「光は暗闇の中に輝いている」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章 1節〜 5節

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」



 先月の16日からヨハネによる福音書を読み始め、今日で4回目となりました。これまでにこの福音書の主題や、書かれた時代、文体などに触れつつ4節までの御言に聴いてまいりました。今日は5節です。
 ヨハネ福音書の冒頭部分を読んで、私たちが分からないなりにも本能的に感じとっているであろうことは、「たしかに闇というほかにないものがこの世の中にある。それは私たち人間の心の奥底にもある」ということであり、同時に「闇があるのであれば、光もある、なければやっていけない」ということではないでしょうか。しかし、光とは何であり、それはどのようにして存在しているのか、さらにその光と私たちとの関係はどういうものであるのか。その点については、さっぱり分からない。大体、そういうことが現実なのではないでしょうか。
 闇の現実とは、例えばどういうものか?今は連日マンションやホテルなどの耐震構造設計偽造疑惑が報じられています。これもまた、自分以外の人間の命をどう見るかという問題だと思います。誰だって、自分が住むマンションとか泊まるホテルを震度五程度の地震が来たらペシャンコになるかもしれないような設計図を描き、それに基づいて施工することはしないでしょう。しかし、住んだり泊まったりするのが赤の他人であれば、私たちは目先の利益のために、人を死に至らしめるかもしれないことをしてしまう。最初は呵責に苦しみながらやっても、次からは習い性となり、平気で繰り返す。それは、人間の心の中に消えることなく存在する深い闇、罪のなせる業です。この闇、罪から自由な人間、「私にはそんなものはない」と言える人間はいないのです。いや、言える人間がいたとしても、それはその人間が自分はそうだと思っているだけで、実際にそうであるわけではありません。主観的事実と客観的事実は違うのです。
 また、見るのも読むのも嫌なので詳しくは知りませんが、幼い少女が学校帰りに殺されてしまう。そういう無残な事件も、後を絶ちません。少女を殺す人間、そして、そういう人間が生きている社会、そういう人間を生み出すこの世が存在し続けています。私は今、クリスマスに向けていくつものことを準備し始めているのですが、その準備の一つとして、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を殺す命令を下すヘロデ大王の心の中にある深い闇を見つめるということがあります。また王の命令であれば、泣き叫ぶ母親の腕の中から幼子を取り上げ、そのいたいけな幼子たちを剣で刺し殺してしまう兵士たちの心の中にある恐るべき闇を見つめる。ヘロデは、自分の子供も殺す人間です。しかし、兵士たちは自分の子供は殺さない。他人の子だから殺す、殺せるのです。ヘロデの心の中にある不安、怒り、妬み、恐怖、憎しみ、悲しみ、敵意、猜疑心、また兵士たちの心の中にある不安、怒り、屈辱、傲慢・・・・を見つめていき、そのすべてのものが自分の心の中にあることを見つめていく。それは本当に厳しいことです。そして、そういう闇を自らの心の内に抱えながら、この闇の世を生きていく理由を探すことは困難なことです。ですから、惰性に任せて、見ざる聞かざるの姿勢で、刹那的な楽しみを求めて生きていく。ただ、そのようにして肉体の命を永らえさせていくことしか出来ない。そして、結局、最後は死ぬ。完全な闇の中に呑み込まれていく。その空しさを思いますと、胸が押し潰されそうになります。一体どこに希望の光があるのか、命の光があるのか。人間が自らを奮い立たせるために自ら輝かす町のイルミネーションのようなものではなく、作り物ではない本当の光、命の光、闇に負けることの無い光、それは一体どこにあるのか?その光に照らされて、その命に生かされて生きるとはどういうことなのか?
 このヨハネ福音書の問題は、そういう問題だと思います。この福音書は、その問題に真正面から取り組み、そして答えてくれる福音書だと思います。しかし、その答えを受け取るとはどういうことなのか。
 五世紀のキリスト教会において活躍し、その後のキリスト教に大きな痕跡を残したアウグスティヌスという巨大な人物がいます。その人がヨハネ福音書の説教を124回やっています。その記録が有り難いことに本になっていて、私はこれからずっと読み続けることになりますが、その第一回目の説教は、こういう書き出しです。
 彼の説教の前に彼自身かあるいは誰か司式者が、ヨハネ福音書と併せて使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙一の言葉を読んだのでしょう。それを受けてアウグスティヌスはこう語り始めます。

「わたしたちは今、使徒の手紙を朗読したところであるが、『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。』(Tコリント2・14)との言葉を聞いて、これに心をとめている。思うに、ここに集まっておられる愛の会衆の中には、今も肉に従って知るだけで、霊的な知へと立ち上がることが出来ない大勢の『自然の人』がいるのは当然であろう。そこでこの福音書の中で読んだことば、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』(1・1)を、わたしはいったいどのようにして主が許し給うままに語り、わたしの分に応じて解き明かすことができるかとひどく恐れを覚えている。たしかに自然の人はこのことばを受け入れないからである。兄弟たち、いったいどうしたらよいだろうか。わたしたちはそのために沈黙すべきだろうか。しかし沈黙するならば、どうして〔声を出して〕読むことが出来るだろうか。また解き明かしがなければ、どうして聞いて〔理解する〕だろうか。そして、理解されないならば、何のために解き明かしがなされるのだろうか。
 とはいえ、あなたがた大勢の中には、解き明かされたことをとらえるだけでなく、解き明かす前に理解することの出来る人々がいることも疑われない。わたしはそのような能力をもつ人々を裏切ることはしないだろう。しかしそのため、とらえ得ない人々の耳には役立たない者となることをわたしは恐れている。それゆえ、神の憐れみが臨んで、すべての人が満足し、誰もができる限りのことを受け取ってくれるように。語る者も自らできる限りで語るからである。いったいだれが〔真理を〕あるがままに語りうるであろうか。
 兄弟たち、ヨハネもまた〔真理を〕あるがままに語ったのではあるまいと、わたしは敢えて言う。彼もまた自分にできる限りで語ったのである。なぜなら人が神について語ったのであるが、彼は神から霊感を受けていたとはいえ、人だったからである。彼は霊感を受けたゆえに語った。もし霊感を受けなかったならば、何も語らなかったに違いない。しかし彼は、人として霊感を受けたのであるから、存在するもののすべてを語ったのではなく、人にできる限りのことを語ったのである。」


 ここでアウグスティヌスが語っていることは、厳密に言えば、ヨハネ福音書に限ったことではなく、聖書全巻すべての言に当てはまることです。私たち人間が「自然の人」として生きている限り、神の霊に属することは分からないし、受け入れることができないのです。聖書に書かれていることは、神のことです。それは人が神から霊感を与えられて、つまり、聖霊を与えられ、神様の御心を知らされて初めて書けることです。そのようにして書かれた言葉を、神様の言として受け入れること、理解することは、自然の人が自然の人のままでいくら勉強しようと出来ることではありません。神様からの霊感を受けなければ、神様のことは何も書かれず、また霊感を受けなければ何も語られず、そして霊感を受けなければ、書かれたことも語られたことも理解されないのです。神様の霊に属すること、神様の言、それはそういうものです。霊感を受けた霊の人にされない限り、神様のことは分かりません。あるいは、聖霊を受け、その聖霊の導きの中に生きている時にしか分からないのです。
 私は「自然の人」のひとりとして、気がつけば肉にしたがって考え、不安と怒りと諦めとの中で惰性的に生きてしまいます。そういう私が、しかし、日曜日の礼拝ごとに神様の言葉を取り次ぐ、あるいは解き明かすために立たなければならない。いつもそのプレッシャーの中で不安を抱えていますけれど、神様の言を取り次ぎ、解き明かすために、私なりに努力をします。読んでもよく分からない本を読んだりもする。しかし、そういう努力で知ることは、誰だって努力をすれば知れること、つまり、知的な事柄です。知的な事柄も多少は大事です。しかし、主の日の礼拝で語られなければならないことは、自然的人間の知性によって知ることができる言ではなく、霊的な言、神の言です。その言、あるいは真理を、自然の人間、肉に従って生きている人間が受けとめ、語り、聴き取るためには聖霊が必要です。聖霊を受け、その聖霊の導きによって御言の世界を垣間見させていただく、その語りかけを聞かせていただく、そのことが私と皆さんすべてにおいて起こりますようにと祈りつつ準備をし、そして語らせていただく以外にありません。
 問題は、冒頭から言っております私たちの心の中にある、そして社会を覆っている闇と、どこにあるかが分からない、しかし、それがなければ神に造られた人間として生きていくことが出来ない光です。
 前回少し触れたことですが、1節から5節までの間に、一箇所だけ現在形で書かれている所があります。それは、今日の説教題でもありますけれど、「光は暗闇の中で輝いている」という言葉です。この言葉だけが、すべて過去形で書かれている中で現在形なのです。この現在形は、ヨハネがこの福音書を書いている時点で存在しているものがあるということを示しているのですが、それは同時に、今日私たちがこの言葉を聞いている今日も存在しているものです。他の過去形は、ヨハネが書いている時点から見た過去の出来事です。それは世界の初めである天地創造の出来事ですから当然のことです。しかし、すべてのものがこれによって成った言の中にある命の光、それは天地創造の時にあっただけでなく、ヨハネの時代も、そして今も人間を照らす光として暗闇の中に輝いている。そのことを現しているのです。しかし、5節の最後に、もう一度過去形に戻って、「暗闇は光を理解しなかった」とあります。
 今日はこの事実が何を私たちに語りかけてくるのかをご一緒に聞き取って行きたいと願っています。  「暗闇は光を理解しなかった。」これはかつて私たちが礼拝で用いていた口語訳聖書においては「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」となっています。「理解しなかった」と「勝たなかった」では大違いですが、言語はカタランバノーという言葉です。ある人物を「捕りおさえる」という意味があり、同時に理性で「捉える」「把握する」という意味もあります。前者であれば、それは取り押さえる方が強いわけですから「勝った」とか「負けた」とかいう意味になりますし、後者だと、「理解した」とか「分かった」という意味になります。理性で把握すると言うのも、ある面では手中に収めたということですから、勝利を暗示すると言ってよいでしょう。
私たち人間の根源的欲望は神のようになりたい、神を捉え、その力を手中にしたいということです。富や権力を手にしたいということも、実は、そういう根源的欲望から出てくることです。その欲望、罪の力に捕らえられて、私たちはその奴隷として生きてしまう。そして、自ら闇を作り出し、その闇の中で自分が何をしているかも分からずに死の滅びに向かって行ってしまう場合があります。つい先日、ホームレスの方に暴行を加えて殺した無職の少年が、その仲間に「人の一生を終わらせることは楽しい」と言っていたと報道されていました。人の一生を終わらせることに喜びを感じるというのも、神様だけが持っている権限を手中にしたいという恐るべき罪がもたらす絶望的な喜びです。自分が抱え持っている惨めな無力感の裏返しとして、自分よりも弱く惨めな者を取り押さえ、その命までも奪える力を自分がもっていることを確認する喜び。それは、エバが蛇に「これを食べれば神のようになれる」と唆された時に感じた暗くよどんだ喜びです。
 こういう喜びへの誘い、それは深くどす黒い闇の中へのいざないです。そういういざないをする闇の力が、いつも私たちを狙っている。これは世の終わりまで続く現在形だと思います。「光は暗闇の中で輝いている。」この現在形は、光が今も輝いているというだけでなく、闇は今もあるということを意味しますから。
 そして、先程のカタランバノーという言葉の使われ方を調べていましたら、こういう箇所と出会いました。ヨハネ福音書12章35節以下です。そこには、こうあります。

「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」

 ここにも光と闇という二つの言葉が出てきます。そして、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」の「追いつかれる」という言葉が、カタランバノーです。つまり、暗闇に捕まってしまう、取り押さえられてしまう、支配されてしまう、手中に落ちて、意のままに扱われてしまうということです。主イエスは、「そうならないように、光のあるうちに歩きなさい」と仰る。何故なら、「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」これも現在形です。いつの時代のどんな人間においてもこれは事実だからです。
誰だって、「なんであんな事をやってしまったのだろう、何故あんなことを言ってしまったのか」と後悔することをしたことがあるはずです。しかし、「その時、あるいはその数ヶ月、数年間、何十年間、自分は全く何も見えていなかった。まさに闇雲に生きていただけ。自分が何処からきて何処へ行くのかも知らず、また今何処にいるのかも分からず、ただ人が言ったりやったりすることを真似しながらやっていただけ。時代に取り残されないように、人から除け者にされないように、一歩でも二歩でも先んじて、成功しようと必死になってやっていただけ。でも、それは何も見えない暗闇の中で右往左往していただけなのだ。世の闇の中で、欲望に取り押さえられて、醜いものを美しいものと思い、刹那的なものを永遠と思い、思い返すと惨めこの上ない歩みをしていた。」そう気づく時があります。それは惨めな瞬間です。しかし、その瞬間を与えられることなく、実際は惨めなのに、その事実を知らないでいる方が、主観的には惨めではないにしても、客観的にはもっともっと惨めです。その惨めさを過去の現実としているのか、今の現実でもあるのか?それは決定的に違うことです。パウロが言うところの「自然の人」とは、主観的には惨めさを知らず、闇の中で、訳も分からずに流され生きている人のことです。この「自然の人」が死ぬということが起こらない限り、「霊の人」が誕生するということも起こらないのです。
 ヨハネ福音書の冒頭に記されていることが、神の言、「光あれ」という言に始まった天地創造、つまりすべての最初の出来事であることは明らかです。しかし、その最初に既にあった言、命、光が、今もある「暗闇の中で輝いている」と言われる時、つまり、現在形で言われる時、そこで何が言われているのか。それが問題になります。ある人は、こんなことを言っています。
 「このヨハネ福音書の冒頭は世界の創造を告げつつ、同時に、イエスがその世界の創造の際に既に命としてまた光としており、世界創造に参与したことを告げている。さらに、それだけではなく、キリスト者の創造も告げているのだ。」
 これは全くその通りだと思います。ヨハネ福音書は1節から18節までがプロローグであり、それは同時にエピローグ、つまり結末でもあるのですが、そこで告げられていることは、世界の創造の際に既に命として光として存在していた言が、「世に来て、すべての人を照らす」ということです。そして、その言は「自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた」のです。命の光としての言、それは神の御子イエス・キリストのことです。この方が、世界を新しく創造するために、そして、その世界に生きる「自然の人」を「霊の人」に造り替える為に、「罪の奴隷」を「神の僕」に、「闇の子」を「光の子」に造り替える為に、ご自身をあの十字架につけ、一度、罪と死の闇の中に葬られつつ三日目に死人の中から甦り、私たちを取り押さえ、手中に収めている罪と死に完全に勝利をして下さったのです。その勝利の事実、それはヨハネがこの福音書を書いた時点から数十年も前に確定し、ヨハネの時点においても現在形の事実であり、それから1900年以上も経った今現在も現在形の事実なのです。そして、その事実を聞いて信じることが出来る者、それは神から霊感を受けた者です。聖霊の注ぎを受けた者だけが、福音書に記されている勝利の福音を理解し、信じることが出来るのです。そして、その信仰は、自然の人の死を意味します。罪の奴隷としての自分の死、闇の子としての自分が死ぬのです。そうでなければ、新しく霊の人、神の僕、光の子として生まれ、その命を生きることは出来ません。イエス・キリストの十字架の死と復活を通して与えられる命は、古き自分の死を通してしか生きることは出来ないからです。
 先程の12章の続きを読んでみると、42節にこう書かれています。

「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間の誉れを好んだのである。」

 信仰も中途半端だと、こういうものなのです。命の光として世に来てくださり、罪と死の闇の中で何処に行くのかも分からぬままにうごめき、最後は闇に呑み込まれる他にない私たちを、光の子として生まれ変わらせてくださる十字架と復活の主イエス・キリスト、ただこの方を信じ、この方にのみ従い、この方のために生きる時に、私たちは神様からの誉れ、神様からの栄光を与えられます。このイエス・キリストこそ神の独り子であり父なる神様を現す唯一のお方だからです。この方を信じ、神を信じて生きる時に、私たちは罪と死に勝利をし、輝く光に照らされ、その光を反射する光の子となることが出来るのです。そして、主イエスは今日も、私たちの只中に立って、こう言ってくださるのです。その先の44節以下を読みます。

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光としてこの世に来た。」
「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」


 今、私が読んだこの言葉、それは今、主イエス・キリストが、私たちに語りかけた言葉です。この主イエスの言葉が聖霊の働きの中で神の言として皆様の心に響き、信仰を与えてくださいますように祈ります。
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