「ヨセフの政策 ヤコブの祝福」

及川 信

       創世記 47章13節〜48章22
 (聖書朗読個所 47章23節〜31節、48章20節〜21節)

 ヨセフは民に言った。「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。さあ、ここに種があるから、畑に蒔きなさい。収穫の時には、五分の一をファラオに納め、五分の四はお前たちのものとするがよい。それを畑に蒔く種にしたり、お前たちや家族の者の食糧とし、子供たちの食糧としなさい。」 彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」
 ヨセフはこのように、収穫の五分の一をファラオに納めることを、エジプトの農業の定めとした。それは今日まで続いている。ただし、祭司の農地だけはファラオのものにならなかった。
イスラエルは、エジプトの国、ゴシェンの地域に住み、そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した。ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。
 イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。 わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」ヨセフが、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えると、「では、誓ってくれ」と言ったので、ヨセフは誓った。イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した。

 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。


 いよいよアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語の終盤に差し掛かりました。そして、天地創造から始まった「創世記」が終わろうとしています。創世記を読み終えた後は、数年前から聖研祈祷会で読み進めていますルカによる福音書をご一緒に読んでまいりたいと思います。それも、五〜六年掛かるかもしれません。

 ヨセフの政策

 四七章一三節から二六節までは、独特の資料がここに挿入されたのだと思います。そこには、世界的な飢饉を契機としてヨセフが行った政策が書かれています。ヨセフは穀物を求めるエジプトの民衆に銀で支払うように命じ、彼らの銀がなくなると家畜で支払わせ、さらに土地を代金の代わりとさせ、最後はすべての農民をファラオの奴隷にし、毎年収穫の五分の一をファラオに納めさせる納税制度を作ったことが記されています。その際、エジプトの神々を祀る祭司だけは例外であったともあります。一見、過酷な政策にも見えるこのことも、民衆にとっては、ヨセフこそが「命の恩人」であると思わせるものであったことも分かります。
 このヨセフの政策が苛酷なものなのかどうかとか、エジプトの歴史の中で実際にこういうことがあったかどうかは、私たちにとっては当面の課題ではありません。ここで何が語られているのか、そして、文脈の中ではどういう意味を持つのか?そのことを追求することが、私たちの成すべきことだと思います。

 この文脈に置かれている意味

 ここでは、明らかにヨセフの有能さが語られていると思います。彼は飢饉を利用して、エジプト中の富も家畜も土地も人々もファラオのものにした上で、納税制度を確立したのです。それも、嫌がる民に対して強権を発動してそういう処置をしたのではなく「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます」と言わせる形で、です。これは並大抵の能力で出来ることではなく、卓越した能力と人望がなければ出来ないことです。ヨセフは、そういう人物であった。そのことが、言いたいことの一つでしょう。
 次に分かることは、ヨセフは今やエジプトの人間になっているということです。彼の妻アセナトはエジプトの祭司の娘です。恋愛で結婚した訳ではなく、ファラオにあてがわれて結婚したのですが、それが不幸であったわけではないでしょう。結婚後二人の男の子を授かり、彼は長男をマナセと名付けました。それは、かつての悲しい思い出を神様が忘れさせて下さったことを感謝する名前です。そして次男をエフライムと名付けた。それは、神がエジプトでも子孫を増やしてくださったことに感謝する名前です。ファラオに引き立てられて以後のヨセフは、公私共に幸せな人生を送っていたのだし、今や父ヤコブや家族もエジプトにやって来て、住む場所は離れていますが、会いたい時は会える状態でもある。何も思い煩うことなく、エジプトのためにその能力を発揮できるのです。エジプトの社会の中にすっかり馴染んで活躍しているヨセフがいます。そのまま行けば、彼はこの地で死に、王家の墓に準ずるような豪華な墓にミイラにされて葬られてもおかしくありません。
 それはそれで悪いことではないでしょう。ヨセフがエジプトに売られてきたこと自体は他の兄弟たちが企てた悪の結果だとしても、その悪を善に変えて下さる神様がおられますし、神様はヨセフを通してエジプトにも祝福をもたらしておられる。そういう一面があることは、既に読んできた通りです。しかし、ヨセフが忘れてはならないこともまたあるのです。それが、ヤコブ、別名イスラエルの登場によって明らかになって来ます。

 ヤコブ イスラエル

 先ほど読んだ個所に、「イスラエル」「ヤコブ」がごちゃ混ぜに出てきて、少し混乱された方もおられると思います。二七節に「イスラエルは、エジプトの国、ゴシェンの地域に住み、そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した」とあります。その場合の「イスラエル」とは、ヤコブの別名としてのイスラエルではなく、民としてのイスラエルでしょう。次に「ヤコブは、エジプトの国で十七年に生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった」とあり、二九節には「イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った」とある。こちらのイスラエルはヤコブその人のことです。そして、四八章では、ヨセフの子らに対する祝福が二度も書かれていたりする。こういうことは、複数の資料が合わさって一つの物語が出来上がっていったことを示していると思います。
 しかし、最初に「神の民」としての「イスラエル」が出て来ることからも分かりますように、四七章二七節以下は、イスラエルとは何なのか?その族長であるヤコブとは何者であり、その子であるヨセフとは何者であるか、何者でなければならないのかを語っているのだと思います。
 ヤコブは色々な問題をはらむ人物ですけれども、最初から最後まで、神様の約束にすがり、祝福を求め、その祝福を担った人物であることは間違いありません。それは、神に選び立てられた信仰の父アブラハムの子孫として生きた人物であるということです。そして、その「ヤコブ」が「イスラエル」という名前を神に与えられ、それが神の民の名前となっていったのです。

 臨終の時にやるべきこと

 その彼が、今、自らの死が近づいたことを自覚している。その時、彼にはどうしてもしておかねばならぬことがありました。その最初のことが、ヨセフを呼び寄せることです。そして、ヨセフに自分が何者であるのかをはっきりと知らせることなのです。
 彼はヨセフの手を腿の間に入れさせて、自分が死んだ時はエジプトには葬らず、「先祖たちの墓に葬って欲しい」と遺言します。
 手を腿の間に入れさせて誓わせると聞いて思い出すのは、アブラハムです。彼は死ぬ前に、僕の手を自分の腿の間に入れさせて、独り息子のイサクの嫁を彼の故郷で捜すために遣わしました。イサクの嫁は異教の神々を拝む現地の娘であってはならず、アブラハムやイサクの神を拝む者とならねばならないからです。そのことこそが、アブラハムとイサクにおいては決定的なことでした。そして、またイサクが約束の地カナンから離れないことも、大切なことでした。アブラハムの遺言を受けた僕は、決死の覚悟で出かけ、神の導きの中でリベカに出会い、彼女をイサクの嫁として連れ帰って来ました。このことを通して、イサクは自分が何者であり、またあらねばならないかを実感させられたでしょう。彼は、アブラハムの信仰と祝福を受け継ぐべき者なのです。
 先ほども言いましたように、ヨセフの妻はエジプト人です。ユダヤ人の純血を重んじる立場では、それはやはり受け入れ難いものであり、なんとかこじつけて彼女もユダヤ人であったとする解釈もあるようですが、聖書にはそんなことは書かれていません。モーセの妻も異邦人です。この問題については、後にまた触れることになります。

 誓い

 今は、イスラエルの遺言に注目したいと思います。イスラエルは、自分が死んだ暁には、その遺体をエジプトの地に葬ることなく、約束の地にある先祖たちの墓に葬って欲しいと言ったのです。ヤコブ(イスラエル)は、そのことを通して自分が何者であるか、そして、自分の子であるヨセフは何者であるかを教えている。アブラハムの子孫である自分たちは、生活が出来ればどこに住んでもよいという人間ではない。神様がアブラハムの子孫に与えると約束された地に必ず帰らねばならぬ人間であり、民であることを教えているのです。それは神様の約束を信じて、その導きに従って生きる人間であるということです。ヨセフは、「必ず、おっしゃったとおりにいたします」と言いますが、ヤコブは、「では、誓ってくれ」と言い、ヨセフは誓うのです。
 「イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した」とあります。これは「ひれ伏した」という言葉です。ヨセフに「ひれ伏した」というよりは、ヤコブがエジプトに向けて出発する前に、「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」と約束して下さった主なる神様の御前にひれ伏し、感謝の祈りを捧げたのだと思います。このヤコブの一連の行為を目の当たりにして、今や身も心もエジプト人となりつつあったヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブの系譜に連なる者として引き戻されていきました。

 神の約束を告げるヤコブ(イスラエル)

 その後、二人は別れます。しかし、高齢のヤコブが病に倒れたという知らせがヨセフの許に届きます。ヨセフは、これが最後の機会だと思ったのでしょう。これまで会わせていなかった二人の息子を連れて、ヤコブ(イスラエル)に会いに行きます。三人がついたことを知らされると、「イスラエルは力を奮い起して、寝台の上に座り」ました。そして、ヨセフに向ってこう語りかけたのです。

 「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』
 今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。」


 ここにも、カナンの地における神様から与えられた祝福と約束が出てきます。それは子孫を増やし、その子孫にこの土地を所有地として与えるということです。この祝福と約束を受け継いでこそ、自分たちは「イスラエル」であることをヤコブはヨセフに告げるのです。その上で、エジプトの女性との間に生まれたヨセフの二人の息子、そのままでいけばエジプトの祭司か官僚になってもおかしくない二人の息子を自分の養子にすると言う。それはつまり、アブラハム以来継承されてきた神様からの祝福と約束を受け継ぐ子孫にするということです。異教の神々を信じるエジプト人として生きるのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じ、その導きに従って生きる民イスラエルにするということです。
 そのために、ヤコブは二人の孫を祝福します。この時、彼の目は彼の父イサクがそうであったようにほとんど見えませんでした。そこで、ヨセフは二人の息子を父に近寄らせると、ヤコブは彼らに口づけして抱きしめつつこう言いました。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった」と言ったのです。ヨセフはその言葉を聞いて「彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した」とあります。「ひれ伏す」は、先ほどのヤコブの行為と同じです。彼もまた、父ヤコブの前にひれ伏しつつ、父と同じ主なる神に感謝を捧げる人間になったのです。

 その上で、世の常識に従って、長男の頭の上に父の右の手が乗るように二人の息子を立たせました。右の手は力の象徴です。より大きな祝福が長男に与えられることを当然のように願った。

 祝福の祈り

 しかし、目がよく見えないヤコブは、何故か手を交差させて右手を次男の上に、左手を長男の上に置いて、ヨセフを祝福しつつこう言いました。

 「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。」

 「神」
と言うと、それだけでなんとなく通じてしまう感じが日本ではあると思いますが、聖書の神はそういう漠然とした抽象的な神ではありません。あくまでも具体的です。地上を生きている具体的な人間と、人格的に切っても切れない関係を生きておられる神様、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」「イスラエルの神」なのです。神様がどういう神様であるかは、彼らの歩みを詳細に見ることを通して分かるのだし、それは私たちが自分の生涯を見れば分かるものなのだし、そうでなければおかしいのです。
 アブラハムの生涯を見ることによって、神様が分かる。私たち一人一人もそういう歩みをしたいものです。そして、そういう歩みをすることが神様に求められているのです。絶えず神の御前に歩む。そのことを通して、自分の罪が明らかに示されます。世の中を生きていたって罪など分かりません。神の御前に生きた時にしか、罪は罪として見えてこないのです。その罪ある自分がなお神の御前に生きることが出来るとすれば、それは神がその罪を赦し、新たに生かしめ、その歩みを共にして下さる神であるからです。その様な憐れみが私たちを通して明らかにされていくのです。その神にのみ縋る私たちの歩みを通して、神の愛が現されていく。私たちが死ぬ時、残された家族や私たちをよく知る人が、私たちの歩みを通して神様の憐れみ、救いを深く知らしめられる。そして、その人々が神の御前にひれ伏す。そのために生き、そのために死ぬ。それが、アブラハム、イサク、ヤコブの歩みです。そして、信仰的な意味でアブラハムの子孫である私たちの生と死も、そのようなものであるはずです。
 ヤコブがここで、「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ」と呼びかけ、「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ」と続ける時、そこには観念としての「神」など微塵もありません。母の胎内で双子の兄エサウと争っていた時に、弟は兄よりも大いなる者となると神に選ばれ、生まれて後は身から出た錆も含めて苦労の連続であった生涯を導き続けて下さった牧者なる神、苦しみや悪から贖い出してくださった主なる神への深い感謝と信仰の告白がここにはあります。この神への感謝と信仰を受け継ぐことが、ヨセフとその子らに対する神様の祝福なのです。彼らが、先祖アブラハム以来の信仰を受け継ぐことによって、アブラハムの子孫は増加し、それは人種、民族を超えて世界の氏族の祝福に繋がることなのです。だからこそ、彼はこう祈ります。

 「どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」

 神の選びの不思議


 一七節以下に、弟のエフライムに右の手が置かれたことにヨセフが不満であったことが記されています。しかし、ヤコブはすべてが分かった上で手を動かしません。それは、ヤコブの場合同様、神の選びはこの世の慣習にはとらわれないことを表していると思います。ヨセフは不満でしたが、それが神様の決定なのです。神様は、私たちの願望をかなえてくださるために、存在しておられるのではありません。日本の神々とは、その点で根本的に違います。

 再び祝福

 本来なら、一九節は二一節に繋がっていたでしょうが、二〇節で再びエフライムとマナセに対するヤコブの祝福が挿入されています。しかし、その内容は一見しただけでは分かりにくいものです。
 ここでは、マナセもエフライムも同等に祝福の中に置かれています。祝福とは、兄よりも弟の方が「大きくなる」とか「上に立てられた」ということとは別の次元のことだからです。大小や上下はどうであれ、彼ら兄弟はヤコブ・イスラエルの子孫として、神の祝福と約束を受け継ぐ者なのです。そして、神の民としてのイスラエルは、エジプト人の血が混じった子(異邦人の子)でありつつ、ヤコブの養子になったエフライムとマナセによって「人」を祝福するのです。「どうか、神があなたを、エフライムとマナセのようにしてくださるように」と。

 旧約と新約 ユダヤ教とキリスト教

 この個所を今回改めて読み直してみて、私はこれまであまり考えてこなかった問題を考えさせられました。六月にイスラエルを旅する機会を与えて頂いて以来、ずっとユダヤ人と異邦人の問題を考え続けていますが、その問題とも関係します。
 これまでに何度も言って来ましたように、私たちは信仰的な意味では「アブラハムの子孫」であり、「新しいイスラエル」です。つまり、ヤコブの子孫でもある。私たちが信じる神は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」「イスラエルの神」です。その神がイエス・キリストを通して世界中のすべての人に御自身を啓示されたことを信じているのです。そして、その啓示は、あの十字架の死と復活に極まりました。十字架と復活の出来事を通して、神様は罪によって呪いを受けた世界中のすべての氏族に祝福を与える道を開いて下さったのです。そういう意味で、イエス・キリストは祝福の源になったアブラハムの子であり、同時に、私たちを導く牧者であり、すべての苦しみ、悪から救ってくださる贖い主であり、神の御使いです。この方を信じ、この方の導きに従って生きる時、私たちはアブラハムの子孫となり祝福の中を神の約束の実現に向かって生きる者とされるのです。そして、その約束とは、地上の土地を超えた神の国に導き返されるという約束です。この約束を信じて生きる者は祝福され、その存在を通して祝福は地に広がっていくのです。
 その点で、キリスト教はユダヤ教の根っこを持ちつつ、その根にとどまることなく大きく成長し、豊かな実を結ぶものなのです。私たちにとっての聖書は旧約聖書、つまり旧い約束を受け継ぎつつそれを凌駕する新約聖書を含むものです。それは、民族を超え、人種を超え、国境を超え、さらに天地を超えて広がる神様の祝福と約束を告げる書物です。その書物を通して語りかけて来る神様に信仰をもって応答して生きる。それが、私たち新しいイスラエルとしての教会であり、キリスト者です。

 ユダヤ人と異邦人

 そこで問題になるのは、それではその信仰を拒絶するユダヤ人とは何であり、その信仰を受け入れた異邦人とは何であるかです。
 今日の個所では、ヨセフとエジプトの祭司の娘との間に生まれた二人の息子、つまり、エジプト人の血が混ざるマナセとエフライムという二人の息子を、ヤコブが養子として受け入れ、アブラハム以来の祝福と約束を受け継ぐ者としたことが記されています。そして、「神があなたをエフライムとマナセのようにしてくださるように」という言葉が、祝福の言葉になるのです。それは、一二章でアブラハムに対して語りかけた神様の言葉、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福する。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と、内容は同じだと思います。つまり、異邦人の血が入っているこの二人の子が、アブラハムの祝福を受け継ぐ民の中に正式に組み入れられているのだし、四八章五節に出て来るヤコブの長男ルベンや次男のシメオンよりもむしろイスラエル十二部族の代表のような扱いを受けているとすら言えるのではないか、と思います。
 こういう不思議な選びが、ここにはあります。人間の常識、人間が当然と思うようなことを覆して、ご自身の救いの歴史を展開して行かれる神様がいます。その歴史の行き着く先は、血族としてのイスラエルの民が約束の地に導き返されることではありません。約束を信じて生きる人々を通して、地上の氏族がすべて祝福に入ること、罪の呪いから解放されて救われること、神の国に招き入れられることです。旧新約聖書は、そう語っています。旧約だけでは、そこまではいかないのかもしれません。
 新しい契約を立てるために来られた主イエス・キリストは、肉としてはユダヤ人として生まれました。しかし、その系図には異邦人の女性たちが入っています。そして、主イエスは「御自身の民を罪から救うために」聖霊によってマリアに身ごもり、人としてお生まれになりました。そして、私たち人間のすべての罪を背負い、十字架上で裁かれて死に、三日目の日曜日の朝に復活されました。その主イエスこそ、アブラハム、イサク、ヤコブの神の「独り子」であり、私たちの牧者であり、贖い主であることを信じることが私たちの信仰です。その信仰において、私たちは神の民イスラエルの系譜に連なっているのです。

 折り取られたが、捨てられたわけではない

 その点について、パウロはローマの信徒への手紙一一章一一節以下で語っています。主イエスが誕生された時代のイスラエルの民、つまりユダヤ人は、神の選び、約束、祝福を誤解し、悪しき選民思想や律法主義に陥っていました。その罪を、主イエスから指摘されると、主イエスこそ神を冒涜する罪人だとして十字架に磔にして殺したのです。
 パウロは、そのことをユダヤ人の「つまづき」「罪」「失敗」と言います。しかし、その彼らの罪によって、異邦人に福音が宣べ伝えられ、異邦人がその福音を信じて救いがもたらされることになったのだ、とも言うのです。そして、ユダヤ人は神様によって栽培されていたオリーブの木から折り取られたが、野生のオリーブだった異邦人が、ユダヤ人の「代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになった」というのです。つまり、キリスト教会の信仰の根っこは旧約聖書でありユダヤ教なのです。だから、私たちは丹念に旧約聖書を読み、そこから信仰の養分を汲み取るのです。
 パウロは続けます。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのだ」と。たしかに、ユダヤ人は神に栽培されるオリーブの木から折り取られたかもしれない。しかし、ユダヤ人は神に捨てられた訳ではない。御自身がかつて選び、祝福し、約束されたユダヤ人が、今はどれほど神に対する不従順に陥っていようと、そのユダヤ人に対する神様の憐れみは今も尚燃えているのだと。そして、こう続けます。

 「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

 ヤコブの姿が語っていること


 四七章一三節以下のヨセフは、下手をすれば、異邦人の世に埋没し、その世の中での幸福を追求するだけの人生を生きる者になりかねませんでした。ヤコブは、そのことを恐れていたと思います。だからこそ、前回読んだ所にあったように、彼はファラオと会見した時も、自分の人生が「苦しみ多く、不幸である」と言いつつ、出会いと別れの際にはファラオを祝福する人間として立っていました。食料を求める難民として下って来たのに、ファラオを祝福するためにだけ下って来たかのようなヤコブがそこにはいました。彼は、エジプトにすっかり馴染んでいる息子のヨセフに、そういう自分の姿を見せたのです。アブラハムの子孫とは、異邦人であれ何であれ、人のために神の祝福を祈るものなのだ、と。それこそが、神が望み、喜ばれることなのだ、と。私たちは、そのためにこそ選ばれ、祝福され、約束を信じて生きているのだ。彼は、その時も、死が近づいた時も、ヨセフとその子らに、神の民イスラエルの信仰と人生をはっきりと示したのだと思います。 私たちは、元来、神に不従順な異邦人でした。しかし、今や神様の憐れみによって神の民イスラエルにされているのです。その私たちの生と死は、すべて救い主イエス・キリストにおける神の愛を証しするものになるのではないでしょうか。

 教会の取り組み

 十一月の第一週は、召天者記念礼拝を捧げます。そして、第二週は礼拝の中で幼子に対する祝福の祈りを捧げます。召天者記念礼拝には信仰をもって地上を生き、そのことの故に天に召されていった人々の御家族が礼拝に参加されます。その方たちに、イエス・キリストを信じて天を目指して歩む人生の祝福を語りたいと願っています。皆さんは、その礼拝する姿を通して語るのです。そして、まだ信仰を与えられていない御家族が、信仰を継承することが出来るようにご一緒に祈りたいと思います。
 また、第二週の礼拝の中では、幼子たちに祝福を祈ります。彼らが、私たちの礼拝する姿を見ることを通して、信仰をもって神様の御前にひれ伏し感謝することがどれほど大きな喜びであるかを感じ取ってくれるように祈っています。そして、私たちに与えられている祝福と信仰を、幼子たちが受け継いでいくことが出来るように共に祈りたいと思います。
 私たちの生と死はすべて、愛する家族や知人、また幼子たちに、主イエス・キリストの愛を証しするためのものなのですから。私たちの礼拝と生活を見た人たちの一人でも二人でもが、「あの人の神は真実な神だ」と思ってもらえるような歩みをする。「あのような挫折と失敗を繰り返した人をも顧み、憐れみ、信仰の生涯を生き続けさせた。こんな神様は知らない。」そう言ってもられる。それが私たちの生きるにも死ぬにも、最大の願いです。アブラハムも、イサクも、そしてヤコブも、様々な挫折や失敗、人生の山坂を経験しつつ、その願いに基づいた生と死を貫いた人々なのです。
 パウロは、こう言います。(ローマの信徒への手紙一四章七節〜九節)

 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 イエス・キリストは、世界中すべての人の主となるために生まれ、死に、そして今も生きておられます。この主の祝福、罪の赦しと新しい命という祝福が、天地を貫いて満ち溢れる。その日に向って、私たちは主のために生き、主のために死ぬ者でありたいと願います。
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