「見よ」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章29節〜34節

 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」



 お気づきになった方も多いと思いますが、一枚の絵のコピーを二階ホールの掲示版に貼っておきました。ルターの宗教改革後にプロテスタントに改宗したグリューネバルトという画家が描いた十字架像です。十字架の下にイエス様を指差す男がいます。これは、先週と今日の箇所に登場するバプテスマのヨハネです。何故、この男がバプテスマのヨハネだと分かるかと言えば、彼の足元には小さな十字架を背負った「小羊」がいるからです。ですから、この絵は、ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と言っている場面であることは明白です。また、コピーでは全然見えませんが、彼の指と顔の間の暗い部分には「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」というヨハネの言葉が記されているのです。
 この絵を見て、「たしかに、ヨハネはこういうことをした」と思う人は、ヨハネ福音書をまだ何も知らない人と言う他にありません。ヨハネ福音書に、このような場面はないからです。しかし、ある面から言うと、「たしかに、ヨハネはこういうことをした」と思う人こそ、ヨハネ福音書に精通しているとも言える。しょっぱなから、分かったような分からないようなことを言って申し訳ないのですが、ヨハネ福音書の世界とはそういうものなのです。
 目に見える事実として、この絵に描かれているような情景は、聖書の何処にもありません。向かって左側にいるのは、マリアの母と主イエスの愛弟子、そして、マグダラのマリアでしょうが、それはこの福音書の19章に出てきます。しかし、バプテスマのヨハネが十字架の下から主イエスを指差しているとか、その足元に羊がいたとかいう記述はありません。この絵は、そういう意味では捏造されたものです。しかし、この絵はヨハネ福音書に書かれている事実を正確に再現しているのです。そして、そのことが分からないと、この福音書が何を言っているのかが分かりませんし、私の説教も全く分からないと思います。
 ヨハネ福音書は、ある意味では説教に非常に似ているので、ちょっと説教に関しても述べておきますが、説教というものも、ある人にはよく分かるし、ある人にはさっぱり分からないものです。同じ説教でも、ある人には分かりやすく、他の人には分かりにくい。私自身は分かったと思うことを、出来るだけ多くの人に出来るだけ分かりやすく話しているつもりなのです。しかし、説教が「分かる」ということは、話の論理が分かるとか、内容が分かるとかそういうことではありません。それすら分からないというのは、話しが支離滅裂か、聞く方が何も聞いていないか、まだ何を聞いても分からない段階か、いずれにしろ人間の側に原因があると思います。しかし、もっと本質的な意味で「説教が分かる」とは、説教の前に読まれた御言が、説教を通して、神の言として聞こえてくるとか、キリストが今ここに生きておられるのが分かるとか、そういうことなのです。そういう分かり方以外の仕方で、「今日の話は分かりやすかった」とか、「感動した」とかいうことがあっても、それはほとんど意味がありません。そういうことは礼拝における説教以外でも起こることだからです。人が語っている言葉が、自分に対する神の言として聞こえる。キリストが今ここに生きておられ、私たちの只中に立って、私たちを悔い改めに招き、罪の赦しを与えてくださり、さらに派遣してくださる。そういう霊的な現実に触れて、慰められ、戒められ、励まされ、力づけられ、感謝と喜びと讃美が、また祈りが湧き起こってくる。そういうことが、説教を聴く人間の中に起こる時、それは説教が説教として聴かれた時、それが説教が「分かった」と言える時なのです。「その時」、その説教は、その人にとって素晴らしいものになります。そして、そういう「時」があれば、説教の中で知的に分からないことがどれ程あってもそんなものはどうでもいいし、そういう「時」がないのならば、説教の筋や論理がすべて分かったとしても、そして、その内容がどれほど素晴らしいものであったとしても、そんなものもどうでもいいことです。語る私においても、それは同じことです。私が説教を語りながら自ら聴く中で、生ける神の言を聴き、畏れ、感謝し、キリストの御前にひれ伏して、「我が主、我が神」と告白しつつ信仰と讃美の祈りを捧げることに促されなければ、私は自分自身に説教を語ったことにならないし、説教を聴いたことになりません。精々、聖書について色々と勉強したことを喋っただけです。そしてそれは、少なくとも教会の礼拝の中でやることではありません。
 さて、ヨハネ福音書です。まだ1章ですけれど、昨年の十月半ばから読み始めてもう五ヶ月になろうとしています。聖書研究・祈祷会ではもう二年半以上も前から読んでおり、私自身はその半年前から読み始めている。ですから、お付き合いはそれなりに長いのです。しかし、まだまだ巨大な山である富士山の裾野に広がる青木が原の樹海の中を、山頂への道を探しながら歩いている感じです。しかし、そういう時でも、何かの拍子に突然雲や霧がはれて、木陰から富士山の山頂とか全貌が見えたりするときがある。それは一瞬のことなのですが、スカーっと見える。その一瞬に、この福音書が持っている不思議な世界、捉えようもなく豊かな世界に感動します。今日も、その一瞬があれば良いなと願いつつ語ります。そして、共々に主イエス・キリストを礼拝し、主イエス・キリストによって罪の汚れを清められ、聖霊によって新たな命を与えられて、キリストの証人として派遣されることが出来ますように。
 この福音書の不思議さ、それは時空を自由に超えていく書き方にあります。過去・現在・未来という時間の流れを前提としていると、たちまち訳がわからなくなりますし、存在するのは地上だけとか、天上だけとか、そういう画一的な考え方をしていると、さっぱり分からないのです。ヨハネ福音書は、時間の流れを追って描く伝記物語の類型を利用しながら、歴史を越えて生きておられる神の子イエス・キリストを証しする書物です。そして、私たちに、この方を「見よ」と促す。しかし、主イエスは最後に、「見ないで、信じる者は幸いだ」と仰る。「一体どっちなんだ!」と言いたくなりますが、そういう二者択一的思考では分からないのが、ヨハネ福音書です。
29節は、「その翌日」という言葉から始まります。普通に読むならば、前の段落に記されている出来事の「翌日」ということです。しかし、もしその翌日だとすると、ヨハネとイエス様は初対面なのでしょうか?少なくとも、これまでの伝記部分で、ヨハネと主イエスが会ったという記述はありませんから、普通なら初対面の場面のはずですが、先ほど司式者によって読まれた29節から34節までを聞いていて、皆様はどう思われるでしょうか?この箇所に書かれている事柄の時間経過がすぐに頭に浮かぶでしょうか?
 表面的には、ヨハネが初対面のイエス様を見た途端に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」から始まる言葉を言ったと解釈することが順当だと思います。しかし、その中で、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と過去形で言っています。それは、今は知っているからでしょう。事実、彼は主イエスを見て、「神の小羊だ」と言っているのです。だとするなら、この29節の「その翌日」と言われる日よりも前に、彼は主イエスと会っていたことになる。32節以下はそのことを示しているのでしょうか。ここにも「わたしはこの方を知らなかった」とありますが、ヨハネを洗礼者として派遣した方(これは神だと思います)が、「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である」とヨハネに告げており、ヨハネは(ほぼ確実に、自分から水の洗礼を受けた直後の)主イエスの上に霊が降り、留まるのを見たのです。その時に、この方こそ、神の子であると証ししたのです。
 よく考えてください。ヨハネがイエス様に最初に会ったのは何時で、イエス様が神の子であると知らなかったのは何時で、イエス様が神の子、それも世の罪を取り除く神の小羊であると知ったのは何時なのでしょうか。イエス様が、ヨハネの洗礼を受けに来たのが初対面で、その時に聖霊が降り、イエス様の上に留まり、それ以来、ヨハネは「この方こそ神の子であると証しした」として、それは「見よ、神の小羊だ」と言った時よりも前なのでしょうか?
昨日も、そういうことで悶々として、ある方にちょっと呟くと、「あなたのように何でも理屈で筋道をつける人にはヨハネは分からないかもしれないけれど、もっと直感的に読めれば、分かるのよ」と言われてしまい、「それなら明日、代わりに説教してくれよ・・」と言いたかったのですが、それは余りに惨めなものですから、「そうは言ったって、福音書を書いたヨハネが色々と仕込んでいる隠し味をちゃんと味わった上で、美味いというべきなんで、それが礼儀なんだから、そういうことはちゃんとやりたいんだ」とか言いましたが、そういう礼儀を尽くした上で、やはり最後は直感というか、いきなり雲が晴れるのを待つしかない、つまり、聖霊が降って来て、御言の世界を開いてくださるのを待つしかないことも事実です。
とにかく、今まで言ってきたことを、ある程度整理すると大体こういうことになると思います。
“主イエスは「初めに神と共にあった言」として世が造られる前から存在していたお方だ。つまり、独り子なる神だ。その方が肉となって現われたとしても、その肉の姿の中に神の姿を見ることは当初、誰も出来なかった。しかし、ある日、洗礼者ヨハネは、それ以前に神様から言われていたように、霊がある人の上に留まるのを見たのです。それ以来、彼は「この方こそ神の子である」「世の罪を取り除く神の小羊だ」と「叫ぶ声」になった。”
そういうことでしょう。しかし、29節の「その翌日」と、34節に記されていることの前後関係は相変わらず分かりません。
この福音書が、時間の流れを追って様々な出来事を書く伝記の体裁をとりながら、実は伝記ではないということを先ほど言いましたけれど、たとえば、「その翌日」という言葉、これは、1章だけで3度、29節、35節、そして43節に出てきます。そして、2章に入るといきなり「三日目に」とある。まるで日記を書いているかのように正確に日付が書かれているのです。しかし、ここで福音書記者であるヨハネが日付を書く理由は、何年何月にイエス様が何をしたかを記録するということではありません。
ヨハネ福音書の冒頭が創世記1章を意識したものであることは明らかです。創世記においては、神様は言によって世界をお造りになった。それも光から創造を開始された。そして、六日で世界を造り、七日目は安息されて、その日を祝福されたのです。祝いの日(祝日)とされたのです。そのことを踏まえてヨハネ福音書を読んでみますと、1章1節から18節までに記されていることが初日の出来事として、先週の出来事が二日目、そして、今日の箇所が三日目となります。そうやって数えると、2章にあるカナという町の婚礼の祝いの席で、イエス様が水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡(しるし)をなさったのが七日目になります。その出来事について2章11節にはこう記されています。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちは、イエスを信じた。」

 「しるし」「栄光」「信じる」。いずれもヨハネ福音書においては決定的に重要な言葉です。「初めに」という言葉から始まり、その翌日、その翌日、三日目と時間を区切りながら、最後の七日目の祝いの日に、主イエスの栄光が現わされ、弟子達が信じる。それが安息日の出来事です。これは実に暗示的なことです。私たちの礼拝は、安息日礼拝なのですから。
つまり、「その翌日」という日付は、この七日目の安息日に向かっていくものなのです。そして、七日目までの間に、ヨハネ福音書はイエス様が持つことになる尊称(称号)を立て続けに書き記していきます。「神の小羊」「神の子」「メシア(キリスト)」「イスラエルの王」。そして、1章の最後では、主イエスご自身がご自分のことを「人の子」と呼んで、こう仰っています。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

これは肉を持った人間の言えることではありません。そして、肉を持った人間が聴いても、何を言っているのか分かりません。主イエスが神であることを、主イエスご自身が証ししておられるのです。しかし、そんなことは、聴いたその時に人間が分かることではない。分かるのはずっと後のこと、主イエスの十字架の死と復活以降に、聖霊を与えられ、信仰を与えられて以後のことだし、ここで主イエスが仰るように、天使が昇り降りするのを「見る」のは、恐らく私たちが死んだ後、世の終わりの時だと言わねばならないと思います。
ヨハネ福音書は、こういうふうに、一日一日、日を刻みつつ地上で起こっている出来事を書いているようでありつつ、そこで言っていることは、実は天上のこと、実は将来のこと、永遠の事柄、肉眼の目には見えない霊的なことなのです。そして、いつも本質的なことです。聖霊によって信仰が与えられない限り、そして、神様によって「霊的な直観」を与えられない限り、この福音書の世界を見ることは出来ませんし、その言葉を正しく聴き取ることは出来ません。
 史的な事実としては、バプテスマのヨハネは、主イエスが登場するよりも少し早く地上で洗礼運動を開始し、主イエスの到来後ほどなくその使命を終えて消えていくのです。他の福音書によれば、ヘロデ・アンテパスという王に捕らえられ、惨めな仕方で殺されてしまう。だから、彼が主イエスの十字架の下に立って、その主イエスを指差しているはずはない。そういう歴史的な事実はない。にもかかわらず、グリューネバルトは、こういう絵を描きましたし、この絵はまさにヨハネ福音書が言わんとしている事を正確に表現した絵だと、私は思います。それは、どういうことか。時間の都合で、今日は一つの言葉に限定して、その理由を語ります。
洗礼者ヨハネは、「その翌日、自分の方へイエスが来られるのを見て言った」とあります。この「来る」という言葉、これは一見すれば「歩いて来る」ことを意味していると誰もが思うでしょう。しかし、この「来る」という言葉は、この直後にも出てきます。「わたしの後から一人の人が来られる」。この「来る」は、「歩いて来る」という仕方ではないことは言うまでもありません。これは言ってみれば、世が造られる前からおられた方が、肉を持ってこの世に生まれる、地上に降ってくる、歴史の中に突入して「来る」という意味です。この「来る」という言葉が、1章だけで12回も出てきます。光が世に「来た」という時も「来る」です。そして、この「来る」が、ヨハネ福音書の最後に非常に決定的な仕方で出てきます。
20章19節から読みます。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

  主イエスが「来て真ん中に立ち」という言葉が出てきます。ここでの主イエスは復活の主イエスです。ユダヤ人を恐れ、自分達の罪を恥じて、戸を閉め切った部屋に集まっている弟子たちの所に主イエスが「来て」、彼らの真ん中に立ってくださったのです。これは、日曜日の晩のことです。その時、弟子の一人のトマスがいませんでした。彼は、他の弟子達が、自分達の所に来てくださった主イエスを見た、つまり、復活されたと言っても信じることが出来ませんでした。その日から数えて八日目の日曜日。復活の主イエスが再び、今度はトマスのいる時に「来て」「真ん中に立って」くださったのです。その主イエスをトマスは「見る」のです。その時、彼は自分の目の前にいる方が自分の罪を取り除くために十字架に掛かって死んでくださった方であり、自分を新しく生かすために甦られた独り子なる神であることを信じることが出来たのです。そして、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、主イエス・キリストを礼拝したのです。これが「その翌日」を繰り返していった最後の日、復活の祝日で起こった出来事であり、今も起こっている出来事なのです。
 時空を飛び越えるこのヨハネ福音書においては、1章でバプテスマのヨハネのところへ「来て」下さった主イエスは、十字架と復活を経て弟子たちの所に来て、真ん中に立ち、彼らにご自身を現わされた主イエスその方なのです。バプテスマのヨハネが、「この方こそ神の子である」と証しをした方は、私たちすべての罪人の罪をその身に担い、罪に対する裁きを受けて死んでくださった苦難の僕としての羊です。しかし、それだけでなく、イスラエルをエジプトの奴隷から解放するために屠られた過ぎ越しの小羊のように、罪と死の束縛から私たちを解放し、新たな命、永遠の命を与えるために屠られた神の小羊なのです。さらにヨハネの黙示録に登場する小羊、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」と天使が賛美する小羊なのです。そういうお方として、主イエスはバプテスマのヨハネのところに「来て」下さったのだし、主イエスを裏切った弟子たち、またトマスの所へ「来て」下さったのだし、今日も、この礼拝堂に集まってきた私たちの所に「来て」、真ん中に立ち、私たちの罪を赦し、聖霊を吹きかけ、新しい命を与え、この罪の赦しの祝福を一人でも多くの人々に与えるために世に遣わしてくださるのです。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」
 これは、この福音書を読むすべての人間に対する証言の言葉なのです。ヨハネが「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と言う場合、それは現在完了形で書かれていますが、今も証しし続けているということなのです。ヨハネは、今でも、この福音書を読むすべての人に「見よ」と呼びかけ、「この方こそ、神の子キリストだ、信じなさい」と証ししているのです。グリューネバルトは、その事実を描き切っている。
このヨハネ福音書の本文における結論の言葉、それはこういうものです。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
 私は今日、この福音書に記されている御言を信じ、主イエスを信じて、証言します。
「イエス様こそ、皆さんの救い主です。メシア、キリスト、神の子です。信じて生きましょう。そうすれば、私たちはすべての罪を取り除かれ、聖霊によって清くされ、新しい命を生きることが出来ます。それは、このメシア、キリストを証しして生きる命です。罪の中に滅びるほかなかった私たちが、今や、神の栄光を証し、その栄光の中に迎え入れられる者に造り替えられたのです。主イエスを賛美しつつ、今日からの一週間の歩みに踏み出しましょう。信じる者には、主が共に居てくださいます。主はこう言われます。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』 ただこの主を見つめて、この一週間の生活へと歩み出しましょう。」
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