「光の証人の生と死」

及川 信

                    ヨハネによる福音書1章 6節〜13節

 

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

(ヨハネ1章 6節〜 8節)

 前回は、新約聖書の最後、ヨハネの黙示録の言葉を読みました。今日は、旧約聖書の最後の言葉を読むことから始めたいと思います。マラキ書3章23節〜24節を読みます。

「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」

 天地創造の開始を告げる言葉で始まる旧約聖書は、この言葉によって終わります。大いなる恐るべき主の日の到来を告げる言葉で終わり、新約聖書へと繋がっています。大いなる恐るべき主の日、それは主なる神様の審判の日ということですが、その日をもたらす前に、主なる神は、かつての預言者エリヤを遣わして、人々の心を父に向けさせる。つまり悔い改めさせる。そのことが無ければ、大いなる主の日は闇に覆われた、罪に支配された地にとって破滅の日になるからだ。それがここで言われている預言であります。
そして、新しい契約の書である新約聖書の最初に置かれている四つの福音書のすべてが、神の独り子主イエスが宣教活動を始める前に、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネがキリスト(メシア)の到来を告げ、その方が来られる前に罪を悔い改めるように人々に迫ったということが記されています。彼は、わたしの後にメシアが来る。そのメシアが来る前に自分の罪を悔い改めなさいと告げ、悔い改めた者に悔い改めの徴のバプテスマを授けていたのです。つまり、新約聖書、キリスト教会は、ヨハネこそ預言されたエリヤであると理解しているのです。
 そして、ヨハネによる福音書の特色は、ヨハネとイエス様の活動の時期が一時期重なっており、ヨハネの弟子だった人が主イエスの弟子になったり、主イエスとその弟子たちがヨハネと同時期に別の場所で洗礼を授けていて、多くの人々が主イエスから洗礼を受けるために流れていって、ヨハネの弟子が憤慨する記事が出ていることです。
 ヨハネ福音書に関する専門書を読んでいて分かることは、福音書が書かれた当時(紀元一世紀の末頃)、既に殺されているバプテスマのヨハネの弟子たちが多数存在し、ヨハネ教団というべきものが活発に活動していたという事実です。そして、当時に書かれた手紙の中にこういう記述が残っているそうです。 「見よ、ヨハネの弟子の一人が、イエスではなく、ヨハネがキリストだと主張していた。」
 他の福音書を見ても、主イエスが弟子たちに、「人々は私のことを誰と言っているのか」とお尋ねになった時、弟子たちは真っ先に、「洗礼者ヨハネだ」という人がいると答えていることは、皆様もよくご存知のことだと思います。つまり、直前にヘロデに殺されたヨハネが生まれ変わって、イエスの姿で活動していると考えた人もいたということです。それほどに、バプテスマのヨハネという人は人々に圧倒的な印象を残したのです。

  「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

「神から遣わされた一人の人がいた」と訳されていますが、この「いた」という言葉を読むと、「初めに言があった」の「あった」と同じ、英語ではbe動詞と呼ばれる言葉のように思えますが、実際には「出てきた」とか「現われた」「来た」という言葉で、この少し前の三節「万物は言によって成った」の「成った」と同じ言葉です。最初からいたのではなく、「神から遣わされて一人の人が闇の世に出て来た。その人の名はヨハネ」ということだと思います。最初から世にいたわけでなく、特定の時期に特定の使命を果たすため神から遣わされて来た人間としてヨハネを紹介しているのだと思います。また、神の派遣に応えて、ヨハネは世に来た。そういうことだと思います。
「遣わす」「派遣する」。これは必ず目的があります。何の目的もなく「行け」ということはあり得ません。聖書は、この6節から8節で三度も、「証しをするため」と繰り返しているのです。「証しをする」「証言をする」。この言葉を調べてみると、ヨハネ福音書には何度も出てくる言葉なのです。「証しをする。」 それでは、何について証しをするのか。「光を証しするため。」そして、すべての人が彼によって信じるようになるため、彼は光ではなく、光について証しをするために来た、のです。ただそのことのために彼は出て来た、遣わされた。この箇所は、そのことを明確に断言しています。
証しを聴く、証しを聞いて「イエスはキリストである」、「イエスは命の光である」「独り子なる神である」「救い主である」、そう信じる者は、神の子となる資格が与えられる。救われる。実は、これがヨハネ福音書全体のメッセージなのです。ヨハネ福音書そのものがキリストを証言している、キリストを証ししている。この方こそ、神である、主である。そう証ししているのです。そして、その証しというものは、ヨハネ福音書の特有の言葉を使えば、闇と光を分けていく。そして、命と死を分けていくのです。この証し、証言を聞いて信じる者は命に生かされるし、聴いても信じない者は死の闇の中に留まる。「あなたは、イエスをあなたの救い主、独り子なる神と信じますか」「それとも信じませんか。」「あなたは、この方を独り子なる救い主と信じて、神の子とされ、永遠に生きる者となりますか。それとも闇の世の子として滅びの中に飲み込まれて行きますか。」これが、証しを聴く者が突きつけられる問いであります。証言を聴く者が突きつけられる問いなのです。ヨハネ福音書を読むということは、いつもその問いの前に立ち、応答を迫られるということなのです。この問いの前に立ち応答を迫られることなく「読む」ということはあり得ません。もし、これを読んでも何の問いも感じず、応答も迫られていないと思うなら、それは読んでいないということです。「見れども見ず、聴けども聴かない」ということに過ぎません。私たちはいつも、このヨハネ福音書を開いて読む度に、その問いの前に立たされ、応答をするか否かを迫られます。
私たちキリスト者は、誰でも誰かからキリスト証言を聴いて、あるいは信仰の証しを聴いて、「信じます」と告白をしてキリスト者になったのであります。そのことは否定できないのです。私たちは証言を聴いて信じると告白をし、洗礼を受けたのです。
パウロがローマの信徒への手紙の中で、こう言っています。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 その通りです。その前に、こう言っています。

「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」

 本当にその通りです。

「また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができようか。」

 まさに、その通り。そして、

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができようか。『よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」

 「アーメン」と言う以外にありません。信仰は聴くことから始まります。しかし、宣べ伝える者がいなければ、どうしてキリストの言葉を聞くことが出来ましょうか。宣べ伝える者とは派遣された者です。派遣され、その使命を果たす者の足は美しい。神に祝福されているからです。
しかし、宣べ伝える者、つまり証言者も、証言者からキリストの言葉を聴く者も、勘違いをしてはいけないのは、証言者そのものは光ではないということです。しばしば「私が信仰を持つことが出来たのは〇〇先生のお陰」だとか「〇〇さんのお陰」という言葉を聞きます。それはたしかにそうなのですから、〇〇先生とか〇〇さんに感謝をするのは、当然ですし、また結構なことです。しかし、そういう感謝が行き過ぎるというか、間違った方向に行きますと、神様のことを教え、証言してくださったその人をまるで神様であるかのように敬ってしまう場合があります。師を尊敬するあまり、自分たちとは質の違う人間であるかのように思ってしまう、思いたがる、そういう傾向があります。しかし、その先生とか先輩を遣わした神様にこそ感謝を捧げなければ、それは本末転倒です。最近は、圧倒的な尊敬を受けるカリスマ的な人物はいませんし、かつてのような深い子弟関係も希薄になりましたから、良くも悪くもそういう傾向が弱まりましたが、以前は、「〇〇先生から導きを受け、洗礼を受けました」とかいうことを誇らしげに言ったりすることがありました。しかし、それが一体どうした、ということです。私たちは父子聖霊なる神の名によって洗礼を受けました。その事実が残ればよいのです。
ヨハネ自身は自分が光ではない。そのことを、誰よりも深く知っていました。この先を読みますと、15節にはこうあります。

「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。』」

 「私よりも先におられた方」、それは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、この方だから。比較も何も出来ないと、彼は言っているのです。
 さらにその先一九説以下を読みますと、「ヨハネは一体誰なのか」ということで、エルサレムから遣わされて来た人が、「あなたはどなたなのですか」と質問した時に、ヨハネははっきりと、「私はメシアではない」と答えました。問う者たちの心の中に、「あなたはメシアなのですか」という思いがあるからです。「では何ですか。あなたはエリヤですか」。ヨハネは「違う」と答える。「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答える。「エリヤ」とか「あの預言者」とは、この場合、メシア的な存在のことなのです。

「それでは一体誰なのです?」

 ヨハネは答えました。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」


 「わたしは声だ。」「声」というものは、見ることが出来るものではありません。「私を見るのではない」と言っているのと同じことです。「私の証言を聴いて欲しい」と言っているのです。そのヨハネが、こう言うのです。29節を読みます。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」

 「私を見るのではない。この方を見なさい。この方は、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネは、こう叫びました。
 先日、二年ぶりだと思いますが、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」の合唱を聞く機会がありました。その「メサイア」の中にも、ヨハネの証言が出ています。これはミサ曲に必ず出てくるものですが、ラテン語で「アニュス・デイ」と呼ばれます。それは、「神の小羊」という意味です。
 メサイアは、聖書の言葉を繋げていって、キリスト(メシア)誕生の預言、誕生、苦難、十字架の死、復活、そして世の終わりにおけるキリストの再臨と天国の完成を歌い上げた壮大なものであります。その中で、このヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉が出てきます。その後に、どういう言葉が出てくるのか。それは、イザヤ書五三章の『苦難の僕』の言葉なのです。
私は、受付で配られた英語と日本語の対訳を読みつつ曲を聴いていたのですが、ちょっと虚を衝かれた感じだったのは、そこには英語で「Behold the Lamb of God, that taketh away the sin of the world(ビホールド ザ ラム オヴ ゴッド ザット テイク アウェイ ザ スィン オヴ ザ ワールド」とありました。take away(テイク アウェイ)というと、私たちの罪を受け取って、遠くまで運んで行き、そこで捨ててしまうという感じがあるように思ったのです。「世の罪」とは「人の罪」ということであり、それは具体的には「私の罪」なのですが、その私の罪を神の小羊が全部取り去って、遠くに持って行って捨ててしまう。それが神の小羊だ、そういうふうにヨハネは言っているのか?そう思ってから、イザヤ書の言葉を読み続けました。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。」
「打とうとする者には背中をまかせ、髭を抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに嘲りと唾をうけた。」
「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」


 そして、メサイアには出てこないのですが、続きはこうなっています。

「苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。」

「目を留めよ、よく見よ、これほどの悲しみがあったろうか。」(哀歌)
「わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。」


「命ある者の地から断たれた。」この「命ある者の地から断たれる」という言葉が、メサイアの歌詞ではHe was cut off out of the land of the living.(ヒー ワズ カット オフ アウト オヴ ザ リヴィング)となっていました。これも珍しい訳ではありませんが、この英訳だと「命ある者の地から切り取られてしまい、ゴミのようにその外に捨てられる」という感じがあると思います。そういうことなんだ。メサイアの歌詞を見て、「ああ、そういうことなんだ」と思ったことは、「私たちの罪を一人で背負い、主イエスはとぼとぼと町の外にある屠り場まで行き、私たちの罪をそこに捨てるために、実はご自分が切り落とされて、捨てられちゃうんだ。私たちの罪を全部、その身に負って屠り場に捨てるために、イエス・キリスト自身が切り落とされ。捨てられる。そういうことか。私たち見るべきものは、そういう神の小羊なんだ。その神の小羊の姿を見るべきなのだ。この言葉を聴いて。」
 メサイアを聴きながら、この聖書の言葉を読む中で、私には、鮮明に、十字架に向かう主イエスの姿が見えてきました。そして、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」「すべて成し遂げられた」と、あの十字架の上で仰った主イエスの姿が見えてきました。そして、心が痛み、神の前にも人の前にも顔を上げ得ない罪を犯してきた、この私が、しかし、今なお生かされ、ただ単に肉体を生かされているだけでなく、日曜日には主イエスを証言する者として、「主イエスこそ神の小羊である、私たちの罪の贖い主である、キリストである、救い主、独り子なる神である」と証しする者として用いられることの恵みを思いました。そして、しかし実は、罪人だからこそ、主イエスの赦しを、神の愛を証言することに用いられるのだし、だからこそ、この贖われた命を、そのことのために捧げなければならない。そのことが求められ、そのことが許されている恵みをさらに思いました。
 証言者とは、証言した内容が、聴いた人間に伝われば、それで使命が終わります。つまり、証言を聴いた人が、キリストを信じる信仰を与えられれば、その証言の目的は達せられたのですから、証言者の使命は終わります。消えればよいのです。
アウグスティヌスやバルトという有名な人が書き残した物を読んでいたら、こういう言葉がありました。
「太陽が昇るにつれて、人はその光に照らされて、もう山頂を見ることはなくなる。」
私は、それを読んで非常に深く心打たれました。私は松本の牧師をしていた頃、趣味と実益をかねて朝早く起きてアルヴァイトをしていた時期が数年あります。松本というのは東は美ヶ原という二千メートル近い山があり、西に三千メートル近い北アルプスに挟まれた盆地です。ですから、太陽は、東の山に遮られて、なかなかその姿を見せません。しかし、明け方近く、それまで真っ暗だった空が青くなります。その時、それまでは見えなかった、東西の大きな山々が真っ黒な姿を現します。それからちょっとすると、北アルプス連峰の白銀に覆われた頂き部分がうっすらとピンク色に染まります。白銀に太陽の光が当たるからです。それからはもう三十秒ごとかと思うほどに、音もなく静かに、ピンク色の部分が帯状に頂きから山肌に沿って下がって行き、色はピンクからダイダイ色に変わって行きます。町にいる私には太陽の姿(光)は見えませんが、山頂を見ると太陽が東の山の向こうには昇っていることが分かります。そして、太陽が昇るにつれて、太陽そのものが見えなくてもピンクの帯は山肌の下のほうにさがっていき、そして、美ヶ原の山頂に太陽の光が見えた時には、もうアルプス全体が真っ白に輝いており、もう山頂を見ることはありません。証言者とは、そういうものだ。アウグスティヌスやバルトは、そう語り、私もそう思います。自分が輝くわけでなし、自分は光を反射するだけ、そして、それもこれからやって来る光を反射する存在なのだというのです。そして、光が来れば、その使命を終える。
牧師は、神から召命を受けて、光について証しするために教会に派遣されています。そして、そのためにこの説教壇に立ちます。キリストの福音、十字架の死による罪の贖いと、復活によって与えられる神の子としての新しい命があるのだという福音を告げ、「悔い改めて福音を信じなさい」と告げるのが、牧師の務めです。
そして、この講談に立つ時に、私は皆さんの視線を感じ、それが怖いですから、最初の十秒くらいはとにかく下を向いています。しかし、話し始めると、べつに怖くなくなりますから、こうやって皆さんのほうを見る。キリストのことを証言し始めれば、恐れは取り除かれます。そして、キリストの言葉が語られると、最初私のほうを見ていた皆さんはむしろ、罪を暴かれて下を向き始める。あるいは疲れて眠り始める。しかし、説教の最後は、結局、いつも十字架と復活の主イエスの恵み、そこに現れる罪の赦し、神の愛を語るのだし、十字架と復活の主イエスを証言するのです。そして、そのキリストの証言を聴いて信じることが出来る人は、私たちの罪を取り去って捨ててしまわれた、ご自分が切り取られ、捨てられることで、私たちの罪を捨ててくださった御子を見上げるでしょう。そして、甦り、天において全能の父なる神の右に座しておられる主イエスを見上げて礼拝するでしょう。説教の最初は人間の話を聞いていた人々が、終わりには神の言を聴いて、主イエスを礼拝し、神を賛美する。そういうことが起こる。神に遣わされた者が、聖霊の導きの中で、ただキリストの言葉を語り、そして神に招かれた者が、聖霊の導きの中で、人が語る言葉、声を通してキリストの言葉を聴くときに、礼拝が起こる。声を聴いて、神の小羊なる主イエスを見るということが起こります。
その時に、証言者の使命は終わります。私自身は、この教会においては説教後も、この講壇の上にいなければなりませんし、皆さんのほうを向いて立っていますが、説教の後は、皆さんと共に上なる神に賛美を捧げ、皆さんと共に使徒信条を告白して信仰を捧げ、献身の徴として献金を捧げます。
冒頭にも言いましたけれど、ヨハネは、人々が主イエスのもとに続々と集まっていると聞いたときに、それを告げた人は憤慨して告げたのですが、ヨハネはこう言ったのです。

「わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」「衰える」とは、低くなる、小さくなるという意味です。主イエスが大きくなっていき、私は小さくなっていく。自分の証言が聴かれて、人々が主イエスを礼拝しに行く。キリストを敬いに行く。自分がそのために用いられた後、人の前では小さく、低くなり、最後は見えなくなればよい。ただキリストだけが見えればよい。そのための「声」として来たのだから。私もまた跪き、感謝し、賛美を捧げることができる喜び。それが証言者の喜びだと思います。そして、その喜びは、ヨハネのような特別な存在にだけ与えられる喜びではないのです。
 1章の35節以下、新共同訳聖書では、「最初の弟子たち」という表題がついています。その後は、「フィリポとナタナエル、弟子となる」とあります。少し読んで行きたいと思います。

「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」

 ヨハネの証言を聴いて、ヨハネの弟子が、イエスの弟子になって行くのです。そして、二人の弟子はイエス様と一緒に泊まり、そのうちの一人、アンデレが自分の兄弟であるシモン・ペトロに「わたしたちはメシアに出会った」と言うのです。あの方はメシアだと証言する。そして、ペトロをイエス様のところに連れて行くのです。そのようにして、ペトロはイエス様の弟子になっていくのです。
 ヨハネの証言を聴いた弟子たちが、イエスの弟子となり、今度は証言をする者となり、その証言を聴いた者がまたイエスの弟子となる。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

 フィリポが言っていることは、旧約聖書において預言されていたメシアに出会ったということです。この証言を聴いて、ナタナエルもイエス様に会いに来て、

「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」

 という信仰の告白をする者となる。フィリポはナタナエルに「来て、見なさい」と言ったのです。この言葉によって、ナタナエルは信仰告白に導かれていったのです。「礼拝に来て見なさい。」これは、私たちの誰もが言える言葉です。彼らは普通の人です。そして、その人々が聴いて、信じた時、証言者になる。その証言者の証言を聴いて信じる者が生まれてくるのです。聴いて信じた者は、キリストの証言者として派遣されるからです。
 「証言だなんて、とんでもない。私には出来ません。私はただの信徒です」と思われるかもしれません。しかし、1章の12節に「その名を信じる人には、神の子となる資格が与えられる」とあります。この「なる」も「神から遣わされた一人の人がいた」の「いた」と同じで、礼拝を通して、神の力によって神の子として造られる、神の子となるのです。だから礼拝の最後に、私たちは祝福をもって派遣されるのです。「平和のうちにこの世に出て行きなさい」と派遣されるのです。「主なる神を愛し、隣人に仕え、主なる神に仕え、隣人を愛して」キリストを証ししなさいということです。主が共にいてくださるという祝福を受けて、キリストを通して示された父の愛を証しするのです。
 私にとっての証し、それは母教会の人たちです。子供のときから青年に至るまで、そして今に至るまで、ずっと教会の礼拝を守っている人たちの姿、それが私にとっての証しです。その人たちは、私にはよく分からないし、分かったと思えたときには少しもよい説教ではないと思う父の説教を聴いて、神の愛を信じ、礼拝をしているのです。その事実を否定してはいけないと思いました。この方たちは、私にキリストを証ししているという意識はないでしょう。しかし、私はその方たちの姿を通して、神の愛、キリストが今も生きて働いていることの徴を見せていただきました。
 また、ルターは讃美歌は会衆の説教だと言いました。先日の幼児祝福式のときに、皆さんが歌った「主われを愛す」。あの賛美の声はまことに力強いものでした。あの賛美の声が祝福される幼子たち、またその家族にとっては、大きな証し、キリストの愛の証しになったことは間違いありません。
 また、皆さんがこうやって暑い日も寒い日も礼拝に出かける。神様の言葉を聴きたくて、そして十字架の主イエスの姿を見、復活の主イエスと出会い、再臨の主イエスを待ち望むこの礼拝に出かける。そして、喜びと感謝に満ちた顔で家に帰る時、そして、これらかの一週間の歩みを始める時、それはご家族にとって、また職場の方にとって、また出会うすべての人にとって神の愛の証言になります。キリストの言葉を聴いて、信仰と望みと愛に生きる、それが光の証人の生です。
 そして、この証人としての生を生きた者は、その使命が終われば、命の光に飲み込まれて見えなくなるのです。証言をし続けたキリストの命に包み込まれていくのです。それでいい。それがいいのです。
 最後に、ヨハネとは違って、主イエスの十字架と復活の後に、偉大な証言者として立てられた罪人の頭、パウロの言葉を読んで終わりたいと思います。

「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

 ここにもまた、「光の証人の生と死」の姿があります。
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