「祝福を担う者」

及川 信

       創世記46章 1節〜47章12節
(聖書朗読個所 46章 1節〜 4節、47章 7節〜10節)

 イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。


 私たちが今読んでいるヨセフ物語は、その父ヤコブ物語に挟まれた物語です。今日の個所に久々にヤコブが本格的に登場します。それもとても印象深い形で登場します。ヨセフ物語においては、神様が直接ヨセフや他の兄弟たちに語りかけるということはありません。出来事の経過の中で、神様の御心が示され、それを受け止めて行く人間の姿が描かれるのです。そういう意味で、現在の私たちにとっては近しい物語です。人にもよるでしょうけれど、私たちの多くは、自分の名前を呼ばれて、直接神様の語りかけを聴くことはないと思います。勿論、礼拝における説教は、神様からの語りかけですし、独りで聖書を読んでいる時にも、これはまさに今の自分に対する神の言であると明確に分かる。そういうことはあります。しかし、ヤコブは誰かの説教を聴いているわけでもないし、聖書を読んでいるわけでもない。でも、彼は「ヤコブ、ヤコブ」と呼ばれ、その時に応じた神様からの具体的な語りかけを聴きます。私たちは、彼が聴いた言葉を通して、また聖書に記されている言葉を通して、今日、神様の語りかけを共に、しかし、ひとりひとりが聴こうとしているのです。心を開き、耳を澄ませ、目を凝らして、神様からの御言を聴き、見、受け入れ、そして御言に応答して生きる者となれますように祈りつつ読んでいきたいと思います。

 死ぬ前に会いたい

 ヨセフがヤコブの目の前から突然に消え、死んだものとされてから二十年以上が経っています。ヤコブは、もう百三十歳で、ヨセフは四十歳を超えている。食料と迎えの馬車をもってエジプトから帰った兄弟たちが、ヤコブに「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」と言った時、ヤコブは「彼らの言うことが信じられず」「気が遠くなった」とあります。しかし、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見て、元気を取り戻し、「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言いました。彼にとっては、息子の地位が何であれ、息子が生きていること、ただそれだけでよいのだし、死ぬ前に息子に会いたい、そのことが個人的には旅立ちの目的です。しかし、彼は総勢六六人の一家の長であり、その一家を飢え死にさせるわけにはいかない立場なのです。食べさせ、生き延びさせなければならない。そのためにも、彼はエジプトに行かねばなりません。
 しかし、単に息子に会うためとか、食料を求めて移住してよいのか?そういうことが、ヤコブ(別名イスラエル)にとっては問題なのです。普通の一般人と言ってよいかどうか分かりませんが、ヤコブ以外の人であれば、一家を挙げてのエジプト移住は生き延びるための移住ですし、そういうことは昔から今に至るまで世界中で起こっています。
 つい先日も、メキシコからアメリカの南部に続々と流れ込んできて、アメリカ人がやりたがらないきつい仕事を低賃金でこなすヒスパニック系不法移民の問題がNHKで報じられていました。職を求めて、つまり食べ物を求めて、昔から人々は国境を越えて移動してきました。現代の日本にも、昔に比べれば比較にならない数の外国人が住み、様々な仕事をしています。中には不法に滞在している人たちもいます。

 アブラハムの子孫としてのヤコブ

 現実として、ヤコブたちもまさにそういう移民、あるいは難民としてエジプトに行こうとしているのです。しかし、ヤコブは息子に会いたいから、またこのままでは一族郎党が飢え死にしてしまうからエジプトに行くということには、相当に強いためらいがあったのだと思います。彼の父はイサクであり、祖父はあのアブラハムです。この三代の族長たちにとって決定的なことは、神の導きに従って生きることです。アブラハムは、住み慣れた地を離れ、親族との交わりからも離れて、ただ神様の導きのままにメソポタミア地方からカナンの地にまでやって来た人物です。住んでいた土地に飢饉があったわけでも、カナンに会いたい人がいたわけでもありません。彼はただ、神様の語りかけを聴き、その命令に従って、旅立ったのです。
 神様の語りかけとは、こういうものでした。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 この神様の命令と約束の中に、アブラハムに始まる族長物語のキーワードがあります。今日のヤコブに対する言葉にも、「あなたを大いなる国民にする」というものがありました。全身全霊を傾けて神の導きに従う存在を、神様は祝福し、大いなる者とし、その存在を通して、「地上の氏族すべて」を祝福する。神様は、そう約束して下さっているのです。その主の言葉に従ってカナンの地にまでやって来たアブラハムに対して、神様は、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。

 約束の地に連れ戻す

 今、アブラハムの孫であるヤコブが住んでいる土地、それは神がアブラハムに約束された土地であり、ベエル・シェバとはアブラハムにとっても、その子イサクにとっても、またヤコブにとっても縁(ゆかり)の地です。
 ヤコブとの関連で一つだけ例に上げると、かつてヤコブは双子の兄エサウと両親と共にベエル・シェバに住んでいました。ある時、母リベカと共謀して父親を騙し、アブラハム以来の祝福をイサクから受け継ぐことになりました。しかし、それを知った兄エサウは怒って、父が死んだ暁にはヤコブを殺す決意をします。そこで、ヤコブはベエル・シェバを発って、母の故郷を目指して旅立つのです。彼にしてみれば、いつ帰ることが出来るかも分からぬ異郷への旅立ちです。その時、夢の中に神様が現れて、彼にこう語りかける場面があります。

 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 今日の個所には、「わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」とありますが、それと同じことがヤコブに告げられています。彼らが本来住む地は、約束の地カナンなのです。そして、アブラハムにもヤコブにも「大いなる国民になる」こと、つまり数の上では大地の砂粒のように多くなることが約束されます。その約束を与えられた時、アブラハムは高齢であるにもかかわらず子どもがなく、若きヤコブは体一つで異郷に逃亡しているのです。このままでは、彼らの家系は滅んでいってもおかしくない状況なのです。そういう状況の時に、神様は子孫の増大の約束をする。
 それは、彼らがその信仰の故に神様に祝福された者だからです。彼らが行く所には、その祝福もまた持ち運ばれていくのです。それは、ヨセフにおいても同様です。彼はエジプトに奴隷として売られたり、囚人になったりという苦難を味わいますけれど、そのヨセフを通してポティファルの家にも、エジプトの国にも、神様の祝福が及んで行ったのです。
 そういう働きを知らず知らずのうちにしているヨセフに「どうしても会いたい」と願うヤコブがここにはいますし、一族を飢え死にさせるわけにはいかないヤコブがいます。でも、それ以上に、神様の約束を信じ、その神様の御心に従わねばならぬヤコブがいるのです。もし彼が、その約束の地からどうしても離れなければならない時は、神様の指示とか約束がなければならないのです。神様の祝福を担う者というのは、そういう存在です。自分の事情とか願いとかで動けない。動く時も動かぬ時も、神様の御心に従わねばならないのです。

 礼拝 語りかけ

 ヤコブは、その御心を問うために、アブラハム以来の縁の地ベエル・シェバに行って、生贄を捧げる礼拝をしました。その夜、神が幻の中で彼にこう語りかけました。

 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

 神様は、かつてと同じく、ご自身を「父の神」としてはっきりと啓示されました。その上で、エジプトでヤコブを「大いなる国民にする」と約束されました。そして、エジプトに神様もヤコブと「共に下って」いき、「必ず連れ戻す」と約束して下さったのです。しかし、それに続けて「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」ともおっしゃった。つまり、ヤコブはエジプトの地で死ぬのです。しかし、彼は「この地に連れ戻される」と言われる。具体的には、創世記五〇章に記されているように、ヨセフによって遺体の腐敗防止処理をされた上でアブラハム、イサクが葬られているマクペラの洞穴の墓に葬られ、先祖の列に加わることになるのです。しかし、それは神ご自身が連れ戻して下さったことの徴です。そのようにして神様は、その約束を実現してくださるのだし、ヤコブはその約束を与えられ、そして信じることによってエジプトへと旅立つのです。

 信仰を抱いて死んだ

 その信仰について、新約聖書のヘブライ人への手紙は、こう言っています。もちろん、この言葉は新約聖書の信仰に立った言葉です。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。・・・・・
 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。


 信仰を生きるとは、この地上では旅人として生きることです。そして、その旅の行き着く先は「天の故郷」です。主イエス・キリストが私たちの罪をあの十字架の死によって贖い、復活によって新しい命を与え、昇天によって天への道を開いて下さったからです。この道は、アブラハム、イサク、ヤコブにも開かれた道なのです。
 今日は、聖餐の食卓を囲む聖餐礼拝を与えられています。十月第一週は「世界聖餐日」と言って、世界中の教会で聖餐が守られ、祝われる日です。その食卓は、主イエスを信じる信仰において罪赦された者たちが、はるかに天の故郷を仰ぎ見る食卓です。私たちは、御言と共に聖霊の注ぎを受けつつこの食卓に与る度に、キリストがいます天の御国を仰ぎ見ることが許され、喜びに満たされるのです。神様が、御子を通して私たちに約束して下さっているのは、その故郷に連れ戻すということです。それは、世の終わりが来る以前においては、私たちの死を通して起こることです。
 私たちは、御子主イエス・キリストが、全く新しいアブラハムの子として処女マリアから生まれ、十字架の死と復活を通して全世界の人間の「祝福の源」となって下さったことを信じて、洗礼を受けた者たちです。その者たちが、必ず実現すると信じていること、それは天の故郷において、すべての召された聖徒たちと共にキリストの御顔を拝して食卓を囲む日が来ることです。そして、全能の神様を讃美することです。そのことを信じることが出来る時、私たちは地上の旅を喜びと望みをもって続けることが出来ます。そして、その旅のすべてを、聖霊において御子主イエス・キリストが共にしてくださいます。聖餐は、その事実をも私たちに示してくださるものです。

 ファラオとの会見に向けて

 ヤコブは、自分を含めて総勢六六名でエジプトに向いました。そして、エジプトの都にはまだ相当な距離がある牧草地ゴシェンに着く前に、ユダを遣わしてヨセフを呼びました。まずは慎重な打ち合わせが必要だからです。ヨセフは馬車に乗って急いでやって来た。そして、「父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続け」ました。ヤコブは言います。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることが出来たのだから。」
 しかし、彼らは父親との再会の喜びにいつまでもひたっている訳には行きません。今後、総勢六六人の一家が、エジプト人との摩擦や軋轢がなく平穏に暮らせるような手筈をしなければなりません。ヨセフは、兄弟の中から五人を選んでファラオに会わせることから始めます。その際に、間違っても彼らが都に住みたいなどと言わず、「先祖代々、家畜を飼う者である」と言うように指示します。そうすれば、ファラオはきっとゴシェンに住むことを許可してくれるはずだからです。エジプト人は、家畜を飼う人々を見下していたのです。いつだって、外国人が自分の国で楽にしてよい暮らしをすることを喜ぶ人はいません。
 兄弟たちは、ヨセフの言った通りにし、すべてはヨセフの思惑通りになりました。

 ヤコブとファラオの会見

 これで実務的なことは終わりました。その上で、ヨセフはおもむろにヤコブとファラオを会わせます。この場の状況を想像することは重要なのではないかと思います。ヤコブたちは羊飼いです。身なりは貧しいでしょう。動物と共に生きているのですから、そういう匂いもしたでしょう。ひょっとしたら晴れ着を着ていたかもしれないけれど、難民として来たのだし、今更見栄を張ったところで意味はありません。まして、相手は大帝国エジプトのファラオ、神の化身として君臨している人物です。場所は、絢爛豪華な宮廷だと思います。それも奥の間です。ごく限られた人しか入れない部屋です。そこに古びた草履を履いた老人が入って来る。ヨセフの父親ということだけが、その特権を与えられる理由です。
 そこでヤコブは、ファラオに「祝福の言葉を述べた」とあります。神様が主語である場合は、「祝福する」と訳されますけれど、人が主語の場合は「跪く」とも訳せる言葉です。状況としては「跪く」の方が適切かもしれません。でも、私は、彼はファラオを祝福したのだと思います。
 ファラオは、難民として下って来たヤコブのその姿を見て、憐れに思うよりも、何か圧倒され、畏敬の念を感じたのでしょう。彼は「あなたは何歳におなりですか」と尋ねます。古代社会において長寿は祝福以外の何ものでもありませんし、権力者にとっては尚更のことです。しかし、ヤコブの答えは意外なものでした。

 「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」

 彼の生涯は、本当に苦しみの多いものでした。「苦しみ多い」とは、「不幸だ」とも訳される言葉です。母の胎にいた時に既に双子の兄と喧嘩ばかりしていたし、生まれる時にも兄の踵をつかんで出て来たのです。生まれた後も兄との葛藤は続き、先ほども言いましたように、彼は兄を恐れて故郷を後にしなければなりませんでした。そして、母の故郷では、叔父には散々な目に遭わされ、結局十四年間もただ働きをさせられることになりました。その上に、元々姉妹である妻同士の仲が悪く、これも結果として、妻の側女二人を含めて四人の女性との間に十二人の男の子が生まれることになりました。子どもらを連れて故郷に帰る時も、兄のエサウと会う前に死の恐怖を味わいましたし、カナンの地に帰った途端に子どもたちがある村の男たちを皆殺しにして、周囲の人々からの敵意を買うというとんでもないことをして、命からがら逃げなければならないこともありました。また、最愛の妻ラケルが漸く二人の子を産んだと思ったら、死んでしまうという痛恨の出来事もありました。そして、ヨセフは他の兄弟たちによって死んだことにされて二十年以上が経っている。もちろん、楽しく嬉しいことだってたくさんあったに違いないけれど、彼の人生は争いがあり、誰かを騙し、そして騙される人生でもあります。そして、命の危機にさらされ、最後は難民としてエジプトに下らなければならない。そういう不幸な人生を生きて来た人です。
 アブラハムやイサクもそれなりに苦労の多い人でしたが、ヤコブに比べれば、穏やか人生を送ったと言えるかもしれません。そして、寿命はアブラハムが百七十五歳、イサクは百八十歳でした。それに比べれば、ヤコブは結局百四十七歳で死にますから、たしかに短い。ファラオと会った時は百三十歳ですけれど、ヤコブはもう死んでもよいと思っていたし、そういう予感もしていたのでしょう。ここには、喜びも望みも何も感じられません。老人の諦めとか、絶望、ため息まじりの独白のような雰囲気が漂っています。
 彼は、「何歳におなりか」とのファラオの問いに対して、このように答えただけで、「別れの挨拶」をして退出してしまうのです。ゴシェンの地に住まわせて貰えることに対する礼を言うわけでもない。ファラオの権力に擦り寄るわけでも媚びるわけでもない。でも、この「別れの挨拶」と訳された言葉も、先ほどの「祝福する」と同じ言葉なのです。

 ファラオを祝福する難民ヤコブ

 不幸な人間なのに、難民なのに、エジプトのファラオを「祝福する」。ヤコブ、イスラエルとはそういう存在です。ヤコブ、それは人間的と言えばあまりに人間的な人物です。いつも従順に神に従って生きてきたわけではない。自らの才覚に頼み、また感情のままに生きてきた、そう言っても良い人物です。でも、生まれる前に既に神に選ばれていた人間であり、その時々に神に出会い、格闘し、従い、確かに祝福を受けてきた人間です。そのヤコブがエジプトで真っ先にすること、しなければならないこと。それは、エジプトにも神の祝福をもたらすこと、神の祝福を祈ることなのです。「あなたに神の祝福があるように」、GOD BLESS YOUと祝福を祈ること、祝福を告げることなのです。「神があなたと共にいます。そのことを信じ、神の導きに従ってください。祝福を受け入れて下さい」と祈ることです。「そうすれば、たとえ苦しみ多い人生であっても、塵から塵に帰る空しい人生ではなく、神と共に生きる人生、祝福の中を生きることが出来るのです。」彼の、出会いの挨拶も別れの挨拶も、ただそのことを言っているのではないかと思います。

 アブラハムの子 イエス・キリスト

 新約聖書の冒頭は、イエス・キリストの系図です。聖書で、系図は神の歴史を表します。その系図の冒頭の言葉は、「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」です。イエス様は、何よりもアブラハムの子孫です。それは、父の許から地上に旅立ったからです。そこに父の意志があり、御子の意志がありました。それは、罪に落ちて呪われた世界を命の祝福に変えるために、アブラハムを旅立たせた意志に繋がるものです。世界を呪いから祝福へと変えるイエス様の旅路は、まさに苦しみの多いものでした。不幸と言ってもおかしくない。でも、そのイエス様と、神様は絶えず共におられましたし、イエス様において神様は救いを求める人々に罪の赦しという祝福を与え続けてくださいました。
 そのイエス様の地上の人生の最後の言葉は何なのか?!それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。背中に鞭を嫌というほど打たれた上に、十字架に釘打たれ、茨の冠をかぶせられ、全身から血を流しつつ、人々の嘲笑を受けている。その苦しみの極み、その不幸の極みが、神に見捨てられるという現実なのです。
 しかし、その現実は何のためにあるのか?主の天使は、マリアの婚約者であるヨセフに告げます。

 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 「自分の民」とは、ユダヤ人に限定されたことではありません。イエス様の系図には、何人もの異邦人が入っています。罪の呪いの中に落ちた「すべての氏族」を、罪から救うために、イエス様は聖霊によってマリアの胎に宿り、人間の肉を取ったのです。その受肉されたイエス様の地上の旅路の究極が、あの十字架の死、神に見捨てられる死、私たちの代わりに生贄となる死です。その死を通して、私たちに罪の赦しと新しい命が与えられる道が開かれていくのです。そして、預言者イザヤは、この主イエス・キリストの誕生を「インマヌエル」「我らと共にいます神」の誕生として預言したのです。
 十字架の死に至るまで神の御心に従順に従い、そのことの故に死から甦らされ、天に上げられることになる復活の主イエスは、弟子たちに現れてこう語りかけました。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 「地上の人生の終わりまで」ではありません。「世の終わりまで」です。生死を越えて、主イエス・キリストは私たちと共に生き、天の故郷、神の国に導いてくださる。主イエスは、弟子たちと別れる間際に、まさに「別れの挨拶」として、そう告げておられるのです。そこに、「アブラハムの子」としての、またただ独りの「神の子」としてのイエス様が、私たちに与えてくださる祝福の言葉があります。
 私たちは、弟子たちによって伝えられたその言葉を信じて、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられた」キリスト者です。主イエスは今も私たちと共に生きて下さる神です。その神である主イエスに、今日もひとりひとりが憶えられ、その名を呼ばれて、礼拝に招かれており、主イエスが備えて下さった聖餐の食卓を囲むことが出来るのです。そして、そのことを通して「主の死を告げ知らせる」ことが出来る。地上の氏族すべての祝福の源である十字架の死を告げ知らせることが出来るのです。そして、そのことにおいて、私たちもまた全世界に祝福をもたらすアブラハムの子孫なのです。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこう言っています。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。・・・・あなたがたは、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

   聖霊によって与えられた信仰の故に洗礼を受けた私たちは、キリストと結ばれているが故に、神の子であり、アブラハムの子孫です。どんなに苦しみ多き人生を生きていようと、時に不幸であると感じようと、私たちには決して揺らぐことがない約束が与えられているのです。御子の十字架の死と復活と昇天を通して備えられた約束の地、天の故郷に迎え入れられるという約束です。私たちは、その故郷を目指して歩むアブラハムの子孫です。その歩みを通して、神様の祝福、主イエスが何時でも共にいます祝福を全身で現しつつ生きるのです。聖餐の食卓に与ること自体が、その祝福を表す者だし、この食卓は、私たちに対する主イエスの限りない祝福です。感謝と讃美をもって与りたいと思います。

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