「信仰と不信仰・生と死」

及川 信

                    ヨハネによる福音書1章 6節〜13節

 

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」



 恐らく、私たちの誰もが感じていることだと思うのですが、人間というのは、実に複雑にして奥が深い存在だと思います。「自分」というものの中に、実はいくつもの「自分」がいます。意識できる自分もいますけれど、自分では意識できない部分もたしかに自分の中に存在します。そして、意識できる部分だって多重的ですから、表面的な意識と、もう一つ奥にある意識は全く違うことを考えていることはしばしばですし、さらにもっと奥底には普段自分では全く意識していない無意識の意識というものもある。そして、何気ない行動とか、知らず知らずのうちに出てくる行動パターンは、無自覚の意識に支配されている場合が多いものです。
 目や口は目の前にある甘いものを食べたいと思っているけれど、太り過ぎないようにとか血糖値がどうとか思っている自分もいて、甘い物が入る所は別腹だとか、いやそんな腹があるはずがないとか、とにかくいろいろな事を考えたあげく、結局、弱い自分がいて、欲望という意識が勝つ。これも、一人の「自分」の中で起こる現実です。
 また、私たちは欲していることと必要なことの区別がつかない場合が多いものです。欲しているものは実は少しも必要ではなかったり、本当は必要なものを少しも欲していなかったりする。だから、何を手に入れても、いつも欲求不満が残っており、その不満をどこにぶつけたら良いのか分からず、時に非常な暴力となってそれが爆発する場合もあります。何を求めたら良いのかも分からない。それは惨めなことです。

  「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

 言は最初からあり、その言によって万物は成り、その言の内に命があり、その命は人間を照らす光である。そして、光は闇の中で輝いているけれども、闇はその光を理解しない。しかし、光は闇の中で今も輝き続けている。それが五節までの流れです。
今日の箇所は九節以下ですが、万物を造ったその光が、世に来てすべての人を照らそうとしている。しかし、世は、その光を認めず、受け入れない。つまり、それが何であるかを知らず、結局、拒絶したということです。本当に必要なものが目の前に来たのに、それを理解せず、認めることが出来ず、必要とせず、自分の欲求にしたがって生きている。その結果が拒絶であり、さらには抹殺なのです。しかし、実は、言、命、光を理解せず、拒絶し、抹殺することで、私たちは自分自身を拒絶し、抹殺しているのです。
 最近のニュースは、何を見ても、本来あってはならないことだらけですが、親が子を殺すとか、子が親を殺すということは、その中でも最たるもののように思います。今年の六月に、板橋区の高校一年生の男の子が、マンション管理人であった両親を殺して、部屋を爆発させて逃げるという事件がありました。その第二回目の公判が先日あって、新聞に弁護側の弁論の一部が掲載されていました。その事件が起こった当時は、前日に、父親に頭をつかまれて前後に強く振られながら、「お前は馬鹿だ。俺とお前では頭の出来が違う」と侮辱されたことが「殺さなければ」と思った直接の動機だということが報道されていました。しかし、先日の報道によると、その少年は幼いころ犬が入れられていたダンボールの中に無理やり入れられたり、大きなトカゲのイグアナとか三メートルもある大蛇を部屋に放し飼いにされて、その部屋で暮らさせられたり、高校に入学した後、父親に『完全自殺マニュアル』という本を手渡されたりもしたと言っているそうです。さらに、自分が持っているゲーム機などは何度も壊され、マンションの掃除などをやらされるのに、父親はパソコンのゲームで遊んでいたりしており、家庭は虐待を受ける場でしかなかったと言っている。もし、それが事実である場合、こういう虐待をする父親の中に、幼少時に何らかの意味で親から虐待を受けた悲しい記憶と痛みがあるでしょう。そして、その悲しい記憶や傷を自分の子供を虐待することで癒そうとするという無意識の衝動があると思います。しかし、その親は、自分で自覚できる意識としては教育をしているつもりなのだと思います。私たちは誰でも、自分がそんな悲しい衝動によって行動しているとは思いたくないものです。しかし、自覚的には教育しているつもりのことが、子供の心を傷つけた上に殺すことであり、それは結局、子供によって自分自身が殺されることになってしまった。誰も、そんな結果が待っているとは自覚としては思っていない。しかし、自分が何をしているか、何を考えているのかを認めることが出来ず、自分の存在を受け入れることが出来ない人間は、本来、愛する対象として生まれてきた子供でさえ、理解できず、拒絶し、虐待することをしてしまう。そして、拒絶し、虐待した相手、つまり精神的には抹殺した相手から抹殺されてしまうという悲しい現実がいくつもあります。
 しかし、その逆のケースもある。もう二ヶ月以上も前に何気なく見ていたテレビ番組のことなので記憶が定かではないのですが、ある若い女性歌手のこれまでの人生を振り返るという番組がありました。彼女が生まれたとき、母親は重い病気にかかってしまい、また恐らく結婚はしていなかったのでしょう。独りでは育てられないので、泣く泣く施設にその子を預けたのです。その女の子は施設で三歳まで育ちましたが、子どものいない夫婦に引き取られ、実子として愛されて育てられてきた。その家は、会社を経営する裕福な家だったのですが、ご主人が突然病気で死んでしまい、結局、破産に追い込まれ、母親と二人で貧しい暮らしを始める。それは中学生の頃のことなのですが、その時に、戸籍を見ることがあって、自分が両親の実子ではないことが分かるのです。それはやはり激しいショックを彼女にもたらしました。彼女自身は、今となっては養父母と言わざるを得ない両親から愛されてきたことを少しも疑う必要はなく、心から感謝しているのです。そして、施設から引き取ったことを言えなかった両親を責める気持ちもない。でも、どうしても自分を生んでくれた親に会いたいとも思うのです。養父母を否定するとか、恨むとか、そんなことではないのですが、しかし、人間としてはどうしても実の親を知りたい、会いたいのです。そして、親がなぜ自分を育てることが出来なかったかを知りたい。その後、自分が歌うと養母が喜ぶので歌い続け、結局、歌手デビューまでするのですが、時を同じくして養母も亡くなってしまう。その後、彼女は自分が育った施設を探し、自分を育ててくれた職員と会い、自分の母親が、自分を生んですぐに重い病気にかかってしまい、どうしても一人で育てることが出来ず、泣き泣き施設に預けたということを知らされます。そして、その子の名前は「愛」という名前なのですが、その名前も実母がつけてくれた名前であることを知るのです。母親が自分を愛していた徴として、人を愛して生きる人間になってほしいという母の願いとして、彼女はその名前を受け止めます。その時、彼女は自分の目では見たことがない母親の腕の中で自分が抱きしめられていた自分を確認することが出来ました。そして、一切のわだかまりを捨て去ることが出来、自分自身を受け入れることが出来、新しい自分になることが出来たと言います。そして、今は時間があれば、自分が育った施設に行き、その子供たちに夢をもって、愛を信じて生きてほしいと語りかけ、自分が作った歌を聴かせたりもしている。そういう話でした。
 人間は、自分の命の出所、あるいは根拠を求めて止まない存在です。最近は技術の発達によって試験管の中で受精させて代理母を通して子供が誕生するということがありますが、そのようにして生まれた子供が、実際の精子と卵子の提供者、それが肉体という意味では実の親なのですが、その親と会いたいという願いを持ち、その権利があるはずだと主張しているという報道もありました。
 自分の命の出所である実の親に、自分に対する愛が欠片もないと思った子供は自分の人生、その命を否定せざるを得ないし、自分の存在を否定する親を否定せざるを得ないでしょう。自分の命の出所である実の親が、実は自分を愛していたのだと知った子供、そして、育ての親からも愛されてきた子は、愛を信じ、愛を歌うことが出来るでしょう。自分の実の親たちは見知らぬ者同士であり、それぞれお金を得て精子や卵子を提供し、自分の受精卵は試験管の中で作られたと知り、何をしても子供がほしかった夫婦に愛情をもって育てられたのだと知った子供は、実の親と会いたいと願う。そして、何を言いたいのでしょうか。それは、本人にも分からないのではないでしょうか。人にはそれぞれ人に言えないだけでなく、自分自身でも分からない思いが存在の奥底にあるものです。
「ヨハネ福音書」を読むということ、これはやはり物凄く大変なことだと今更ながらに思います。それは、自分が出来る限りのことですが、その存在の奥底を見つめることだからです。そうであるが故にでしょうが、多くの人がこの福音書に捕らえられ、ここに出てくる言葉と格闘しながらたくさんの書物を残しています。とても読み切れるものではありませんが、その中の一つに、こういう言葉がありました。

「世はその創造の由来からして、イエスを探す。しかし、出会うことがない。世はイエスを欲しないにもかかわらず、イエスを求めるのであり、そこに絶えざる不安と焦燥が生まれるのである。」
伊吹 雄『ヨハネ福音書注解』(知泉書館)

「世はその創造の由来からして、イエスを探す」と言われる。これは「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」「世は言によって成った」という言葉が前提になっています。そして、この言とは神の独り子イエス・キリストのことである。これが前提です。このイエス・キリストによって万物は成った、命を与えられた。そう言っているのです。私たちは生まれたその時には、自覚としては何もないのですが、母の匂いを求め、その乳房を求めるのです。そういうふうに造られているのです。自分を生んでくれた存在を求め、その愛を求めるように私たちは造られている。これは、自覚を超えた事実、存在の奥底にある事実です。それと同じように、自覚として知っていようといまいと、万物の一つである私たち人間は、自覚を越えてイエス・キリストを探し求めているのです。それは、イエス・キリストによって造られた命にとって不可欠なことなのです。命は、自分を造ったものを求めるのです。その命の生みの親との交わりが必要だからです。命は、その親から愛されることによって、その本来の姿で生きるのです。しかし、愚かしいことに、そして、恐ろしいことに、世は、つまり、私たち人間は本当に必要なものを無意識のうちに、その存在の根底において求めているのに、意識、あるいは自覚のレベルでは、必要ではないものをそれこそが必要なものであるかのように錯覚し、食べなくても死ぬわけではないケーキを欲したり、飲まなくても死ぬわけではない酒やジュースを欲している。そして、本当の命の糧、命の水を欲しない。その根源においては、無意識のうちにイエスを求め、イエスを探しながら、出会うことが出来ない。だから、何を食べ、何を飲んでも、また何を手にしても、いつも不安と焦燥に駆られ、飢えと渇きに駆られ、さらにどうでもよいものを貪欲に求め続けてしまう。そして、結局、死に向かって行く。これが「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という言葉が言い表している現実ではないでしょうか。
 この箇所を読みながら、しきりに思い出したのは、主イエスがお語りになった「放蕩息子」の譬話です。裕福な父のもとで、愛されて育ち、物質的にも何不自由なく暮らしていた二人息子のうちの弟の方が、父の愛よりも、息子としての身分よりも、自由に面白おかしく暮らしたほうが自分らしいと思って、本来、父が死んだ後貰うべき財産をすべて金に換えて出て行ってしまうという話です。息子は、自分が欲しているものが、自分にとって必要なものだと思ったのでしょう。しかし、その考え方が悲劇をもたらす。子を愛する親に悲劇をもたらします。しかし、何よりも思い違いをして身を持ち崩し、精神を痛めつけ、取り返しのつかない過ちをしてしまう子自身に悲劇をもたらすのです。しかし、私たちはその人生の中で、何らかの仕方で、また何らかの程度で、こういう悲劇を作り出し、自分を愛してくれる人に味わわせ、そして自らも味わうものなのではないでしょうか。
 しかし、私たちの存在の奥底にあるDNAは、やはり神に似せて造られた人間としてのそれですから、存在の奥底においては、切実に神を、その愛を必要として呻いているのです。
 その呻きを自覚する時、人は神の声、それまでも実は語りかけられていた声に耳を傾け始めるのかもしれません。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 放蕩息子は、町に出てすべての悪い遊びを覚えて、酒と遊女と博打とであっという間に父の遺産を食い潰しました。そして、ついに豚が食べるいなご豆を食べたいと願うほどにまで落ちぶれていったのです。その時の弟息子のことを、主イエスはこう仰っています。

「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」

 ここで息子が「我に返る」という言葉があります。これはよい翻訳だと思いますが、直訳すれば、「彼自身の所に来た」あるいは「彼自身の所に行った」という言葉です。原語は、エルコマイというギリシャ語です。これは「行く」とも「来る」とも訳せる言葉で、英語の聖書ではほとんどHe came to himselfと訳されています。「本来の彼自身に帰ってきた」とも言えるでしょう。彼は自分の欲求に従って思う存分生きてきたわけで、そういう意味ではまさに充実した人生を生きてきたのです。しかし、実はその根源において、彼自身から離れていたのです。その「彼自身」とは、父に愛され、父を愛して生きる子供としての彼自身です。その彼自身の中にこそ、彼の元来の命があるのです。しかし、かつての彼はそうは思わなかった。彼の欲求に従って生きるところに、彼の命の充実があると思っていたのです。しかし、彼の場合、豚の餌を食べたいほどに落ちぶれた時に、彼自身に立ち返る契機を得ることが出来ました。人によっては全く逆に、貧乏な生活から脱出して、この世的な大成功をつかんだその時に、本来の自分自身を見失っていたことに気づき、愕然とするという場合もあるでしょう。落ちぶれるだけが本来の自分に気づく契機ではあり得ません。その契機はいつ何時どのようにしてやってくるか、私たちには分からないのです。
とにかく、この息子は、豚が食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思ったのに、誰も食べ物をくれる人がない。その時に、心の中で我に返った、彼自身の所に帰ってきたのです。しかし、心の中で我に返ったところで、彼は最早「息子」と呼ばれる資格はありません。自らその身分を捨てたのです。彼は息子の身分を捨てたことで、父をも捨てたのです。捨てられたのは父です。しかし、実は、そのことで彼は、彼自身を捨ててしまった。捨てたものは取り返すことは出来ません。けれど、彼の子供としての存在の奥底には、なんとかして父の許に帰りたいという欲求、本当の必要が渦巻いている。その本当の必要に気づいたとき、彼は雇い人の一人としてでもよいから、父の家に入れてもらいたいと願ったのです。
彼はそこを立ち、彼の「父親のものに行き」ました。この「行く」と「我に返る」の「返る」とは同じ言葉です。父親の許に「行く」こと、それは父の許に「帰る」ことであり、それが本来の彼に「帰る」こと、彼自身の所に「来る」ことなのです。
 残された問題は、父が彼を迎え入れてくれるかどうかです。彼に否定され、財産を奪われ、さらに捨てられた父が、彼をどうするか。それが問題です。
 私は今、時間を見つけては、一生懸命にテープ起こしをしています。それは、今年の十月に召された松永希久夫先生が中渋谷教会で一九九四年から九五年にかけて、毎月一回語ってくださった十回分講演録です。主題は「新約聖書における教会形成」というものですが、実に壮大なスケールを持った連続講演です。この講演で語られたことを自分たちのものとしていくことが、今、私たちが「教会形成のための一〇年ヴィジョン」の中で取り組んでいる「聖餐の食卓を囲む共同体」形成に必要不可欠だと思っています。また、全国の教会にとっても必要なことだと確信しましたので、出版する方向で作業を進めています。来年度内には形になればよいのですが、その講演の中で、松永先生は主イエスの譬話の特色について語っています。先生は、主イエスの譬話の特色の一つは聞き手の決断を促すところにあると言った後、実は語り手の決断もあるのだと仰いました。そして、放蕩息子の譬話を引用してこうお語りになっています。

「父なる神と放蕩息子である人間との関係が回復されるために、別のところで犯された罪を帳消しにする存在があるのです。そういう罪の贖いがあって初めて息子の責任を問わないで、息子を赦すことが出来るのです。ですから、イエスが人間の罪を自分の十字架において贖うという決断抜きには、このたとえ話は真理性をもってこないのです。イエスの十字架による贖いが含まれているから、放蕩息子の悔い改めが本当の意味での悔い改めに結びついていくわけです。」

 私も、そう思います。弟息子が帰って来たとき、父親は、まだ家から遠いところにいた息子を先に見つけ出し、家を飛び出していきました。年老いた父親が、息子を目指して走るのです。これは、イエス様ご自身の姿だと思います。譬話の中では父だけれど、それはヨハネ福音書においては、ご自分によって成った「世に来た言」、イエス様のことです。天の父の家から地上に肉を持って下ってきた言。そのイエス様が、威厳も誇りもかなぐり捨てて、罪を犯した息子を抱きしめるために家を飛び出した父の愛の現実の姿だと思います。父は、罪を悔い改めて帰ってきた息子の資格を失った人間を、全く新しく息子として迎え入れる徴として指輪をはめさせ、最もよい服を着せ、履物を履かせて家に迎え入れ、大宴会を催したのです。そして、こう言った。

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

 この譬話を語るイエス様は、罪によって死んでいたこの息子を生き返らせるために十字架に架かって死に、遠く離れていなくなっていた息子を見つけ出すために、天の家から飛び出して、肉をもって世に下ってきてくださったのです。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 「この言葉の背後には洗礼式が隠れている」と、あると学者は言います。そうだと思います。洗礼を受ける。それはまさに神によって新しい命が与えられることです。人間の子としてではなく、神の子として生まれることです。洗礼とは、自分の罪のために御子主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったこと、その死によって自分の罪が赦されたことを信じ、御子主イエス・キリストは死人の中から甦り、私たちに永遠の命を与えてくださる神であることを信じ、その信仰を公に告白する時に授けられるものです。ただ、その信仰と告白によって、私たちは神の子として生まれ変わらせていただけるのです。
来週の礼拝において、お二人の方が、信仰を告白して洗礼を受けられることは、真に喜ばしいことです。私が、お二人との御言の学びと祈りによるお交わりを通して改めてつくづくと思わされることは、洗礼を受けるということは、本当の自分に帰ることであり、父の懐に帰ることだということです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストを受け入れるとき、実は、自分自身が神の腕の中に受け入れられていること、やさしく抱きしめられていることを知るのです。その時、私たちは、人間の存在の奥底にある本当の必要が満たされ、本当の自分の命を生きることが出来るのです。だから、信仰は命をもたらし、不信仰は死をもたらすのです。
私たちは今日も、主イエスによって、「罪を悔い改めて、本当の自分、神の子としての自分へと帰ってきなさい」「神を信じ、私をも信じなさい。私はあなたの罪を赦す。心配しないで、私の愛を信じ、その腕の中に全身を委ねなさい」と呼びかけられています。その声を聴いて、我に返り、神の許に帰ることが出来ますように。主イエスの名を新たに信じ、その信仰を感謝と賛美を持って告白できますように、祈ります。
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