「栄光、恵み、真理」
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(中略)律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」に関しては、クリスマス礼拝で語りましたので、今日はその後半、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と18節の言葉、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」に集中していきたいと思います。そして、来週もう一度「恵み」という言葉を中心に御言に聴いてまいりたいと願っています。 今日の箇所における一つの問題は、「見た」という言葉が何を意味するのかです。この福音書を書いたヨハネが「わたしたちは見た」と言っているのは、独り子としての「栄光」です。そして、独り子である神イエス・キリストだけが神を「示した」と言っている。つまり、私たちに神を見させてくださったと言っているのです。それは一体どういうことか。 週報の消息欄にありますように、クリスマス礼拝後の集合写真が出来上がっています。今回初めて、これまでとは逆にカメラマンが降壇の上に立って、会衆席にいる皆さんを一気に撮りました。お陰で、非常に短時間で全員を写すことが出来たのですが、何人かの方の顔は前の方に隠れてしまって、そういう点は今後少しずつ改善していけたらと願っています。しかし、今年は子供たちが写真に入ることが出来て微笑ましいものとなっており、この数年来私たちが目指している「神の家族としての教会」の姿が見えて、とても楽しいものです。 その写真を見ながら思い出したのですが、何年か前に、ある方が、礼拝で心も体も満たされて家路につき、渋谷駅まで行ったら、見知らぬ女の人から「お顔からとてもよい霊気が漂っていますね」とか話しかけられて、「やっぱりそういうことは人が見ても分かるのかしら?」と嬉しそうに仰っていました。しかし、それは残念ながら、怪しげな宗教の勧誘か商品の売込みをするために話しかけられたのだと思います。私と生活を共にしている方も、以前、同じように話しかけられた時、「『あら、そうかしら。わたし今体調が悪くて、病院の帰りなのに、変だわね』と言ったら、『失礼しました』と言ってさっさといなくなった」と仰っていて、これもまた随分恐ろしい対応だなと思って、今更ながら尊敬申し上げたのですけれど、とにかく、人間の顔とか立ち居振る舞いには、その人の心のあり様、内面が現れることは事実だと思います。嬉しいことがあれば顔が晴れやかになるのは当然ですし、悩みに押しつぶされている時は、どうしたって顔に出ます。美しいものを観たり、触れた後は、その人の顔も美しくなるのです。そして、信仰と希望と愛に生き続けていれば、そういう顔立ちになり、立ち居振る舞いにも現れてくるものです。 ここ数年、「神の家族としての教会」と同時に「礼拝のこころと形」ということをずっと言い続けていますが、礼拝する「こころ」のあり様も必ず目に見える形になって現れます。真剣さ、熱心さは目にも見えるものです。そして、その礼拝に対する熱心と真剣さがなければ、神様がどれほど熱心に、そして真剣にどうしようもないほど愚かで、頑なな私たちに向き合い、愛して下さっているのかも分からないと思います。 神様の真剣さ、その熱心の目に見える形、それが独り子なる神イエス・キリストです。今日も、今日の箇所に関連するいくつもの御言を印刷しておきました。それは、神の御子イエス・キリストこそ「神の像」、神の見えるかたちであることを示す御言であり、さらに私たちもまた今、その像を持つことが許されており、あるいは求められており、さらに「救い」とは、私たちが罪によって失ってしまった「神の像」をキリストの贖いによって完全に回復することであることを示す言葉を印刷しておいたのです。今日、そのすべてを読むことは出来ませんけれど、是非、お帰りになってから丹念に読むことをお勧めします。 その最初にあげておいたのが、コリントの信徒への手紙二の言葉です。 「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」 「この世」とは、ヨハネ福音書においてもそうですが、この場合罪に堕ちた世のことです。罪に堕ちた世に生きる罪人の心の目では「神の似姿であるキリストの栄光」は見えない。しかし、その人々には見えなくても、栄光は存在するのです。私たちもかつては、何も見えず、何も分からなかったのです。しかし、神様は生きており、私たちに働きかけ、イエス・キリストを通して愛して下さっていたでしょう。その事実はすべて、罪を知り、悔い改め、信仰を与えられて初めて知る事実です。 コロサイの信徒への手紙では、「御子は、見えない神の姿である」と言われ、この方の十字架を通して、神は万物と、つまり罪に堕ちた私たちとも和解をして下さったと記されています。それは「罪の赦し」という新しい契約を結んでくださったということです。 旧約聖書、つまり旧い契約の書物を読んでいて、非常に目を惹く箇所がいくつかありますけれど、今日の箇所にも登場するモーセが十戒を授与される場面もその一つです。詳しい説明は一切省きますけれども、そこにはこうあります。 主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記33章21節〜23節) 「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった・・」(同34章29節〜30節) モーセはここで神様から十戒の板を受け取っているのです。しかし、罪人である人間は神様の栄光を見ることは出来ません。それは死をもたらすことなのです。だから、神様はご自身の栄光が通り過ぎるまで彼を岩の裂け目に隠し、その手でモーセの顔を覆う。そして、モーセは神様の栄光が通り過ぎた後姿を見る。それでも、神様と語り合っているモーセの顔は光を放ち、イスラエルの民はモーセを恐れて近づくことさえ出来なかったのです(この光を放つというヘブル語が角とも訳されるので、モーセの絵とか彫刻を見ると、しばしば鬼のような角が生えていることがあります)。神様の栄光を礼拝した直後のモーセの顔、それは覆いをかけなければ、イスラエルの民が近づくことさえ出来ないほどに光を放っている。ですから、礼拝後に私たちの顔が人から見ても変わるということは事実起こって当然のことなのです。この「光を放つ」という言葉は、ギリシャ語では「栄光」(ドクサ)の動詞形(ドクサゾー)という言葉です。 こういう背景を理解した上で、新しい契約の書である新約聖書を読むと、そこにはやはり驚くべきことが書かれていることが分かります。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」 神様は、ご自身の独り子を肉(人間)として世に降し、この独り子を通して、罪に堕ちた私たちにその栄光を見せて下さったというのです。だから、それは「恵みに満ちていた」と言われるのです。神様の栄光に触れることは、罪人にとっては死を意味したことなのに、独り子を通して、私たちが見る神様の栄光は、罪人に死をもたらす栄光ではなく、むしろ新しい命をもたらすものだからです。それは一体どういうことなのか?このヨハネ福音書は、これからその神の栄光について丁寧に語り続けている福音書だと言ってよいだろうと思います。 そして、このヨハネ福音書を読んでいるとびっくりしてしまうことがよくあるのですけれど、「栄光」という言葉の使い方もその一つです。 13章31節を開けていただきますと、そこには「新しい掟」という小見出しがついています。古い掟とはモーセに与えられた十戒ですけれども、それに対して、今、独り子なる神様である主イエスがその弟子達に新しい掟を与えるという箇所です。そして、その掟とは、34節以下にありますように、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というものです。続けて、主イエスは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と仰います。つまり、主イエスに愛されたように互いに愛し合う弟子達の姿を人々が見れば、それが主イエスの弟子達であることが分かる。主イエスの姿がそこに見える。そういう生き方を促す掟を与えると、主イエスは仰る。しかし、主イエスが、この掟を弟子達に告げるタイミング、それはヨハネ福音書における最後の晩餐の時であり、イスカリオテのユダの中にサタンが入り、主イエスを裏切るために、その部屋を出て行った直後のことなのです。 「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。』」 これは主イエスが十字架に磔にされて殺されるということです。手に太い釘を打たれ、わき腹を槍で刺されて、血をだらだら流しながら渇きに苦しみ、呼吸困難に苦しみ、悶絶しながら死んで行く。しかし、すべての御業が「成し遂げられた」と言いつつ死んで行く。そのことを主イエスは「栄光を受ける」と仰っているのだし、その死によって「神が栄光を受ける」と仰るのです。一体、どういうことなのか?「血みどろの十字架」と「栄光」、これは私たちの常識では結びつきようもないことなのに、どうしてまるで一つのことのように語られるのか? 「このヨハネ福音書を一言で要約するとすれば、何という言葉になるか」と問われたとするなら、私はやはり3章16節の言葉をもって答えます。そこにはこうあります。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 神様の愛、それは独り子を世に与える愛です。人の子の親であるなら、このことが一体どういうことであるか、何の説明も要らないでしょう。こんなことは私たち人間にとっては不可能なことです。自分の子供、それもたった独りの子を与えてしまう。それは不可能なことであり、あり得ないことですし、あってはならないことであると言ってもよいと思います。そして、神がその愛ゆえに独り子を与えてしまう「世」。それは罪に堕ちた世です。罪人のことです。罪とは、端的に言って、神様に背くことであり、さらに言えば、敵対することなのです。神様の愛を踏みにじり、そっぽを向いて、さらには傲然と反抗する。そういう罪人を、神は愛する。これはあり得ないこと。そして、その愛ゆえに独り子を与えた。それは具体的には、今も読んだように、独り子を十字架につけて殺したということです。独り子を滅ぼしたのです。何のために?ご自身に背き、敵対し、その結果、自ら滅びに落ちていってしまう私たちを何とか救い、永遠の命を与えるためです。それが神様の愛、新しい契約の愛です。私たちは、この愛で愛されている。これはあり得ないことだし、あってはならないことであるに違いないけれど、事実としてあったことだし、今もその事実は変わることなく与えられ続けています。そして、その事実こそ、神の栄光、独り子だけが現した神の栄光なのです。 私たちは、信仰を与えられる前はパウロが言っているように、「この世の神」つまり「罪」によって心の目がくらまされて、「神の似姿であるキリストの栄光」を見ることが出来ませんでした。しかし、今、私たちはパウロやヨハネと同じく「わたしたちはその栄光を見た」と言えるのです。しかし、それはどのようにしてか? 先週は中渋谷教会に大住先生が来て下さって、ヨハネ福音書の説教をして下さいました。私は久しぶりに会衆席に座って説教を聞かせていただきながら、松永先生が11年前にこの教会の土曜講座で語られた言葉を思い出していました。私は今、その講座の記録を一生懸命にテープで聞きながら読みやすい原稿に直しています。いつか皆さんにも読める形にしますけれど、その講演の中で先生はこうお語りになっている。 「我々にとって神はキリストにおいて形を取って現れた神ですから、イエス・キリストの現臨の場が教会なのです。教会の中にイエス・キリストがおられる。聖霊が働いておられる。そのことが新約聖書の教会論の規定なのです。 ですから、教会共同体が可視的(見える形)、歴史的存在としてあるというのは、一方では日曜日の朝の礼拝において一番はっきりするのです。教会共同体は礼拝共同体であると言えるわけで、その礼拝で何が行われているかと言えば、聖書の説き明かしとしての説教と聖礼典、特に聖餐式が行われている。説教とは何であるかと言うと、罪の赦しの宣言です。先ほどヨハネ福音書を読みましたが、罪の赦しの権威を執行するということが説教の中で行われている。『あなたの罪はイエス・キリストにおいて赦されています。あなたは罪によって死ぬのではなく、イエス・キリストにおいて新しく生きることが出来るのですよ』と宣言するのが説教です。それを目に見える形で実践し、味あわせるのがサクラメント(聖礼典)で、『この肉を食べる者は赦される、この食卓に与る者は神の国の食卓に与ることが出来る。』それは罪の赦しと同じことなのです。」 大住先生の説教を聴きながら、「今ここで私の罪を赦してくださる主イエスがおられることを見ることが出来る。私の罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださり、私が新しく生きることが出来るために死から復活して下さり、聖霊を注ぎかけて下さる主イエスが、今日もこの礼拝堂に生きておられる。今、その主イエスと交わりを持たせていただける。主イエスを『我が主、我が神』と告白して礼拝を捧げることが出来る」という喜びと感謝に満たされました。私が講壇を見れば、そこには説教される大住先生が見えるのですが、聖霊の導きの中で御言を聴ける瞬間、罪にくらまされていた心の目が開けられて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を」見ることが出来るのです。これが、私たちの礼拝体験であり、この体験の中で、ヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た」と言っているのだし、「あなたも見ることが出来るはずだ」と言っているのです。そして、現に主イエス・キリストの現臨に触れる礼拝共同体として、教会は、この歴史の中に生き続けて来たのだし、今も生きているし、世の終わりまで生き続けるのです。 栄光の主イエスを見て礼拝する。それは神の像である主イエスを礼拝するということです。それは洞穴に隠れて顔に覆いをかけられたモーセ以上に神の栄光を見たことであることは言うまでもありません。パウロは言います。 「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Uコリント3章18節) 私たちは、この礼拝の度ごとに、御子の十字架の血によって過ぐる週に犯してしまった罪を洗い清められ、復活の命に与って、新しい一週の歩みを始めることができるのです。それはつまり、聖霊の導きの中で、主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り替えられていくことです。これは確かな現実であると同時に究極の希望でもあります。 私たちが自覚する現実、現に見ている現実、しっかりと認めざるを得ない現実、それは「栄光」などというものとは対極の現実です。主において現れた栄光、それは背く者、裏切る者、敵をも愛し、その罪を赦し、その敵が新しく生きることが出来るように身代わりに死ぬということです。これが、主が現した栄光、愛なのです。 しかし、私の現実、それは友ですらなかなか愛することが出来ないというものです。ほんの些細なことでも腹を立て、人を見下し、蔑み、遠ざけ、嫌悪する。愛し、赦すなんてこととは、ほど遠いのです。そして、愛し、赦すということ、これは肉において出来ることではないのです。まして、自分に害を与える者、自分を傷つける者を愛し、赦し、その者のために死ぬなどということは、私たちにとっては、口にするのも馬鹿馬鹿しい絵空事です。それが少なくとも、私の現実。認めざるを得ない、恥ずべき現実です。もう一体何年キリスト者をやっているのかと思うし、何年牧師をやっているのかと思います。何年やっても、一向に変わらない現実がそこにあります。皆さんも、それぞれ程度は違うでしょうが、似たような現実を抱え、また似たような思いをお持ちであろうと思います。 しかし、その一方で、私たちが今日もこうしてこの会堂で礼拝を捧げている。これもまた一つの疑いようもない現実です。そして、この礼拝の中で御言を聴いている。祈っている。讃美を捧げている。「献身の徴です」と告白しつつ献金を捧げている。それはすべて、主イエスがあの十字架の上にご自身の体を献身して下さったこと、また、復活された主イエスが今日も私たちの只中に現れて、聖霊を通して、神の愛を与えてくださっていることへの応答です。この礼拝は、信仰がなければ捧げていないのです。つまり、私たちは信仰を与えられ、また信仰を守られて、こうして今日も礼拝を捧げている。これは動かしようがない事実です。 先週、私は東京神学大学の教職セミナーに出席し、非常に刺激的にして有意義な時を過ごしました。今年のセミナーの主題は、今日の説教とも関連しますが、「現代における『神の像』の問題」というものです。創造の時に与えられていた神の似像(「にぞう」=神に似せて造られたということ)を私たちは罪によって失ってしまった。しかし、神の似像として、その栄光を体現する方として肉をとられた主イエスを通して、今、私たちは新たに神に似せて造り替えていただける。それこそが、私たちの救いです。そして、その似像の本質は、神を愛し、人を愛するというものです。そして、神を愛するとは、何よりも神を信じて、礼拝することです。御子イエス・キリストを通して示された神の絶大な愛、あり得ない恵みの愛を、真実の悔い改めと感謝をもって信じ受け入れ、いつも新たに神を礼拝する。主イエス・キリストにおいて示された神の栄光を讃美する。この神を礼拝する姿こそ、神に似せて造られた人間の本質的な姿であり、救われた人間の姿なのです。 皆さんは、雨の日も風の日も暑い日も寒い日も、健康が許され、事情が許される限り、家を出て、バスや電車に乗ってあの恐るべき混雑の中、あの歩道橋を渡り、あの坂を登って、はるばるこの会堂までやって来て、父・子・聖霊なる神様を礼拝しに来る。これはまさに信仰がなければやれないことです。来るだけで、お金を使った上に、さらに献金までするのですから。しかし、それはこの礼拝の中に、何にも変えがたい喜びがあるからだし、希望があるからでしょう。それも疑うことが出来ない現実です。 礼拝における喜び。それは、今に生きる主イエスを見る喜び、その十字架の死と復活に現れた神の栄光を見ることが出来る喜びです。神にここまで真剣に、熱心に愛されていることを知る喜びです。それは、何も勝る喜びなのです。そして、この礼拝から押し出されて日常の生活の中でもイエス・キリストを見つめて、イエス・キリストに従って生きる生活を続けて行く中で、私たちも次第次第に、イエス・キリストに似た者とされていくのではないか。神を愛し、人を愛し、敵をも愛する人間に変えられていくのではないか。そういう希望を、私たちは持たせていただけるのです。それは、礼拝の中でしか与えられない希望です。 パウロはローマの信徒への手紙の中で、「神は前もって知っていた者たちを、御子に似たものにしようとあらかじめ定めて」下さっと言い、「召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与え」下さるのではないか。そういう希望の中で、私たちは、今日もこうして礼拝を捧げている。 先日のセミナーの主題講演の最後に、こういう童話が引用されました。それは「ひまわりの話」という童話なのですが、引用した先生もご自分のお子さんが小さかった頃よく読んであげた童話で、今、その本が何処にあるか、誰が書いたものなのかも分からないというのです。インターネットで調べてみると、ギリシャ神話の中に太陽の神を好きになった女神の悲恋話があって、それが元になっているのではないかと思うのですが、その先生がお書きになったレジュメを少し変えて引用する「神様に造られたばかりの顔のない花が、東から出て西に沈むまで輝き続ける太陽が大好きで、毎日眺めているうちに、気がつくと、太陽そっくりの花に変えられていた」というものです。「向日葵」という漢字も、たしかに日に向かう葵と書きますが、その花言葉は、「あなただけを見ている」というものらしいです。「あなただけを見ている。」 礼拝とは、何よりも、聖霊の注ぎの中で、独り子である神イエス・キリストを見つめ、そのイエス・キリストにおいて現れた神の栄光を見つめることです。そして、そのことが許されているし、求められている。古い契約においては、罪人が神の栄光を見ることは死を意味したのです。しかし、主イエス・キリストを通して与えられた新しい契約において、その栄光は神の子が罪人の赦しのために、救いのために十字架に架かって死ぬ愛として現れたのです。私たちは、霊に導かれる礼拝において、神の栄光に照らされて、自分がどれほど罪深い者であるかを知らされながら、この私たちを愛して止まない主イエス・キリストと父なる神の愛に圧倒されます。その三位一体の神様の栄光だけを見つめて、これからの一週間を歩んで行く、一年間を歩んで行く、一生を歩んで行く。そうすることが許されており、また求められている。なんと幸いなことでしょうか。その信仰の人生の中で、私たちもきっといつか、主イエスに似た者に変えられ、その栄光を現すことが出来るようになるでしょう。 最後に、ヨハネ福音書において、栄光という言葉が最後にどこに出てくるかに触れることをお許しください。私はそのことを知って非常に心打たれました。それは、21章19節です。21章は後代に書かれた付録と言われるところですが、大事です。 かつて、死ぬことを恐れて、三度も「あの人のことは知らない」と言ってしまったペトロに対して、主イエスは三度、「あなたはわたしを愛しているか」と問いかけられました。ペトロは、かつての自分の裏切りを思い起こしつつ、「主よ、わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるのです。そのペトロに対して、主イエスはこう仰った。 「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」日本でも腰に縄をかけられて犯罪人が連行されることを、「お縄にかかる」とか言いますが、このペトロの姿は処刑場に連れて行かれる死刑囚の姿なのではないかと言われます。イエス様が神の独り子であり、この方を通して神様の愛が、その栄光が現れていることを、証しするペトロが殉教することを、イエス様が預言されたのです。その上で、イエス様は、「わたしに従いなさい」と仰った。ペトロは、あの時、イエスを否んだペトロは、その後もいく度か挫折や失敗を繰り返しつつも、しかし、ついにその殉教の死を通して、神の栄光を現す使徒に造り替えられていきました。彼はローマで逆さ十字架にかかって殉教したと伝えられています。多くの人間が、彼の説教と、その行いと、最後はその死の姿を通して、神の栄光、今に生ける主イエス・キリストを見たのです。 信仰をもって、主イエスだけを見つめて生きる。そして、主イエスに従って生きる。その時、この私たちを通しても、主イエスが見えるようになるのです。私たちが神の御子イエス・キリストに似た者となるからです。なんと幸いなことかと言わざるを得ません。 2006年1月15日 説教 参照聖句一覧 T キリストは神の似像 Uコリント4:4〜6 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 コロサイ1:15〜20 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 ヘブライ1:1〜3 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 U 終末の目標 ローマ8:29〜30 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 Tコリント15:47〜49 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 Tヨハネ3:1〜3 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。 V 現在の現実 Uコリント3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 コロサイ3:9〜11 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 エフェソ4:22〜24 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 |