「恵みの上に、更に恵みを受けた私たち」
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。前回は、14節半ばの「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった」という言葉に焦点を絞って御言に聴きました。今日はその続きにいきたいと思います。 その栄光は「恵みと真理とに満ちていた。」この「満ちていた」に似た言葉が16節に出てくる「満ち溢れる豊かさ」という言葉です。ギリシャ語でもプレレースとプレローマと似ているのですが、これらの言葉は、たとえば海の水が一体どれほどあるかなど量りようもない、そういうことを言っているのだと思います。地球を覆っている海の広さは満ち潮、引き潮があって、いつも変動していますし、海の水は絶えず蒸発し、その一方で川から水が絶えず流れ込んでいるし、雨も降ってくるわけですから、一定であるわけではありません。また、海流となって、いつも動いている。とにかく、人間が海の水を掬ってどれほど大きな水槽に入れたところで、海の水がそのことで目に見える形で減るなどということは考えられない。海というのは捉えようもなく大きいし、流動的である。まさに汲めども尽きないものです。そういう感じが、「満ちていた」とか「満ち溢れる豊かさ」という言葉には込められていると、私は思います。 この「満ちていた」とか「満ち溢れる豊かさ」という言葉は、ヨハネ福音書の中では、このプロローグ、序文と呼ばれる箇所にしか出てきません。また、「恵み」という言葉も実はここにしか出てこない。この序文は、結末から書かれている、あるいは結論が書かれていると言っても良いと思うのですが、そこに何があるかと言えば、独り子なる神である主イエス・キリストに対する信仰告白があり、また何よりも讃美があるのだと思います。 この福音書を書いたヨハネという人は、主イエスとは誰であるかを、冷静に説明しつつ、しかし、説明しながら、同じ信仰を持っている仲間達との礼拝経験の中で、主イエスにおいて現れた神様の栄光、そこにある恵みと真理の豊かさに圧倒されてしまって、心が熱く燃えているように感じます。この神の栄光を見させていただいた喜びと感謝、恵みの上に更に恵みを受けた感謝と喜びが、それこそ彼の心の中に「満ち溢れている」のだと思うのです。独り子なる神イエス・キリストが、肉となって私たちの間に宿られたことに現れた神様の栄光、十字架の死と復活においた現れた神の愛、その栄光に照らされて、そこに満ち満ちている神の恵みに圧倒されている。包まれている。そして、太陽から燦々と光が降り注ぐように与えられ続けている神様の恵みと、それに応えて神様に捧げ続ける信仰告白と讃美が一体となって、この序文は形作られているように感じます。どちらも尽きることがないし、その量を固定したもの、動かぬものとして量ったりすることも出来ない。いつも新たに溢れてくる恵みと感謝、そういう生き生きとした世界が、そういう神と人との豊かな交わりがここにはあると思います。 このヨハネ福音書において独特の位置を占めているのが、既に6節に出てきており、15節に再び登場するヨハネです。ちょっとややこしいのですが、この人は、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネと呼ばれているヨハネで、福音書記者のヨハネとは違う人物です。このバプテスマのヨハネについては6節以下を語る時に語ったので、今日は多くを省略しますけれど、彼はイエス様が活動を始める直前、あるいは直後に、権力者によって捕らえられ、殺されています。しかし、多くの信奉者が後の時代までいたのです。それほど大きな感化を残した人物です。しかし、この福音書において、バプテスマのヨハネは徹底的に主イエス・キリストの証言者として描かれています。7節8節にはこうありました。 「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 その彼が、この15節で、「この方について証しをし、声を張り上げて言った」のです。これもまた、独り子なる神イエス・キリストにおける恵みと真理に満ち満ちた栄光を見させていただいた感動によって、バプテスマのヨハネの口が勝手に動いて言葉が出てきたのではないかと思います。この栄光を見たとき、独り子なる神イエスが今も生きておられる、その主イエスの現臨に触れた時、私たちの心は揺さぶられ、その口からは自ずと信仰告白と讃美が溢れ出てくるのではないでしょうか。そして、その告白と讃美は、キリスト証言となるし、ならざるを得ないのではないかと思います。 ヨハネは、こう叫びました。 「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 私たちも、先駆者とかパイオニアが偉いということは知っています。何でも、最初にやった人こそ、その名が記憶されるのです。そして、人間の目、つまり肉眼で見える現実としては、ヨハネこそが洗礼運動を始めたのですし、多くのユダヤ人が彼の許に来て罪を悔い改め、清めを与えられていたのです。そういう意味で、彼こそが先駆者です。そして、彼はその後も絶大な尊敬を集めていた。 しかし、バプテスマのヨハネ自身が見ている現実は、そういう目に見える現実とは比較にもならない現実なのです。彼は、主イエスを見た時に、「この方こそ、自分よりも先におられた方である」ということが分かったのです。彼が言う「先におられた」とは、十年前とか二十年前とか、そういうレベルのことではなく、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・万物は言によってなった」というレベルのことなのです。神学的には「先在のキリスト」と言いますが、世が造られる前から神と共におられた神の独り子キリストのことです。この方こそ、私たちが待ち望んでいたメシア、キリストだ。彼は、そのことが分かり、そして、そのキリストの栄光に触れて、この方は「わたしより優れている」と証言をしている。この「優れている」という言葉だって、社長と専務とか、平社員とかいう程度のことを言っているのではありません。私は人間だが、この方は神だ。わたしは光の到来を告げるだけだが、この方はその光そのものだ。比較にもならない。そういうことです。そして、ついにその光を、その栄光を見ることが出来た。その喜びに溢れて、彼は証言をしているのです。 私たちが、本当に素晴らしい体験をしたら、それはやはり何らかの意味で人に伝えたくなるのではないでしょうか。卑俗な例で申し訳ないのですが、とっても美味しい料理をどこかの店で食べたら、誰かに教えたい。素晴らしい映画を見たら、それを誰かに教えたい。そういったことが、礼拝において起こる。礼拝を通して、キリストの栄光の光に照らされ、己が罪を知り、その罪の赦しを知り、永遠の命に生かされる恵みを知らされる。そういうことがこの礼拝の中で起これば、私たちは心からの信仰と感謝を祈りや讃美を通して、また献身のしるしとしての献金を通して現して行くだけでなく、礼拝を終えて派遣された先で、何とかしてこの喜びを伝えたいと思うはずです。しかし、家族を初め、誰も耳を傾けてくれませんから、願った通りにはいきません。しかし、私たちにとっての本当の喜び、本当に知りたかったこと、本当に人に知らせたいことは、毎週の礼拝の最後に語られる、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりしかないのです。ただこのことだけが、私たちを生かし、守り、養うものなのですから。 16六節の言葉が、バプテスマのヨハネの言葉の続きなのか、それとも、福音書記者ヨハネのものなのかで解釈が分かれます。私たちが読んでいる新共同訳聖書では、かぎ括弧が15節で終わっていますから、バプテスマのヨハネの言葉はそこで終わると解釈しているのです。私も、16節以下は福音書記者ヨハネが、教会の信徒達を代表して語っている言葉だと思います。福音書記者ヨハネが、最初の証言者バプテスマのヨハネの証言を聴いて信じた者たちの一人として、つまり教会の一員として、「わたしたちは皆」と語り始めているのです。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と。これもまた、キリスト証言を聴いて信じた者たちの口から溢れ出てくる告白であり、讃美なのです。現代に生きるキリスト者である私たちもまた、御言を読み、説教を聴いて信じ、「私は、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と告白しつつ讃美することが出来れば本当に幸いなことです。 この「恵みの上に、更に恵みを受けた」という言葉、この言葉を皆さんはどうお読みになったのでしょうか。私は一読した時には、一種の強調形のような印象を持ちました。恵みが繰り返し与えられるという感じに受け止めたのです。皆さんは、どうでしょうか。この一週間、この箇所に関して書かれているものを色々と読んだり調べたりしていると、実は様々な解釈があることが分かりました。たとえば、アウグスティヌスなどは、二度出てくる「恵み」の一つは信仰で、もう一つは永遠の命であると解釈します。つまり、恵みによって信仰を与えられ、その信仰によって永遠の命という恵みが与えられると受け止めるのです。なるほどな、と思います。ルターと並ぶ、あるいは続く宗教改革者のカルヴァンは、父なる神からキリストに与えられた恵みを通して恵みを受けたという恵みの二重構造を考えている。また人文主義者であるエラスムスという人は、旧約聖書に代わって新約聖書という恵みを受けたと考える。つまり、空間的な二重構造ではなく、時間的な二段階構造を考えるのです。これもまた面白いし、現代でもそう解釈する人はいます。17節を読むと、「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とありますから、これだけ見ると、時間的な二段階構造も悪くないと思える。しかし、宗教改革者のルターは、同じ恵みを幾度も受けることが出来ると解釈しています。この場合、どれが正しくて、どれが誤っているとは言い難いし、敢えて一つに決める必要もないと思ったので、いくつかの解釈を紹介しました。しかし、先程も言いましたように、私自身は、これらの解釈を読んだ上でも、一種の強調形のように受け止めています。つまり、ここで言えば、波が何度も押し寄せてくるように恵みが与えられると考えるルターの解釈に近いので、その線でもう少し深く読み進めて行きたいと思います。 ルターという人が、当時のカトリック教会の側から言えば、教会の教えに反抗して(プロテストして)言ったことは、「恵みのみ」「信仰のみ」ということであり、これが「聖書のみ」と並んで宗教改革の旗印的言葉となりました。私たち罪人が救われるのは、ただただ恵みによるのであって、私たち人間の功績によるのではない。私たち罪人が救われるために必要なのは、ただただキリストの十字架と復活を信じる信仰、そこにおける贖罪を信じる信仰のみであって、善い行いではない。彼はそう言ったし、後に続く改革者であるカルヴァンたちもそれに倣って、世界史の大転換となる宗教改革運動が起こっていったのです。そして、ルターは「恵み」を「死の世界の中にくすしき仕方で突入した命」であるとしました。それは言うまでもなく、神の独り子主イエス・キリストの受肉(肉となって私たちの間に宿られた)と受難(十字架の死)、そして復活を通して与えられた贖罪による新しい命のことです。彼は、それを「ただ神だけが与えることが出来るものである」と言っていますが、全くその通りです。 「神だけが与えることが出来るもの。」 先週の説教の中でも引用した聖書の言葉、それはヨハネによる福音書の中核をなすものでもあると思いますが、こういうものです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 神様だけが与えることが出来るもの、それは独り子です。そして、独り子なる神イエス・キリストだけが与えることが出来るもの、それはアウグスティヌス流に言えば、独り子を信じる信仰であり、その信仰によって与えられる永遠の命です。そして、独り子だけが与えることが出来る信仰とは、独り子の十字架の死と復活によって、私たちの罪が贖われたことを信じる信仰です。この信仰によって、私たちは救われる。罪と死の世界に「くすしき仕方で突入してきた命」に生きることが出来る。何ということかと思います。 「恵み」と訳された言葉はギリシャ語ではカリスと言い、ラテン語ではグラチアと言います。そして、このグラチアに似た言葉にグラチスというものがあり、それは「無償」「ただ」を意味します。だからこそ「恵み」なのです。何かの代価を払って神様から買い取った権利とかそういうものではない。すべてを神様が無償で与えてくださったのです。ですから、私たちはただで罪と死から解放された命を生きることが出来るようになる。これが恵みなのです。 ルターは、死ぬ間際に、「私たちは乞食だ。それは本当のことだ」と言ったと、聞いたことがあります。昔、私がまだ小さかった頃、それこそ渋谷の駅のどこかの階段には乞食がいました。茣蓙の上に座っていて、その前には缶詰の空き缶がおいてあり、「お恵みを」と言っていました。吉祥寺駅でも見たことがあります。ルターの言う乞食とはこういうものだと思うのです。イエス様から、お恵みを頂かなければ、今日食べるものがない。今日を生きる糧がない。生きることが出来るか否かは、恵みを頂けるかどうかにかかっているのです。 もちろんイエス様が与えて下さる「恵み」、つまり、私たちが乞食としてイエス様に求める「恵み」は、小銭ではありません。イエス様は、あるところでこう仰っています。 「わたしは命のパンである。・・これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」 イエス様がご自身の命を私たちに恵みとして与えて下さる。そのことを信じるかどうかにすべてがかかっているのです。イエス様が、私たちの罪のために十字架に掛かって死に、私たちを新たに神の子として生かすために、今も生きて下さっている。この恵みを信じる。その時、私たちは永遠の命に生かされる。しかし、それは具体的にはどういうことなのか。それが問題です。 ルターが書いた宗教改革のきっかけになる九十五ヵ条にわたる文書が、結局、宗教改革ということにまでなっていくのですけれど、その最初の文章はこういうものなのです。 「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』(マタイ四:一七)と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」 つまり、一回悔い改めれば良いということではない。生涯が悔い改めであるべき、悔い改めであるはずなのだ、と言うのです。悔い改めとは、言うまでもなく、罪からの悔い改めです。それでは、罪とは何か。いろいろな言い方が出来るでしょうが、先週の説教で、向日葵がいつも太陽を向いているから、太陽そっくりの顔の花になった話を紹介しました。そして、その花言葉が、「あなただけを見つめている」というものだと言いました。この例を用いるなら、罪とは、神様以外のものを見つめることだ、と言うことが出来ます。主の光ではなく、この世の闇に目を向けて、闇に向かって歩むことだと言えるでしょう。ヨハネ福音書の3章19節以下には、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」と記されています。そして、私たちの現実はまさに気がつけば闇に向かっている現実なのです。愛と赦しに生きることが神様の御心だと分かっていたって、気がつけば、その逆を生きてしまう、生きてしまっている。これはが現実です。そういう現実の繰り返しの中で、私たちは次第に光に照らされることが嫌になってくるのです。光に照らされて、自分の現実、惨めな現実が明るみに出されるのが嫌なのです。 私も、ある面で仕事ですから、毎週こうやって聖書を読んで、それを取り次ぐわけですけれど、その過程においては、本当に嫌なことが多いのです。聖書が語っている意味がなかなか分からないというのもシンドイことですが、むしろそれが分かってくる過程の中で(分かってきたという意味では嬉しいことではあるのですが)、普段気がつかないで生きている自分の罪の現実、つまり、神様だけを見つめているわけではない現実の姿、ただ一人の主人に仕えているのではなく、主イエスと共に自分の腹を神として二股をかけている自分の姿、そういうものが白日の下に曝されていく恥ずかしさ、居心地の悪さ、そういうものを毎週経験する。「御言の光に照らされる」ということは、言葉としては美しい言葉ですが、現実に光に照らされれば、シミや汚れが目に付くのです。薄暗がりの中にいれば見えてこないものが見えてくるのです。それは辛いこと。信仰を与えられて、何年も何年も、「主イエスだけを見つめて生きていこう」と自分と他人に語りかけながら、何年も何年も、主イエスと自分の腹を二人の主人として分裂している。そういう現実を生きている。これは私だけの問題ではないでしょう。べつに皆さんを私のような低いレベルに引きずり込むつもりはありませんが、しかし、この信仰を与えられながらこの世の中を肉体を持って生きているということは、パウロがあのローマ書の七章で、 「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」 と呻く現実を抜きにしてはあり得ないと思うのです。この「惨めさ」を感じるということも、また、ある意味では「恵み」なのです。なぜなら、神の律法、「私があなたを愛したように、あなたも愛に生きなさい」という律法を与えられているからこそ、その律法を生きることが出来ない惨めさを感じることが出来るからです。 パウロは、ローマ書の五章で、こう言っています。 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して、永遠の命に導くのです。」 「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。」 アーメン、その通りです。としか言いようがありません。私が主イエスの方を見つめていない時間が長ければ長いほど、私が光ではなく闇を見つめている時間が長ければ長いほど、あるいは、私が主の道を外れて、真の羊飼いである主イエスの声ではなく、サタンの声に従って誤った方向に行けば行くほど、それはまさに罪が深まっているのですが、そういう自分のことを、主イエスの方はいつでも見つめていてくださって、そして、どこまでも追いかけてきてくださって、「私はここにいるよ。私のほうを見なさい。悔い改めなさい。そして、福音を信じなさい。私があなたの罪のために十字架にかかって死んだこと、そして、甦り、今もあなたを闇の中に追い求め、信仰者の群れに連れ帰り、命のパンを食べて、永遠の命を生きることが出来るために、あなたの罪を赦していることを信じなさい。」そう語りかけてくださる恵みは、いっそう「満ち溢れた」ものとして迫ってくるのです。こんなにも長く、こんなにも深く、主イエスを忘れ、主イエスを裏切ってきたのに、主イエスはこんなにも長く待ち続け、あるいは追いかけ続け、こんなにも深く愛して下さっている。そのことを知る。罪の深みの中で、闇の深みの中で、その愛の光に照らされる。海よりも深い、とらえようもない主イエスの「満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受ける」のです。この恵みの中で、私たちは幾度も悔い改めることが許されている。生涯、主イエスから悔い改めよ、私はあなたの罪を赦す、私の愛を信じなさいと呼びかけて頂けるのです。ルターは、悔い改めの人生を勧めつつ、この主イエスの無尽蔵の愛を信じる人生を生きなさいと言っているのです。 私たちは恵みによって、光に照らされて、罪を知らされ、悔い改め、信仰を告白して洗礼の恵みに与った者たちです。そして、全身を洗い清めていただいたのです。しかし、私たちがこの世を歩いている限り、足は汚れます。「足を洗う」という言葉があります。悪に生きるヤクザ者が足を洗って堅気になるという意味です。ある意味ではそれと同じことだと思いますけれど、主イエスは十字架につけられる前の晩、弟子達全員の足を洗いました。弟子達の前に跪いて、腰に手ぬぐいをつけて、弟子達の汚い足を洗って下さった。これは奴隷の奉仕であり、愛の奉仕です。サービスです。礼拝とは英語ではサービスです。私たちは毎週、この礼拝に来る。それは、悔い改めて主イエスの前に来るということです。その光に照らされるために来るのです。そして、この光に照らされて、この世を生きているときには見えなかった汚れが沢山足についていることを知るのです。その汚れた足を、主イエスの前に差し出す。隠さずに見てもらい、恥ずかしがらずに見ていただき、そして、手を伸ばしていただいて、洗っていただく。それが礼拝です。「恵みと真理とに満ちている」主イエスは、その「満ち溢れる豊かさの中から」、罪の上に更に罪を重ねてしまう私たちに「恵みの上に、更に恵みを」与えてくださるのです。その恵みを「私たちは皆受ける」のです。それが礼拝です。その礼拝を与えられたなら、一体だれが声を張り上げて信仰を告白しないでいられるでしょうか、一体誰が主イエスの恵みを讃美せずにおられるでしょうか。一体誰が、献身しないでいられるでしょうか。 パウロは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」と言ったその先で、こう言っています。この言葉が、今日のヨハネ福音書の説教を終わるにあたり最良の言葉だと思いますので、読ませていただきます。 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」 罪の力がどれほど強くても、主イエスの恵みは、神の愛は、さらに強く深く、満ち満ちているのです。そして、私たちはもう恵みの支配の下に生かされているのです。この恵みを信じて、歩んでまいりましょう。 コロサイ3:9〜11 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 エフェソ4:22〜24 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 |