「神は顧みてくださいます」

及川 信

       創世記 50章 1節〜26節
(聖書朗読個所 50章24節〜26節)

ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。

 今日で、二〇〇二年九月から八年間、断続的に語って来ました創世記の説教が終わります。来週からは、ルカによる福音書の説教に入ります。
 四九章の後半部分に、ヤコブが息子たちに遺言を残して死んだことが記されていました。その遺言とは、彼が死んだ後、その遺体をアブラハムが約束の地カナンに購入した墓に葬るようにというものです。その墓にはアブラハム、サラ夫妻はもちろんのこと、ヤコブの父イサクも、その妻リベカも葬られていますし、ヤコブの妻の一人であるレアも葬られているのです。彼はエジプトで死のうとする時、彼の死後もエジプトに滞在し、その滞在がかなり長引くであろう息子たちに対して遺言を残したのです。たとえエジプトの地に長く住んだとしても、自分たちは「アブラハムの子孫」であることを決して忘れてはならないと命じるためのものです。「アブラハムの子孫」とは何を意味するかについては、これまでの説教で幾度も語って来ました。創世記とは、アブラハムとその子孫を巡る物語なのだと思います。天地創造に始まる原初の物語はアブラハムに向っている物語ですし、以後五〇章まではアブラハムを土台とし、アブラハムに与えられた神様の約束の実現を目指す物語なのですから。

 ヤコブの葬儀

 今日の個所に入ります。
 ヤコブたちは、世界を巻き込む飢饉に苦しみ、食料を求めてエジプトにやって来た惨めな難民です。しかし、彼はエジプトの王(ファラオ)を祝福するためにこそやって来た祝福を担う者でもありました。そのヤコブが、アブラハムに対する神様の約束の実現をはるかに望み見つつ死んだのです。その心は、まっすぐに「約束の地」に向っています。残された遺族は、ヤコブの「遺体」をなんとしても約束の地に葬らねばなりません。そのためには、遺体に対する防腐処置をしなければなりません。莫大な富をもっているヨセフ以外に、そんな処置をさせることが出来る者はいませんから、ヤコブは予めそのことをヨセフに誓わせていました。
 そして、ヤコブが死ぬと、ファラオはヨセフのために元老とか重臣、そして長老たちをカナンの地にまで随行させました。それは、ヨセフの地位の高さを表します。しかし、その一方でヨセフがちゃんとエジプトに帰って来るように厳重な見張りがつけられたという面があるようにも思います。ヨセフ自身も、「わたしはまた帰って参ります」とファラオに言明しており、彼の一族の「幼児と羊や牛の群れ」は人質のようにしてエジプトに残されています。だから、この段落の最後の言葉は、「ヨセフは・・・すべての人々と共にエジプトに帰った」で終わっている。心は約束の地から離れてはならないけれど、体はエジプトの地から離れてはならない。そういうイスラエルの民の状況がここにはあるように思います。

 人間の記憶

 今日、ご一緒に考えたいことは、その後に起こったことです。

「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。」

 何度読んでも胸が痛む記事です。ヨセフが兄弟たちに殺されそうになり、結果としてエジプトに奴隷として売られてきたのは、十代後半のことだと思います。そして、ひょんなことからファラオの側近となったのは三十歳の時です。その後、七年の豊作があり、七年の飢饉が続きます。その飢饉の二〜三年目にヤコブたちが来たとすれば、ヨセフは四十歳前後です。そして、ヤコブはエジプトに来て十七年生きたのですから、ヨセフはこの時五十七歳前後ということになる。族長たちは皆、軽く百歳以上生きたことになっているので、私たちの年齢と単純に比べることはできない面があります。でも、私が考えていることは、年齢よりもむしろ年月です。ヨセフの兄弟たちがヨセフに敵意を抱き、それが殺意にまでなったのは、ヤコブの死よりも四十年も前のことなのです。
 今「四十年も」と言いました。それは通常「長い年月が経った」ことを意味します。しかし、どうなのだろうか?とも思います。
 毎年、夏が来ると六五年前の戦争に関する様々な報道をテレビで見たり、新聞で読んだりします。その時にいつも思うのは、人間の記憶の生々しさです。空襲で焼け出された時の恐怖、目の前で家族が焼け死んでいく様を見たことの悲しい記憶。その記憶を口にする時、その人々の心は今でも押し潰されそうになるのです。大変な経験をした人たちが重い口を開き、涙ながらにその経験を語る時、心の傷口から今でも血がにじみ出て来ているような感じがします。また、元軍人の方たちが、加害者として自分がやってしまったことを語る時もまた、胸が突き破られるような痛みを感じていることがあります。人間の心に刻みつけられた傷の記憶は、五十年経とうが六十年経とうが、消えるものではありません。物忘れが激しくなっても、傷の記憶は残っている。ある季節が近づくたびに、その悲しみの傷が疼く。そういうことは、いくらでもあります。もちろん、故郷における美しい記憶、父母に愛された記憶、ただそれだけが残っているという場合もあるでしょう。そうであれば幸いです。しかし、逆である場合もしばしばある。憎んだ記憶、恨んだ記憶、憎まれた記憶、裏切られた記憶、その時についた心の傷がずっとどこかで疼いている。そういうことが、人間にはあります。

 兄弟たちの恐れ

 ヨセフの兄弟たち、彼らの心の奥底にはずっと疼いていることがあったのです。ヨセフは、四五章の段階で、自分たちの罪を認め、悔いているユダを初めとする兄弟たちにこう語りかけています。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 その後、「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。しかし、それで一件落着であったわけではない。その後、約十七年経っても兄弟たちの心の中の傷跡は消えてはいませんでした。そして、ヨセフを偏愛し続けたヤコブが死んだ時に、その傷跡からにわかに血がにじみ出てきている。"ヨセフの赦しは、父ヤコブが生きている間だけのことで、本当は赦してなんかいないのではないか?!"そういう恐れを、彼らは持っていました。
 今、彼らがいるのはエジプトの地です。その地では、ヨセフがファラオに次ぐ権力をもっており、ヨセフに出来ないことはありません。兄弟たちを追放することだって、奴隷にすることだって出来るのです。
 今とは逆に、もし、ヨセフを含めた兄弟全員がずーと故郷にいたとすれば、ヤコブが死ぬ時、兄弟たちはヨセフに対する積年の恨みを晴らしたでしょう。晴れ着を破り、殴る蹴るの暴行を加え、どうやって痛めつけてやるかじっくりと相談したかもしれません。しかし今、兄弟たちはエジプトにいて、ヨセフのお陰でファラオに特別待遇を受けている難民です。ヨセフの気持ち一つで天と地ほどの違いが出て来るのですから、彼らが必死になるのも無理はありません。

 人を介して

 彼らは四十年前にヨセフを死んだことにする策略を練った時も、「人を介して」ヤコブに伝えました。山羊の血に浸した血だらけのヨセフの服を、人を介してヤコブに見せたのです。そして、ヨセフが死んだと思いこませた上で、ヤコブとの対面をしました。その時と同じく、今回も、ヨセフに人を遣わしてこう言わせます。

「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」

 ヤコブが生前こういうことを本当に言ったのかどうかは、確かめようがありません。そして、それはある意味、どうでもよいことです。ヨセフは、ヤコブがこう言ったから赦すとか、言ったはずがないから赦さないとか、そういう次元では生きていないからです。ヨセフは、兄弟たちが、ずっと心の中に疼きを感じ続けていたこと、そして、こうやって人を介して、四十年前の自分たちの罪を赦して欲しいと伝えて来たことに涙を流しました。その心の中には、深い悲しみと喜び、憐れみと共感など、いくつもの思いが混在していたと思います。彼自身、整理も制御も出来なかったでしょう。古い傷口から血が噴き出して来るように、様々な思いが溢れてきて留めようがない。そういう状態だったと思います。

 神様がなさったこと

 そのような状態のヨセフの所に、兄弟たちがやって来ました。そして、ヨセフの前にひれ伏しました。この時から四十年前に、ヨセフは自分の前に兄弟たちがひれ伏す夢を見て、兄たちがどんな思いをするかを考えもせずに、その夢の内容を兄たちに語ったことがあります。その時から二十年以上を経て、エジプトの総理大臣になっていたヨセフの前に、それがヨセフだとも知らない兄弟たちが、食料を求めてひれ伏しました。その時、ヨセフは十七歳の頃に見た夢を思い出しました。それ以来、ヨセフはヤコブの家族全員が飢え死にしないで済むように努力してきたのです。そのような意味で、兄弟たちの命を救いました。しかし、それも神様がなさったことです。ヤコブの偏愛によって兄弟たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られたことも含めて、神様がなさったことなのです。ヨセフは、そう受け止めていました。
 しかし、神様の目的は、ヤコブの家族に食料を与えて命を救うことだけではありませんでした。自分がやったことが何であるかを兄弟たちが知り、罪を悔い改め、神の赦しを受けること、そして、ヨセフと兄弟たちが真実の和解をすること、そこに究極的な目的があるのです。ヨセフは、彼自身も時を経て知らされたこの神様の目的に向かって、これまでのすべてのことをやってきたと言ってよいと思います。
 そして、今、その目的が達せられようとしている。全く不思議な形で達せられようとしている。そのことに対する万感の思い、感謝と讃美、そういう抑え難い喜び、それもヨセフの涙の中にはあると思います。

 恐れることはありません

 兄弟たちは、ヨセフの前にひれ伏してこう言いました。
「このとおり、私どもはあなたの僕です。」
 ヨセフは答えました。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

 「多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」
というヨセフの言葉に関しては、先週の説教で語りました。命の救い、それはパンによって与えられるものではありません。神の口から出る一つ一つの言葉によって、私たちの命は生きるからです。そして、神の言葉とは、究極的にはイエス・キリストその方です。イエス・キリストがお語りになる言葉はすべて神の言葉であると同時に、イエス・キリストご自身が「神の言」なのです。その言(ことば)を、私たちはこの身に受け入れているのかいないのか、それが命を生きているかいないかの決定的な違いになります。
 ヨセフは、兄弟たちの自分に対する恐れを取り除きました。それは、恐れるべきは、体を殺しても魂を滅ぼすことが出来ない人間ではなく、神であることを知らせることによってです。
 先週も語りましたように、罪は人に対して犯しているだけではなく、究極的には神に対して犯していることです。罪を犯されているその神様が、その神様だけが、罪を裁くことがお出来になるのです。赦して生かすことも、赦さずに滅ぼすことも出来るのは、神様だけです。 その神様は、憐れみに満ちた神様です。己が罪を知り、悔い改める者を必ず赦してくださるお方なのです。ヨセフは、そのことを知っていました。そして、その神様、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」が、罪を悔い、ヨセフの前にひれ伏している兄弟の罪を赦しておられる。ヨセフはそのことを知っています。そうであるが故に、兄たちを慰め、優しく語りかけることが出来るのです。私たちは、誰も神に代わることはできず、神の使いとしてその使命を果たすことしか出来ないのですから。そして、それが出来れば十分なのです。ヨセフは、神様が与えておられる罪の赦しを告げるという使命を、ここで果たしているのだと思います。

 ヨセフの遺言

 その使命を果たしたヨセフは、この時から数十年を経た後に、兄たちよりも先に死の眠りにつくことになります。その時、父ヤコブと同様に遺言を残します。それこそが、彼に残された最後の使命だからです。

「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。
「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。


 この言葉で、創世記は終わります。
 「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。」
 ヨセフは、この言葉を繰り返します。神様に顧みて頂ける。それが、神に選ばれ、祝福されたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫に与えられた恵みです。神様からの約束を信じて生きる信仰の民に与えられた特権なのです。
 この「顧みる」と訳された言葉は、ヘブライ語ではパーカドと言います。「訪れる」と訳されることが多いと思いますが、「報いる」とか「罰する」とも訳される言葉でもあります。天にいます神が地にいる人間を訪れるのは、その人間に対して何らかの沙汰をする時だからです。今日の個所の場合、それは「あなたたちを、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上って下さる」ということです。

 あなたたち

 ここで「あなたたち」という言葉について少し考えておきたいと思います。
 ヨセフは、「そのときには、わたしの骨をここから携え上ってください」とも言っています。防腐処置をされた上でも、自分の遺体は骨になっていることを、ヨセフは予測しているのです。実際、イスラエルの民がエジプトを出て先祖に約束された地に向って旅立つのは、この時から、実に四百年後のことです。ということは、神様が顧みて、約束の地に導き上って下さる人々とは、今、ヨセフの目の前にいて「あなたたち」と言われている兄弟たちではなく、その子孫、それも何世代も後に生まれる子孫ということになります。ヨセフは、そのことを予測しつつも「神は必ずあなたたちを顧みてくださいます」と語るのです。それは、彼らが「アブラハムの子孫」だからです。アブラハムへの神様の約束を共に受けているからです。その点で、目の前にいる兄弟たちとその子孫は世代を超えて一体なのです。
 そして、私たちにおいてもそれは同じです。私たちは、ここで「あなたたち」と語りかけられている人間です。私たちもまた約束を信じる信仰において「アブラハムの子孫」であり、神様の「顧み」を受けている民だからです。しかし、主イエス・キリストを通して私たちに与えられた新しい約束は、この地上のどこかに導き上られることではなく、真の故郷である天に導き上げられることです。

 顧みる 訪れる 罰する

 そのことを踏まえた上で、パーカドという言葉の意味を考えていきたいと思います。この言葉は、「訪れる」を意味し、それは「報いる」ことでもあると言いました。神様は、善には善で、悪には悪で報いる。それが通常のことです。しかし、ヨセフは、兄弟たちがひれ伏して謝罪した時に、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」と言っています。神様が「悪には悪で報いる」のではなく、「悪を善に変え」てくださる。その神様が、いつか必ず兄弟たちを、あるいはその子孫を訪ねてくださる、顧みてくださると、ヨセフは確信をもって語ります。その言葉は、先ほども言いましたように、四百年後のエジプト脱出において目に見える形では一つの実現を見ます。しかし、事がそれで終わるのであれば、私たちにとっては何の関係もない話です。
 それでは、神様が訪ねてくださるとか、顧みてくださるとは、私たちにとっては、どういうことなのか?それが問題となります。
 そこで思い起こさねばならないのが、やはりアダムとエバの物語だと思います。彼らが蛇の唆しによって禁断の木の実を食べた後、エデンの園の中を神様が歩いて来る音が聞こえて、木の葉の陰に隠れる場面があります。パーカドが使われているわけではありません。しかし、事柄は同じです。神様が訪ねて来るということは、人間にとって恐ろしいことです。悔い改めを拒絶する罪人にとっては尚更です。それは、裁きであり、罰を与えられることを意味するからです。
 彼らを訪ねてきた神様は、「あなたはどこにいるのか」と問いかけ、また「あなたは何をしたのか」と問いかけました。しかし、彼らは自分が神様の愛と信頼を裏切ったことを認めませんでした。食べたことを認めても、それを「自分の罪」と認めないのです。「自分の罪」ではないのですから、悔い改めるはずもなく、赦しを乞い求めるはずもありません。結果、彼らはエデンの園を追放されました。
 ここで「あなた」と語りかけられているのも、私たちひとりひとりです。信仰においてアブラハムの子孫である私たちは、罪においてはアダムとエバの子孫であり、彼らと一体なのです。私たちは誰一人、「罪の支配」から自由ではありません。「義人はいない。一人もいない。」それは事実です。その罪人を、神が訪ねて来る。それは恐ろしいことです。
 しかし、ヨセフは兄弟たちに、「恐れることはありません」と言います。第一義的な意味では、ヨセフの恨みによる復讐を恐れる必要はないということです。何故恐れる必要がないのかと言うと、神様が兄弟たちの「悪」を「善」に変えて下さったからです。その神様が、訪れて下さるのであれば、それは恐れを呼び起こすものではなく、喜びと讃美を呼び起こすものだからです。しかし、それは私たちにとって、一体どういうことなのか?

 ザカリアの預言

 私たちは、来週の礼拝からルカによる福音書を読み始めます。来週は、信仰に生きて、そのことの故に天国に召された方たちを記念する召天者記念礼拝です。
 ルカ福音書の一章の終わりに、「訪れる」という言葉が二度も出てきます。それは、洗礼者ヨハネの父ザカリアの讃美、預言の中です。
 彼はヨハネが誕生した時に、こう言って讃美しました。飛ばしながら読みます。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
 主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、
 僕ダビデの家から起こされた。
 ・・・
 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
 ・・・
 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。  主に先立って行き、その道を整え、
 主の民に罪の赦しによる救いを
 知らせるからである。
 ・・・
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
 我らの歩みを平和の道に導く。」


 ここに二度「訪れる」という言葉が出てきます。神様がアブラハムに誓われた通り、主イエス・キリストを通して主の民を訪れて解放してくださる。その「解放」とは、本質的には異民族の支配からの解放ではなく、罪によって「暗闇と死の陰に座している」私たちを解放する、「罪の赦しによる救い」のことです。その「救い」を与えるために、これから誕生する主イエス・キリストは「あけぼのの光」のように私たちを訪れ、暗闇の中に生きる私たちを照らし、平和の道、つまり神と人、人と人との和解の道に導いて下さるのだ。ザカリアは、聖霊に満たされつつそう預言しています。

 和解の物語としての創世記

 振り返って見ると、創世記とは結局、人間の罪を赦して私たち人間と和解し、私たち人間同士を和解(平和)に導いて下さる神様の救いの物語だと思います。悪を善に変えるとは、究極的には、罪を赦すということですから。
 その罪の赦しを与えるために、決定的に大切なことは、私たちが自分の罪を認め、悔い改めて、神様に赦しを乞い求めることです。アダムもアブラハムもイサクもヤコブも、ヨセフとその兄弟たちにとっても問題の本質は同じなのです。兄弟たちは、最後に己が罪を悔い改め、赦しを乞うたのだし、そのことの故に、神様の顧みを受けることになるのです。そして、実は神様は既に赦して下さってもいるのです。そのことを信じることが出来なければ、赦しを乞い求めることだって出来ません。

 悔い改めよ

 今日、十月三一日は、私たちプロテスタント教会の信者にとっては決して忘れてはならない記念日です。それは宗教改革者マルティン・ルターが、一般には「九十五ヶ条の提題」として知られている文書を、一五一七年の今日、十月三一日にヴィッテンブルグ城教会の門に貼りだした日だからです。この文書が、世界史をも大きく変えることになる「宗教改革」を引き起こす発端になったのですけれど、その第一条はこういう文章です。

 「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい、(天国は近づいた)』と言われるとき、主は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」

 悔い改めとは、罪を悔いて、神の赦しを乞うことです。主の前にひれ伏すことです。ヨセフの兄弟たちがしたように、また主イエスの隣の十字架につけられた犯罪人がしたように、自分の罪を認め、赦しを乞うことなのです。ただ、そこにおいてのみ、天から地に訪れ、あの十字架に磔にされ、復活し、天に上げられた主イエス・キリストの「罪の赦しによる救い」にあずかることが出来るのです。
 全生涯を悔い改めに生きる。それは、後悔の繰り返しということではなく、「罪の赦しによる救い」を与えて下さる主イエスの前にひれ伏し、讃美しつつ、天に向かって歩み続けることです。
 神様は、私たちの悪を善に変えてくださいます。主イエス・キリストを通して、罪の値である死を命へと変えて下さったのです。その逆転は、主イエスの死と復活の中にあり、その主を信じる私たちの信仰の中にあります。
 しかし、忘れてはならないことは、肉として生きた主イエスは赦されなかったということです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びを上げつつ死んで行かれたのです。「暗闇と死の陰」の中に落ちて行かれたのです。私たちの罪が赦されるために、罪なき神の子が裁かれている。私たち罪人の罪を背負って有罪とされている。神の訪れとしての「罪の赦しによる救い」とは、この有罪としての死、無残な処刑による死、全身が血まみれになりながら渇きによって死んでいく死を抜きに与えられるものではありません。そういう絶望的な裁きを、天から地上に訪れた神の子がその身に引き受けて下さることによって与えられた恵みなのです。ただこのことを通して、神様は悪を善に変えて下さっているのです。神様がその太っ腹な心で、「よし、お前たちの罪を赦してやる」と宣言しておられるのではありません。本来裁かれるべきではない「正しい人」を裁くことで、裁かれるべき罪人を赦して下さったのです。私たちは、この恵みを信じるのです。だから、ルターは、恵みのみ、信仰のみと言ったのです。私たちは、この恵みを与えて下さった主イエス・キリストを信じてその御前にひれ伏すのです。ただ、その時にのみ、真実の意味で、「恐れることはない」という主の御言を聴くことが出来るのです。

 「恐れるな。わたしがあなたがたの罪を十字架で贖ったから。恐れるな。わたしは死の中から甦り、今、命の光として生きている。信じなさい。そして、生きなさい。天に向かって生きなさい。わたしは必ずあなたたちを顧み、その信仰に報いるから。」

 主イエスは、悔い改めと信仰をもって御前にひれ伏す者たちに、このように語りかけてくださいます。今日、この礼拝において、その語りかけを聴くことが出来る者は幸いです。天国は、その人たちのものだからです。
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