「来なさい。そうすれば分かる」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章35節〜42節

 

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。



 今日の箇所には、何度も何度も「見る」という言葉が出てきます。来週の箇所である43節から51節までも同様で、51節は「あなたがたは見ることになる」という文章で終わっています。誰が何を見るのか、そして、何が分かるのか。そして、見た人、分かった人は、どうなるのか?何が起こるのか?それが今日の問題です。 一言で「見る」と言っても「見入る」「見出す」「発見する」「凝視する」「見つけ出す」「見つめる」などなど、沢山の表現があり、それぞれに微妙な意味の違いがあります。ギリシャ語も色々な言い方があるようですが、今日の所だけでも、五つの言葉が使われています。最初に「見よ」(イデ)という言葉、これはヨハネ福音書には15回も出てきます。この福音書は繰り返し主イエスを指差して「見よ」と証言する福音書であることは、この事実からも分かります。また、36節に「歩いておられるイエスを見つめて」とある。これはエムブレポウという言葉で、辞書を見ると、まっすぐに見つめるとか、熟慮するという意味がある。たしかにあるものを凝視することは熟慮を呼び起こすものです。また、イエス様が、洗礼者ヨハネの二人の弟子達が、従って来るのを「見て」とあります。これはセアオマイという言葉で、「見る」「気づく」「観察する」という意味があり、さらに「訪ねる」という意味もあるようです。見ている対象に近づいていくということでしょうか。そして、実は「来なさい。そうすれば分かる」と訳されている「分かる」もまた「見る」ホラオウという言葉です。確かに「百聞は一見にしかず」という言葉がありますように、聞いてもよく分からなかったことも見れば分かる。そういうことがあります。この二人の弟子は、師匠である洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という言葉を「聞いて、イエスに従い」ました。聞いて従うということが、最初です。そして、その後、「見る」つまり、「分かる」ということが起こったのです。そして、彼ら二人は「どこにイエスが泊まっておられるかを見」ました。そして、その日はイエスのもとに泊まった。そして、イエス様のもとに泊まった弟子の一人アンデレは兄弟であるシモンに「会い」、彼に、「わたしたちはメシアに出会った」と語ります。この「会った」と「出会った」は同じユーリスコウという言葉で、「偶然出会う」という意味や、「探した結果発見する」、「気づく」という意味があり、そこから「我がものとする」「獲得する」というような意味が出てくるようです。とにかく、アンデレはシモンに会った途端にシモンをイエス様のところへ連れていきます。すると、イエス様がシモンを「見つめる」。これは洗礼者ヨハネがイエス様を「見つめる」のと同じエムブレポウです。そして、見つめた上で、シモンに新しい名前ケファ(岩・ギリシャ語ではペトロ)という名前をつけるのです。これが、今日の箇所の表面に見える動きというか筋書きです。このことの中に何があるのか?それをご一緒に聴き取り、主を賛美したいと願います。
 洗礼者ヨハネは二人の弟子と一緒にいました。ヨハネは、これまで「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と証言していました。そして、この前日には、主イエスが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫んでもいました。その主イエスが、今度は弟子達と一緒にいるときに歩いておられたのです。彼はためらうことなく、その弟子達に向かって「見よ、神の小羊だ」と言いました。「あなた方は、今までは私を見ていた。私を師と仰ぎ見ていた。しかし、私は言っておいたはずだ。私は声に過ぎない。声である私が言う。あなた方が見るべき方、従うべき方は、あの方だ。あの方だけが、あなたの罪を取り除き、新しい命を与えて下さる神が遣わした小羊だ。自分の血で罪を贖うメシア、キリストだ。」
 ヨハネは、そう告げたのです。その証言を聞いて、ヨハネの弟子たちは「イエスに従った」。
 主イエスは、心の中に不安を抱えつつ後をついてくる二人を振り返って「見て」下さり、語りかけて下さいました。

「何を求めているのか。」

 この言葉が、ヨハネ福音書における主イエスの最初の言葉です。これは、「私たち」への問いです。「私たち」、つまり、日曜日にこの礼拝堂に集まっている私たちです。何処へ行こうと自由なのに、今日もこの礼拝堂に集まってきている私たちに、主イエスは「何を求めているのか」とお尋ねになるのです。この「求める」と訳された言葉もまた含蓄が深いのですが、「捜し求める」「得ようと求める」「要求する」「期待する」「必要とする」「請い求める」などの意味があります。とにかく、何かの不足を感じている、何か空虚なもの、満たされないものを抱えている。満ち足りていない。そういう状態を抱えている人間だから、何かを求めるわけでしょう?今、渋谷の街にいる無数の人々も、何かを求めてこの街にやって来て、歩き回っているのでしょう。しかし、私たちは何を求めて、ここにやってきたのでしょうか?
 主イエスの「何を求めているのか」という問いは、「あなたは何を知りたいのか」という問いでもありますし、「あなたにとって、最も重要なこと、これが分からなければ生きていけないと思わざるを得ないことは何か」という問いでもあります。だから、この問いは突き詰めると「あなたは何者なのか?」という問いなのです。人は、その求めるものに似たものとなるからです。
 その問いに対して、彼らは問いで答える。

「ラビ、どこに泊まっているのですか。」

 これは見た目には宿泊場所を尋ねているわけですが、実は、イエス様に対して、「あなたこそ何者なのですか」と尋ねているのです。「あなたが何者であるか、それが知りたいことです。それさえ分かれば、私たちは生きていけます。」彼らは、そう言っている。
 何故、そう言えるのか?それは、この「泊まる」という言葉の意味が、この福音書においては、単にどこかに寝泊りするという意味だけではないからです。
 この「泊まる」という言葉は、他の箇所では「とどまる」とか「繋がる」と訳されますし、「内にいる」とも訳される言葉です。その人が何処にいるか、留まっているか、それはその人が何を求めていると同じように、その人がどういう人間であるかを表すのではないでしょうか。
たとえば、ある人が毎日パチンコ屋とか競馬場とか競輪場に入り浸っているとする。いつまでもそこに留まり、寝泊りするほどだということになれば、その人は誰から見ても「ギャンブル狂」に見える。そういう人だと分かるのです。また、ある人は気がつけば図書館にいる、あるいは研究室にいる。いつ見ても、机に向かって本を読んでいる。時間が許す限り、そこに留まっている、寝泊りすらしかねないという姿を見れば、その人は、本の虫、あるいは研究者だと誰にも見える。そういう人だと分かるのです。人は、その求めるものが何であり、どこに留まっているかで、どういう人かが分かるものです。
 前回の箇所で、洗礼者ヨハネは聖霊がイエス様の上に降ってきて、イエス様の上に「とどまる」のを見ました。天から降ってきた霊がイエス様の上に留まって離れないのを見たから、この方が神の子であると分かったのです。この方の上にはいつも聖霊がある。この方は聖霊とともに生きている。天の父なる神と一体の交わりの中を生きているお方だ。そういうことが分かった、その神の子としての姿が、彼には見えたのです。だから証言したのですし、弟子達を、その方の許へと追いやったのです。それが彼の使命です。
 ヨハネの弟子であった二人の弟子たちは、その証言は聞いていますが、まだ何も見てはいない。だから、まだ師匠、先生を意味する「ラビ」と言うしかないのです。ヨハネが、神の子、神の小羊と言ったとしても、それは彼がその証拠を見たからであって、弟子たちはまだ何も見ていないのですから、「どこに泊まっているのですか」と尋ねるのです。そして、それは「あなたは誰なのですか、神と人との間のどこに位置している方なのですか?」という問いなのです。
 主イエスは、その問いに、こうお答えになります。

「来なさい。そうすれば分かる。」

 これは、「来なさい、そして見なさい」が直訳です。ちゃんと見れば、分かる。そういうことでしょう。そして、ちゃんと見るためには、イエス様の後について行き、イエス様がどこに泊まっているかを見、さらにイエス様のもとに「泊まる」ことが大事なのです。そういうことをちゃんとしないとイエス様が誰かは分かりません。話を聞くだけでは分からない。
 この「泊まる」はメノウというギリシャ語で、他のところでは「とどまる」とか「繋がる」、また「内にある」と訳されていることは先程言いましたが、このメノウが集中的に出てくるのが一五章です。そこで主イエスは、こう仰っています。

「わたしはまことのぶどうの木、・・わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある(メノウ・とどまる)ならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる。・・・父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

 ここに出てくる「つながる」「とどまる」「内にある」は皆、メノウ、今日の箇所で「泊まる」と訳された言葉です。主イエスと父なる神様はお互いの間に留まっている、愛によって繋がっているのです。一体の交わりを結んでいるのです。だから、ここにも「あなたは何処にお泊りですか」という問いに対する答えがあると言ってよいでしょう。そして、主イエスについて行き、主イエスがどこに泊まっているのかを見、さらに主イエスのもとに「泊まる」ということは、主イエスと繋がるということであり、それは主イエスの愛の内に留まることであり、そして、それは主イエスの言葉をいつも私たちの心の内に留めることでもあるということが分かります。そして、私たちが主イエスの愛の内に留まる時、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」という愛の掟を守ることが出来るのです。しかし、主イエスから離れては、私たちは愛に生きることは出来ません。私たちが、主イエスを通して示された神様の愛だけを求め、その愛の中に入り浸り、そこで寝泊りする人間になる時、私たちは人間の命が最高に輝く愛を生きることが出来るのです。喜びに溢れることが出来るのです。そして、私たちがいつも主イエスの内に留まり、主イエスが私たちの内に留まる時、私たちは誰が見ても、神の子であり、キリスト者です。ギャンブル狂でも研究者でもなく、神の子であり、キリスト者なのです。そして、その時に、この世に生まれてきた意味を初めて見出すことが出来るのです。実は、神の子として新たに生まれ、このキリスト者になるために、キリストの者となるために、キリストを私のものと言える喜びに至るために、私たちは、生まれてきたのです。このキリストと出会い、この方が誰であるかを知ることが出来ない間は、私たちはまだ自分が誰かも知らないのです。
 こういうことは、信仰がなくてもある意味では分かることなのではないでしょうか。誰かを深く愛する時、愛される時、私たちは初めて自分と出会うのだと思います。愛し、愛してくれる相手と出会う時、私たちの命は輝きます。そして、自分の中にこんなに美しいものがあるのか、こんな強いものがあるのかと知るのではないでしょうか。恋愛にしろ、夫婦愛にしろ、親子の愛にしろ、師弟愛にしろ、愛し愛される中で、私たちは愛において他者と出会い、そして自分と出会い、その命を燃焼させていくのです。しかし、人間同士の愛には終わりがあります。人は必ず死ぬからです。だから心底愛する人の死は、自分の死に繋がります。緩慢に死の方に引きずられていくのです。しかし、主イエス・キリストの愛、それは死に支配された愛ではありません。死を乗り越えた愛、死に打ち勝った愛です。この方に愛され、この方を愛し、その愛の交わりの中に燃焼する命、それは死にません。肉体の死を越えて生き続けるのです。だから、主イエスは「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得ることである」と仰ったのです。そして、今日も、この永遠の命を与えるために、主イエスは私たちの所に来てくださり、招いてくださっているのです。
 ヨハネの二人の弟子たちは、その招きに応えて、主イエスのもとに泊まりました。主イエスの許に留まったのです。主イエスに繋がったのだし、主イエスの内側に迎え入れられたのです。その時、何が彼らに起こったのでしょうか。
 メシアとの出会いが起こったのです。それは、自分の罪を取り除いてくださるお方との出会ったということ。神様から遠く離れてしまった罪人を捜し求め見つけ出し、その罪が赦されて神様との愛の交わりに永遠に生かすために、「自分の命を捨てる」愛、これ以上ない愛で愛してくださる方との出会いが、その夜に起こったのです。その時、彼らはまさに「喜びで満たされた」のです。
 その愛の喜びに満たされた人間は、どういう人間になるのか。

「イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシアに出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。」

 私は、本当に聖書は面白いなと思うのですが、ここでアンデレが兄弟シモンに「会って」という言葉と、メシアに「出会った」という言葉が原文では同じです。何だか変じゃないでしょうか?兄弟ですから同じ家に住んでいるか住んでいたか、とにかく、日常的に会う人でしょう。しかし、そういう兄弟とアンデレは「出会った」と聖書は言う。そして、この「出会う」(ユウリスコウ)は、先ほど言いましたように、「発見する」、「見出す」、「獲得する」という意味を持つ言葉です。つまり、アンデレは前の晩に主イエスと共に泊まって、そこで主イエスこそメシア・キリスト、神の子救い主であることを発見した。一人のラビであると思っていた人が唯一のキリスト、神の小羊であると見出すことが出来た。そして、自分にとってのメシア、救い主を獲得した、得ることが出来たのです。そこにあるのは、まさに心底求めていた者に出会った喜びでしょう。その出会いを経験し、喜びに溢れた時、彼はそれまでの人間ではなくなったのです。この出会い以後、彼には目に見えるものすべてが、それまでとは違って見えたに違いありません。そして、すべてが新しい発見に満たされていたのだと思います。肉親を見る目すらも変えられたのです。
 ここにいる多くの方は、神様の選びとキリストの導きによって、洗礼を受けてキリスト者になった方たちです。洗礼を受けた後、私たちにとって家族や友人たちは、それまでとは違った存在になったのではないでしょうか。それまでは、ただの親であり兄弟姉妹だったのが、あるいはただの友人であったのが、洗礼を受けて以後は、何とかしてキリストの愛を伝えたい家族や友人になったはずです。神様を父とし、主イエスを長男とする神の家族になりたい。つまり、父母兄弟姉妹すべてと「主にある兄弟姉妹」となりたい、あるいは主イエスが「友」と呼んでくださる意味で、互いに愛し合う主にある友情を結びたいと心から願うようになったはずです。現実には、その願いを口や態度に出して表明することは、むしろ逆効果である場合があります、表明し続けても、一向に伝わらないことが通常です。しかし、去年のクリスマスに洗礼を受けた方も、このイースターに洗礼を受ける方も、50年とか30年とかいう長きにわたる家族の信仰生活、妻や義理の母上の信仰生活を見て、「私も礼拝に行こう。そして、いつか洗礼を受けたい」と願うようになり、受洗の恵みに与り、またこれから与ろうとしているのです。そうやって、肉の家族が神の家族となっていく、主にあって互いに兄弟姉妹となっていくのです。新しい家族の交わりがそこに生まれるのです。そういう新しい出会いが、アンデレとシモンの間にあったのではないか。私はそう思うのです。主イエスと会った翌日、アンデレは全く新しい思いを持ってシモンを見出し、出会ったのでしょう。そして、新しい兄弟を得たのです。
アンデレはシモンを愛していました。だから、自分に与えられた最高の喜びを一刻も早くシモンに伝えたかったのだと思います。しかし、その喜びの内容はいくら口で言っても限界がある。まさに「百聞は一見にしかず」なのです。彼は、恐らく、「とにかく来てくれ。そうすればきっと分かるから、「あの人を見れば、あの人と出会えば、分かる。あの人がメシアだと。待ち望んでいたメシア、洗礼者ヨハネが到来を予言していた神の子だと分かる。そして、その方の愛を知れば、その愛の中に入ってしまえば、今、私に与えられている喜びがあなたにも分かる。だから、一緒に来てくれ・・・」
アンデレは訝しがるペトロの手を引っ張って主イエスの所に連れて来た。「この人を見てくれ」と。
 しかし、そうしたら、アンデレもそういう経験をしたのですが、イエス様のほうがむしろペトロを「見つめた」のです。イエス様を見るために来たら、むしろ、イエス様に見つめられることを知る。それが私たちの礼拝経験です。そして、語りかけられる。

「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする。」

 イエス様が命名するのです。ケファ(ギリシャ語ではペトロ・岩)という新しい名前を与えるのです。マタイによる福音書には、主イエスは、この岩の上に教会を建てると仰ったとあります。そのことが、ここで前提されているでしょう。ペトロは将来、弟子たちの代表、教会の信仰を代表する人物となっていきます。何度も失敗を繰り返しますが、でもイエス様が彼をそのような者として選んだ事実は変わらない。先週のアブラハム物語の説教においても語りましたように、神様が与える賜物と招きは変わらないのです。そして、アブラハムもまた人生の途中で「アブラム」から「アブラハム」(多くの国民の父)という新しい名前を与えられました。それは、神様が新たにアブラハムを召しだし、アブラハムをアブラハムとして育てていくという決意の表れでもあるのです。
アウグスティヌスという人は、この箇所を、「主がシオンに名を与えてペトロを創造した」と、その説教において語りました。名を与えることで、シオンを岩として造った、あるいは造り始めたということです。プロテスタント教会、特に私たちが属する改革派教会では洗礼の際にクリスチャンネームをつけるということをしません。しかし、カトリックとか聖公会などは、洗礼を受けるときに、パウロとかペトロとかマリアとかサラとかいう聖書の登場人物の名を与えます。そうすることで、その人が新しく生まれ変わったことを証し、その名に相応しく生きるように願い、また育てていくことを教会が始めるのです。
 私たちの本名は、親がつけたものです。親は子供を愛していますし、子供にこういう人間になって欲しいと願って名をつけます。健やかに育って欲しい、美しい人になって欲しい、色々な願いがそこには込められています。親が信仰者であるなら、神様に祈りながら名をつけるのです。名をつけられた時、その本人は全く関与していません。出来ればこういう名前にして欲しいと言えたわけではない。私の場合は、「信仰に生きる者となって欲しい」との願いのもとに「信」と名づけられました。そして、すべての人に「信ちゃん、信ちゃん」と呼ばれて育つ中で、自分の名前は「信」なのだと分かった。名前の由来、そこに込められた親の思いも知る。そして、実際に信仰を与えられてみると、実は、その名前に込められた願いは、肉の親の願いを超えて、イエス様ご自身の願いであったことを知るということが起こります。そして、今、イエス様ご自身が、私に対して、信仰に生きるようにと願い続け、その名で呼んでくださっていると分かるのです。それは、教会に招かれ、この礼拝に招かれ、招かれ、派遣されながら、幾度も幾度も罪を犯し、さ迷い、崖から転落し、先週の説教の言葉で言えば、傷だらけ、埃だらけになってしまっても、イエス様が、「お前の名前は信だ。信と呼ぶと私が決めた。だから、信は信らしく生きなさい」と語りかけ続けてくださっているから、つまり、愛し、赦し続けてくださっているから、そして信じ続けてくださっているから、私は今日も、この礼拝堂にいるし、こうしてイエス様の言葉に耳を傾けているし、今生きているイエス様の姿を見ることが出来る。そして、今も私たちは一人のキリスト者として造られ続けている。洗礼の時に始まった創造の業は今も続いている。そういうことが、分かります。皆さんも、今、一人一人、キリスト者として完成に向けて造られ続けているのだし、この中渋谷教会もまたキリストの体として形成され続けているのです。
 宗教改革者のルターは、「耳の中に目を突っ込みなさい」と言ったそうです。聞きながら見るのです。聖書を読みながら、説教を聞きながら、今ここに生きていますイエス様の言葉を聴く、そして今ここにおられるイエス様の姿を見る、信仰の目で見るのです。聖餐のパンとぶどう酒が配られる時も、肉眼には牧師の姿や長老の姿が見えるのですが、「取って食べよ、これはあなたがたのために裂かれた私の体」と仰っているのは、イエス様だと分かる。それが分かった時、その姿が見えた時、私たちは、「我が主、我が神よ」と主イエスの前にひれ伏し、礼拝することが出来る。そのとき、心の奥底で喘ぐように求めているものを見出し、獲得することが出来るのです。主イエスは生きており、私たちを愛してくださっており、その手を差し伸べ、「この手を握りなさい、私に繋がっていなさい。私の愛の内に留まりなさい。そうすれば、あなたがたは喜びに満たされて、愛に生きることが出来る」と語りかけてくださっていることを知るのです。つまり、私たちが見出し、獲得することは私たちが主イエスに見出され、主イエスのものとされているということなのです。そして、それこそが、私たちが求めているものです。いや、イエス様こそが、私たちにそのことを知ってもらいたいと求めているのです。私たちが、そのことを今日この礼拝において知ったのなら、私たちは家族や友人に、「あなたも礼拝に来てくれれば、分かる。イエス様が、あなたを愛していることが。そして、信仰を与えられて生きることが、こんなにも喜ばしいことだと分かる」と、その言葉で、あるいはその佇まいで証言することが出来るはずです。これこそが、私たちが「十年ヴィジョン」で掲げている顔の見える伝道と牧会の姿です。そして、その証言による伝道は、十年、二十年、三十年という時間が掛かるかもしれませんが、必ず実を結びます。私たちが主イエスに繋がって願うことは必ず実現するからです。私たちはそれが本当の言葉であることを、実例を通して知っているはずです。
 私たち一人一人が、そして、私たちの教会全体が、いつも主イエスの後を追い、主イエスがどこに泊まっているかを見、主イエスのもとに泊まる時、留まる時、結ばれる時、私たち一人一人が、そしてこの教会の礼拝が、主イエスの証となります。主イエス・キリストご自身が、私たちの内で、そしてこの礼拝の中で、語りかけて下さるからです。「来なさい、そうすれば分かる。」「あなたは今までは世の人だった。しかし、今から、私はあなたを私のもの、キリスト者と呼ぶことにする。」
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