「ヤコブの祝福と死」

及川 信

       創世記 49章 1節〜33節
 (聖書朗読個所 49章 1節〜 2節、22節〜26節)

 いよいよヤコブが死にます。先週の個所で、彼はヨセフの二人の息子、マナセとエフライムに祝福を与えました。今日の個所では、ヤコブ自身の子ども十二人に「祝福を告げた」と二八節には書かれており、「新共同訳聖書」の小見出しにも「ヤコブの祝福」と書かれています。でも、一節には、ヤコブが子どもらを呼び寄せて、「後の日にお前たちに起こることを語っておきたい」とあり、どちらかと言うと、こちらの面が強いかもしれません。学者たちは一様に、この四九章の言葉をヤコブ物語(ヨセフ物語)とは独立した資料だと言いますし、それも非常に古い時代に成立した資料とかなり時代が下った時の資料が混在していると見ます。私も、そう思います。文体も内容も様々だからです。過去の出来事に関する叱責があったり、未来に起こるべきことが語られていたり、書かれた時代の現況が語られていたりするように思えます。しかし、私たちとしては、資料の成り立ちよりも、イスラエル十二部族に関する独特な資料がヤコブ物語のこの個所に置かれた意味を考え、その物語の筋を踏まえて読むとどういうことになるのかを探求すべきだと思います。

 ルベン

 となると、ヤコブ物語の中に挟まっているヨセフ物語の登場人物に焦点を当てつつ読むということになります。最初に出て来るのが長男のルベンです。長男とは基本的に父の力の象徴です。しかし、これまでも神様の不思議な選びの中で次男が選ばれるということがありました。ですから、長男の力とか権威は、あくまでも世の習慣としてあるのであって、神様の決定ということではありません。長男が父親のすべてを受け継ぐことが、神様によって決められているわけではありません。
 ルベンの場合は、ヤコブの長男ですが、彼の二人の妻の内のレアから最初に生まれた長男です。でも、ヤコブが愛したのはレアの妹ラケルです。しかし、ラケルが産んだはじめての子は、ヤコブにとっては十一番目の息子であり、それがヨセフでした。そして、ラケルは続けてベニヤミンを産んだ直後に旅の途中で死んでしまったのです。そういうことがあったものですから、ヤコブは最愛の妻ラケルが産んだ最初の子であり、忘れ形見でもあり、利発でもあったヨセフを特別に可愛がりました。十一番目に生まれたヨセフが、まるで長男であるかのような扱いを受けたのです。長男のルベンは気の毒な立場です。
 さらに彼の立場を悪くしたことがあります。それは、三五章に記されている彼自身の大きな過失に原因があります。彼は、父ヤコブの最愛の妻ラケルが死んでしまった時、ラケルの仕え女であり、彼にとっては二人の異母兄弟ダンとナフタリの母でもあるビルハという女性の床に入ったのです。それは、近親相姦という重大な罪であると同時に父親の権威を失墜させる行為、権力の座から引きずり降ろそうとするある種のクーデターのような行為でもあります。しかし、その企てはものの見事に失敗しました。
 ヤコブはルベンの行為を知りました。でも、その時は咎めることも裁くこともしませんでした。そして、父ヤコブの権威が他の兄弟たちの前で失墜したわけでもありませんでした。この時以来、ルベンは長子の資格を失っていたのだと思います。
 その後、彼は、他の兄弟たちがヨセフを殺そうとする時、命だけは助けようとして必死の努力をします。後に出て来るユダも同様です。結果として、ヨセフは殺されず、彼らの与り知らぬ形でエジプトに奴隷として売られてしまったのですけれど、後にルベンは兄弟たちに、「あのときわたしは『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ」と言っています。ルベンの長男としての威厳など、他の兄弟にとってはないも同然なのです。
 それ故に、ヤコブはこう言います。
「お前は水のように奔放で、長子の誉れを失う。
 お前は父の寝台に上った。
 あのとき、わたしの寝台に上り
 それを汚した。」

 ラケルの死によって、父ヤコブが悲しみのどん底に落ちて、生きる気力すら失いかけている時に、父の寝台に上って、それを汚す罪を犯した。そのことを、ヤコブはある意味で赦していました。しかし、忘れているわけではないのです。加害も被害も、忘れることが出来れば、それはそれで良いのでしょうが、被害を受けた方は忘れることは出来ないものです。そういうギャップが、加害者と被害者の間には絶えず存在しています。そして、罪という場合、その被害を受けているのは本質的には神様なのです。目に見える形で、人間同士の間柄のことであっても、罪の行為とは神に向けられたものなのです。だから、アダムとエバの長男カインが弟のアベルを殺した時、その弟アベルが埋められた土の中から叫ぶ「血の声」を神が聞いておられるのです。神はカインの罪を覚えておられ、その罪を悔い改めることなき者の責任を問うのだと、主イエスもおっしゃっています。
 罪の問題は、私たち人間が勝手に忘れれば事が済むわけではない、ということです。神様との間に真実の和解がなされなければ、その問題は終わりません。ルベンに対する言葉は、そのことを表していると思います。

 シメオン レビ

 次に続くシメオンとレビについても、それは言えることです。彼らは、創世記三四章に出てきます。彼らは、妹のディナが町の人間に辱めを受けたことに怒り、策略をめぐらした上で、その町の男たちを皆殺しにするという暴挙を犯しました。その結果、ヤコブはせっかく約束の地カナンに帰って来たのに、その地の住民に嫌悪されて逃げださねばならなくなったのです。そういう凶暴性が、この二人の兄弟にはありました。ヤコブは、彼らについてこう語ります。
「シメオンとレビは似た兄弟。
 彼らの剣は暴力の道具。
 ・・
 彼らは怒りのままに人を殺す。
 呪われよ、彼らの怒りは激しく
 憤りは甚だしいゆえに。
 わたしは彼らをヤコブの間に分け
 イスラエルの間に散らす。」


 彼らの暴挙の結果、彼らは部族の中で散らされていってしまうことが告げられています。
 何十年振りかで帰って来た約束の地で、ちょっとしたことから激しい憎悪を燃え立たせ、先住民の男を皆殺しにし、略奪をするという暴挙は、二〇世紀半ばに突然誕生したイスラエル共和国に帰還?したユダヤ人たちが、先住民であるパレスチナ・アラブ人にやって来たことと似てなくもありません。そして、そういうことが、世界の至る所で繰り返されていることもまた否定できません。ヤコブは、自分たちの身内の中に、このような暴力的な人々がいることを正直に認め、その結果は、分裂、離散に他ならないことを告げているのだと思います。

 ユダ

 こういう兄弟たちがいる一方で、ユダとヨセフは全く違うことが告げられます。ユダは後にダビデ王を輩出する部族であり、ヨセフは北王国イスラエル(エフライムとも呼ばれる)を代表する部族になりますから、そういうことが二人に向けられた言葉の背景にはあるだろうと思います。
 最初にユダについての言葉を見ますが、そこにはこうあります。
「ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。
 あなたの手は敵の首を押え
 父の子たちはあなたを伏し拝む。
 ・・・
 王笏はユダから離れず
 統治の杖は足の間から離れない。」

 何故、ユダがこのように褒め称えられるのか?聖書学的には、この部分がダビデ王以後に書かれたからだと説明されるかもしれません。それはそれで納得できることです。でも、ヨセフ物語の文脈の中では、ユダはヨセフの血を流すことを止めた人物として登場します。
 その直後、これも独特の資料ですけれど、ユダとタマルの物語が挿入されています。そこにおいて、ユダは知らなかったとはいえ、遊女に変装した嫁のタマルと性的交わりを持ってしまいました。しかし、それは嫁のタマルが持つべき権利を、嘘をつくことで奪う罪を犯したことに原因があります。しかし、その罪がタマルによって暴かれた時、ユダは正直に自分の罪を認めました。
 これは、出来そうで出来ないことです。自分の犯した罪を認めることは、私たち人間にとって、最も難しいことの一つなのではないでしょうか。私たちはアダムとエバ以来、なんやかんや言って己の罪を認めない。そういう存在です。そして、そのことの故に罪を深めていくのです。ユダは認めました。そして、悔い改めました。
 その後のユダは、体を張ってヨセフと対峙しつつ、ヨセフの前でかつての自分たちの罪を告白する人間として描かれています。
 ヨセフは後に、自分の銀の杯を弟ベニヤミンが盗んだような仕掛けをし、うなだれて自分の所に帰って来た兄弟たちに向って、こう詰問しました。

「お前たちのしたこの業は何か(なんということをしたのか)。」

 これは、禁断の木の実を食べたエバに対して神様が語った言葉と同じです。
 その言葉に対して、ユダは、こう言って答えたのです。

「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」

 彼は、ヨセフに対する罪は神に対する罪であることを、この時、はっきり知っており、神がその罪を暴かれたことを知り、その罪を認め、そして悔い改めているのです。
 さらに彼は、ベニヤミンだけをエジプトに置いて行くように迫るヨセフに向って、もしもベニヤミンをヤコブのもとに連れ返らない時は、ヤコブに対して「生涯その罪を背負い続ける」と約束したことを言い、自分だけを奴隷として、ベニヤミンを父の許に返してくれるように懇願するのです。このユダの罪の告白と懇願を聞いて、ついにヨセフが身を明かして、すべてのことは神がなさったことであると告げることになります。
 ヨセフ物語の中のユダは、罪を犯したけれど、その罪を認め、悔い改め、その償いのために身を投じるユダです。そして、ヤコブはそのユダこそ、兄弟たちにたたえられるべき存在であることを告げているのです。この点で、ユダは、ルベンやシメオン、レビとは決定的に違う人物です。

 ヨセフ

 そして、最後にヨセフ。このヨセフに対する言葉こそ、「祝福」と呼ぶに相応しい言葉だと思います。特に後半には、七回も祝福という言葉が出てきます。

 ヨセフは実を結ぶ若木
 泉のほとりの実を結ぶ若木。  その枝は石垣を越えて伸びる。
 弓を射る者たちは彼に敵意を抱き
 矢を放ち、追いかけてくる。
 しかし、彼の弓はたるむことなく
 彼の腕と手は素早く動く。
 ヤコブの勇者の御手により
 それによって、イスラエルの石となり牧者となった。
 どうか、あなたの父の神があなたを助け
 全能者によってあなたは祝福を受けるように。
 ・・・・
 これらの祝福がヨセフの頭の上にあり
 兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。


 先ほど、ヨセフがユダに対して言った「お前たちの、この仕業は何か」という言葉が、禁断の木の実を食べた後のエバに対する神様の言葉と同じだと言いました。それとの連関を考えると、「弓を射る者たちは彼に敵意を抱き、矢を放ち、追いかけて来る」という言葉も、意味深なものになると思います。
 この言葉は、元来は、現実の戦争の場面が背後にあり、その戦争にヨセフ族が勝利することを描いていると思います。でも、エデンの園の物語において、蛇と女、またその子孫との間には「敵意が置かれる」とありました。原文では、ヨセフに向けられる「敵意」と蛇と人間の間に置かれる「敵意」は違う言葉が使われています。そして、聖書に出て来る回数は両方とも四〜五回と少ないものです。それらを見てみると、蛇と女の子孫、つまり人類との間に置かれる「敵意」(エーバー)は、敵対する者同士の間の憎しみが暴力となって現れる場合に使われているように思います。ヨセフに対する「弓を射る者たち」の「敵意」(サータム)は、少なくとも創世記の中では、エサウがヤコブを恨んでいつか殺してやろうと思うとか、ヨセフの兄弟たちが、ヨセフは自分たちを恨んでおり、ヤコブが死んだ今、復讐をして来るのではないかと恐れるとか、そういう個所で使われています。兄弟間の恨みの意味です。そういう微妙な違いがあります。
 しかし、人間に敵意を抱いている蛇は、絶えず人間の踵に食らいついて、罪を犯させようとするのです。その蛇の暗躍が背後にあるという点では同じだと言ってよいでしょう。そして、その暗躍の一つの形態は、人間に敵意を抱かせ、恨みを抱かせ、殺人を犯すように仕向けることです。その結果は、ただちに現れました。アダムとエバの長男カインが、神様のえこ贔屓に腹を立て、アベルを恨み、アベルを殺したのです。禁断の木の実を食べたのも蛇の思う壺だし、カインがアベルを殺したのも蛇の思う壺。蛇は巧みに人に働きかけて、神を恨ませ、人間を憎ませ、敵対させ、殺し合いをさせ、神と人、人と人の交わりを破壊して行きます。  ヨセフもまた、神に選ばれ、またヤコブにえこ贔屓されたことで兄たちから憎まれ、敵意を抱かれました。そして、危うく殺されそうにもなった。しかし、神様のおかげで、兄弟たちはヨセフを殺す罪からは守られ、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになりました。そして、ヨセフその人は、兄弟たちの敵意や憎しみに対して恨みで返すことはしませんでした。彼は、父の偏愛、また自分が見た夢、その結果としての兄の憎しみ、そしてその後の苛酷な人生のすべてを、神様のご計画の中で見つめる目を持っていました。ある人が、「人生は短期的に見れば悲劇だが、長期的に見れば喜劇だ」と言ったそうです。悲しみに打ちひしがれて涙で枕を濡らす日々が続くこともある。しかし、望みを持って生きていれば、最後には喜びに満たされることになる。そういう意味でしょう。神様の選びとご計画の中に置かれた人生もまた、そういうものだと思います。それが祝福された者の人生なのです。
 兄弟たちやポティファルの妻はヨセフに罪を犯しました。しかし、ヨセフはその罪に対して罪で返すことはしませんでした。彼は、食料を求めて自分の目の前にひれ伏す兄弟たちを見た時、若き日に見た夢を思い出しました。しかし、その時彼は、自分の権力を振りかざして、彼らを奴隷としてこき使い、懲らしめるという立場には立ちませんでした。そういう意味で、兄弟たちをひれ伏せさせようとは思わなかった。彼は、一見苛酷に見える手段を用いつつ、家族全員をエジプトに呼び寄せて餓死から救い出す手立てを講じていきました。そしてまた、内実においては、兄弟たちに己が罪を認めさせ、悔い改めに導き、神様とまた自分自身との和解に至るための手立てを講じていたのです。つまり、彼は敵意に対して愛を持って応えている。敵を愛し、迫害する者のために祈っているのです。彼自身は、神のご計画を知らされた時から赦しているのです。

 ヤコブの言葉が意味するもの

 ヤコブが言葉の限りを尽くしてヨセフを祝福している理由は、そこにあると思います。自分に敵意を抱き、その敵意や恨みによって手ひどい仕打ちをした人々を赦す愛の行為、それはまさに「父の神の助け」「全能者の祝福」があればこそ可能なのであり、彼個人の力で出来ることではありません。ヨセフは、この神の助けと祝福を与えられていたからこそ、兄弟たちを赦すことが出来たのだし、その意味で「イスラエルの石となり牧者となった」。つまり、土台でありつつよき導き手(牧者)になったのです。ヤコブは、そのことを語っているのです
。  こうやって見てみると、ルベンとシメオンやレビは、罪を犯しつつ、その罪を認めず、悔い改めていないという点で同じです。ユダは、罪を犯したが、その罪を認め、悔い改めた人物であるが故に、兄弟たちにたたえられるものとされています。そして、ヨセフはその罪を赦す人物であるが故に、兄弟たから選ばれ、全能者によって祝福された牧者(指導者)となるということが分かります。
 そして、「イスラエル」と一言で言っても、色々な人々がいるということも分かります。「これらすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である」と明言されています。そして、キリスト教会は「新しいイスラエル」と呼ばれるのです。私たちの中にもまた、色々な人がいますし、人それぞれの段階を生きているのです。
 私がイスラエルの民が書き、今は『旧約聖書』と呼ばれるようになったこの書物を、私が信頼する一つの理由は、彼らがこうやって自分たちの罪の現実をきちんと見つめ、書きとめていることにあります。十二部族それぞれに個性があり、様々な罪の現実がある。解決済みのものもあれば、未解決のものもある。そういう様々な問題を含みつつ生きているのがイスラエル十二部族なのです。しかし、その中で、ユダ族とヨセフ族が特に兄弟たちにたたえられ(八節)、また選ばれている(二六節)ことも、きちんと弁えておかねばなりません。彼らがたたえられ、選ばれる理由は、罪を悔い改めた人物であり、そして罪を赦した人物であるからだと、私は思います。

 ヤコブ物語(ヨセフ物語)が語っていること

 ヤコブ物語とその中に含まれるヨセフ物語は、振り返ってみると兄弟同士の敵対と争い、憎しみと恨みに満ちた物語でした。来週の五〇章までそれは続きます。そして、その底流には神の「選び」「祝福」があります。そして、その「選び」「祝福」は最終的にユダとヨセフに集中してきますが、その内容は神に対する罪であり、罪の悔い改めであり、赦しです。その赦しに基づく神と人、そして人と人の間に生じる和解が、この壮大な家族の物語の結論になっています。そこに神に選ばれた民に与えられた祝福があるのだし、それは大いなる国民となって約束の地へ帰還することに繋がっていくのです。五〇章で、ヤコブの遺体がはるばる約束の地にある先祖の墓へ運ばれて、そこに葬られることになります。そして、創世記の最後は、ヨセフの遺骸がいつの日か約束の地に携え上られることの暗示で終わり、それは四百年後の出エジプトにおいて実現していくことになります。

 多くの民の命を救うため

 こういう物語を読んできて思うことの一つは、私たち人間は自分のやっていることを本当には分かっていないということです。それは短期的にしか見ることが出来ず、自分を中心にしか見ることが出来ない。そういう私たちがやっていることは、所詮、愚かな悪でしかありません。しかし、来週の個所にあるヨセフの言葉を使えば、「神は、それを善に変え、多くの民の命を救うために今日のように」してくださるお方です。
 主イエスは、最後の晩餐において弟子たちが杯からぶどう酒を飲んだ後、こうおっしゃいました。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ一四章二四節)
 これは「多くの民の命を救うため」の血であると同じ意味です。
 私たち人間は、誰もが例外なく、主イエスの血を流す罪人です。自分がしていることを知らずに、そういうことをやってしまっているのです。しかし、主イエスは、あの十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ二三章三四節)と祈って下さいました。その祈りを、同じく十字架に磔にされて死を待つだけの二人の犯罪者が聞いていました。一人は、己が罪を悔い改めることもなく、イエス様をなじりました。でも、もう一人は、こう言ったのです。
「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 そう言った上で、イエス様にこう言いました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 主イエスは、この男が罪を悔い改め、人による裁きをきちんと受けつつ、主イエスによる赦しを乞い求める姿を見て、こうおっしゃいました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 主イエスは、この男の罪を背負って、その罪に対する神様の裁きを受けて下さったのです。人の裁きを受けたのではありません。神様の裁きを受けて下さったのです。だから、主イエスは人の罪の赦しを神様に祈り求めることが出来るのだし、この方の祈りだから神様は聴いて下さるのです。罪は必ず神様に裁かれなければならないからです。忘れられることはありません。その裁きの中に救いが隠され、その十字架の死の中に復活の命が隠されている。悲しみの中に喜びが隠されているのです。私たちはそのすべてを見なければならないし、通らなければならないでしょう。それも、主が共におられる時に可能なことです。
 私たちの人生は、この主イエスに出会った時に悲劇から喜劇に変えられます。この方、すべての人間に祝福を与えるべく乙女マリアよりお生まれになり、十字架に磔にされ、罪を贖い、復活された方と出会う時、「この方こそメシア、救い主」と信じる時、私たちは新たにされるからです。罪しか犯し得ない私たちが、命の祝福を受け、はるかな天の御国を目指して生きる者に変えられるからです。そのことを通して、主イエスがもたらして下さった祝福を持ち運び、告げ知らす者に造り替えられるからです。

 十字架(祝福)を背負って従うキリスト者

 イエス様を十字架に磔にする実際の指揮を執ったローマの百人隊長は、この主イエスの姿を間近に見て、「本当に、この人は正しいだった」と言って、「神を賛美」しました。
 私たちもまた、主イエスを十字架に磔にした罪人でした。しかし、今は、それぞれに自分の十字架を背負って主イエスに従うキリスト者にして頂いたのです。主イエスを送って下さった神様を賛美しつつ歩む者にして頂いたのです。ユダのように罪を悔い改め、ヨセフのように罪を赦す者にして頂いたのです。そのような者として歩むためには、アブラハム、イサク、ヤコブの神の助け、主イエスを十字架の死から甦らせ給う全能者なる神の祝福が必要です。そして、礼拝とは、その「助け」と「祝福」を受ける時なのです。罪の赦しを与えられ、罪を赦して生きる者に造り替えて頂くという出来事は、この礼拝の中で起こることです。
 今日も、主イエス・キリストを通して与えられる「助け」と「祝福」を受ける礼拝を守ることが出来た幸いを神様に感謝し、賛美しつつ、新たな一週間に歩み出したいと思います。
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