「万物と言」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章 1節〜 5節

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」



 ヨハネによる福音書をご一緒に読み始めて今日で3回目になります。今日は3節以下です。この段階では、毎回、少しずつ福音書の緒論的問題(執筆者とか時代とか目的とか文体の特徴など)を語りながら、本文の内容に入っていきたいと思います。前回は、この福音書が書かれた時代や著者に関して少し触れました。今日は、この福音書の文体、文学形態に関して少し触れた上で、内容に入っていきたいと思います。
 書物の中には、終わりを知ってしまえば最初から読む意味がなくなるというものは多いと思います。その書物を読むのは、未知の結末を知りたいからであって、それを知ってしまえば、もう興味が失せる。そういう書物はたくさんあるでしょう。しかし、聖書の場合、特に、ヨハネ福音書の場合はその逆で、結末を知らないと、それも本当の意味で深く知らないと、最初を読んでも分からないし、どこを読んで分からないのです。ヨハネ福音書の場合は、冒頭に既に結末がはっきりと記されています。そして、その結末はイエスという一人の人間を、「わたしの主、わたしの神」と信じる信仰を持っていなければ分からないことですから、その最初もまた信仰を持っていなければ分からない。物語は最後まで読まないと筋は分かりません。そして、この福音書も、ある意味では「伝記物語」という形式を取っています。しかし、この伝記物語を最後まで読んで「筋が分かった」としても、この福音書が言おうとしていることが分かったことにはなりません。そのレベルで「分かる」という言葉を使っても意味がないのです。信仰に至らなければ、何度読んでも分からないのです。
 ヨハネ福音書説教の第1回目に、学者としてはヨハネ福音書を専門としてこられた松永希久夫先生が天に召される数日前に仰ったことを皆さんにもご紹介しました。先生は、「聖書を書いた人はやっぱり一番よく分かっている人なんだ」と仰いました。この福音書を書いたヨハネという人が「分かっている」というレベルは、私たちがヨハネ福音書を一読して筋が分かるとか、何度も読んでかなり内容も分かってきたとか、そういうレベルの話ではありません。ヨハネがこの福音書を書いたのは、主イエスが地上を生き、そして、十字架に掛かって死に、復活し、昇天し、聖霊が降ってから数十年後のことです。その数十年間、聖例によって誕生したキリストの体なる教会は、命がけの信仰生活と伝道活動をしてきたのです。教会はイエスを「我が主、我が神」と告白することで生きてきたのですし、その告白をすることで死の危険にさらされてきたのです。その教会の中で生きてきたヨハネが、既に他の教会で書かれていたマルコ福音書とかマタイ福音書を知っていたかどうかは学者の間で議論が分かれますが、とにかく、彼は新聞記者のように目の前に起こっていることを時々刻々に書いているわけではありません。彼は十二弟子のようにイエス様と一緒に旅をした人物ではありません。主イエスがなさった御業やお語りになった言葉は、いずれも数十年も前の業であり言葉です。ですから、すべて過去形で書かれます。それが物語文学の基本的文体です。「昔ある所にイエスという名の大層お偉い方がおった。ある年のこと、都に上られて、そりゃー立派なお宮にお参りに行ったとさ。すると祈りの家であるはずのお宮の境内で、皆が売り買いしたり、飲み食いしているのを見て、えらい怒りなさったそうじゃ・・」みたいにすべて過去形で書くことが基本となります。
 そして、この福音書も基本的にそういう物語の文体で書かれています。しかし、福音書が他の伝記物語と決定的に違うところは、その物語の主人公が今も生きているということなのです。伝記物語は、大体は既に死んだ人間の記録を集めて、編集し、脚色し、現代の人にその人間の足跡とか業績を伝えることを、その目的としています。しかし、福音書物語は、その点で全く違う。この物語の主人公である主イエス・キリストは、聖霊において今も共に生きており、今も自分たちを生かし、その言をもって導いてくださっている。その言こそ、私たちの命であり、闇の世に輝く光である。その事実を証言し、一人でも多くの人間が、自分と同じように、主イエスを「我が神、我が主」として信じ、賛美する人間になって欲しい、主イエスとの命の交わりに生きる者となって欲しい。共に主を礼拝する者となって欲しい。そういう目的をもって、ヨハネはこの福音書を書いている。いや、聖霊の導きによって書かされている。本当の著者は、主イエスご自身なのです。ヨハネは、その手になっているだけ。あのマザーテレサの言葉を使えば、手というよりは「神の手の中にある鉛筆」になっているだけなのです。そういう今に生きる主イエス・キリストの臨在の中に巻き込まれて、主イエスを我が主、我が神と告白するに至る時、私たちは、この福音書が少し分かる。ほんの少しだけ分かるのだと思います。そして、何時でもどこでも誰の前でも、主イエスを我が神と信じ、主イエスのために生き続けるならば、この福音書の言葉がいかに真実であり、まさに光であり、命であることがよく分かってくる。そういうことだと思います。そういうとてつもない書物、また言に出会った喜び、そして、恐れ。その喜びと恐れを抱きつつ、この御言を共々に読んでいきたいと思います。
 今日の箇所に入っていきます。ヨハネ福音書の冒頭の言葉が、「初めに神は、天地を創造された」という言葉で始まる創世記冒頭の言葉に似ていることは誰もが感じることです。両方とも「初め」のことを語り、そこに神の存在と働き、言による御業があったことを告げていますし、光と闇に関する言葉も共通しているからです。さらに言えば、創世記一章もまた、一見すれば時間的な意味で天地の初めについて語っているようでありつつ、実は、時間を越えた世界の現実を証言しているのですし、その点でもヨハネ福音書と創世記は同じだと思います。天地創造物語が言わんとしていること、それは神様がすべての創造主であるということです。神様がその言によって造られた最初のものは「光」であった。その光とは太陽から発せられる光ではない。つまり、目に見える光ではない光です。それじゃ何だ?と聞かれても、私は言葉でそれを説明は出来ません。その光がなければ私たちが生きていくことが出来ない光。地上の生物体が太陽光なくして生きていくことが出来ないのと同じように、神の像に似せて造られた私たち人間が、人間として生きていく上でどうしても必要な光。神様は、そういう命の光から天地万物を創造された。その光を失う時、私たち人間は、肉体は生きていても人としては人としての命は死んでしまう。その光を失う時、この世は闇に覆われ、私たちは死に覆われる。そういうメッセージがここにはあります。そして、それは直接的にはこの文書が書かれた時代に生きている人々、多分、バビロン帝国に捕らえ移されて捕囚生活を送っている惨めなイスラエルの民と、世界帝国の国民であるということで奢り高ぶっているバビロン人に対するメッセージです。しかし、そのメッセージは、時代を越え、国境を越えて、現代の日本に生きる私たちへのメッセージにもなっているのです。極めて限定された時代の中で、極めて限定された人々に向けて語られ、書かれた言葉が、時代と国境を越えて語り伝えられ、書き記され、書き写され、翻訳され続けて、今も生きる神の言として全世界で読まれ、語られている。そして、今、私たちもまたその言を聞くために、この礼拝堂に集まっている。この世を生きているだけでは決して聞くことが出来ない言を聞くために集まっているのです。
 ヨハネ福音書の冒頭部分は「ロゴス賛歌」とも呼ばれています。ギリシャ語で「言」のことをロゴスと言うからですが、ここでの言・ロゴスは所謂「言葉」でないことは言うまでもありません。つまり、思いを伝えたり考えを伝えたりという情報伝達の手段としての言葉ではなく、初めから存在し、神と共にあり、それ自身神である言です。その言・ロゴスを賛美しているのです。私たちの礼拝においても、礼拝の前半と最後に「讃詠」と「頌栄」という讃美が置かれています。それは「昔いまし、今いまし、永久にいます神」、父・子・聖霊なる三位一体の神を賛美する歌です。このヨハネ福音書も、その最初と最後において、初めからおられ、ある一時、肉となって私たちの間に宿られ、今は霊において共に生きてくださる御子イエス・キリストを「我が主、我が神」と信じ告白しつつ讃美しているのです。
 そして、今日の箇所である3節においては、「万物は言によって成った」と言って、讃美している。これもまた、大昔の天地創造の出来事を言いながら、あるいは言っているようでありながら、実は、今のことを言っているのです。それは、その先を読むだけでもすぐに分かります。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 「命があった」「光であった」「理解しなかった」という過去形の中に、突然「光は暗闇の中で輝いている」という現在形が出てきます。万物の創造という永遠の昔の出来事を語りつつ、その時にあった命の光は、今、「暗闇の中で輝いている」と、突然、ヨハネの生きている時代の現実を語るのです。そして、その現実は、2000年近くを経た、現代の世界における現実でもあるのです。その現実を書きたくて、彼は福音書を書いているのです。だから、私たちもその現実に触れ、その中で生かされないと、この福音書が分からないのです。
創世記の書き出しに、神が「光あれ」と言われると「光があった」とあります。旧約聖書はヘブル語で書かれています。そのヘブル語で「言葉」は「ダーバール」と言います。そして、このダーバールは、「言葉」という意味と同時に「出来事」とか「行為」という意味も持っているのです。特に、神様が何かをお語りになると、それは出来事となりますから、このダーバールという言葉は「行い」「行為」という意味も持つことになるのです。「光あれ」という神様の言葉は、そのまま光を造るという創造行為になる。神様はまさに言行一致なのです。ですから、ドイツの文豪ゲーテは、このヨハネ福音書の書き出しを「初めに行いがあった」と訳したそうです。あるいは、「初めに救いの出来事があった」と訳す人もいます。また、お配りしてあります資料にありますように、言を人格化して「はじめに言がいた」と訳している翻訳聖書もある。この「言がいた」という訳は、天地創造の最初から神の子キリストは先在(先に存在していたという意味)していたということを表現したいわけです。そのキリストによって万物は造られた。資料の中に、新約聖書におけるキリストと創造に関する言葉をいくつか抜粋しておきました(Tコリント8・6、エフェソ2・10、コロサイ1・13〜22、ヘブライ1・1〜4)。そのいずれも万物の創造の際にキリストがおられ、万物はキリストによって造られたと語っています。しかし、そこで語られている大事なことは、神の御子キリストが、先在のキリスト、三位一体の神の一つの位格(人格とは言えないので、位格という)「子なる神」であるということと同時に、私たち人間がそのキリストによって造られた存在であり、特にキリスト者はあらゆる意味でそうなのだということです。
 あげてある文章の中で、特にコロサイの信徒への手紙を見ておきたいと思います。少し長いのですが、お読みします。

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」

  私たち人間は、そもそも御子によって、御子のために造られたのです。しかし、その私たちは、罪によって神と敵対する間柄になってしまった。つまり、私たちが本来与えられていた神に似せて造られた姿を失い、光から闇へ、命から死へと転落してしまったのです。それは、すべて私たちの側の責任であり、私たちが自ら神の如くなろうとして高ぶり、自ら裁きを招いてしまったのです。しかし、神様は、そういう私たちを憐れんで下さり、愛する独り子を世に降らせ、その御子を十字架につけ、その血によって罪の贖いとし、私たちの罪を赦して下さいました。そして、御子の十字架の死が、私たちの罪の贖い、赦しのためであることを信じ、御子が復活されたことを信じる者には、「聖にして、きずのない、とがめるところのない」新しい命を与えて下さるのです。そういう現実、教会の礼拝において起こり続ける現実が、ここに書かれているのです。「万物の創造」は同時に「万物の救済」なのです。そして、その中心にあるのが、「人間の創造」であり「人間の救済」なのです。そして、神様の創造の御業、救済の御業、それはすべての「初め」に御子と共に始まり、2000年前に、御子の十字架の死と復活、聖霊降臨によって一新され、以後、今もなお歴史を貫いて全世界的で継続しているのだ。聖書が語っていることは、そういうことです。
 先日、月に一回の牧師研修会がありました。主に聖書の読み方を勉強し、さらにそこで知らされたことをどうやって説教するか、あるいは、それはどうすると説教になるのか、という問題を共に学んでいるのです。先日は、マルコによる福音書の所謂「主イエスの湖上歩行」の場面がテキストでした。夕方から明け方までガリラヤ湖の上で向かい風に煽られて、いくらオールをこいでも前進できない弟子たちに向かって、主イエスが湖の上を歩いて近づいてくる。その主イエスを見て、弟子たちが幽霊だと思って脅える。そういう弟子たちに向かって、主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、舟に乗り込まれると、風が静まるという出来事が記されています。この文書を色々と勉強しながら読んでいくと、これは一見「自然奇跡物語」のようでありながら、実は、「神顕現」(神がご自身を啓示する。現す)の話であることが分かるのです。旧約聖書の言葉遣いとか様々な事例を検討すると、マルコは、「旧約聖書の神様が今イエス様においてご自身を現している。イエス様こそが神なのだと言っている」ということが分かってくるのです。すると、ある牧師が、「正直言って、それが分かっても、それがどうした?!と思ってしまう」と仰ったのです。実に正直なことでして、これは私もしょっちゅう思うことです。この箇所は、イエス様が神様だ、と言っているんだ。それは分かった。勉強したから分かった。しかし、その分かったことを説教で語ればよいのかと言うと、そんなことはないのです。前回も言いましたように、教会は学校ではなく、礼拝は授業ではありません。そして、牧師は慣例的に「先生」と呼ばれていますが、いわゆる学者でも教師でもありません。いや、ある程度は学者でも教師でもあるべきかもしれませんが、それがすべてではないのです。牧師もまた罪人であり、そして、信者なのです。その罪人として、信者として、今日も、この礼拝を通して、今に生きる神としての主イエスの現臨に触れ、恐れ戦き、罪を悔い改め、御子の十字架の血によって罪を清められ、復活の命に与って、聖なる、きずのない、とがめるところのない者にして頂かなければ、礼拝の意味などどこにもないのです。その点で、ここにいる私たちは皆同じです。
 しかし、それでは説教が説教になるために、勉強以外に何が出来るのか?あるいは何が起こる必要があるのか?人間が書き記した言葉を、神の言として聴き、人間がその聴いた神の言を語り、その言葉が神の言として聴かれるということには、一体何が必要なのか?
 ある学者が、ヨハネ福音書冒頭の言葉に関して、こんなことを書いていました。少し面倒な言い方ですが、読みます。

「すなわち『光』が到来した時、その時初めて、それまで事実として創造神とのあるべき関係から失われていた現実世界のありようが『闇』として見え始めたのである。『光』の到来について語り得るところでだけ、同時に『闇』について語ることができる。『その光は闇の中にあって輝いている』の現在形は、『光』と『闇』のこの同時性に彩られた著者の現状認識を言い表すものに他ならない。」

 要するに、ここで言っていることは、光がこなければ闇があったとしても闇と認識できないということです。光が来たからこそ闇が闇として分かるのです。つまり、神様は私たちをご自身の姿に似せて造ってくださったのに、私たちは自ら神の如くになろうとし、自分本位に、自己中心に生きていて、神様と人との愛の交わりを自ら破壊し、自ら死の闇を作り出していることは、光が到来するとき、光に曝されるときにこそ分かるのです。
 私は礼拝が始まる前にこの講壇の後ろで、司式者、奏楽者と共に祈ります。その時、私だけでなく司式者も奏楽者も、はっきりと言葉にする場合が多いのですが、「罪を赦してください」と祈ります。罪を赦していただかないと、これから始まる礼拝の中でご奉仕が出来ないと恐れるからです。神様の前に出て、主イエス・キリストの光に曝されるということを実感する時に、それまで気づかなかった、気づこうともしなかった、自分の罪、闇の思いや行いを知らされ、恐れるのです。私たちの三人ともが、日々、自分の罪をこれほど自覚し、赦しを乞うているとは思えません。少なくとも私は違います。もちろん、毎日、僅かではあっても聖書の言葉は読みますし、祈ります。その中に罪の赦しの祈りがないわけではない。しかし、いよいよ礼拝が始まる時、その祈りは切実なものとなります。
牧師である私の場合、礼拝に備えて集中的に聖書を読み、勉強して分かる段階まではとにかく勉強し、聖書が言わんとしていることが知的には分かっても、「だからどうした?!」という閉塞感の中で悶々とし、祈っていく中で、次第に御言が語らんとしていることが聞こえてき、見えてくる時があります。それは理屈ではなく、また単なる教義でもなく、主イエスがこのわたしの罪の赦しのために十字架に掛かって死んで下さったという事実が見えてくる時ですし、その主イエス・キリストが今も生きておられて、印刷された聖書の言葉を通して、語りかけてくださっていることが分かる時です。その時、私は自分が犯した罪、犯している罪の数々を思い出していき、また見させれていきます。遠い過去の罪、近い過去の罪、今現在の罪、普段思い出したくもないことですし、見ないように気づかないようにしていることです。自己肯定、自己絶対化の思いの中で自らを美化していることは多々ありますし、もう開き直っているような愚かな自分もいる。それらすべてのことが、主イエスの義の眼差しから見れば、どれほど醜悪で恐ろしい思いであり、罪であるかが見えてくる。主イエスの義、そして、主イエスの愛の眼差しの中に自分がいることが分かる時、主イエスから見える自分の姿が見える時、私は初めて自分の罪を見つめることができるし、自分の罪を認めることができる。主イエスに対しては。主イエスが私の罪のために十字架に掛かって死んで下さった。その主イエスが復活され、そして、天に昇られ、今も、私のために神の右の座で執り成してくださっている。そして、今日も罪を赦し、汚れた者を聖なる者として、きずのない、とがめるところのない者として造り替えて下さろうとしている。牧師である私の場合は、その喜ばしい福音を礼拝の中で語る者として用いて下さっている。そういう喜びに心震わせる時、翌日の礼拝は、本当に心から待ち遠しい礼拝となります。それは、まさに御言の光が私を照らして私の闇が見え始める時、そして、その闇の中に、命の光である主イエスが輝いてくださる時、印刷されている聖書の言葉は、私の中で、神の言、命の言、光の言となります。それは、厳しく、辛く、そして感謝と賛美が沸き起こる時です。そして、その時を、皆さんと共に、この礼拝の中で、ご一緒に味わい、主を賛美する。それが、私にとっての礼拝です。
 皆さんも毎週こうして礼拝に来ていらっしゃるのですが、それは、ここでしか聞けない言を聞きに来ていらっしゃるのです。そして、ここでしか聞けない言とは、万物を造る言葉であり、万物を救う言葉であり、それは命の言であり、光です。
 この光の前に立つ。ただその時に、私たちは闇の中に生きていたことを知るのです。この世で生きていて、皆さんは毎日、自分がどうしようもない罪人だなどと思っておられないだろうと思います。この世は闇なんですから、闇の中を生きていたって、それが闇であることすら分からないのです。闇が闇であることが分かるのは、光が輝くときです。光に曝されるときです。礼拝は、その時です。この礼拝の中で、皆さんは、キリスト教とか聖書の知識を学んでいるのではなく、光に曝されて、自分の罪深さを嫌というほど知らされるのです。知らされなければ駄目なんです。その罪の深さを知らされれば知らされるほど、その罪を赦すために神様と御子イエス・キリストが何をしてくださったかも深く深く知ることが出来るからです。ただそのことを知らせるため、分からせるために、聖霊の導きの中で、誰よりもよく自分の罪深さを知り、誰よりも深く主イエスを通して示された神の愛を知ったヨハネは、ただ聖霊の導きよって、この福音書を賛美をもって書き始めたのです。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 「あなたも言によって造られているのです。キリストが、あなたのために十字架に掛かって死んで下さいました。そして、あなたの罪を、神は赦して下さいました。このキリストを信じなさい。そうすれば、あなたは闇から光へと移されます。死から命へと移されます。新しい人間に造り替えられます。」  これが、今日、私たちが聴くべき「言」だと思います。
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