「出会い、服従、告白」

及川 信

ヨハネによる福音書 1章43節〜51節

 

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」



 主イエスはヨルダン川の近くで洗礼者ヨハネの弟子たちと出会い、彼らにご自身が何者であるかを示して弟子とし、さらにシモン・ペトロをも弟子とされた翌日、故郷であるガリラヤへ向かわれました。そこでフィリポに出会い、いきなり「わたしに従いなさい」と仰り、フィリポも弟子とされました。そして、フィリポは、ナタナエルに出会った時に、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と証言をしました。これはつまり、「私たちは、律法と預言者によって証しされ、待ち望まれていた救世主、メシアに出会った」と言っているのです。旧約聖書で預言されていたメシア、救い主が今こそ到来したのだと告白しているのです。そして、そのメシアは、辺境のナザレの出身であり、父親の名前はヨセフだ、と。これは二重の意味で躓きになる言葉です。千年以上も前から待ち望まれていたメシアが、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、ユダヤ人からは蔑まれているガリラヤ地方から出るわけがないということが一つ。それと、親の名前も知られているような何の変哲もない人間が、メシアであるわけがないということもあります。メシアとか、救い主とかは、やはり神秘に包まれた部分がなければならないものです。出生とか育ちとか家族構成なんかは分からない。何処から来たかも分からない。そういう一種の神秘性が必要だと誰もが思っているものです。しかし、フィリポはここで、すべての点で、その思いとは逆のことを言っているのです。
これもまた書かれた文脈だけ見れば、出会い頭に「わたしに従いなさい」と言われただけなのに、フィリポは何でこんなことまで知っているのか分からないということになりますが、ヨハネ福音書は、そういう発想で読んでも何の意味もありません。
このフィリポの証言を聞いて、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、当時の一般的な物の見方、差別と偏見に基づいた発言をします。しかし、フィリポは、それにもめげずに、主イエスがアンデレたちに言ったように、「来て、見なさい」と誘うのです。招く。何でもやはり実際に体を動かして、その現場に行って、見なければ分からないものだからです。
物語は、その招きにナタナエルが答えて立ち上がるところから本格的に始まっていきます。

イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ここに「イスラエル人」とか「イスラエルの王」という言葉が出てきます。これは重要な言葉です。この場合の「イスラエル」とは民族とか人種とか国家を現わす言葉ではありません。アブラハム以来、神様に「選ばれた民」のことです。そして、「イスラエル」とはヘブライ語で「神(エル)の支配」という意味です。神の支配を生きる民、神を信じ、その導きに従って生きる民、ただそのことの故に神に祝福され、その祝福を全世界にもたらす使命を与えられている民、それがイスラエルです。そういう意味で、イスラエルと神様は結びついているのですし、それは同時にイスラエルが世界に結びつき、その救いに結びついているのです。彼らが神様から与えられた祝福を生き、その使命を生きることによって、罪に堕ち、呪いに堕ちた世界が、再び祝福され、救いに導かれていくのです。ですから、「イスラエルの王」とは、単に一つの民族とか国家の王ではなく、全世界にイスラエル=神の支配を具体化する人物、世界の王、全人類の救い主ということになります。「イスラエルの王」とはそういう意味です。つまり、私たちにとって遠い外国の王様ではない、私たちの王なのです。そのことを知ることが出来るか否か、それが私たちにとっての一つの問題ですけれど、ここで主イエスとナタナエルが何気なく会話しているよう内容は、実は、とんでもなく巨大なことだし、そしてまたとんでもなく身近なことなのだと、分かっていただきたいのです。
 次の問題は、それではナタナエルはどういう意味で「まことのイスラエル人」であり、主イエスはどういう意味で「イスラエルの王」なのか、さらに、どういう意味で「神の子」なのかです。
 ナタナエル、この名前はヘブライ語では「神が与える者」という意味です。エルは「神」、ナタンは「与える」という意味です。その彼が、主イエスによって「まことのイスラエル人」と呼ばれている。それはどうしてか?ここに記されていることを見る限り、彼もまた当時の一般のユダヤ人同様に、ナザレに関する偏見を持っていましたし、メシアが現われたと聞いてもすぐに信じることがない人物でした。その点で、何も変わったことがあるわけではありません。しかし、主イエスは、彼は「まことのイスラエル人だ」と言い、彼もまたそのことを否定せず、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問うのです。それに対して、イエス様は、ナタナエルがフィリポに語りかけられる前に既に、「いちじくの木の下にいるのを見た」と仰る。するとナタナエルが突然、「あなたは神の子、あなたはイスラエルの王」と叫ぶ。これだけ読んでも、この二人が何を話しているのか、全く分かりません。
 この箇所について、いくつもの参考書を読みました。しかし、読めば読むほど解釈がいく通りもあり、迷路に入っていくようでした。代表的な解釈をあげると、たとえばアウグスティヌスという人は、アダムとエバが罪を犯した後に彼らはいちじくの葉っぱで下腹部を隠したのだから、いちじくの木の下にいるとは、罪と死の陰に生きていることの徴だと言うのです。しかし、全く逆の解釈をする人もいる。旧約聖書(ミカ4章4節、ゼカリア3章10節など)の中で、いちじくの木とはぶどうの木と並んで豊かさの象徴であり、神様の祝福の象徴です。特に世の終わりの日に実現する世界の平和と罪の赦しによる救いの象徴である。だから、そこに既に座っていたナタナエルは、理想的なイスラエル人だということになる。ある人は、いちじくの木の下は、ユダヤ教の教師であるラビがその弟子たちに神の言を教える場所であり、ナタナエルはそういう学びの中からついにイエス・キリストに出会い、ユダヤ教徒からキリスト教徒になった理想的な人物なのだと説明します。こういう解釈の相違は、その元になっている発想がそれぞれ違うことによって生じているのですけれど、皆さんは、どれが一番良いと思われますでしょうか?
 私は今あげた互いに相容れない解釈を読みながら、次第に、ナタナエル=「神が与えた者」という名をもつ人物が実に複雑にして多様な人間の象徴のように思えてきました。そして、その上で、彼が主イエスによって「真のイスラエル人だ」と言われるのは、彼が嘗ては何であり、今、何であり、これから何になっていくのかという、すべての過程を含めて考えないと分からないと思うようになりました。
 人間が複雑であるということ、それはちょっと考えただけですぐに分かることです。私たちはよく「あの人は、こういう人だ」と言いますけれど、それはその人のある一面を捉えたに過ぎないことですし、人には様々な側面がある。そして、その内面にまで入っていけば、そこにはいくつもの層があって、自分でもその実態を把握することなど出来るものではありません。私たちは自分が何者であるかだって分かりませんし、他人のことも分からないのです。「あの人はこういう人」「私はこういう人間」と思ってはいても、それは表面的、部分的な観察に基づいた感想に過ぎないのです。
 ナタナエル、彼は明らかに世の人と同じものを持っている。通俗的な偏見とか差別意識を持っている人間でしょう。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という言葉は、そういうことを現わしています。しかし、それじゃ彼は、フィリポの証言を全く無視したのかと言うと、不思議なことに、イエス様の方に向かって歩き始めるのです。最初は、「フン、ちゃんちゃらおかしい」と言ったのに、その実、何か気になるものがあったのでしょう。「来て、見なさい」と言われたら、彼は、立ち上がり歩き始める。不思議と言えば不思議、だけれど、これが人間と言えば、これが人間でしょう。言っている事とやっている事は、どこかでいつも分離している。
 いちじくの木が神の言を学ぶ場所の象徴であるとすれば、また世の終わりの平和、救いの象徴であるとすれば、そこにナタナエルがいたということの背後に何があるのか。アウグスティヌスは、いちじくの木を罪と死の象徴と解釈します。それは、神の言を学ぶ場所とか、終末的な救いの象徴という解釈とは、表面上は全く相容れないのですが、果たしてそうなのだろうか?実際は、罪と死の支配に置かれていると認識した人間だから、神の言を求め、終わりの日の救いと平和を求めるのではないか?と私は思います。
 私たちは誰でも時代に制約された差別意識や偏見を持って生きているのです。人種差別、性差別、階級差別などなどをしながら生きている。そして、優越感はいつも劣等感の裏返しでもあります。そういう差別や偏見、優越感と劣等感の中を生きているということは、天地をお造りになり、すべての人間をご自身の像に似せてお造りになり、人間同士が互いに愛し合うことをお望みになっている神様の御心に背きながら生きている、つまり、罪を犯しながら生きている、罪人として生きているということです。もちろん、罪とは差別や偏見に限ったことではなく、私たちが無意識の内に持っているエゴイスティックな思いとその行動のすべてが罪なのです。その罪を犯しながら生きている罪人の心の中にあるのは、それじゃ満足感なのかと言えば、絶えざる空虚感です。自分の願望、思い、欲望のままに生きているのだから、喜びに満たされているかといえば、それは心のごく一部分のことであって、その根深い所では、空虚感を感じている、そして罪責感を感じている場合もある。本来の自分を生きてはいないという焦りもある。自分は本来、こんな風に生きるために生まれてきたわけではないのに、何故かこんなことを思い、その思いに従って生きてしまう。欲望や惰性の中に生きていても、その深いところではちっとも楽しくないのに、気がつくと、罪の中に落ち込んでいる。そういう自分を持て余している。それが私たち人間の実態ではないか、と思います。
 だから、口では「フン」と言っていても、心の奥底では、救いを渇望している。しかし、そういう罪人だからこそ、いちじくの木の下にいる。救いを求め、神の言に触れたいと願っている。しかし、そういうことをしながら、気がつけばまた罪を犯してしまう。そういう人間、それがこの時のナタナエル、いちじくの木の下にいるナタナエルなのではないか。いちじくの木の下は罪の陰でありつつ、そして、そうであるが故に、罪の赦し、罪の支配からの解放を願いつつ神の言に触れる場でもある。その神の言を通して、心の奥底で、メシアの到来を待ち望んでいる。もし、メシアが来たら、なんとしても出会いたいと願ってもいる。罪の中に沈んでいるが故に、その中に引きこもっているが故に、だからこそ救いを渇望している人間。それがいちじくの木の下にいた時のナタナエルだったのではないか。そして、主イエスは、そういうナタナエルを既に見ていた。フィリポがナタナエルに出会い、語りかける前に、既に「見ていた」のです。
 そして、その後に主イエスが「見た」のは、フィリポの言葉を聞いて、いちじくの木の下から立ち上がって主イエスの許に来るナタナエルです。そのナタナエルを見て、主イエスは「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と仰った。「まこと」とは言うまでもなく、真実という意味です。真実とは何か、それもさらに問題となりますが、それはこの福音書を読み進めていく中で次第に明らかになっていくことだと思います。「偽り」、ここでそう訳されているギリシャ語は「ドロス」という言葉です。これは、真実の反対語であることは言うまでもありません。ヨハネ福音書にはここにしか出てきません。しかし、聖書全体を調べてみますと、詩編32編の中に出てきます。お読みします。

「いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」


 この中の「欺き」と訳された言葉、それがギリシャ語ではドロスです。「偽り」です。ですから、「心に欺きがない人」とは「心に偽りがない」人であり、真実な人ということです。
 その真実な人は、どういう人かと言えば、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」です。主なる神様によって、咎を数えられない人、罪の数々を数え上げられない人です。罪を犯さない人ではありません。罪を犯してしまった、神に背いてしまったことがある人なのです。しかし、その人の背きが赦され、罪が覆い隠されることがある。その時、その人は欺きから解放される、偽りから解放される、真実な人間にされる。それは、どういう時なのか。
 続きを読みます。

「わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。」


 罪の中にいる人間の心の中には絶え間ない呻きがあります。昼も夜も、その呻きがある。でも、それを口にすることが出来ない。罪の中に生きる苦しみ、その空虚感、その罪責感は、分かってもらえない人、受け止めてもらえない人に言っても空しく、惨めになるだけです。そして、空虚感も罪責感も、真実に受け止めてくれる存在に伝えることが出来なければ、そして受け止めてもらえなければ、いつまで経っても消えるものではありません。しかし、人間は他の人間の罪とそれに基づく空虚感や罪責感を受け止めることなどできないのです。そんなことが出来れば、悩みや苦しみなんかありませんよ。私たちの根源的な問題である罪と空虚感と罪責感を受け止めてくれるのは神様です。神様しかいません。しかし、その神様の前に出るのは怖いのです。人の前に出るのだって、いちじくの葉っぱで下腹部を隠す他にないのが罪人ですから、まして神様の前には怖くて出られない。だから全身葉っぱの陰に隠れているのです。
 エデンの園でもそうでしたが、そういう隠れた人間を、神様が見ている。人間は、まだその時自分が見られているとは気づいていない、しかし、既に見られているのです。それと同じようにナタナエルも、既に主イエスに見られていたのです。そして、先に主イエスに出会っていたフィリポに強く勧められてようやく腰をあげ、主イエスの方に歩いて行った。それは、全身を主の前にさらしたということです。惨めな自分を主の前にさらしたのです。詩編の言葉で言えば、「罪をあなたに示し、咎を隠さない」「主にわたしの背きを告白しよう」と立ち上がり、主の前に出てきたのです。その時、この詩人が、神によって、その罪と過ちが赦され、自分の全存在、全身全霊が受け止められ、赦され、新たにされ、「いかに幸いなことでしょう」と歓喜と賛美の声をあげたように、ナタナエルも「黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てる」ような状況から立ち上がり、自分の背きの罪に対する罪責感や存在の絶えられない空虚感を、すべて主イエスの前に告白するために歩いてきた。そのナタナエルの姿を見て、主イエスは、「彼こそ、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と仰ったのではないか。そう、思うのです。
 イスラエル、それは罪を犯さない人間たちのことではありません。最初から、そんなことではないのです。罪を赦してくださる神様と出会い、その神様の前に出てきて、罪を告白する人々、背きの中に生きている苦しみを告白する人々、何故生きているかも分からない苦しみを告白する人々のことです。そして、神様からの罪の赦しと新しい命という祝福を与えられる。それがイスラエル、神の支配の中を生きる人々であり、偽り、欺きのない人々なのです。
 神様はかつてアブラハムを選び、その子孫をイスラエルとして選び出し、神様の支配を、祝福を、愛を全世界に広めようとされました。そして、今、新たにご自身の御子を肉の姿でもってイスラエルの王として遣わし、この方の許に集まる人間達を、新しいイスラエルとして招き始めておられるのです。そして、このイスラエルの王、それはあの洗礼者ヨハネが証しをした「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。罪人の身代わりに犠牲となって死に、血を流す小羊、ただその犠牲の死を通して罪を赦し、復活を通して新しい命を与えて下さる小羊としての王、その方こそ、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている」キリスト、メシア、神の子なのです。ナタナエルは、いちじくの葉の陰に隠れて生きている苦しみ、罪の陰の中に生きている空しさからの解放を求めて、「来て、見なさい」との強い勧めに従い、ついにこの方の許にやって来た。そういうナタナエルを見て、主イエスは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と仰った。それは、「よく帰って来た。私はあなたの罪を赦す。心配しないでよい。あなたに新しい命を与えるから。こうして、私のところに来たあなたは、なんと幸いなことか」と仰ったということなのではないでしょうか。
 この主イエスの言葉を、自分に対して言われている言葉ではないかと、心の奥底で感じ取られた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私こそ、ナタナエルだ、と。
「私も罪の中に生きていた。でも、いつも心の中に苦しみを抱えていた。自分の思い、自分の願望、欲望に従って生きているのだから楽なはずなのに、苦しかった。だからこそ、私は今日、今日も、この礼拝堂に来た。そして、今、主イエスが、私のすべての実情、目に見える状況も、目に見えない状況も、自分自身ですら分かっていなかった心の奥底の思いまですべて見ておられ、すべてをご存知であることが分かった。ナタナエルの気持ちが分かる。『どうしてわたしを知っておられるのですか』と彼は言ったけれど、私もそう言わざるを得ない。主イエスよ、何故、あなたは、私のことを知っておられるのですか。あなたは神の子なのですね。神が知っていることは、あなたも知っている、そういうお方なのですね。あなたのことが、今分かりました。そして今、私は私自身のことも分かりました。そうです、私はイスラエル人です。あなたの愛を信じ、あなたを愛し、あなたが与えて下さる祝福を一人でも多くの人に伝えるために生きている者です。」
 こういう思いを今、新たに持つことが出来た人は幸いです。その方には、神の言が神の言として今、響いたからです。
 今日はどうしても1章を終えたいので、先に進みます。今日の箇所はナタナエルと主イエスの出会いの箇所ですが、その終わりの言葉は、「あなたがたは見るであろう」という複数形で終わっている。それは何を意味するかという問題です。この問題を考える上で、どうしても17章を読まなければなりません。ここには、「与える」という言葉がたくさん出てくるのですが、その中のいくつかは神様がイエス様に与えた人々という意味なのです。6節から読みます。

「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

 ここで主イエスは一心不乱に祈っておられます。誰のために祈っておられるのかと言えば、神様が世から選び出してイエス様に与えた人々のため、つまり主イエスの弟子たちのことです。彼らは、神様が主イエスを遣わしたことを信じた人々、主イエスを神の子、イスラエルの王であると信じた人々です。だからこの人々こそ、ナタナエルなのです。ナタナエル、神が与えた者、それは主イエスの弟子となった者たちのことです。つまり、私たちキリスト者のことなのです。もちろん、ナタナエルはナタナエルとして歴史上の一人の人物として存在したでしょう。しかし、今、この歴史の中で、主イエスを世の罪を取り除く神の小羊、神の子、イスラエルの王と信じ、礼拝をしている私たちキリスト者もまた、神によってキリストに与えられた、キリストの者とされたナタナエルなのです。主イエスは、そのナタナエル、神から主イエスに与えられた者たちのために祈ってくださるのです。「世の罪から守ってください」と。そして、イエス様と父なる神様が愛において一つの交わりに生きているように、私たちもイエス様の愛に繋がって互いに「一つになることが出来るように」と、祈ってくださっているのです。この祈りは、今も続いています。私たちは皆、誰でも、この祈りの中に置かれているのです。だから、こうやって今日も礼拝堂に集まって、一つとなって、御言に耳を傾け、心を一つにして祈り、賛美を捧げることが出来るのです。
 主イエスは、1章の最後でこう仰いました。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 もう時間がありませんから、手短にします。文脈としては、この言葉は、明らかに目の前にいるナタナエル個人に言っている言葉です。しかし、現実には、「あなたがたは見ることになる」という複数形になっています。そして、これは未来の現実を言っているのです。主イエスが肉体としては世を去った後、聖霊によって誕生した教会において起こる現実を、教会に集まったすべてのナタナエルに向かって、つまり、今日ここにいる私たちに向けての言葉なのです。
 天が開け、神の天使たちが「人の子」(これはイエス様のことです。この呼び名については、いつか触れます)の上に昇り降りする。これは明らかに創世記28章に記されているヤコブ物語の記述を暗示している言葉です。後に「イスラエル」という名前で呼ばれることになるヤコブ、アブラハムの孫です。彼が、兄弟や父を欺き続け、ついに兄の怒りをかって逃亡せざるを得ない時、それはまさに罪のどん底に落ちて死の恐怖に苛まれている時と言うべきですが、野宿をしながら見た夢の情景、それが、天使が天上と地上を昇り降りするという情景なのです。その夢の中で、ヤコブは、神様から、こう語りかけられました。

「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 なんと言う言葉でしょうか。あれほど「偽り」と「欺き」に満ちた男を、神様は見捨てない。尚も愛し続けると約束してくださる。これが神様の真実、真です。この真実の愛で愛していただいているから、私たちは、どん底に陥っても、救いの希望を持つことが出来るのです。ヤコブは、眠りから覚めて、こう言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。
「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」


 神の家、それはヘブライ語で「ベテル」と言います。渋谷にも「ベテル教会」という名前の教会がありますが、日本中探せば、いくつも見つかると思います。礼拝堂は「神の家」だからです。ここで私たちは天におられる父なる神を礼拝し、私たちの只中におられる主イエス・キリストを礼拝しています。ここはまさに地上に降りてきた神の家であり、天につながる唯一の門です。そして、私たちは今日も、ナタナエルとして主イエスの許に来て、この家に留まり、共に命の糧なる御言を頂き、命の息吹なる聖霊をいただき、罪を赦していただき、新しい命を与えていただき、神様の愛と祝福を全身全霊に受け入れて、今日からの新しい一週間の歩みへと派遣される神の家族、イスラエルなのです。真のイスラエルとして、世界に祝福をもたらすイスラエルとして、私たちは祝福され、派遣される。偽りと欺きに満ちていた私たちは、主イエスの血によって罪赦され、復活の命に生かされて、まことのイスラエルとして歩みだすことが出来るのです。「ここに主がおられる」からです。この主に身も心も委ねましょう。そして、すべてを受け止めていただき、赦していただき、主と共に、新しく生き始めましょう。主に愛されたように愛し、赦されたように赦すことを求めて、御言に親しみ、聖霊を求めて祈りつつ日常生活を生きましょう。それでよいのです。それしかないのです。その歩みを主イエスは共にし、祝福し、用いてくださいます。本当に有り難いことです。感謝しましょう。主の御名は誉むべきかな。
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ