「神を見、神を示すとは?」

及川 信

ヨハネによる福音書1章14節〜18節

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。



 最近、遺伝というのはやはり恐ろしいものだと思うのですが、私と兄を見ていると、兄の後姿は父にそっくりになってきていますし、私の顔立ちは次第に父に似てきている。かつては、兄も私も親とは似ていない子供たちだったのですが、最近は随分似てきました。私の娘達も、後ろから見ると、私の妻にそっくりでびっくりしたことがあります。よく「あなたは死んだお父さんの生き写しだ」とか言ったりしますが、確かにそういうこともあるなと思うようになりました。
 ヨハネ福音書1章14節から18節の御言をもう一ヶ月以上読み続けていますけれど、ここでの一つの大きな問題は、父と子の問題であることは明らかです。「わたしたちはその栄光を見た」とあり、その「栄光」とは「父の独り子としての栄光」であり「恵みと真理とに満ちていた」とあります。そして、この「恵みと真理」は17節に再び登場し、「神を見た者はいない」のだけれど、「父の懐にいる独り子である神」が、「神を示された」とある。父と子の密接な関係は明らかです。
この箇所の背景に、シナイ山でモーセが神から十戒を与えられる場面があることは明らかです。モーセは、神の顔を見ることは許されませんが、神様との会見をした後のモーセの顔は光輝いていたと記されています。この時モーセは、神の栄光を反射する人間にされたのです。今日は、その少し前の情景を記す箇所を読んでおきたいと思います。34章6節以下です。

「主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、『主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。』」


 神様がご自身のことを表現している言葉の中に「恵みに富む神」とか「慈しみとまことに満ち」という言葉が出てきます。この「慈しみとまこと」、それはヨハネ福音書に出てくる「恵みと真理」と同じ意味です。「恵みと真理」も「栄光」と同じく、神様の性質を表す言葉なのです。それでは、「栄光」の神、そして「慈しみとまことに満ちた」神様とはどういう神様かと言えば、ここにありますように、それは「罪と背きと過ちを赦す」神であり、同時に「罰すべき者を罰せずにはおかない」神です。「私はそういう神である」と、神ご自身が宣言され、その神様に対して、モーセは、「罪と過ちを赦して下さい」と懇願するのです。赦すことと罰すること、その権限は、ただこの栄光の神、慈しみとまことに満ちた神様だけがお持ちなのです。その神様の心が記されているのが、モーセを通してイスラエルの民に与えられた「十戒」を中心とする律法です。律法の中には神様の心が記されており、その心とは、神の愛を信じて、神を愛し、隣人を愛して生きるということに尽きます。しかし、神の選びの民であるイスラエル、そして当時のユダヤ人は、結局、律法をそのようなものとして信じ受け入れることが出来ませんでした。そこで、主イエス・キリストが肉となって、私たちの間に宿られることになりました。
ここで一つ問題になるのは、モーセと主イエスの関係でしょう。ヨハネ福音書1章17節は文章の構造上、「律法はモーセを通して」、と「恵みと真理はイエス・キリストを通して」が平行しているのですから、「律法」と「恵みと真理」が比較されており、「律法」には「恵みと真理」がないかのような印象を持たれるかも知れません。実際、そういう解釈もあります。その解釈の背景にあるのは、旧約の律法は罪を暴き出し、新約の恵みが罪を赦す。モーセは律法の象徴であり、イエス・キリストが恵みの象徴である。そういう思い込みです。
しかし、出エジプト記をよく読んでみれば、旧約の神様ご自身が栄光の神であると同時に、つまり罪人はその顔を見ることが出来ない神であると同時に、その「罪と背きと過ちを赦す」神であり、「しかし、罰すべき者は罰せずにはおかない」「憐れみ深く恵みに富む神」「慈しみとまことに満ちた」神なのです。そういうことを考えますと、神はかつても今も、「恵みと真理に満ち満ちた」お方なのです。しかし、ご自身の「恵みと真理」を、かつてモーセを通して民に律法の形で「与えられた」のですが、今や、神の「恵みと真理」は神の独り子であるイエス・キリストを通して「現れた」のです。
律法はモーセを通して「与えられた」(ディドーミ)に対して、恵みと真理はイエス・キリストを通して「現れた」(ギノマイ)とあります。この「ギノマイ」は、1章だけで何度も出てきている言葉です。「万物は言によって成った(ギノマイ)」「言は肉となった(ギノマイ)」。要するに、神の意思が一つの現実として現れてくることなのです。出エジプト記を見ても分かりますように、神様は一貫して義にして愛なる神様であり、恵みと真理に満ち満ちた神様なのです。罪を裁く神であり、また赦す神なのです。その神様の心、あるいは本質が、律法に記された文字として「与えられた」のが旧約であり、神の独り子であるイエス・キリストにおいて「現れた」のが新約なのです。私たちの主イエス・キリストは律法と預言を実現する方、体現する方として、つまり、モーセとは比較にもならないお方として、神の恵みと真理を現しておられるのです。この方だけが、神様を「見る」ことが出来るのだし、そして、この方だけが、神様を私たち人間に「示す」ことが出来るのです。人間の親子で言えば、まさに父の生き写しとしての独り子だからです。
 この福音書の先を読んでいくと、そのことを示す言葉に何度も出会います。
「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」(5章73節)
「父を見た者は一人もいない。神のもとかた来た者だけが父を見たのである。」(6章46節)
そして、主イエスはこうも仰る。
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6章40節)
さらに、「御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して、こう言われます。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(14章9節〜10節)
 そして、この福音書の本文としての最後を読むと、こういう記事があります。十字架で釘を打たれた跡に指を入れ、槍で刺されたわき腹に手を入れてみなければ、主イエスが復活されたことを信じないと言ったトマスに、復活の主イエスが現れ、トマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をした。その時、主イエスはトマスにこう仰いました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 「見る」とは、一体どういうことなのか。
ここまでの段階をまとめると大体こういう事になります。イエス・キリストは神の独り子であり、神のもとから遣わされた方である。そうであるが故に、父の生き写しとして父を体現し、その思いを実行しているのである。この独り子だけが父を見ることが出来、そして、この子を見ることが父を見ることである。そして、この子を見て、神の独り子、キリストと信じる者は、罪を赦されて、永遠の命を与えられる。そういう意味で、まさにこの子において、神の恵みと真理、栄光は満ち溢れるほどに現れている。そういうことでしょう。
 しかし、この福音書の最後に「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われている。「子を見て信じる者が皆永遠の命を得る」ことが、恵みと真理に満ち溢れた父なる神様の御心であるのなら、「見て信じる」ことは大切なはずです。しかし、トマスに対しては「見ないで信じる」ことが大切であると言われる。
神を「見る」とはいったいどういうことなのか?
この福音書を書いたヨハネが、14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」という場合、それは明らかに、肉をもって地上を生きておられたイエス様のことを見たということではありません。ヨハネがこの福音書を書いた時代は、一世紀の終わり頃で、イエス様が十字架に磔にされてから少なくとも60年以上が経っているのです。ですから、ヨハネ自身は、肉体を持って地上を生きておられた主イエスを見たことはないのです。しかし、その彼が、父なる神の栄光を体現する独り子、恵みと真理に満ち満ちた独り子の栄光を「見た」と確言しており、それこそが自分達の信仰の中核であるかのように言っているのです。彼は、主イエスを肉眼では見ないで、信じている。その彼が「見た」と言う。しかし、その彼が、「見ないで信じる人は、幸いである」という主イエスの言葉を結論に持ってくる。これはどういうことか?
 聖書というのは、有難いことに、読めば読むほど分からなくなる書物でありつつ、やはり読めば読むほど分かってもくる不思議な書物で、この聖書と出会ったことが、人生最大の喜びと言えるのですが、聖書はしかし一人で読んでもあまり面白くない。何人かで一緒に読むと、実に面白いのです。私が説教の準備のために書斎で一人で読む場合も、色々な人の読み方を本を通して知り、「それは、ないでしょ」とか「いや、まったくその通りだと私も思います」とか心の中で議論をしながら読むわけで、独りで読んでいるわけではありません。そして最後は、イエス様にお願いして、「ここまでやったんですから、最後にここを教えてください」と祈りつつ読んで、「いや、まだだ」とか「よし教えてやろう」とか言われながら読むので、見た目は孤独な作業をしていても実際は孤独ではないのです。それはともかくとして、毎週水曜日の聖研・祈会においてはペトロの手紙一を長老の導きによって、一緒に読みました。私はとても楽しかったのですが、その中に、こういう言葉がありました。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それはあなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(1章8節〜9節)

  「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」
 本当に素晴らしい言葉ですし、素晴らしい事実です。これは本当のことです。ペトロが手紙を書いたクリスチャンたちも、ヨハネや彼が属する教会のクリスチャンたちも、その点においては同じなのですが、キリストのことを地上に肉体を持って生きていたキリストとしては知らないのです。彼らは、キリストに関する証言を聞き、聖霊によって与えられた「信仰によって知っている」のです。あるいは、「信仰によって見ている」のです。そして、キリストを愛し、喜びに満ち溢れるのです。
 今日の礼拝の最後に、私たちも、その喜びに満ち溢れて祝福のうちに派遣をされたいのですけれど、そのためにも、まだ見ていない言葉をちゃんと見つめていきたいと思います。それは「懐にいる」という言葉と「示された」という言葉です。
 「懐にいる」とは、直訳すれば「胸の中にいる」ということです。胸に抱かれている。これは親子において最も親密な時ですし、夫婦だって同じです。英訳聖書では、しばしばin the bosom of the Fatherと訳されますが、このbosomという言葉は辞書を見てみると、体の表面に見える胸だけではなくて、「胸の中」「心」「愛情」をも意味する言葉で、ある聖書は、独り子のことを「父の心に最も近い方」と訳していました。主イエスだけが神を見ることが出来る。それは肉眼で見える表面的なことではなく、父の心の中を見ることが出来るのだ、知ることが出来るのだ、ということなのです。
 この福音書の中で、この言葉がもう一回出てくるのですが、それは最後の晩餐の場面です。主イエスが、イスカリオテのユダの裏切りを予告する場面です。その場面に、イエス様に特別に愛された名前が分からない弟子が登場します。

イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

 「イエスのすぐ隣」と訳された言葉が、「懐」と同じで、それはその先の「イエスの胸もとによりかかったまま」という言葉からも分かりますように、イエス様の胸元、まさに懐にいたということなのです。そして、この福音書を付録の最後まで読んで行くと、この弟子が復活後のイエス様とペトロの関係について証しして、それを書いたと記されています。

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」

 これはひょっとしたら、この愛弟子こそが福音書全体に関してもそのもとになるものを証言し、さらに書き、それを土台にしてヨハネが編集加筆して現在の福音書の形になったと言っているのかもしれません。しかし、私が何故ここを読んだかというと、主イエスのことを証したのは、主イエスに最も近く、その懐にいた愛弟子であると知って頂きたかったからです。この愛弟子は、肉においても主イエスを知っていた直弟子なのですけれど、その弟子の証言を聞いて信じた人々が、ここで「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と言っているヨハネを含む彼の教会の信徒達です。彼らは、愛弟子の証言を聞いて独り子である主イエスを、その肉の姿を見ないで信じたのです。そして、独り子を通して現れた神の栄光を見たと証言しているのです。その信仰による証言、信仰告白によって、ユダヤ人からも迫害され、ローマ帝国からも迫害され、命を奪われるような事態に追い込まれるのに、ヨハネたちは、その証言、告白を止めないのです。熱い心で、この方こそ、私たちに神を示して下さったお方だ。私たちはこの方を通して神の栄光を与えられ、恵みと真理を与えられている。罪を赦され、新しい命、永遠の命に生かされているのだと証言し続けたのです。
 そこで「神を示す」という言葉に行きますが、これについては、実はヨハネ福音書と何かと繋がりがあるルカによる福音書の復活の記事をお読みしたいと思います。 主イエスが十字架につけられて殺された後、失意のどん底でエルサレムから故郷に帰って行く二人の弟子たちの所に「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められ」、「何を話しているのですか」とお尋ねになったのです。しかし、「二人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった」。たった三日前まで一緒にいたのに、今は、イエス様が一緒に歩いていても分からない。見えないのです。本当に面白い。男の姿としては「見える」のですけれどイエス様の姿としては「見えない」のです。そして、彼らはエルサレムで起こったイエス様の十字架刑のことや、女達が墓に行ったらイエス様の遺体がそこにはなくて、天使達が現れ、「イエスは生きておられる」と告げたので、他の弟子達も見に行ったら、本当に遺体はなかった・・・などと、イエス様に向かって、それがイエス様だと知らずに話している。これは一体どういうことか? そこでついにイエス様が口を開かれます。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 その後、さらに先に行こうとするイエス様を引き止めて、彼らの家に泊まってもらうことにしたのでしょう。そして、一緒に食事の席に着いたとき、客人であるはずのイエス様が、まるでその家の主人であるかのように、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。
すると、何が起きたか。
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
 主イエスが、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いて渡してくださった時、それまで遮られていた彼らの目が開けて、目の前にいるお方はイエス様だ!と分かった。つまり、イエス様の姿が見えたのです。しかし、その途端、イエス様の姿は見えなくなった。しかし、それでどうなったか。彼らは、今度はこんなことを語り合い始めたのです。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」
「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」

 私はこの箇所を読むたびに感動と興奮が入り混じって、どうしようもない気分になりますが、イエス様が以前受難と復活を預言されたことも、天使達が言ったことも、預言者達が語ったことも、何も信じないで、さっさと元の生活に帰っていく彼らを、イエス様は追い求め、愚かで鈍い者たちに聖書に記されていることを「説明して」下さったのです。これは外国語を通訳するという意味の言葉(ディエルメーネウオ)と、閉ざされていたものが開けられるという言葉(ディアノイゴー)が使われていますけれど、いずれも意味深い言葉です。聖書は、最初は誰が読んでも、全く訳の分からない外国語のようなものです。優しく丁寧に通訳してもらわなければ、目で字を追うことは出来ても、何が書かれているかは分かりません。そして、通訳してもらって、多少意味が分かってきたって、意味が分かることと、信仰の世界が見えることは全く別なのです。聖書の世界が目の前に開かれてきた時に、初めて、私たちは主イエスが今も生きておられるということが分かるのです。
彼らは、主イエスご自身による聖書の解き明かしと、そして、主イエスが主人である食卓に与ることを通して、それはつまり、私たちの礼拝における説教と聖餐を通して、「イエスは生きておられる」ということ、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」ことが分かったのです。分かった瞬間、つまり、信仰を与えられた瞬間に、イエス様の姿は肉においてはもはや見えなくなりました。しかし、彼らはこの時、栄光に入られたイエス様が、恵みと真理に満ちたお方として、今も生きておられることを確信することが出来たのです。そして、彼らはこの世の生活に戻る道から主イエスの甦りの事実を告げる道への踵を返したのです。エマオからエルサレムへと引き返した。そして、エルサレムで、復活の主イエスに出会ったペトロたちに、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」のです。この「話した」という言葉が、ヨハネ福音書において、「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」の「示された」と同じ言葉です。
 栄光と恵みと真理に満ち溢れた父は、父の懐におりつつ、父からこの世に派遣された独り子によって示されたのです。独り子をさえ惜しまないで、罪に堕ちた私たちを愛して下さる父の愛は、独り子の命を捧げた十字架を通して示されたのです。そして、その独り子である主イエス・キリストは復活され、信仰のない弟子達を追い求め、赦し、熱心に教え、再び彼らのためにパンを裂き、ご自身の命を与えて下さるお方なのです。この方について「証言する」のは、この方について「話す」のは、この方の愛に包まれ、その胸に抱かれて愛されている私たちキリスト者以外の何者でもありません。
私たちは毎週の礼拝において聖書の解き明かしである説教を聞き、心を燃やされます。少なくとも、私は準備の段階で御言の世界をキリストの霊によって通訳していただき、また神の世界、信仰の世界を開いて頂いて心燃やされたから、ここで説教を語っていますし、語りながら聞いています。そして、ああ今日もイエス様は生きておられ、私たちに語りかけてくださったと確信します。また聖餐に与る時、イエス様がパンを裂いてくださった最後の晩餐を記念し、今も私たちのために罪を赦し、新しい命を与えて下さるイエス様を覚え、さらにいつの日か天において囲む主の食卓を仰ぎ見、信仰と希望と愛を新たにして頂けます。この説教と聖餐を中心とした礼拝、そこに讃美が生まれ、祈りが生まれ、信仰告白が生まれるのです。そして、そのすべてを通して、復活の主イエスの栄光が現れます。御言の解き明かしと聖霊の導きの中で信仰を与えられた者は、この礼拝の中で、肉においてイエス・キリストを見ずとも愛し、「言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れる」のです。その私たちを、復活の主イエスは派遣されます。ヨハネ福音書20章21節にはこうあります。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 罪の赦しによって与えられた平和。神様に愛され、赦され、神様と共に生きることが出来る喜び、感謝。それはすべて恵みとして与えられたものです。この恵みは人に分かち与える時に本当のものになるのです。父は独り子を遣わし、独り子の内にいつも生きておられました。私たちが独り子なる神、主イエス・キリストの派遣に応えてこの世を生きるとき、心が燃える神の愛を身をもって示しながら、家族や友人に話しながら生きるとき、神の愛が伝わるように祈りつつ生きる時、主イエスは、私たちの内に生きてくださいます。私たちは1章12節以下にありますように、神の言であるイエス・キリストを信じて「神の子となる資格を与えられた」のです。私たちは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」神の子です。だから、独り子に倣って、父の生き写しのように生きることが出来るはずです。命の御言を食べ、命の御霊で呼吸し、命のパンを頂きながら生きる子であれば、愛と赦しに生きる私たちを通して神は見られ、示されていくのです。
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