「あなたは、どなたですか」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章19節〜28節

 

「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



 今日の説教題はいつもの如くに、まだ内容も分からない段階で苦しまぎれにつけた題です。私が説教に題をつける時、御言からイメージされる内容を題にする場合と、御言そのものを題にする場合の二種類があります。今日の「あなたは、どなたですか」と来週の「見よ」は両方とも御言そのものです。そして、両方とも誰が誰に向かってどういうシチュエーションで語っている言葉であるかが分からなければ、何が何だか分からない言葉です。以前も言いましたが、二階の牧師室にいますと、道行く人の声がよく聞こえます。ある時、若い男性が、看板に記されている説教題を見て、「〇〇〇〇だって、変なのー」と大声で言う声が聞こえて、書斎の中で大笑いをしたことがありますが、先日、私と一緒に暮らしている人が、「今度の説教題の『あなたは、どなたですか』って、認知症のおばあちゃんが、『あなたはどなた?私は誰?』って聞いているみたいで変よ」と言うので、私はまた何とも言えない楽しい気持ちになりました。
私の母方の祖母の晩年はまさにそういう人でした。新年に息子や末の娘の家族と共に住んでいた祖母に会いに親戚が集まると、長女である私の母を見て、いつも丁寧な言葉で「あなたはどなた?」と尋ねるのです。娘に「あなたはどなた?」と訊くということは、「自分が誰か」も分かっていないということです。私の母が、「お母さんの娘よ」と答えると、「あら、そうだったの?」と言って、そこで自分が目の前の女性の母であることが分かる。そういう祖母でした。でも、食事が始まる前に「それじゃ、おばあちゃん。お祈りして」と頼むと、「あら、そう?私が?」と言うのですが、目をつぶると「神様、今日はこうして親戚の者が集まって、このように豊かな食事をいただけますことを感謝します」という言葉から始まって、皆が幸せであるようにとかちゃんとお祈りをしてくれる。そして、その祈りが終わると、また「ここは何処?あなたはどなた?私は誰?」という世界に帰って行くのです。私は、そういう祖母が大好きでしたし、今でもたまに思い出しては、心が和むと言うか、むしろ熱くなります。神様に向かう時だけ、いわゆる正常に戻る祖母は、そこまで認知症が進む前に「主の祈りで、『御国が来ますように』と言うでしょ?私には、もう御国が来ているように思うのよ」と会う度に言っていました。それは、同居してくれていた叔父や叔母の家族が、祖母に本当に優しくしてくれたからだと思いますが、その最も深い所では、若き日には自ら伝道者として生き、牧師である祖父と結婚してからは、伝道者の妻としてひたむきに生きてきた祖母の信仰が言わせた言葉だと今は分かります。主イエスは、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と仰いましたが、それは祖母においては実現した言葉だったと今も思います。そういう意味で、天に召されてもう二十年近くなる祖母もまた、私にとっては一人の証人、キリストを証ししてくれた証人です。
 今日の箇所に登場するのはヨハネという人物です。主イエスが登場する直前に、人々に悔い改めを呼びかけ、罪を悔い改めた者に洗礼を授けた人です。彼が当時の人々に与えた影響は絶大なものでした。多くの人々が、彼こそは旧約聖書において到来が約束されていたメシア、キリストなのではないかと思うほどだった。そういう時代状況の中で、ついに「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わし」ました。ユダヤ人社会における最高権力者集団が、ヨハネを尋問するために使者を派遣したのです。ちょっと面倒なことを言わざるを得ないのですが、24節には「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」とあって、「祭司とレビ人」とは違う人々が登場します。こういう矛盾をどう解釈するかについての議論も興味深いのですが、今日は省きます。ここで言われていることは、ユダヤ人社会全体が洗礼者ヨハネを警戒し、その後に登場するイエスを警戒し、敵視していたのだということだと思います。
 そして、そういう状況を踏まえると、「あなたは、どなたですか」という翻訳はちょっと丁寧すぎると思います。単純に「お前は誰だ」Who are you?と訳した方が、感じが出るように思います。そして、暫くの間、この「あなたは、どなたですか」「お前は誰だ」という問いが持っている世界を、少し取り止めもないような形で広げて行きたいと思います。
 前回、私は創世記におけるハガルという女奴隷の話をしました。そこには、女主人サラの虐めに耐えかねて逃亡する女奴隷ハガルに神様の使いが現れ、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」と問いかけた場面があります。この「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」という問いの中に、「あなたはかつて何者であり、今は何者であり、これから何者になろうとしているのか」というハガルのアイデンティティを問う問いがあり、それはそのまま私たちへの問いでもあると語りました。
 この説教をして以来、その問いが頭から離れずに生きているので、今日の説教題をつける時も、「あなたは、どなたですか」という言葉しか思いつかなかったのかもしれません。この言葉は、ここでは権力者によるヨハネに対する尋問の言葉ですが、私たちが誰かから同じことを問われたら、私たちは何と答えるのでしょうか。それも法廷でその答え如何によって、無罪か有罪かが宣告されるというシチュエーションで尋ねられたら、私たちは何と答えるのでしょうか。
 こういう問いを持ちながら生活していると、広げた網の中にいろんな魚が引っかかってくるように、多くのことがひっかかってきます。その内のいくつかのことを思い出すままに挙げてみます。
先月と今月にかけて、中渋谷教会の婦人や壮年たちの会で『十戒』という映画を見てきました。内容は旧約聖書の出エジプト記に題材をとっているわけですが、その映画の中で、イスラエルの奴隷を逃がしたくないエジプトの王(ファラオ)と神に立てられた偉大な指導者であるモーセが幾度も対決します。それは目に見える形では、人間と人間の対決ですけれど、その深みにおいては、イスラエルの神であるヤハウェとエジプトの神々の対決なのです。モーセはただ神の手となり、口となり、神様の命令に従って生きる人間です。しかし、エジプトの王(ファラオ)は、弱い人間であるにもかかわらず、同時にエジプトの神でもある。彼自身が、かつての日本の天皇と同じく神格化された存在なのです。しかし、その彼のたった独りの子が、エジプト中の初子と同じように、ファラオの罪の身代わりのように死んでしまう。その時、冥界を支配する神と信じられていた鳥の顔をした偶像の前で「息子を甦らせてくれ」と祈り続けるファラオと、その妻の間で激しい喧嘩が生じます。ファラオは、すべてが奪われ、崩れ去っていく悲しみと怒りの中で「私こそエジプトだ」と呻きます。「わたしは栄光に満ちた王であり、神のなのだ」という意味です。しかし、妻はせせら笑ってこう言うのです。「ふん、あなたなんて何者でもないわ。You are nothing!」「祭司達はファラオのことを神だって言うけれど、あなたは今や人間ですらないわ。奴隷達の笑い声が聞こえないの?さあ、行って、モーセを殺してきて頂戴・・」ファラオはこの挑発に乗ってさらなる悪夢に突入して行くことになります。一人の人間が偶像を神と崇め、また自らを神格化していく時、人間は実は人間ですらなくなる、まさにナッシング、無になる。そういうことだなーと思いながら、私はその映画を観ていました。
 また、聖書研究祈祷会では今、ヨハネ福音書17章を読んでいますが、そこで主イエスは、その弟子達、つまりキリスト者のために祈って下さっています。その祈りの中に、「聖なる者」という言葉が出てきます。主イエスが、弟子達を「聖なる者としてください」と神様に願うのです。主イエスは、ご自身を十字架に捧げることで、ご自身を聖なる者とされる。そして、弟子達も「捧げられた者」つまり、「聖なる者」となれるようにと祈られるのです。私たちキリスト者は、この主イエスの祈りの中に信仰を与えられ、洗礼を受けて、世の支配から解放され、罪の汚れを清められ、神の支配に生きる者とされ、神様に身を献げた者です。そういう意味で、私たちは「あなたは誰ですか」と問われたなら「聖なる者」ですと答えるべき者たちなのです。そのことを改めて知らされて、私はある意味、愕然としてしまいました。自分自身を「聖なる者」と言うことは、なかなか出来ることではありません。しかし、主イエス・キリストによる罪の贖いを信じ、主イエスに従う生活をしているとすれば、それはこの世で一般に抱かれている「聖」のイメージとは違うかもしれませんが、「聖なる生活」であることは事実です。
 また、中渋谷教会も神様の家族として多くの方がおられますけれど、現在、陪餐、未陪餐会員を含めて三人の方が、二人目のお子様の出産を迎えようとしています。出産の前後に共に祈る機会を持ちたいと願っていますが、そういう時も、神様から見て、新しく生まれる命とは何なのか、その命を宿す母親とは何者なのか、また牧師として祈る私は何者で、何を祈るのかということを考えざるを得ません。視点は、神様なのです。神様がどう見ておられるのかであり、私たちが神様のご計画と業をどのように見るかです。
 また、ある方は怪我や病気で入院されています。私は、高齢の上に重度の病気になった方のお見舞いをすることがありますが、そういう時も、何を語り、何を祈るのかを考えます。しかし、いくら考えても分かりませんから、結局、「主よ、共にいて私の口を開いてください」と祈って行くしかないのです。先日も、青梅の老人ホームにおられるSさんを久しぶりにお訪ねすると、私は知らなかったのですが、脳内出血で年末から二ヶ月ほど入院をされていたらしく、意識がほとんどなくて、話すこともできず、ただベッドの傍らで祈って帰って来る外ありませんでした。ある時は、病室でご自分の葬式に関して希望を言われることがあります。そして、「私は教会のために何のお役にも立っていないので、教会で葬式をやっていただくなんて勿体無い」とか言われることもあります。しかし、教会の葬式は神様への礼拝です。故人のためにする私的な儀式ではありません。故人に与えられていた、いや、死して尚、より鮮明に与えられているキリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりを証し、讃美するためにするのです。故人の為ではなく、その人を愛し、信仰を与え、ご自身の者として捕らえ、最後まで手を放さずに導き、天国へと導いて下さった主イエス・キリストに感謝し、讃美するのです。そのことにおいて、遺族が慰められ、また集う一人一人が信仰に生きることの素晴らしさを知ることが出来れば、それは神様の御心に適った葬儀でしょう。先日も、「私はいつ召されても構わないのですが、最後に、神様の面汚しになるようなことを言わないようにとお祈りしています」と仰る方がいて、別れ際に、この御言を読んで祈りました。これは、伝道者パウロが、裁判の結果によっては殉教の死を遂げるかもしれない獄中で書いた言葉です。

「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです。」

 今度のイースターには洗礼を受けることを希望している方がいます。その方に信仰を求める思いを与えた一つの大きな要因は、義理の母上に当たる方が最後まで信仰によって支えられ、神様と人への感謝を忘れることなく、毅然として生き、天国へと旅立ったその姿であり、この教会における葬儀です。母上が信仰に生きる姿と葬儀を通して「証し」されたキリストの恵みに心打たれて、礼拝に通い始め、以後、熱心に求道をしてこられたのです。
 また、現在は教会員ではないのですが、この教会で結婚式を挙げようとしておられる方もいます。男性は他教会の会員で、女性はまだ礼拝に通い始めたばかりです。長老会では以前から教会における葬儀について、また結婚式についてずいぶん議論をして、その「心と形」を決めてきたのですが、結婚という機会に、キリスト教信仰と真剣に向き合い、結婚の背後に神様の愛と導きがあることを信じ、神様の前で誓約をするということが、どういうことであるかを礼拝生活の継続と結婚講座を通して学ぼうとする方であるなら、喜んで致しましょうということになっています。そのお二人は、昨年12月から、ほぼ欠かすことなく主に夕礼拝に出席し、私も時間をやりくりして毎週のように結婚準備会を持っていますが、そこでやっていることは、「あなたは何者なのか」という問いの前に共々に立つことなのです。教会で、牧師の司式によって礼拝としての結婚式を挙げたいと願うあなたは何者なのか?信仰を求めようとしているのか、教会を重んじているのか、結婚をどう考えているのか?そういう問いを、私は投げかけ続けますし、私自身、一体いかなる資格と権威をもって、そのお二人に結婚の誓約をさせ、「神が合わせたものを人は離してはならない」と宣言できるのか?と深刻に問われ続けて、ある意味、非常に苦しい思いをしています。結婚する当事者とは何者であり、司式者とは何者であり、参列者とは何者なのか? そして、結婚とは何か?それはいつでも新しく問われるべき問いだと思います。
 また3月にも4月にも、去年召された方の記念会があり、また埋骨式も予定されています。その度に、キリスト者にとって死とは何か、墓に葬られるとはどういうことかを考えさせられます。
妊娠を知らされた時の祈り、出産後の祈り、そして幼児洗礼式や祝福式、また成人の洗礼式や信仰告白式、結婚式、葬式、埋骨式、記念会。生まれる前から死んだ後に至るまでの儀式の中で、いつでも新たに問われていることは、キリスト者とは何か?キリストを信じて生きている私は一体何者なのか?ということです。あなたは、誰ですか?この問いは、このように際限なく広がり、また深まっていく問いなのです。
 本文に戻ります。
19節は、こういう書き出しです。
「さて、ヨハネの証しはこうである。」
 この「証し」という言葉は、証言という言葉ですから、法廷用語としてしばしば使われます。信仰の証しが、法廷の証言として採用され、有罪と無罪を分けていくのです。しかし、人を本当に裁くことが出来るのは人ではなく、神様です。ですから、この証しは、人の前でなされると同時に神様の前での証言となるのです。結婚式の誓約も同じことですし、洗礼式の誓約も、按手礼式における誓約もみな、目に見える形では牧師が問いかけますし、問われた人は牧師に答えていますが、それは目に見える形であり、実際には問いはキリストから与えられ、応答はキリストに対してしているのです。そのことが分からない人はいかなる式の司式もしてはならないし、分からない人にはいかなる式もしないというのが、教会が守るべき原則でしょう。信仰を持っていない人に洗礼を授けることは出来ませんし、神様の愛を信じない人に教会における結婚式で誓約をさせることは出来ません。選挙の結果に神様の召命を感じ取らなければ、長老の按手礼をすることは出来ないのです。聖なる式は聖なる者が司り、そして聖なる者が与って初めて、神様の愛と恵みを証しするものとなるからです。
 ヨハネは「あなたは、どなたですか」という問い、明らかに、その答如何によって逮捕され、死刑にされてしまうかもしれない問いを受けつつ、こう答えました。

「わたしはメシアではない。」

 ここで「公言して隠さず」、「言い表した」と訳されていますが、「公言する」と「言い表す」は原文では同じ言葉ですし、「隠さず」は他の箇所では「知らない」とか「打ち消す」と訳されています。そして、それらはいずれも主イエス・キリストその方と関る言葉なのです。
9章には盲人の癒しの記事がありますが、癒された盲人の両親は、イエス様のことをメシアだと公に言う(公言する)と、ユダヤ人によって会堂から追放されることが決まっていたので、恐れて何も言わないのです。12章には、ユダヤ人の議員達の中にも、イエスを信じる者はいたけれども、ファリサイ派の人々によって会堂から追放されることを恐れて、誰も公には言い表さなかったとある。会堂から追放されるというのは、ユダヤ人社会では生きていけなくなるということですから、無理からぬことですが、「公言する」とは、そういう危険性を伴うことなのです。  さらに十二弟子の筆頭株であったペトロが、イエス様と一緒に捕まって十字架で殺されてはたまらないと思って、イエス様のことを三度も「知らない」と言い、イエス様と交わりがあったことを「打ち消す」のですが、それが「隠す」という言葉です。ペトロは、イエス・キリストを信じる信仰者であることを隠しました。しかし、洗礼者ヨハネは「隠さなかった」。ペトロはキリストを否定して、キリスト者である自分を抹殺してしまったのです。しかし、ヨハネは、はっきりと「わたしはメシアではない」と公言して隠さなかったのです。彼はこう公言することで「メシアは他にいる」と証言しているのです。しかし、尋問する者たちは、メシアが来ていても、それがメシアだとは分からない、キリストだと分からないのです。それは霊的な事柄であって、目に見える事柄ではないからです。
 尋問者は、「それでは誰か、エリヤか、あの預言者か」と立て続けに問います。メシア到来の前に来るとされていた預言者エリヤ、あるいはメシアと同一視されるモーセのような預言者、「お前はそういう者なのか?」という問いに対して、「違う」とヨハネは言います。尋問者はたまらず「それでは一体誰なのか?自分を何だと言うのか?」と詰め寄ります。
 ヨハネは、ここに至って初めて否定形ではない応答をします。
「わたしは荒野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」

 その答を聞いて尋問者は、メシアでもない者が、一体いかなる資格を持って洗礼を授けているのか?!と問いただす。ヨハネは答えます。

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

 彼が授ける水の洗礼の背後に立っている方がおられる。その方を、あなたがたは知らない。その方のご命令によって、私は罪の悔い改めを促し、清めの洗礼を授けている。そういうことでしょう。
 しかし、その方のことは、見える人には見えるし、見えない人には見えない。その現実を、ヨハネは説明しませんし、私も説明しようがないと思います。この先を読むと、31節と33節に、二度も「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返されています。彼自身も、かつては尋問者と同じく、イエス様が誰であるかを知らなかったのです。そういう人間、世に生きる人間だったのです。しかし、その彼がある時、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」のです。だから、彼は「この方こそ神の子である」と証言するのだし、また29節にありますように、「自分の方へイエスが来られるのを見た」ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言するのです。
 イエスという一人の人間の上に霊が降るのをヨハネが「見る」という事実がなければ、彼に近づくイエスという人物が、「世の罪を取り除く神の小羊」であることも、「神の子である」ことも分かるはずもないし、知るはずもないことです。この「見る」という事柄は、霊的な事柄なのです。だから、ヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言う他にない。しかし、今、知ることがなくても、彼がそうであったように、何時知ることが出来るようになるか分からない。いつ、聖霊が与えられて目が開かれるか、耳が開かれるか、心が開かれるか分からない。だから、彼は荒野に叫ぶ声として叫ぶしかない。「主が来られるのだ、いや、今既に来ておられるのだ」と。ただただ声として叫ぶ。「私があなた方の目にどれほど大きな存在であったとしても、私の後から来られる方は、実は私よりも先におられた方であり、それは世が創造された時に既におられたということであり、その方が今、罪に堕ちてしまった世を救うために肉体をもって現れた。その方こそ神の子、神の小羊。メシア、キリスト。ただその方の到来を告げるために、私は語り、水で洗礼を授ける。私がそうするのは、そうするように命じられているからだ。私を派遣した方が、そうするように命じておられる。その命令に従う以外に私はすることがない。この命令に従わないとすれば、私はNothing、無になってしまう。ただ、この方の命令に従い、派遣に応えて、声に徹する時、私はキリストを証しする者として生きることが出来る。ただ、そのことが私の喜び、私が生きている証し。」彼は、そう叫び、その声がキリストの到来を告げる証言そのものなのです。その証言を通して、キリストが自分の目の前に立っておられることが見える人には見えるし、見えない人には見えない。これは聖霊の業なので、人間ではどうすることも出来ないことです。
 私の祖母がキリストの愛を素朴に強く証ししてくれた証人であることを私が知ったのは、私が信仰を与えられて後のことです。そして、私にとっては多くの人々が、キリストを証ししてくださる証言者です。「証言者」と言うと、私のように口で説教をすることを使命として与えられている者が目立ちますけれど、実際には、キリストの手や足になってキリストを証ししている方が数多くいます。目立たない形で、ひっそりと、しかし、たしかに信仰に生きる姿を通してキリストを証ししてくださっている方が沢山います。
 パウロは、コリントの信徒への手紙でこう言っています。
「もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし体全体が耳だったら、どこで匂いを嗅ぎますか。そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分をおかれたのです。・・・目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また頭が足に向かって『お前達は要らない』とも言えません。」
 私たちは皆、それぞれ与えられている賜物は違います。しかし、今はキリストの体なる教会の一員、キリスト者とされているのです。神様の恵み、聖霊の導きによって信仰を与えられ、ただの歴史上の人物としてしか知らなかったイエスこそ、私の罪を贖うために十字架の上で死なれた贖いの小羊であることを知り、そのイエスが復活して今も私たちと共に生きてくださる主、キリストであることを知ることが出来た者たちです。だから、その私たちの願いは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」ということであり、「わたしにとって生きることはキリスト。死ぬことは益です」ということなのではないでしょうか。
「あなたは、誰ですか、どなたですか、何者なのですか」と問われる時、生きている意味も死ぬ意味も分からなかった時、私たちは言葉に窮するだけでした。でも今、私たちは「私は主イエス・キリストの者、クリスチャンです。私のために生き、私の罪のために十字架に架かって死んでくださり、私が新しく生きることが出来るために甦り、今も共に生きてくださる主の愛を伝える口です。主の愛を伝える手です。主の愛を伝えるために走る足です。主の愛を見つめる目です。主の愛の香りを嗅ぐ鼻です。あなたの隣にもあなたが知らないお方が立っておられます。そして、悔い改めなさい。神の国はここに来ているとお告げになっています。いつかその声を聞き、罪を悔い改め、主の愛を受け入れることが出来ますように」と、自分の人生を捧げて答えることが出来る聖なる者とならせて頂いたのです。「ただただ主の愛と恵みよる」としか言い様がありません。キリスト者は皆、この愛と恵みによって生かされているのです。愛と恵みは、人と分かち合って初めて生きたものとなります。この礼拝から始まり、派遣されて生きる一週間、主に感謝し、主を証し、讃美しながら歩むことが出来ますように、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜びながら、主を共にすることが出来ますように祈りましょう。
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