、この時、まざまざと甦って来た。これは「罰なのだ、報いなのだ」と。そして、「あなたたちは回し者だ」と詰め寄るヨセフに対して、「わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません」と言いつつ、その正直さを追求される中で、罰や報いを受けねばならぬ過去、あるいは現実を抱え持っていることを知らされていくのです。

 エバとカイン

 「これは一体どういうことだ。神が我々になさったことは」
とよく似た言葉が、今日の個所にもう一度出てきます。それはヨセフの言葉です。ベニヤミンの袋の中からヨセフの銀の杯が見つかって、全員でヨセフのもとに引き返した時に、自分の前にひれ伏す十一人の兄弟たちに向って、ヨセフは「お前たちのしたこの仕業は何事か」と言います。使われているヘブライ語の単語は同じです。主語が違うだけです。
 そして、こういう言葉を聴くと、私たちが思い起こす言葉がある。その一つは、エデンの園で禁断の木の実を食べた女に向って神様がおっしゃった言葉です。神様は、女に「何ということをしたのか」と問います。これも使われている単語は同じ。さらに、こちらの方がよりヨセフ物語に近いかと思いますが、神様が弟アベルをえこ贔屓したことに怒ったカインが、アベルを野原で殺してしまった時、神様は、彼に「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねました。彼は「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます。すると、神様はカインに「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われる者となった」とおっしゃいました。「あなたは、何ということをしたのか。」これもヘブライ語では、「お前たちのしたこの仕業は何事か」と同じ言葉が使われています。
 その言葉を、今、ヨセフが使っている。父にえこ贔屓され、そして兄たちに憎まれ、今は弟ベニヤミンをえこ贔屓しているヨセフが、 兄たちの真実を試す目的で使っているのです。そして、その言葉は、今日ここにいる私たちすべての人間に対する神の言葉でもあるでしょう。私たちは一体何をして来たのでしょうか?
 毎週、礼拝の中で司式者が祈る言葉の一つに、罪の悔い改めがあります。私たちは皆、罪を犯しながら生きているのです。兄弟を殺しておきながら、「兄弟はどこにいる?」と問われても、「そんなことは私の知ったことではありません」と平然と嘘をつく。実際に殺さなくとも、「兄弟に向って馬鹿者と言えば、殺したのと同じだ」と言われる主イエスの前に立って、私たちは尚も平然と罪の記憶を閉じ込めておくことはできないのです。エバは蛇のせいにしました。カインは、とぼけました。でも、ヨセフの兄弟たちは、恐れ慄いています。罪に対する罰と救いの間で、罪を悔い改めつつ、決定的な裁きが下される前の状態の中で恐れ慄いている。シメオンを人質に取られ、ベニヤミンを連れて来いという無理難題をふっかけられ、「これは罰だ、報いだ」と思い、しかし、何故か支払ったはずの大切な銀が袋の中に入っているという現実を前にして、神のなさる業が分からずに慄いている。
 しかし、ヨセフに、「お前たちのしたこの仕業は何事か」と言われた時、その業が何であるか、少し分かって来たのではないか。ユダは兄弟を代表して、銀の杯を盗んだ覚えはないのに、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と告白しました。この「罪」は、銀の杯に関することではありません。二十年以上も前に犯したヨセフの件です。ヨセフは獣に咬み殺されたと伝えて、父に死ぬほどの悲しみを与えてしまった件です。二十年以上も経って、彼らはその罪の清算を求められているのです。神様の前に消え去る罪はなく、神様は殺された者の血の声も聴くお方ですから。その厳然たる事実を、彼らはこの時に知りました。そして、その罪を、この時にユダがなし得る手段で告白し、その罪に対する罰を負うと口にするに至ったのです。この時、彼らは本当の意味で「正直な者」となったのです。

 神がなさった業

 そして、その時、彼らは神様がなさった業、今もなし続けておられる業を、先ほど読んだヨセフの言葉を通して知らされることになります。

 「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 実は、ヨセフもこのことをこの時になって初めて知ったでしょう。自分の口から勝手に出てくる言葉を自分で聴きながら、「そうだったんだ。そうなんだ。やっと分かった」という驚きと感謝と讃美に満ち溢れたのだと思います。信仰の告白とか讃美というのは、与えられるものであって、自分の頭で考えてひねり出すものではありません。説教も同じです。
 ヨセフも、その言葉を聴く兄弟たちも、この言葉を聴きながら、改めて「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と心の中で思ったでしょう。しかし、この時の彼らの心に満ちていたものは、恐れ慄きではなく、讃美と感謝だったと思います。彼らは、自分たちが、神の圧倒的なご計画の中に生かされていることを知り、くず折れるようにして、互いに抱き合って泣いたのです。

 しかし、それでは終わらない

 創世記の最後は、ヤコブとヨセフの死で終わります。ヤコブが死んだ時、彼らのこの時の和解がまだ完全なものではなかったことが明らかになります。日本と韓国が基本条約を結ぼうが、日本と中国が平和友好条約を結ぼうが、両国の間にはまだまだ清算されていない事実や記憶が残っており、様々な軋轢が生じます。表向き握手をしても、そして確かに植民地支配をしていたり、戦争をしていた当時に比べれば仲良くし、和解をしているようであっても、一触即発の現実をその内側に抱えているのです。そういう状況は世界各地にありますし、世界中の家庭の中にも、恋人同士の中にもあるものです。聖書は、そういう現実を冷徹に見据えている。それは神がすべての罪を見ており、暴かれるお方だからです。その神の目で人間の現実を見ているのです。
 兄弟たちはヤコブが死んだ時に、ヨセフが実はまだ自分たちに対して恨みをもっており、「仕返しをするのではないか」と恐れていました。そして、生前のヤコブが、「兄たちの咎と罪を赦してやって欲しい」と言っていたとヨセフに伝え、「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と人を介して言うのです。ヨセフは、その手段を見て、またその言葉を聞いて再び泣きました。その後、兄弟たちがやって来て、ヨセフの前にひれ伏し、こう言った。
「このとおり、私どもはあなたの僕です。」
ヨセフは応えます。
 「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
 ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

 真実の和解の場


 兄弟はヨセフの前にひれ伏しました。そこで、本当の意味で、ヨセフが十七歳の時に見た夢が実現したのです。それはただ権力者の前にパンを求めてひれ伏すということではなく、罪を犯した相手に罪の赦しを乞うて、ひれ伏すということです。しかし、その意味で本当にひれ伏すべき相手は、ヨセフではなく神であることをヨセフは知っていました。人間の悪を善に変えてくださる神です。人を殺そうとする罪をも用いて、「多くの民の命を救う」神です。そして、その「命の救い」もまた、パンを食べて生きることに留まらず、神と人との間の和解、愛と赦しにおいて与えられることなのです。そして、そのすべては神様から出ていることです。
 ヨセフもその兄弟たちも、アブラハムの子孫イスラエルです。アダムとエバ以来の罪によって呪いに落ちた人間とその世界に、祝福をもたらすために旅することを命ぜられた民なのです。その民とて、ただの罪人に過ぎません。でも、その彼らを通して、神様はその救いの御業をなさるのです。罪の赦しと和解の御業です。

 十字架のキリスト

 神様は、ご自身の独り子をご自分の民のもとに遣わしました。でも、その民はその独り子を神への冒涜者として十字架に磔にして殺したのです。でも、実はそのことによって、すべての人間の罪を暴き、そして実はそのことによって、すべての人間の罪を赦されました。私たちは恵みによって、この主イエス・キリストの十字架の死を告げ知らされ、その死からの復活を信じ、その信仰において罪の赦しと新しい命という祝福を与えて頂いたキリスト者、新しいイスラエルなのです。与えられた祝福を持ち運ぶ者たちなのです。
 今日は、中渋谷教会創立九三周年を記念する礼拝です。中渋谷教会は、その創立当初から十字架のキリストに固着し、ただそこにのみ救いがあることを堅く信じ、ただ十字架のキリストを宣べ伝えて来ました。それは今後も変わることがありません。この十字架のキリストにおいてこそ、人間の恐るべき罪の姿が暴かれているのだし、同時に、その罪を赦す神の御姿が鮮明に現れているからです。この方の前にひれ伏す。これまで自分が犯して来たすべての罪が暴かれるが故に、この方の前にひれ伏す。そして、これまで自分が犯して来たすべての罪を赦して下さるお方であるが故に、この方の前にひれ伏す。ただその者たちだけが、その罪にも拘わらず、いや己が罪を知り悔い改める罪人であるが故に、罪の赦しと新しい命を与えてくださるイエス・キリストを証しする者に造り替えられていくのです。悪を善に変えてくださるお方は、罪人をご自身の証し人に造り替えてくださいます。真の平和を証しする者にしてくださる。
 私たちは、その事実を知る時に、私は、心新たに「これは一体、どういうことだ。神が、我々になさったことは」と溢れる感謝と讃美をもって口にせざるを得ません。
 神様は罪なき独り子に罪を負わせ、裁き、私たちの罪を赦して下さいました。あの十字架の上で、私たちの罪を暴き、そして赦して下さったのです。復活の主イエスの光のもとでした見えないその御業を、今日、はっきりと見つめ、心からの感謝と讃美、そして献身の信仰を捧げたいと思います。
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