「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

及川 信

ヨハネによる福音書1章14節〜18節

 

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」

(ヨハネによる福音書1章14節)

 今日のクリスマス礼拝は25日ですから、まさにクリスマス当日の礼拝ということで、まことに喜ばしいのですが、この日は同時に、2005五年最後の主日礼拝です。教会暦にそういう名前はありませんけれど、日本ではしばしば歳末礼拝などと言います。そして、来週は降誕節第一主日礼拝となりますが、日本では新年礼拝と言われます。何故、こんなことを言うかと言うと、私はこれまでずっと一年の最後の礼拝においては、説教の中で言及するしないは別にして、その一年の間に天に召された教会員のことを思い浮かべることを習慣としてきたからです。この礼拝堂で共に礼拝を捧げてきた兄弟姉妹が地上の歩みを終えて天に移された、天上の教会に移されたこと、そして、天地をお造りになった神様、そして、いつの日か新しい天地をお造りになるイエス・キリストへの礼拝は、まさに天地を貫いて捧げられていることを思うのです。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、「天上のもの、地上のもの、地下の者がすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と言っており、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」とさえ言っています。
 私たちの群れの中から、1月に三枝ミツ子さん、3月に阿部綾子さんが、そして4月に清水披路子さん、7月に伊藤満寿一さん、11月に小松睦子さんと柴垣英子さんが立て続けに天に召されていきました。また、この季節はいわゆる喪中の知らせの葉書がたくさん来ますが、皆さんの中には、愛するご家族やご親族を亡くされた方もおられるでしょうし、親しいご友人とか恩師とか、掛け替えのない方たちと地上における交わりを失った方がたくさんおられると思います。私もその一人です。
 そして、私自身は、牧師となって20年間の間に何人の方の葬儀をさせて頂いたか調べてみないと分からないほどです。1年に4人の方の葬儀をさせて頂いたとしてももう80人を越えるのです。そして、その一人一人の方を思い浮かべていきますと、不思議な感覚に捕らわれます。それはまだ行ったことのない天国が非常に懐かしいという感覚です。そこには、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じ、復活を信じて洗礼を受けた神の子たちが間違いなくいます。私にとって、まさに兄弟姉妹と呼ぶべき多くの方たちが、そこで親しくキリストと見えながら、キリストを礼拝しているのです。そこは行ったことがなくても、実は、私たちがそこから出てきた故郷なのではないか?理屈ではなく、体感的にそう感じるのです。先週、私たちが与えられた御言は、こういうものでした。

「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 この地上において信仰を与えられ、その信仰を告白し、洗礼を受け、神によって生まれた神の子は、肉体の死を経て神の国、天の故郷、天上の教会に帰り、そこで父・子・聖霊なる三位一体の神様の栄光を褒め称え、礼拝している。そのことを確信できる喜び、そして、いつの日か、自分も地上の生涯が終わった時に、天上の教会に移されて、今のようにおぼろげにではなく、はっきりと主イエスの御顔を拝して、ひれ伏し、「あなたこそ私たちの主です、救い主です、私はあなたによって罪を赦していただき、あなたを礼拝できます。主よ、感謝します。あなたの御名を褒め称えます」と言える。そういう望みを持つことが出来る喜び。これは本当に他の何物にも変えがたい喜びです。そして、私たちがこの礼拝堂で礼拝をしている時は、いつも天の教会の礼拝の面影を偲んでいるのです。
 去年のクリスマス礼拝に洗礼式はありませんでしたが、今年は幸いなことに二人の方が自分の口で信仰を告白し、洗礼をお受けになりました。今日、神によって生まれた神の子としての命を与えられたのです。ですから、今日、お二人は、聖餐の食卓に与ることが出来ます。主イエスご自身がお配りになったパンとぶどう酒、罪の赦しと新しい命の徴であるパンとぶどう酒を食べることが出来ます。そして、それは今も言いましたように、天国に繋がる食卓です。天国で主イエスが用意してくださる主の食卓に繋がるのです。主イエスによって天国に繋がる礼拝に招かれ、その招きに応えて信仰を告白した者は幸いです。お二人は今日、神の子とされたのです。だから、神が与える命の糧を頂いて生きるのです。子供は親が与えたものを食べて生きる者だからです。
 私たちにとっての命の糧、それは主イエス・キリスト、その方です。主は、私たちを生かすためにこの世に降ってきて下さったのです。

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」

 この言葉の深さについては、到底今日だけでは語りつくせませんし、何度語ってもそれは同じでしょうが、新しい年になってからもこの箇所に留まって御言に聴いてまいりたいと思います。しかし、今日は今日として限られた時間の中で、どうしても聞き取っておきたいことがあります。それは、「言は肉となって」という言葉です。
 「言」「肉」「なる」この一つ一つの言葉が聖書の中でどういう意味を持つのかを語るだけで、それぞれ最低一回の説教が必要なほど奥深いことが書かれていますし、語られています。
 ここでの「言」、それは「はじめからあった」もの、「神と共にあった」ものであり、「神であった」ものです。その言が、肉となった。この「肉」とは、人間性の一つの特色です。見える存在であり、触れることが出来る存在です。そして、聖書において、肉とは罪を帯びた人間存在をも意味します。つまり、神様によって、神様に似せて造られたのに、神様に背き、その愛と信頼を裏切って本来持っていた神の像としての人間性を喪失し、罪の虜となってしまった惨めな人間です。ヨハネ福音書の言葉で言えば、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とある、「世」とか「民」、これもまた「肉」なのです。自分を愛をもって造り、生かしてくれる存在を自分で拒否してしまう、自分の命の源を自ら拒否し、闇の中に、死の中に入って行ってしまう。それが闇だとも死だとも分からずにです。そういう愚かにして惨めな存在、それが「肉」ということです。
 言は、つまり、独り子なる神は、その肉と「なった」。肉としてこの世に、この歴史の中に到来した。そして、私たちの間に「宿られた」。この「宿る」という言葉の意味は、単に旅行者として通り過ぎるのではなく、私たちの只中に「住む」という意味であると同時に、しかし、それは永遠の定住ではなく、一定の役割を果たすまでの「仮住い」であるということを示す言葉です。「言」にとって「肉」をもった姿が元来の姿ではないのですから、それは当然です。しかし、元来、見ることが出来ず、触ることも出来ず、罪とは無縁のお方が、この肉となって、私たちの間に宿られた理由、その目的は何か。
 ここでもアウグスティヌスの言葉が真に深いことを教えてくれると思います。彼は、こう言っています。

「肉はあなたの目を見えなくしたが、肉があなたを癒すのである。御言はそのように肉から来て肉の疾患を取り除き、死から来て死を殺したまうた。」

 どういうことを言っているかと言うと、私たち肉なる者は、その罪に遮られて、最早神の栄光を見ることが出来ない者となってしまった。そして、罪の結果としての死に肉として生きている今既に飲み込まれている。そういう惨めな者を救うために、言(つまり、神の独り子なる神イエス・キリスト)は自ら肉を取ってくださって、肉の病である罪を取り除き、その結果である死を、自らの死によって殺してくださった。そういうことなのです。平たく言えば、肉なる人間を救うために神は独り子を肉なる人間の様にして世に送り、独り子なるキリストもまたその御心を身に受けて世に来てくださったということです。肉を持って肉の罪を取り除き、ご自身の死をもって肉の死を殺してくださったのです。
 ここに私たちの救いの始まりがあるのです。この出来事が起こらない限り、私たち肉なる者は、救われることはないのです。そして、その救いの始まりが、クリスマスの日に始まった。聖書は、そう告げている。
 私は、今日受洗された方たちと共に、家庭集会や入門講座、また受洗準備会を通して、日本基督教団信仰告白を学び、使徒信条を学びつつ過ごしてきました。その学びの最後は、「罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず」という事柄に関してです。罪の赦し、体の甦り、永遠の命、これは三つにして一つの事柄です。そして、すべて主イエス・キリストが与えて下さる事柄です。永遠の神の独り子が、私たちと同じ肉となって世に来てくださり、その肉を十字架につけて罪に対する裁きを全身で受けてくださった。その十字架の死によって私たちの罪に対する裁きは貫徹された。その福音を信じる者は、その信仰において、キリストの復活の命に与る者とされ、今既に、新しい命、永遠の命に生かされ始めるのです。そして、その命は、肉体の死を経て後、必ず、朽ちることのない体に復活をする。その罪の赦し、体の甦り、永遠の命を与えてくださるために、御子は肉となって下さった。そのことを信じることが出来る喜びはなんと大きいことかと、先日の集会でも、受洗する方と感謝と喜びを分かち合うことが出来ました。
 私たちは、これから今日受洗された方と共に、聖餐の食卓に与ります。この食卓は洗礼を受けた人にしか意味はなく、また与る資格のないものです。後でお配りするパンとぶどう酒は、ですから、洗礼を受けた方だけがお取りくださいますようにお願いします。まだ、洗礼を受けておられない方は、一日も早く信仰が与えられて、共に食卓に与ることが出来ますように願っています。
 この食卓の主人は、主イエス・キリストです。ひとたび肉となって世に現れ、肉をもって肉の罪を取り除き、ご自身の死をもって罪の死を殺し、神の力によって復活し、今は天におられる主イエス・キリストが、今日も私たちの主として命の糧を与えてくださっているのです。
 その主イエスはヨハネ福音書6章で、こう仰っています。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 アーメン。その通りです。この食卓は、天上の教会の食卓に繋がります。今日、私たちは、2000年前に肉となって私たちの間に宿ってくださった主イエス、今は、天にあり、この歴史を支配し、世の終わりの日に再び来たりて、新しい天と地を完成させる主イエス、キリストを礼拝しているのです。そして、この礼拝は、天上の礼拝に繋がっていることを信じます。
 一週間前に、今年ご主人を天に送った、私の友人から一つの詩を送られました。その詩は、ご主人が天に召されたことを知ったカナダの友人が、彼女の慰めになるようにと送ってくださった詩なのだそうです。
My First Christmas in Heaven「天国での最初のクリスマス(キリスト礼拝)」という題です。天に移されたのが男性なので、男性の詩として私は読んでしまいますが、少し意訳をしつつ訳すと、こういう詩です。

天国での最初のクリスマス
数え切れないクリスマスツリーが、地上の世界の至る所に見える
そこに灯される小さな光は、まるで空の無数の星のように、雪の上に反射している
その光景は信じ難いほど美しい だから、君の頬に流れる涙をふきとってほしいんだ
だって、僕は、今年は ここにおられるイエス様と一緒にクリスマスを過ごしているのだから
人々が心から歌っているクリスマスの讃美歌が聞こえる それは素晴らしいものだ
でも私が今いる天上の聖歌隊の歌とは比べ物にならないよ
彼らの声が私にもたらしてくれる喜びを、言葉にすることなんて、僕には出来ない
天使の歌を聴くということは、どうやっても表現することなんてできないよ
僕は分かっている、君たちがどれほど寂しがっているか、
僕には君たちの心の中の痛みが見えるから
でも、僕はそんなに遠くにいるわけじゃないんだ
僕たちは、実際、離れ離れになったわけじゃないんだ
愛する人たち、僕は君たちを今も抱きしめている
だから幸せを感じてほしい
そして喜んでほしい 僕は今年イエス様と一緒にクリスマスを過ごしているのだから
僕は天上の家から皆それぞれに贈り物を送ったよ
決して滅びることのない愛の思い出を送った
だって、愛こそが純金よりもはるかに高価な贈り物だもの
愛こそ、イエス様がお語りになった話の中でいつも最も大切なものだもの
父がおっしゃったように、お互いに愛し合って欲しいんだ
神様があなたたちに与えている祝福や愛を、僕は数えることも出来ない程なのだから
クリスマスおめでとう さあ涙をふき取って
そして、忘れないで、僕は今年 イエス様とクリスマスを過ごしているということを


 この天上のクリスマス、キリスト礼拝、それは言が肉体となって、私たちの間に宿ったことによって造り出された礼拝です。今年、私たちの群れの中から、天に移された兄弟姉妹もまた、今、天上で御子主イエス・キリストの御顔を拝して礼拝している。私たちはそのことを深く覚えて、今年はここで、主の御名を賛美できることを感謝しましょう。
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